写真①:二階の漆喰壁前に懸かる杉玉の左右に描かれた龍と屋号の鏝絵
=福津市津屋崎の「豊村酒造」母屋玄関前で、2008年12月16日午前9時18分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 34
:鏝絵巡り(1) 豊村酒造
漆喰――消石灰にフノリ、角叉(つのまた)などの膠着剤や、ひび割れ防止のため麻糸などの繊維を加え、水で練り合わせた塗り壁の材料。防火性や調湿機能が高く、土蔵や押入れの壁に使われました。この漆喰壁に、左官屋さんが鏝(こて)を使って浮き彫り風に描いた「鏝絵」が、津屋崎の町並みに残っています。
町興しボランティア団体「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」)が、08年7月、福津市で開いた講演会で、講師にお招きした西村幸夫東京大学大学院教授(都市計画)から「鏝絵が日本では少なくて、三つか四つあるだけで、マップにしてそれを巡って楽しむとか、町興しやっている町がある。私が見ただけでも津屋崎には鏝絵が二つ、三つあった」と教えていただきました。
また、「海とまちなみの会」の『津屋崎千軒そうつこう』ガイドで、私が〈津屋崎千軒〉の古い町並みを案内した観光客の女性から「卯建(うだつ)のある町家を見たい」との要望を受け、その町家に案内して喜ばれたことがありました。卯建は、民家の妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁で、家の格を示し、装飾と防火を兼ねています。仕事などで成果が出せない人を「卯建が上がらない人」と言う語源になったとされるほど、裕福な家でないと建てられませんでした。
「卯建」も、「鏝絵」と同じように残っている町並みは全国的にも多くありません。「鏝絵」が残る手のこんだ町家や、「卯建」の町家が伝わる〈津屋崎千軒〉の町並みは、左官職人に「鏝絵」を描く技術や絵心があり、江戸時代から栄えた港町の歴史文化の厚みをうかがわせます。
このため、「海とまちなみの会」では、町家の保存策や町並みガイドの充実に欠かせない貴重な文化遺産として調査したいと、会員18人が12月20日午後、〈津屋崎千軒〉の新魅力探検・『鏝絵と卯建の町家巡り』を行いました。案内役は大正13年生まれで、津屋崎の町並みの歴史に詳しい長老会員・津崎米夫さん(84)。調査には助言者として、九州大学大学院芸術工学研究院の田上(たのうえ)健一・准教授(建築計画・建築設計)と院生3人の方たちにも同行していただきました。その最初に訪れたのが、造り酒屋・「豊村酒造」の白壁を飾る龍の鏝絵です=写真①=。
母屋玄関二階の漆喰壁前に懸かる杉玉の左に龍の頭や胴体と足が=写真②=、その右には龍の尾と屋号「豊村酒造」の「豊」の字が鏝絵で描かれています=写真③=。龍の顔の表情や体の鱗など生き生きと浮き彫りされ、迫力があります。福岡県内では、飯塚市や宗像市の町家に「猪狩」や屋号の鏝絵がありますが、この龍の鏝絵こそは図柄、色合いといい芸術品ともいうべき見事な出来栄えです。
写真②:二階の漆喰壁前に懸かる杉玉の左に鏝絵で描かれた龍の頭や胴体と足
=「豊村酒造」母屋玄関前で、12月14日午前8時12分撮影
「豊村酒造」は明治7年創業ですが、今の母屋が建築された年は『津屋崎町史 資料編 下巻(一)』(平成8年、旧津屋崎町発行)にも「明治末頃」と記されているだけで、はっきりした記録は残っていません。母屋の建築年代について、田上九大大学院准教授は「2階の構造などから見て明治後半の建物」と話されており、鏝絵も同時期に漆喰壁を飾るため制作されたようです。
写真③:杉玉の右に鏝絵で描かれた龍の尾と屋号の「豊」の字
=「豊村酒造」母屋玄関前で、12月14日午前8時12分撮影
