あなたの意識が立ち現れると同時に世界が現れる。
これがあなたの生きている真実のあり様を表している。
あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、
その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。
そしてその肉体としての私は、偶然に生まれていつか確実に死んでゆく、
それまでの事であると・・そう思っているのであろう。
自分だけ思っているというよりも、それが誰彼かまわず当たり前の常識感覚である。
みんな一緒に・・感覚なのだが、だれもそれを保証などしない単なる集団妄想に過ぎない。
・・
人間とは、知的な社会的動物・・それが人間・・さも尤もらしい表現だが、
しかしながら、
広大な時間空間の中の小さな人間という、物質的形態としての自分を説明しているだけで、
それは結局、肉体としての「わたし」のことであり、
意識・・としての「わたし」の説明ではないことに気付かなければならない。
あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、
その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。
例えばそれは、あなたが最近大きくなった液晶TV画面に展開する宇宙や世界の映像を観て、
自分がそのTV映像の中に入っている・・小さな人間であると思うようなものである。
でも現実は、そうではないから、どんな物語も結局は楽しむことが出来るわけだし、
ほんの一時であっても、いつの間にか、
そのスクリーンの映像の物語に入り込んでいる気分になり、
ハラハラドキドキを味わえるのだ。
そうでなければ、誰が映画やビデオ映像を視たいと思うだろうか?
一時でも、その中の物語にはまりこむからこそ・・楽しいわけだ。
3次元的世界にいるとしているあなたは、目の前に展開する二次元映像が、
例えそれが、無限遠方や遠い過去や未来に展開するような宇宙ものであろうと、
つまりは2次元平面に展開する映像・物語であると”知って”おり、
わたしはその中に居る者ではない・・としっかり”認識”しているからだ。
なぜならば、目の前の画面映像は、あなたの知覚する世界空間の中の、
ほんの一部の枠内の映像であるという事を知覚・認識しているからである。
しかしながら、ちょっと想像してみよう・・。
そのTV画像、映画のスクリーンが・・身の回り全体に拡大したならばどうだろうか。
身の回りのすべて、知覚する全空間が・・その物語であったら・・どうだろうか?
つまり、わたしたちは・・ある種の時空間に、はまり込んでいるということ。
そのはまりこんでいる要因・原因は何かと言えば・・・
自分がこの肉体以外の何者でもないという、
幼いころから刷り込まれた・・3次元的常識観念・信念によるということ。
3次元的常識観念は、それ以上の次元認識でなければ、
3次元的世界から抜け出せないのは当然であろう。
でも、実際は、そんなわけないと思うだろうか?
いや、あり得ると思うだろうか?
眠るという事は、意識が一時この次元から外れるという事であり、
朝目覚めるという事は、時限付きの肉体に意識が戻るという事であり、
さらに、
死ぬとか生きるとかの現象も、同じように意識の遷移するプロセスであると、
そういう事があり得ると考えられるだろうか?
あるいは、そういう認識は間違いであると・・思うだろうか?
それを真に理解しようとするならば、
自分自身、「わたし意識」のことを深く観察しなければならない。
わたしは・・在る・・が無ければ、世界・宇宙は展開しない。
親の社会的プログラムとしての生殖行為によって自然に用意されたあなたの肉体は、
魂・意識の・・、この世での時限付きの観察・経験基盤に過ぎないと、
そういうことはあり得ると・・思うだろうか?
いや、そんなこと・・あるはずもないと思うだろうか?
これがあなたの生きている真実のあり様を表している。
あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、
その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。
そしてその肉体としての私は、偶然に生まれていつか確実に死んでゆく、
それまでの事であると・・そう思っているのであろう。
自分だけ思っているというよりも、それが誰彼かまわず当たり前の常識感覚である。
みんな一緒に・・感覚なのだが、だれもそれを保証などしない単なる集団妄想に過ぎない。
・・
人間とは、知的な社会的動物・・それが人間・・さも尤もらしい表現だが、
しかしながら、
広大な時間空間の中の小さな人間という、物質的形態としての自分を説明しているだけで、
それは結局、肉体としての「わたし」のことであり、
意識・・としての「わたし」の説明ではないことに気付かなければならない。
あなたは、世界があって、地球があって、さらにそれを含む宇宙があって、
その中に、ある時、ある所に生まれてきた「肉体」としての人間であると思っているだろう。
例えばそれは、あなたが最近大きくなった液晶TV画面に展開する宇宙や世界の映像を観て、
自分がそのTV映像の中に入っている・・小さな人間であると思うようなものである。
でも現実は、そうではないから、どんな物語も結局は楽しむことが出来るわけだし、
ほんの一時であっても、いつの間にか、
そのスクリーンの映像の物語に入り込んでいる気分になり、
ハラハラドキドキを味わえるのだ。
そうでなければ、誰が映画やビデオ映像を視たいと思うだろうか?
一時でも、その中の物語にはまりこむからこそ・・楽しいわけだ。
3次元的世界にいるとしているあなたは、目の前に展開する二次元映像が、
例えそれが、無限遠方や遠い過去や未来に展開するような宇宙ものであろうと、
つまりは2次元平面に展開する映像・物語であると”知って”おり、
わたしはその中に居る者ではない・・としっかり”認識”しているからだ。
なぜならば、目の前の画面映像は、あなたの知覚する世界空間の中の、
ほんの一部の枠内の映像であるという事を知覚・認識しているからである。
しかしながら、ちょっと想像してみよう・・。
そのTV画像、映画のスクリーンが・・身の回り全体に拡大したならばどうだろうか。
身の回りのすべて、知覚する全空間が・・その物語であったら・・どうだろうか?
つまり、わたしたちは・・ある種の時空間に、はまり込んでいるということ。
そのはまりこんでいる要因・原因は何かと言えば・・・
自分がこの肉体以外の何者でもないという、
幼いころから刷り込まれた・・3次元的常識観念・信念によるということ。
3次元的常識観念は、それ以上の次元認識でなければ、
3次元的世界から抜け出せないのは当然であろう。
でも、実際は、そんなわけないと思うだろうか?
いや、あり得ると思うだろうか?
眠るという事は、意識が一時この次元から外れるという事であり、
朝目覚めるという事は、時限付きの肉体に意識が戻るという事であり、
さらに、
死ぬとか生きるとかの現象も、同じように意識の遷移するプロセスであると、
そういう事があり得ると考えられるだろうか?
あるいは、そういう認識は間違いであると・・思うだろうか?
それを真に理解しようとするならば、
自分自身、「わたし意識」のことを深く観察しなければならない。
わたしは・・在る・・が無ければ、世界・宇宙は展開しない。
親の社会的プログラムとしての生殖行為によって自然に用意されたあなたの肉体は、
魂・意識の・・、この世での時限付きの観察・経験基盤に過ぎないと、
そういうことはあり得ると・・思うだろうか?
いや、そんなこと・・あるはずもないと思うだろうか?