写真①:「東郷神社」拝殿で行われた誕辰祭
=福津市渡で、2008年12月22日午前11時21分撮影
福津市渡の大峰山(標高114㍍)中腹にある東郷神社(川野万里子宮司)で22日、誕辰祭が行われました。=写真①=。
東郷神社は、江戸後期の弘化4年(1847年)12月22日に鹿児島の薩摩藩士の四男として生まれた旧日本海軍連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が祭神。津屋崎の獣医安部正弘さん(故人)が、18歳だった明治38年(1905年)5月27日、大峰山山頂から日露戦争の日本海海戦を目撃し、壱岐の方から黒煙が何本も上がり、砲声が一日中聞こえた体験や、岳父の伊地知弘一さんが明治初期に東郷元帥とイギリスに留学し、のちに日本海軍の戦艦〈高千穂〉艦長(大佐)となった縁で、戦後、上京して東郷元帥を訪ね、親交を結んだことから、昭和10年(1935年)から元帥をお祀りし、同42年(1967年)に宗教法人化しました。川野宮司は、安部さんの孫。
私は、日本海海戦から103回目の記念日の08年5月27日、大峰山山頂の東郷公園で催された東郷神社の春季例祭に初めて参列。この日は、東郷元帥の誕生日に行われる誕辰祭の案内が、神社から届いていたので、初めて参列しました。
誕辰祭は、午前11時から拝殿で行われ、柴田彦吉・東郷神社責任役員が、風雨対策で境内に張られたビニールテントで椅子に座った参列者約50人を前に、「東郷元帥は、きょうで161回目の誕生日を迎えられました」と開式の挨拶。川野宮司の祝詞奏上のあと、牧之内繁男・東郷神社崇敬会会長や鹿児島県人会福岡代表、津屋崎渡区長らが玉ぐしをささげ、40分すぎに終わりました。
東郷元帥は、安部さんが「日本海海戦で負けていたら、今の日本はなかった」と、大峰山山頂に建立の「日本海海戦記念碑」の揮毫を依頼した際、日本軍人のみでなく国と国との戦いでやむなく海戦に加わったロシアの軍人も亡くなっており、「祈念」の文字ならと揮毫されたと伝えられています。
戦争のない平和な世界を祈念し、日本の海戦史を記念する「日本海海戦記念碑」近くの神社で、東郷元帥は日本が今、未曾有の経済危機で揺れるなか、国難を克服する優れたリーダーが不在なのを見て、どう思われているでしょうか。
=福津市渡で、2008年12月22日午前11時21分撮影
福津市渡の大峰山(標高114㍍)中腹にある東郷神社(川野万里子宮司)で22日、誕辰祭が行われました。=写真①=。
東郷神社は、江戸後期の弘化4年(1847年)12月22日に鹿児島の薩摩藩士の四男として生まれた旧日本海軍連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が祭神。津屋崎の獣医安部正弘さん(故人)が、18歳だった明治38年(1905年)5月27日、大峰山山頂から日露戦争の日本海海戦を目撃し、壱岐の方から黒煙が何本も上がり、砲声が一日中聞こえた体験や、岳父の伊地知弘一さんが明治初期に東郷元帥とイギリスに留学し、のちに日本海軍の戦艦〈高千穂〉艦長(大佐)となった縁で、戦後、上京して東郷元帥を訪ね、親交を結んだことから、昭和10年(1935年)から元帥をお祀りし、同42年(1967年)に宗教法人化しました。川野宮司は、安部さんの孫。
私は、日本海海戦から103回目の記念日の08年5月27日、大峰山山頂の東郷公園で催された東郷神社の春季例祭に初めて参列。この日は、東郷元帥の誕生日に行われる誕辰祭の案内が、神社から届いていたので、初めて参列しました。
誕辰祭は、午前11時から拝殿で行われ、柴田彦吉・東郷神社責任役員が、風雨対策で境内に張られたビニールテントで椅子に座った参列者約50人を前に、「東郷元帥は、きょうで161回目の誕生日を迎えられました」と開式の挨拶。川野宮司の祝詞奏上のあと、牧之内繁男・東郷神社崇敬会会長や鹿児島県人会福岡代表、津屋崎渡区長らが玉ぐしをささげ、40分すぎに終わりました。
東郷元帥は、安部さんが「日本海海戦で負けていたら、今の日本はなかった」と、大峰山山頂に建立の「日本海海戦記念碑」の揮毫を依頼した際、日本軍人のみでなく国と国との戦いでやむなく海戦に加わったロシアの軍人も亡くなっており、「祈念」の文字ならと揮毫されたと伝えられています。
戦争のない平和な世界を祈念し、日本の海戦史を記念する「日本海海戦記念碑」近くの神社で、東郷元帥は日本が今、未曾有の経済危機で揺れるなか、国難を克服する優れたリーダーが不在なのを見て、どう思われているでしょうか。