この世界の特徴と言えば何であろうか。
あなたはどうとらえているだろうか。
・・・・
最も大きな特徴とは、・・・・いわゆる「愛」が極めて希少であったということだ。
都会でも田舎でも、海でも山でも・・・人々の多くいる地域ほど「愛」が埋もれているということだ。
常にあった大自然の美しさや恩恵、ちょっとした試練など、それは命に対する「愛」であるということに、
気付かず知らず、ただ個体の己(おの)が生命だけを護持しようという意識レベルに埋没していたのだ。
そこに在る、どこにもある大自然の「愛」の中にありながら、
数千年以上の間、その愛を・・・愛だとは観察できなかったのだ。
どうして・・・何も無い・・・のではなく、そこに在るのだろうか?
何も無いことなら、本来何も無いわけで、全く何も無い、それで終わっている。
でもそこに、ここに、あそこに、そして我が身も他者もあり、
それらを黙って保護している大自然がある。
それは「愛」が在るからだ。
理解可能だろうか?
空を仰いで、海を見て、土を触って、川のせせらぎを見て、あなたは・・・何を感じるだろうか?
全く無視しているか、ただ単に眺めているか、気にしないか、あー落ち着くなとか、美しいとか、
そういう感覚で接しているのだろう。
それらは「愛の顕現」であるとは観じないだろうか。
そんなこと考えもしていないのが・・・・今までの人の世界であったがゆえに、
そんなこと気付きもしないのが、・・・・今までのあなたやわたし達であったがゆえに、
3次元的制約の世界にあっただけの話である。
しかし真実とは、
それぞれの、わたしが孤独に頑張って生きている・・・のではなく、
人生は、・・・自分が生きている・・・のではなく、大自然の中の生かし合いの中にあるということだ。
寝ても覚めても・・・大自然は、そこに在り、そして我々がその中に在り、
息をして、
光を浴び、
土地の恵みで肉体を持続させ、
水で常に清潔さを保つことが出来る。
ビルの中にいようと、家屋の中に閉じこもっていようと、
外を歩いていようと、田舎に居ようと何も変わらない。
高層ビルの林立する大都会も、自然の中にいればこそ、
たとえ機能だけに特化した、その歪(いびつ)な姿をさらしつつも、存立することが出来る。
自然が無くて、だあれも、どんな生き物も・・・・生きることは叶わないだろう。
自然は、・・・そして、それを生みだす宇宙も、・・・生かし合い、育み合いで充満しているのだ。
全てが法則の顕現であることを、うっすらであっても、それを百も承知で、
個々人同士が競争し、牽制し、秩序を保つという触れ込みの契約でがんじがらめになり、
殺し合い、冒し合い、潰し合いをしているのは単に今までの少数の人類だけなのだ。
大自然のなかでの生物間の捕食。
大きな魚が小さな魚を食べる、ライオン家族がシマウマに襲い掛かり餌食にする、
そういうものを、どうしてか「人類の現実もそうだ」と、皮相的にしか感ぜず、
その結果、相当に歪んだ「思考」を代々と受け継いできたようなものである。
生き残りが全てに優先する・・・・まるで人間を小魚のように落とし込んでいるではないか。
物の流れの中の卑小な生き物・・・人間、
だから頑張って生きてゆく、そのための社会秩序をがちがちに整え、
人々がその法の下に平等であるとか、ありがたい信条を掲げつつ、
それらを護持する別々の集団同士で、大きな「捕食ごっこ」をしてきたというわけだろうか。
そういう自我エゴと捕食の想いこみで出来た世界が・・・今音を立てて崩れているのである。
そう、・・・勘違い、思い違い、認識の狭さを体験出来る世界は、
残念ながらと言おうか、やれ、ようやくと言おうか・・・終わったのだ。
今起きている大自然の変化、人類の上澄みと自称する特権階級の者たち、
実は上澄みならぬ浮草のような者たちが、地表面上で騒ぎを大きくしているのは、そういうことを意味している。
彼らが焦っていると言われるのは、もう終わっているからである。
・・・
何言ってんの・・・どこも終わってなんかいないじゃない!と言うだろうか。
またある魂は 「チョットそれではつまらない」 と思うだろうか、
やっとゲームに慣れてきて、この世界の、その歪なことの楽しさを捨てがたいと思っているだろうか、
