気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

第1章 原初のわたし

2018-11-07 06:18:57 | 語り部の章
存在のすべては・・わたし・・というものを中心にして現れている。
中心とは、すべての顕現の主体、原因、根源、ソース、言い方はいろいろだが、
それ・・によって顕現が起きている、それのことだ。

物質的諸現象、精神的諸形態、それらはいわゆる次元が異なるけれども、
簡単に言えば、それらのすべての共通項、あるいは根本的な法則、
または、すべてに含まれている本質的に・・普遍的なもの、
あるいはまた、すべての母体、それからすべてが生じている根本、
・・
とにかくイメージとその表現は様々だが、
それなくして何も起きえない第一原因とでもいえるだろうか。

下の挿絵はそれを象徴している。



あらゆるすべての中心であり、
そこから生じる無数の波紋、波動の原因点、
本来は何もない鏡面・平面、無次元の空(くう)に
超次元から何かが落ちてきて、そこに波紋が起きる。

空から落ちる何かが、何かは知ることができないし、
いつ、どうして、なぜ?・・も知ることはできない。


それが、「なに?で、いつ、どうして、なぜ?」起きるのかは、
決して知ることができない。

なぜならば・・・それは”何か”を”知る”以前のものだからだ。
諸宇宙、諸世界、そして我々のこの時空間の出現以前のことだからだ。

知るということは、何かを知覚し、そして知る、
もっと普遍に言えば、気づく・・ことであるが、
物質であろうが抽象観念であろうが、
つまり物であろうが、観念・思考であろうが
知る・・気づく・・ためにはその「対象」が必要だ。

いずれにしても・・
今、宇宙が存在している。
そしてそれに気づいている・・わたしは在る!・・

我あり・・だ。

初めに・・言葉ありき!
オー、マイ、ゴッド!と言わずして何を言うのだろうか?

・・・

無次元の空(くう)に波紋が起きる。
天文、宇宙物理学者はビッグバンとか言っている。

波紋は波動であり、波動は我々の知っている概念で言えば、
超微細な素粒子・振動エネルギーである。

波動は交差、共鳴、増幅、減退という諸相を現し、
その無限の組み合わせ・重合が、波動宇宙を創り出している。

これは、かの聖書にあるように、
「初めに言葉ありき、言葉は神とともにあり・・」である。

言葉とは、人の生活次元でいえば、
--わたしの想いを、口に出したもの、文字で表したもの--、
科学的に?いえば、それは情報であり、
そして情報には必ず意味、あるいは意図がある。
そう、言葉には「想い」が載っているのである。

これは荒唐無稽な想像のお話しであって、
現実とされる3次元的幻影にはまり込んだ魂・意識達、
また、あなたと無関係なのだろうか?
固形化した3次元的思考の箱の中に
相変わらず身を震わせているのだろうか?



あらゆるすべての中心であり、
そこから生じる無数の波紋、波動の原因点、
本来は何もない鏡面・平面、無次元の空(くう)に
超次元から何かが落ちてきて、そこに波紋が起きる。

何かが天から落ちる?が、何かは知ることができないし、
いつ、どうして、なぜ?・・も知ることはできない。

それが、「なに?で、いつ、どうして、なぜ?」起きるのかは、
決して知ることができない。

なぜならば・・・それは”何か”を”知る”以前のものだからだ。

諸宇宙、諸世界、そして我々のこの時空間の出現以前のことだからだ。

1つ言えることは、自分自身の想いであろうと、
他人の文字を眺めることであろうと、
自発的であろうと誘発的であろうと、
そこには・・思い巡らすことが・・起きている。

このような話は、わたしの現実とは違う単なる妄想の類だろうか、
それとも、宇宙意識の思いに似たものだろうか、
あるいは、
本質の自己、魂意識、自らの出てきたその記憶を、
いまは遠いこの次元世界で思い出しているのだろうか?

相変わらず、目先の役に立つ、
何か物的証拠を求める低次の意識が起きているとしても、
その物的証拠である、目の前にある環境、世界、宇宙を見逃しては、
それこそ・・何の役にも立たないだろう。

それぞれ、わたしの宇宙・世界は、
わたしの投影像であることに気づけるだろうか。
肉体のわたしではなく、それを含むすべてを観ている本質のわたしの、
その壮大な姿であることに気づけるだろうか。





目覚めの道程(16)宇宙意識・わたし

2018-11-03 05:51:13 | 真我実現シリーズ
宇宙意識という言葉は、あの無限の宇宙の意識だろうか、
ならば、なんと壮大、巨大なのだろう・・と考え感じ入るかもしれない。
地球、太陽系、銀河、銀河群を含む、宇宙大の「意識」であると考え、
そうして、それに比べて自分なんかなんとちっぽけなんだろうと、
まるでパスカルの葦ように考えるだろうか。

