気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(34)すでに在る・・至福へ

2022-01-06 05:54:39 | 意識の科学(総合編)

誰でも幸福であることを願っている。

意識する、しないに関わらずだ。

動物、動物種、人、人種の違いに関わらず、誰でも幸せを求めている。

これは否定しようがない。

存在は・・創造の喜びがあるからこそ「存在」なのである。

 

誰であっても、つまらないものを好むことはない、

嬉しくないと感じるものを、大事にしようとは思わない。

あなたは嫌いな人と是が非でも一緒にいたいと思うか?

不快な状況は避けようとするし、

気持ちが悪いものを肌身離さず持とうとはしない?

不幸を好むか?

・・・・

いいや、決してないだろう。

誰でも、自分が幸せに感じるもの・・

それとつながるものだけを欲しがるのだ。

だからシュールで意味ありげな例外はないということだ。

全ての人々の目的は幸福にあると言っても過言ではない。

 

悪い人も良い人も、その思考や行動がどうであれ、

自分自身の幸福につながると信じているからこそ、

悪いことも良いことも行うのである。

人に隠れ、人にひけらかし、騙し、騙され、

嘘を言い、真実を言うのも、

自分の利益になると信じているからこそだ。

良い思考、悪い思考、それから必然的に起こる行為、

それが確信犯的であろうが、詐欺的であろうが、

真実一路の行為であろうが、

その背後にあるのは・・その時時に信じ込んでいる、

自らの幸福の追求である。

皆々、これを漠然と行っているのである。

 

・・・・

しかしながら、なかなか幸福は得られない。

これでもか、これでもかと頑張っても、

幸せを実感することは針の孔より小さいものだ。

あっ・・と思えばすぐに消えてゆく。

それは、

地で満ちている不幸の群れの中で、

夜空に輝く星々のように小さい。

・・・

たしかに、幸福でなくとも毎日生きていける。

やらねばならないことがいつも山のようにあり、

それらをこなすことが、どこか苦しいながら、

それ自体に安定・安心を感じることもあるだろう。

そうやって、瞬間にも及ばない間の、

与えられた人生を消化するものだ。

 

・・・

そして今、あなたは幸福だろうか?

もしそうでなければ、なぜなのだろうか?

得られないことに意義があるのだろうか?

 

またそもそも、幸福とは何だろうか?

それが分からないのに、得る得られないもない。

幸福であるとは・・何だろう?

なんとなくの霞の中の幻想か?

・・・

それはこころの状態だ。

こころが幸福なるものをを感じている状態だ。

明らかに、物でも状況でもない、

絶対に、地位や名誉、財産や美貌ではない。

あなたの意識する・・

それ・・その対象物、状況そのものではない。

 

言葉で表現するならば、

「あー幸せだ・・!」と感じるこころ・・のことだ。

・・・

こころ?感じる?・・・馬鹿言うんじゃない、

そんなもの何の役に立つ?

銭や財産、地位や権威が効くんだよ・・

それで幸福をつかむんだよ・・

 

そんな大嘘の支配観念に気づくだろうか?

それは、肉体自我保身への不安を払拭する、

切ない努力ではあるものの、

生存のための過ぎたる試み以外の何物でもなく、

それで幸せを感じることはない。

なぜならば・・・

不安と不信のこころが根にあるからだ。

 

常に何かの問題があるので・・

いつもこれを何とかしなければならない・・・!

そうやって、次から次へと問題・トラブル・不安・不幸を創り上げ、

それを打ち消そうと努力に努力を重ね、

汗を流し、苦渋の涙を流し、

その先にきっと・・幸福がやってくると・・・

そう集団で思い込んできたのだ。

 

そうやって・・人生を終え、気を取り直して、

また次の人生へと・・突入してきた。

 

そうは思わないか?

 

条件付きの幸福を願い、

そのための条件を次から次へと・・

次から次へと・・・

不安と不信がゆえに、繰り返し繰り返し創り上げ、

決して到達しないように、

到達しないことが良いことのように思い込み、

幸せであることが間違っているかのように、

集団で真似事しながら思い込み、

顔を見合わせつつ、互いに戦いながら、

 

どうして幸福や平和は訪れないのだろうと、

難し気な哲学者のように考え込み、

永遠のかなたに追い求め、押しやり、嘆き悲しむ。

 

嗚呼、何という屈折して腐食した、

こころ・マインドだったのだろうか。

幸せの青い鳥は外の世界のどこかにいると、

今まで外の世界のどこかに幸せがあると信じ込み、

あるいは集団幻想を信じ込み、

あちら、こちら、あの人この人と探し回り、

いつもいつも、永遠のかなたを見上げながら涙したのか。

・・・

マインドの論理、理屈の罠にはまっている場合、

これらは意味不明な言葉と捉えられるかもしれない、

しかしながら、

 

幸福とは、

幸せだ・・と感じるこころ・・。

今・・感じる・・幸福感のことだ。

 

今・・何はなくとも・・幸福だと・・感じること。

あれが無ければ、これが無いから・・

そういう条件はまったく、まったく不要なのだ・・・

他人がどうであれ、環境がどうであれ、世界がどうであれ、

 

今・・幸福であることを実感・宣言・実践することだ。

そして、

そこから・・幸福が出て来るのである。

 

常に今の瞬間に湧き出す切なる根源からの想い、

創造の源・・理由・・

「あー、わたしは幸せだ・・!」

と、

何はなくとも、

無条件で・・

今・・感じること、

今・・瞬間の・・・創造なのである。

 

理由を付加しない無条件の・・

幸せであるという実感こそが、

それがマインドが撒く「種」である。

 

種は必ず成長し大きな花が咲く。

種を蒔かずして、どうして収穫があろう?

今、無条件で幸福を感じなくて・・

どうして幸せの現象花が開くのか?

 

現実という、過ぎては消える「結果」の世界を、

繰り返し繰り返し議論すべきではない。

・・・

元にある根源の・・創造の実感・・

それは・・既に在る、

時空を超え、常にいつも在った・・

至福である。

 

それを思い出し、それを芽吹かせるのは、

今ここでの・・幸せの実感である。

 

それに気づいただろうか?

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠にありがとうございました。