●多次元世界は想いのシナリオ
この人間世界は一種の幻想世界であるが、その幻想を構成する「諸現象」は、実際には「こころ」で創られていることを知ることが極めて大切なことである。
決して粒子運動を説明するような確率論で出来ているわけではなく、想い・想念で創られているのだ。
ビルも車も家も家具でさえ、人間の抱く「イメージ」の具体化・現象化なのであることは理解できるだろう。
その多くは、イメージや思考が直接そのまま、物質や装置、機械、建物などとして、時空間のなかに沸いてくるわけではなく、そのイメージや思考が種となって、身近な素材を使って実現することを行なっている。
スプーン曲げや念写等の超常といわれる現象は、イメージのその直接の現象化のことである。
●内面とは無限遠をも含んでいる「意識」
思考やイメージ、感情などは、まとめて「マインド」、こころ、想念等と言われている内面の働きのことである。
内面とは、人間の内側、こちら側・・「意識の中」に生じるものであり、
投影された外側の現象のように肉眼、五感で見えるものではないために、
極めて不可思議な事だが、相当におざなりにされてきたわけである。
結果である物的現象、物・銭・金を増産、追い回すことをしてきたのだ。
●自分の世界のシナリオライターは「自己」と言われている
自分の「マインド」、こころが、自己の周囲のあらゆる事象・経験を意味づけ、決定づけていることに気付かない有様は、なんということだろうか!
その理由は、学校や組織の中で、外側で決められる行事、カリキュラム等で方向性を決められ、それに沿った集団行動をすることだけに馴らされてしまったからである。
怒られない様に、言われたことだけを考えて行為することが優秀であり、それを逸脱することは苦痛を招くという体験を重ねてきたというわけだ。
それは羊飼いの調教のままに、集団で生息している羊の群れと同じものだ。
集団の中での調和をもった在り方は重要なことではあるが、その集団のなかで自己のマインドを他者のマインドでいつの間にか置き換えて、便利に代替しているということである。
●自己の想いに、自分で気付くことが意識的自立である
よく言われるように「自分の頭で考えない」で、人の頭で安易に代替しているわけである。
昨今電車の中で、皆が皆というほど・スマホをいじっている様子や、あるいは赤信号みんなで渡れば怖くない・・などと言うちょっと前の流行語もそういう有様を言っているわけである。
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自分のマインド、こころが、自分の周囲の環境や人生の経験を意味づけしていることに、ほとんど気づかない意識状態のことを、洗脳状態と言って良い。
自分のこころで投影している内容そのもの、「想い」の、その現象化である諸経験の質がどういう意味を持っているのか、とんと不明であるがゆえに、
何か不都合なことがあれば、その原因を外の誰か何かのせいにしてしまうわけで、
それはまるで目の前に展開している映像、自己の投影するシナリオ上演のそのスクリーンに向けて悪態をついているようなものである。
これらを集団で操作されることで戦争や争いが起きることはもう理解可能だろう。
当然ながら、起きてしまったスクリーン映像側(外側)をいくらいじってもダメであって、それを投影しているシナリオ、フィルムの方をいじらなければならないのは、火を見るより明らかであるが、
こころが経験や体験という外側に投影され、そのフィードバックによって、更に、こころの変化を意識的に促がすという、外と内の進化的仕組みに気付けるかどうか。
●自己観察によって・・自分が変わる
そのためには、自分の内面を、こころの動きを、感情の流れを「観る」ことが絶対的に必要である。
これは物理学上のテーマにつながっており、
素粒子が観察、観測によってその有様を変化させることと符合して、
非常に重要な、ホログラム構成の為の要素なのである。
気付いただろうか?
自分のこころの内容を何か好ましいものに置き換えることも、嬉しい楽しいものに置き換えることも、外側の投影映像を変える手段としては有効であるが、
まず心の動きがどのようなものであるかという、内面の非常に込み入った動きを自らで観察する「行為」が第一に大切なことである。
外側の非常に華やかで激しい世界を五感で感じるように、自らの内面といわれる微細、精細な意識フィールドを感じる必要があるのだ。
肉眼で見えないものは何もない・・という観念で閉じたマインド、こころをおざなりにした意識では、常に何が何だかわからない世界で終始、生死することになる。
今回はそうだったろうか。
しかしながら、それはもう十分ではないのか?
●最期に出てくるのが集合意識のカルマ的現象
特に今起きている異常とも言える諸現象、外の世界の様々なイレギュラーな現象がなぜ起きているのか、人類の無意識的マインドの行き着く先はどんなものであるのか、薄々とながら気付ける意識レベルになることだ。
そのために、自己・の・こころを観察する行為によって、自分に何が起きるかを調べなければならない。
物質・肉体レベルだけで右往左往する意識レベルから、それ、現象を見ているところのマインド「こころ」自体に気付けるようになると、
さらにその「こころ」を観ている・・・何かに気付けるようになるのだ!
肉体や外の現象を見ているのは、五感と一体になった「こころ」であり、
さらにその「こころ」を観ている・・のが魂・意識である。
こころ、マインド、言わば個性化、個人の「意識」の働きを、
更に観ている方向が普遍的意識あるいは神意識、宇宙意識といわれる、
あらゆる全てを「わたし」と意識しているそれである。
意識進化とか言われる方向は、古来から「道」と言われてきたもの。
●何もかも皆、無限の意識の表現型である
例えば、地球の磁場、磁力線が中心から発し、無限遠にまでその力線を伸ばして、再び地球のコアに帰還しているように、
意識ある存在は、小さな自我という点から発し、無限の方向に進化しつつ、結局は自らに帰還しているそのプロセスにある。
それが意識進化、深化であって、なぜならばといえば、それが楽しいからである。
我々は、そして何もかも、宇宙意識・・・なのだということを忘れないでおこう。
・・・
●心的な嵐に巻き込まれるか否か・・それが問題だ
世界がどうなるかという知的不安や物的心配よりも、
またぞろ、その外側の世界に振り回される愚かさに判然と気づき、それを越え、
世界がどうあろうと、どうなろうと、あなたのマインドを楽しいシナリオで振動させることがまず何をおいても大切なのである。
景気が良いとか悪いとか、金が有るとか少ないとか、誰かが自分を誤解しているとか信頼しているとか、戦争があるとか、悪くなるとか・・・創られた怖れや欲望を増幅して加勢しないことである。
そういうマインドを観察しつつ、それはそれ、だからどうしたのか?
・・・で、一体わたしは、魂レベルで何が楽しいのか?それを決める時が来ているのである。
外側の何かが「わたし」を投影しているのではなく、
「わたし」が私を通して、自己周囲の時空間事象、外側が投影されていること。
これを調べ、理解し、腑に落ち、そしてそれで在ること。
またそれほど、今までの古い世界の残り時間はないと心得るべし・・である。
例えて言えば、我々は小学6年生の初春、
卒業前の一時の不安定な時期にいるようなものである。