無意識ながら、生まれ変わり・死に変わりの「度胸ゲーム」を続けたいと想っているのだろうか。
いやいや、もう十分すぎるほど堪能したと感じているだろうか。
あるいは既に、そういう魂の体験・進化のプロセス自体に目覚めているだろうか。
・・・
大自然は循環している。
今までのいわゆる3次元的世界、または物質濃厚の世界にあっては、
個体生命として物質的に顕現している原子、分子、細胞は、
それらがお互い様の生命を、相互に混ぜあい組み換え、循環しつつ、地球という意識の中で創造を続けてきたのだ。
大魚が小魚を捕食するということはそういうことだ。
肉食獣が草食獣を食するということは、そういう生態系内の分子、原子、細胞の循環プロセスを意味する。
原子、分子、クオーク、細胞、あらゆるものは「意識」の顕現であり、
それらの美しくもダイナミックな変化こそが、地球という壮大な自然環造り出してきたのである。
そして人類はその中に生成される人体、肉体という3次元的体験基盤を提供されてきたのだ。
つまり、生まれ変わり、死に変わりのメリーゴランドの馬に乗って学び・遊ぶことが出来たのである。
この人的世界の特徴と言えば何であろうか。
あなたはどうとらえているだろうか。
最も大きな特徴とは、・・・・いわゆる「愛」が極めて希少であったということだ。
しかしながら、あなた方も次第に周囲に愛を感じてきたはずである。
家族を労わること、また見知らぬ人にも挨拶や笑顔を向けることが出来るだろう。
ほんのちょっとした日常の1コマ1コマにも、どこか感動を受けるはずである。
身近な自然、壮大な大自然、宇宙もそのように存在していることに、気づいてきただろう。
水、空気、光、土・・・そして全てを浸透している「空」(くう)も、
うるさい自己主張やら、ド派手な宣伝などすることもなく、
ただ愛を示現してきたのだということに、気付けることだろう。
「愛」とは何か、
あれはこれであり、あなたはわたしであり、自然は一体調和であり、
わたし・・・という意識は、あなたが「私である・・・」と意識していることと同じ意識であり、
それらすべてが「有り難い」、奇跡の瞬間であることを識(し)っていること。
今ある事すべてが進化、恩寵、それである。
良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、都合がいいとか不都合だとか、
勝った負けたや、偉大だとか卑小とか、
そういう「人類観念の次元マトリクス」のなかで、
小魚たちのように必死で生き抜く・・・魂達の一年生カリキュラムのような、
自我サバイバルゲームはもう終わったのである。
そう、あなたを捕らえているのは、あなた以外にはない。
・・・理解可能だろうか。
小魚が目先のエサばかりを追いかけまわるような姿はもう似合わないのだ。
どんな心配も恐れも必要がない。
生とか死が、いかばかりのものだというのだ。
それらの幾多の経歴はあなたの小さな表面意識に上ってこないだけで、
既に、知っている、識(し)っていることなのである。
今人間であるということは、その証拠である。
・・・・
全てはつながっており、全ては生かし合いであり、全ては進化・拡大であり、
そして・・・それらは「愛」なのだ。
・・・
これからの言わば魂のゲームのテーマは、
人類が大自然から受けてきたような、そんな、
慈愛を少しづつでも発散するようなものとなる。
それは確かに、ある意味で3次元的な閉塞世界から、より多次元的世界への卒業といえるのだ。
そのテーマは、決して「知」での進化ではなく、無条件の愛への実感的気付きである。
体の中心にあるハートに・・・自他を区別できない愛を、
たとえほんの少しでも放散している人はそれである。
宇宙・大自然は、今までも、今でも悠々とそれを行なっているのだ。
嗚呼・・・然り・・・。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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多分、そこで今まで通り続けるつもりでおりますが、
取りあえず、今までのご高覧に心から感謝いたします。