写真①:2階南側軒下妻壁の西端にある白い菊の花の鏝絵
=福津市津屋崎沖町の旧「永島伴作邸」で、2008年12月16日午前9時09分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 36
:鏝絵巡り(3) 菊
鏝絵の題材に菊が選ばれているのは、津屋崎横町の旧「永島伴作邸」(木造瓦葺き2階建て)です。2階南側軒下妻壁の西端=写真①=と同東端に白い菊の花の漆喰彫刻があります。
1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近には、菊の葉の鏝絵=写真②=が浮き彫りされています。菊の葉の鏝絵は、2階北側瓦屋根の中央部付近にもあり、明治以降か大正時代に建てられたと見られるこの商家に彩りを添えています。
写真②: 1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近に浮き彫りされている菊の葉の鏝絵
=旧「永島伴作邸」で、12月16日午前9時08分撮影
津屋崎の町並みの〝生き字引〟・津崎米夫さん(84)によると、旧「永島伴作邸」南側=写真③=の2階窓はトタンで塞がれていますが、以前は格子窓でした。永島家は昔、文具屋や魚屋を営まれていましたが、今は貸し家になっています。
写真③:旧「永島伴作邸」南側の全景
=12月16日午前9時07分撮影
〈津屋崎千軒〉の鏝絵は、津屋崎沖町の「藤井睦雄邸」(木造瓦2階建て)の1階屋根東西にも小さな彫刻が確認されており、「豊村酒造」の『龍』、「伊藤邸」の『恵比須と大黒』、旧「永島伴作邸」の『菊』と合わせて4軒の町家に残されていることになります。
全国の鏝絵の数は約3千点ともいわれ、うち約1千点あるとされる大分県では安心院(現宇佐市安心院町)が約百点ある全国一の密集地といわれています。大分県内に鏝絵が多いのは、日出町の青柳鯉市が左官職人・伊豆の長八(本名・入江長八。1815-1889)に鏝絵を学んで帰郷、県内の左官に伝えたことが大きく、安心院は西の日田市や玖珠町、北の中津市、東の別府市を結ぶ交通の要路で、裕福な家が多かったことから数々の鏝絵作品を生んだとみられます。
鏝絵は、江戸から昭和初期にかけて造られた町家の左官技術、庶民の気風を伝えており、貴重な建築文化、文化遺産といえるでしょう。しかし、漆喰塗り込め壁の新築家屋は少なくなり、損傷や老朽化した町家の解体などでの消失も目立っています。
旧「永島伴作邸」位置図
(ピンが立っている所)
=福津市津屋崎沖町の旧「永島伴作邸」で、2008年12月16日午前9時09分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 36
:鏝絵巡り(3) 菊
鏝絵の題材に菊が選ばれているのは、津屋崎横町の旧「永島伴作邸」(木造瓦葺き2階建て)です。2階南側軒下妻壁の西端=写真①=と同東端に白い菊の花の漆喰彫刻があります。
1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近には、菊の葉の鏝絵=写真②=が浮き彫りされています。菊の葉の鏝絵は、2階北側瓦屋根の中央部付近にもあり、明治以降か大正時代に建てられたと見られるこの商家に彩りを添えています。
写真②: 1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近に浮き彫りされている菊の葉の鏝絵
=旧「永島伴作邸」で、12月16日午前9時08分撮影
津屋崎の町並みの〝生き字引〟・津崎米夫さん(84)によると、旧「永島伴作邸」南側=写真③=の2階窓はトタンで塞がれていますが、以前は格子窓でした。永島家は昔、文具屋や魚屋を営まれていましたが、今は貸し家になっています。
写真③:旧「永島伴作邸」南側の全景
=12月16日午前9時07分撮影
〈津屋崎千軒〉の鏝絵は、津屋崎沖町の「藤井睦雄邸」(木造瓦2階建て)の1階屋根東西にも小さな彫刻が確認されており、「豊村酒造」の『龍』、「伊藤邸」の『恵比須と大黒』、旧「永島伴作邸」の『菊』と合わせて4軒の町家に残されていることになります。
全国の鏝絵の数は約3千点ともいわれ、うち約1千点あるとされる大分県では安心院(現宇佐市安心院町)が約百点ある全国一の密集地といわれています。大分県内に鏝絵が多いのは、日出町の青柳鯉市が左官職人・伊豆の長八(本名・入江長八。1815-1889)に鏝絵を学んで帰郷、県内の左官に伝えたことが大きく、安心院は西の日田市や玖珠町、北の中津市、東の別府市を結ぶ交通の要路で、裕福な家が多かったことから数々の鏝絵作品を生んだとみられます。
鏝絵は、江戸から昭和初期にかけて造られた町家の左官技術、庶民の気風を伝えており、貴重な建築文化、文化遺産といえるでしょう。しかし、漆喰塗り込め壁の新築家屋は少なくなり、損傷や老朽化した町家の解体などでの消失も目立っています。
旧「永島伴作邸」位置図
(ピンが立っている所)