「豊村酒造」位置図
(ピンが立っている所)
=福津市津屋崎の「豊村酒造」母屋玄関前で、2008年12月16日午前9時18分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 34
:鏝絵巡り(1) 豊村酒造
漆喰――消石灰にフノリ、角叉(つのまた)などの膠着剤や、ひび割れ防止のため麻糸などの繊維を加え、水で練り合わせた塗り壁の材料。防火性や調湿機能が高く、土蔵や押入れの壁に使われました。この漆喰壁に、左官屋さんが鏝(こて)を使って浮き彫り風に描いた「鏝絵」が、津屋崎の町並みに残っています。
町興しボランティア団体「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」)が、08年7月、福津市で開いた講演会で、講師にお招きした西村幸夫東京大学大学院教授(都市計画)から「鏝絵が日本では少なくて、三つか四つあるだけで、マップにしてそれを巡って楽しむとか、町興しやっている町がある。私が見ただけでも津屋崎には鏝絵が二つ、三つあった」と教えていただきました。
また、「海とまちなみの会」の『津屋崎千軒そうつこう』ガイドで、私が〈津屋崎千軒〉の古い町並みを案内した観光客の女性から「卯建(うだつ)のある町家を見たい」との要望を受け、その町家に案内して喜ばれたことがありました。卯建は、民家の妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁で、家の格を示し、装飾と防火を兼ねています。仕事などで成果が出せない人を「卯建が上がらない人」と言う語源になったとされるほど、裕福な家でないと建てられませんでした。
「卯建」も、「鏝絵」と同じように残っている町並みは全国的にも多くありません。「鏝絵」が残る手のこんだ町家や、「卯建」の町家が伝わる〈津屋崎千軒〉の町並みは、左官職人に「鏝絵」を描く技術や絵心があり、江戸時代から栄えた港町の歴史文化の厚みをうかがわせます。
このため、「海とまちなみの会」では、町家の保存策や町並みガイドの充実に欠かせない貴重な文化遺産として調査したいと、会員18人が12月20日午後、〈津屋崎千軒〉の新魅力探検・『鏝絵と卯建の町家巡り』を行いました。案内役は大正13年生まれで、津屋崎の町並みの歴史に詳しい長老会員・津崎米夫さん(84)。調査には助言者として、九州大学大学院芸術工学研究院の田上(たのうえ)健一・准教授(建築計画・建築設計)と院生3人の方たちにも同行していただきました。その最初に訪れたのが、造り酒屋・「豊村酒造」の白壁を飾る龍の鏝絵です=写真①=。
母屋玄関二階の漆喰壁前に懸かる杉玉の左に龍の頭や胴体と足が=写真②=、その右には龍の尾と屋号「豊村酒造」の「豊」の字が鏝絵で描かれています=写真③=。龍の顔の表情や体の鱗など生き生きと浮き彫りされ、迫力があります。福岡県内では、飯塚市や宗像市の町家に「猪狩」や屋号の鏝絵がありますが、この龍の鏝絵こそは図柄、色合いといい芸術品ともいうべき見事な出来栄えです。
写真②:二階の漆喰壁前に懸かる杉玉の左に鏝絵で描かれた龍の頭や胴体と足
=「豊村酒造」母屋玄関前で、12月14日午前8時12分撮影
「豊村酒造」は明治7年創業ですが、今の母屋が建築された年は『津屋崎町史 資料編 下巻(一)』(平成8年、旧津屋崎町発行)にも「明治末頃」と記されているだけで、はっきりした記録は残っていません。母屋の建築年代について、田上九大大学院准教授は「2階の構造などから見て明治後半の建物」と話されており、鏝絵も同時期に漆喰壁を飾るため制作されたようです。
写真③:杉玉の右に鏝絵で描かれた龍の尾と屋号の「豊」の字
=「豊村酒造」母屋玄関前で、12月14日午前8時12分撮影
「豊村酒造」位置図
(ピンが立っている所)