気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続・意識の話(6)認識次元の壁

2019-06-03 05:52:15 | 語り部の章
真のわたしとは・・無限の意識、あるいは気づき・・であるからこそ、

それが時空間のどこかの場所にあるわけでもなく、

ましてや、肉体の中にあるわけではないのである。

こんなこと言っても、すぐに理解可能とは思えないだろう。

そう、すでに、

人の多くは、自分は肉体だと・・思っている、

私は ”時空間のある時、ある所にいる”と思っている ということだ。

「だってそうじゃないか、思っている・・?というより、
それって事実じゃないの!?  わたしや”ここ”にいるじゃないか」
えーと、生年月日は、住所は・・年齢は・・身長は・・云々、

それらすべてを総合したものが「わたし」であると・・漠然と思っている。

生まれてからずっと、そういう個人の私であったし、今でもそうだと・・、
昨今は年齢が気になる時節にはなったが、私はこの肉体の経歴であると・・。

違うだろうか?

しかしながら、それは事実ではなく、
事実であるという・・「認識」なのである。

だって、そうじゃないか?・・は、強く認識されているということだ。
多くの人がそういう認識でものを言い、書き、話していることを、
常識観念という。

「わたしとは何だろうか?」と問いかけた場合、
いや、そんな問いなど普通はする気も起きない状況なのだが・・、

わたし、自分は肉体・頭脳だと思っている。
思っている?・・って、

そうか・・思っているのか・・としても、
それは頭脳が認識しているんだなと考える。

そして、やはり自分は肉体・頭脳であると・・思うのである。
そうだ、
わたしという自己イメージは・・頭脳が作っていると・・。
それが科学的な自己認識である・・としているかもしれない。
つまり、
思索・想定・認識などは頭脳が行っている。
であるならば、たとえそうだとしても、

私はやはり頭脳であり、それを含む肉体なのである、
--と、認識する。

そうではないか?

しかしながら・・それもまた「認識」なのである。

自分とは、この高度な意識の機能を有する、頭脳を含んだ肉体である。

という”自己認識”なのである。

「認識」は、思考、思索、記憶という”意識”の働きのことである。


ここまで思索が進んだならば、すでに常識観念という壁の
その間際に来ているといえよう。


事実、あなたは肉体なのか?

あるいは、

自分は肉体であるという「認識」があるだけなのか?


さて、どうなんだろうか?・・わからなくなったならば、

いわば古い観念という、3次元的自己認識の壁が壊れかけていることを意味する。

しかしながら、それが思い込みかもしれないところの、

自己認識としての肉体自我が、きっと抵抗を試みるだろう。

そんなはずはない・・と、

わたしは認識によってできている自画像であるわけではなく、

わたしとは、あからさまに五感で感じているこの肉体であると、

さっさとその観念の壁から、元のかごの中に戻ろうとするかもしれない。


しかしながら、事実も現実も、ただ単独に事実や現実があるわけではなく、

それに”気づく”ことによってこそ、成立しているものなのである。

そう、意識である・・わたし・・の中に、すべてがある・・。



あなたの目の前にある事物は・・気づいているからこそ、そこに存在する!

物量、サイズに関係なく、宇宙も世界もまったく”それ”が故なのである。


わたしは・・”それ”だ。