鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

物足りない芥川賞

2006-02-11 | Weblog
 第134回芥川賞に決まった糸山秋子さんの「沖で待つ」を昨日発売された文藝春秋で読んだ。芥川賞は毎回欠かさず読んでいるが、大体は文藝春秋社の話題づくりの賞程度でがっかりすることが多い。今回も芥川賞で抱いている純文学の新しい方向を感じさせるものにはやや遠い、と感じた。2年前に若手の金原ひとみの「蛇にピアス」と綿矢りさの「インストール」でダブル受賞した時には新風を感じさせたが、またまたもとの芥川賞に戻ってしまった。
 「沖で待つ」は同期入社の男女の交流を女性の側からさらっと描いているいわゆる企業小説。主人公の女性が会社の中で伸び伸びと仕事をしながら、同期の男性社員が結婚後も爽やかな付き合いうをしていくさまをうまく綴っている。しかし、ある日、事故でその男性社員が亡くなってしまい、生前に約束していたパソコンのハードディスクをアパートに忍び込んで破壊するが、破壊したデータが未亡人となった奥さんに対する強烈な愛の詩であったことに感動する。タイトルの「沖で待つ」はその愛の詩の一節から取られた。
 よくある企業の青春物語で、女性社員から見た点に新奇性があるのかもしれない。その女性が男性社員と同等以上の仕事をこなし、性格もカラッとしているのがこれまでにない味があるのかもしれない。新三等重役ならぬ新人類社員かもしれない。選評を読むと、選考委員の全員が推したようではないが、企業勤めをしたことのない小説家にとって最近の企業小説は新鮮に映ったのだろう。特に女性の戦力化が著しい会社の実態をあっけらかんと描写したことがアピールしたのだろう。でも最近の企業のなかで、仕事ができる女性は珍しくもなんともない。そこのあたりが選考委員の作家先生には全くわかっていないからこそ授与が決まったのだろう。
 それでも選考委員の全員が満場一致で推したわけではない。やはり、芥川賞に求められるストリーを超えた人生の深みや意義といったものがいまひとつ伝わってこない。文章そのものはハキハキしていて、明快でまるで男性作家が書いているようなタッチである。しかもこの作家、糸山秋子さんは芥川賞の賞金100万円の半額を即座に寄付してしまった。過去の芥川賞受賞でこうした例はない、という。こんなことで男女を論じるのは男女差別になりかねないが、以前なら気性はもう男以上である。そんな気っ風のよさに惚れたこともあって、真っ先に受賞作を読んでみた。
 受賞作「沖で待つ」のなかで、主人公の男友達が不慮の事故でなくなる件がある。それが、ビルから自殺者が飛び降り、その下敷きとなって死んでしまうのだが、どうせフィクションならもう少し違ったロマンチックな死に方があったのではなかろうか。いかにもマンガチックで、まるでユーモア小説ではなかろうか。
 単に現代の世相を切り取っただけの企業小説では芥川賞の名に値しない、と思うがいかがなものか。
 
コメント
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