●写真は一説に地名「津屋崎」の由来となった〈河原崎〉の地とされる国道495号線宮ノ元交差点付近=06年8月22日午後1時35分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
この連載は、津屋崎に生まれ育った郷土史家・津崎琢二(つざき・たくじ)と、甥の大学生清(きよし)の対話で書き進めます。
第1回:2006.08.24
地名「津屋崎」の謂われ
清 「こんにちは。叔父さん、元気?」
琢二 「おお、元気たい。夏休みで帰って来たか。東京での1年目の大学生暮らしはどうや」
清 「東京は空気が汚れていて、息苦しいよ。春は花粉症も出て、大変やった」
琢二 「そりゃ、気の毒だったな。友達はできたか」
清 「中尊寺で有名な岩手県平泉町から入学した安倍義彦という男と親しくなったよ」
琢二 「ほう、平安時代末期に、あの奥州藤原氏で栄えた平泉町の出身か」
清 「それで、安倍にお前の生まれた福岡県の津屋崎とはどんな町か、と聞かれて弱ったよ。津屋崎の謂われも知らんし……」
琢二 「なんや、情けないな。江戸時代の福岡藩の国学者・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)が編集責任者となった『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』には、〈この村を津屋崎というは、昔、産土神の鎮座時、村の西方河原崎という所に堂を建て、村民たち多く集いて通夜せしより、此所を通夜崎という、遂に村名になるといえり〉とある。津屋崎村が町制を施行したのは明治30年、つまり1897年のことや」
清 「へー、そうなんだ」
琢二 「産土神というのは、津屋崎古小路にある波折神社のことで、河原崎は今の津屋崎郵便局前の国道495号線と福津市役所津屋崎庁舎前の〈つばき通り〉が交差する宮ノ元交差点付近のことだな。もっとも、津屋崎の由来については、『波折神社縁起』によれば神功(じんぐう)皇后が河原崎で杖をさされた辺りを〝杖さし〟と言い、それが〝津恵崎〟、後世に〝津屋崎〟と称するようになったとする伝説などが語源とも伝えられる。このほか、平成13年に東京堂出版が再版した『市町村名語源辞典』改訂版では〈ツエ(崩壊地形)・サキ(崎)の転で『断崖の岬』のことか〉と見る説もあるよ」
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
この連載は、津屋崎に生まれ育った郷土史家・津崎琢二(つざき・たくじ)と、甥の大学生清(きよし)の対話で書き進めます。
第1回:2006.08.24
地名「津屋崎」の謂われ
清 「こんにちは。叔父さん、元気?」
琢二 「おお、元気たい。夏休みで帰って来たか。東京での1年目の大学生暮らしはどうや」
清 「東京は空気が汚れていて、息苦しいよ。春は花粉症も出て、大変やった」
琢二 「そりゃ、気の毒だったな。友達はできたか」
清 「中尊寺で有名な岩手県平泉町から入学した安倍義彦という男と親しくなったよ」
琢二 「ほう、平安時代末期に、あの奥州藤原氏で栄えた平泉町の出身か」
清 「それで、安倍にお前の生まれた福岡県の津屋崎とはどんな町か、と聞かれて弱ったよ。津屋崎の謂われも知らんし……」
琢二 「なんや、情けないな。江戸時代の福岡藩の国学者・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)が編集責任者となった『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』には、〈この村を津屋崎というは、昔、産土神の鎮座時、村の西方河原崎という所に堂を建て、村民たち多く集いて通夜せしより、此所を通夜崎という、遂に村名になるといえり〉とある。津屋崎村が町制を施行したのは明治30年、つまり1897年のことや」
清 「へー、そうなんだ」
琢二 「産土神というのは、津屋崎古小路にある波折神社のことで、河原崎は今の津屋崎郵便局前の国道495号線と福津市役所津屋崎庁舎前の〈つばき通り〉が交差する宮ノ元交差点付近のことだな。もっとも、津屋崎の由来については、『波折神社縁起』によれば神功(じんぐう)皇后が河原崎で杖をさされた辺りを〝杖さし〟と言い、それが〝津恵崎〟、後世に〝津屋崎〟と称するようになったとする伝説などが語源とも伝えられる。このほか、平成13年に東京堂出版が再版した『市町村名語源辞典』改訂版では〈ツエ(崩壊地形)・サキ(崎)の転で『断崖の岬』のことか〉と見る説もあるよ」