しかしながら、
それもまた3次元的思考に過ぎないのである。

無限大の「宇宙」の中に、自分という小さな「肉体」が存在する、と。
無限大の中の、1個の・・肉体・わたし・という比較思考が起きているのである。
大きい小さい、重い軽い、遠大、卑小という物理的な思考・感覚が起きている。



もちろん我々は目の前に多次元的宇宙を目撃をしているのだが、
それを見ているのが、私という”肉体”だという視点でいるということだ。

視点というか観点というか、そういう”意識的”感覚思考といっていい。

宇宙を見ているのは個人の肉体である・・、
いや、もっと高度に言えば?、
外の世界を認識をしている、肉体内部の「頭脳」だとそう思っている。

どこかの偉い先生風に、もっと言えば、
すべてはある種の物質が別の物質と反応しており。
”あなたは”その高度に組織化された「肉体」だとしている。

そこにある視点の要約をすれば、
わたしたちは肉体であり、五感経由でその肉体の外側と反応している。
そしてその反応を無数の情報として、身体・頭脳が処理をしている。
・・ということになるだろう。

あなたや私たちの日常の生活の、ちょっと科学的な説明である。
あー、なるほど・・という話ではある。

これは肉体的な反応の過程を調べた科学的成果といえるが、
ここで、いつの間にか・・この思考過程において、
<わたし>が・・肉体・頭脳にという物質形なっているようだ。

気づけるだろうか?
私は肉体である・・という前提というかそういう思考、

いったい誰がそれを真実と言っているのだろう?
誰も言ってはいない。
TVも先生も、隣の人も、通行人も誰も言っていないが、
漠然とした、しかし実に強固な人類の想念形態である。



科学や医学で肉体や宇宙の観察や説明が行われているが、
「わたしは肉体である」ということではない。

繰り返すが、「わたしは肉体である」・・は「思考」「観念」なのだ。
観察によって起きる想念・・観念といってよい。

つまり、多くの人の陥っている、<わたし>・・に関する、
思考の短絡的誤認識の話をしているわけで、
これは真剣に吟味、熟考することでわかるのもので
ここでは、ただそのことを言っている。

肉体の働きは観察できる、
またそれを組織立って説明も可能であるし、
それがいわゆる科学的認識であるが、

しかしながら・・わたし・・は、いつも・・
気づき、意識している側・・である・・というか、

超簡単に言えば、<わたし>は・・説明者側なのであって、
決して、
説明される<観察対象物>のほうではないということだ。


わたしは肉体である・・というのは、
単なる観念であって「事実」ではないということだ。

そこに観察、認識、思考、想像という”意識的な働き”がなければ、
どんな観念も出来はしないということだ。

理知的な人ならば、
ならば、頭脳が意識を創っているのか?と、
そういうことになるだろうが、
それも思考・認識という「意識」の働きなのである。
・・・
宇宙意識の話であるのに、全然関係ない話ではないか?と
そういう風に思うかもしれないが、

宇宙意識は、・・・
はるか外側、無限の向こうにある、あの宇宙の意識ではないのである。



いうならば、・・
世界、宇宙・・それは・・あなたが気付いている範囲の、
本質のあなたという”無限意識”の投影像なのである。

わたしが見ているすべては・・実はわたし・・だと言われる所以だ。
ここで、わたしとは・・わたしの肉体のことではない。

内部、周囲、遠方・・すべてを含む五感感覚を伴った投影像だ。
そこに観察・認識対象である・・私の肉体も含まれるのだ。

わたしという、気づきの起きている意識の中に、
気づける範囲のあらゆる事象が起きている・・ことを観察・認識しているのである。

そして”気づき”そのものもまた無限としか言いようがない。



今ここに・・在って、この世界の波動の中にいるとしても、
いつも日常に引き戻され、世相でやるべきことをやり、
大勢の人々の、短絡的観念の波のまにまに浮き沈みしていたとしても、
それに流されず、そこに頽(くずお)れることなく、

その今・・ここ・・には、無限が内在していることに、
常に・・今・・気づいている・・のが真のわたし・・である。

真のわたしは・・もちろん現れては消える肉体も、そして宇宙も
その中に内包するところの・・意識だ。

いわゆる神は、あるいは宇宙意識は、
自らの無限性に気付いているからこそ、
無限の宇宙が自然に顕現しつつ、様々な姿を映し出し、
そして目撃しているのである。


あなたが熟睡しているとき、実は世界も宇宙もない、
ただ目覚めている時だけ、世界や宇宙という投影がそこにある。
毎日、毎瞬・・がわたし意識の投影なのだ。

真実はどこか無限の遠く、どこかの時間空間には無く、
常に・・今、・・在るという事だ。