人はただ偶然に生まれて、そしていつか偶然に死んで、
そしてそれで終わりであると、大勢の人が思っているようである。
それが科学の発達した現代では正しいこととされているようだ。
確かに、そういう・・・漠然としているが確実な・・・「教育」をされる為にそういう風に思い込んでしまうものだ。
なるほど、自分も若いころはそう思っていたし、それがすっきりした見解である等と思っていた。
だからそういう狭い常識観念の中に、不安ながらも安住している人々のことはよくわかるのだが、
ちと、人生という舞台での探究が不足していると思うのである。
ところで、そういう信念の人の場合は、実際に死んだ時にちょっと問題が出るかもしれない。
死んだら何もないと思い込んでいる存在が、実際に肉体を離れた場合、
依然として自己意識がある為に、そこに、いまだ生きていると想いこむのである。
本来の<わたし>という魂・意識、創造での認識主体、それを総合して「意識主体」とするならば、
その<神の断片>としての「意識体」は依然として存在するために、未だ自分は生きていると感ずるのだが、
生前の勘違い、思い違い度が過ぎると、余計な世界と同調することにもなる。
例えば、世にいう幽霊やら地縛霊やらは、そういうこの世へ「執着」した意識体の「断片」が、
この世界に中途半端に同調している波動現象である。
魂は多次元意識体とでも言うべきもので、その意識の集中する次元に・・・同調する仕組みなのだと言えようか。
そしていま、この世界にいる者たちは、今この次元に「主たる意識」をおいているということなのだ。
何だかんだと言いながら、我々が今ここに生きている・・・とはそういうことである。
気付いているだろうか。
赤子で生まれるという形、母の子宮という言わば次元転換器を経由して生まれる為に、
自分が肉体であるという認識が当たり前のように思われているのだが、
それはそういう魂の経験の為の次元変換プロセスがあるということである。
ところで、普通に人が死んだ場合、その「意識主体」は、かつての肉体から離れていることに気付くわけだが、
しかしながら、肉体での同調が外れると、その存在する周波数域が外れるために、以前の肉体環境を維持できるはずもなく、
大方は地球という波動フィールド内の、別の周波数域に移行するわけである。
それをいわゆるあの世と言っている。
その領域をヘミシンク等では、信念体系領域と言っており、また中間世界とも言うのだろうか。
自分の培った信念に<同調>する意識体の断片達の一時的な寄合世界とでもいうべきだろうか。
そこには餓鬼のような観念世界やら、上品な宗教世界やら色々あるわけだが、
ある思い込み観念に染まった意識世界である事には変わりがない。
そうやって下生、昇天、生まれ変わり、死に変わり、想いの質を、意識の精緻さを磨き上げる為である。
魂にとってのかなりな試練のコースというべきものではなかろうか。
ここにいる存在達は皆、魂の猛者だというのはそういう意味である。
そう、あなたもそうなのだ。(笑)
・・・・
誰もが嫌がる・・死ぬという現象は、要は、地球の表面次元との同調は外れてはいるが、
同じ地球の存在フィールドの一部である、別の領域に移行するということ。
それは、本来の魂の参入次元ではなく、その途中の中間次元で一旦留まるということなのだ。
それは下位のアストラル世界とでもいうのだろうが、ぼんやりとしたカスミの世界でもない。
意識~想念~エネルギー~現象・・・・はどこでも同様だからだ。
ところが、今その意味での中間世界がきれいさっぱりと浄化されつつあるとされる。
只今工事中、・・・・そしてもうすぐ工事終了ということだ。
おいおい!・・・。
ということは、今までのような無意識での生き死にの繰り返しは出来なくなりつつあるということである。
「おーい! 知らない間に工事などすんな!」・・・と言いたいところだがそれは筋が違う。
要は、地球の存在周波数帯域がリニューアルされる、また魂の学びのスタイルが変わったということなのだ。
アセンションとか次元上昇とか、そういう噂話があるだろう。
火のないところに煙は立たないということわざもある。
一般に物理的と言われるこの世界にも、既にそのような兆候が既に滲み出してきている。
つまり存在時空領域・改変の、現象化が起きているのである。
・・・・
多次元惑星に中間世界が出来るということは、
例えば探査機が途中の領域に引っかかって、また再び下へと引っ張られて降りてゆくようなものだ。
それは1度だけでは十分な探索、学びが出来ていないからとも言えようか。
あるいはまた、結構過酷な体験ワールドのせいで、魂の刺激が強すぎて幻惑するせいだとも言えなくもない。
魂達は過酷な世界に面食らって、呆然自失している、あるいは我を忘れている・・・そんな世界もあるのだ。
この世界のように。
なるほど地球での体験は、<行きは良い良い・・・帰りは強(こわ)い・・・・ 天神様の通り道> なのだ。
3次元的世界の休憩場とも言える中間世界、
信念体系世界、中間世界に引っかかると、自らではなかなか抜け出せないことになる。
何故なら「自己の信念」の変化だけがその世界との同調を外せるからだ。
その為に、いずれかの機会によってふたたび、中間世界から、この3次元的世界に生まれ変わることになる。
なぜならば、ある段階ではハードな世界こそが、もっとも刺激が大きく、学びも早いからだ。
その世界での学びやあるいは歪は、その世界で清算するのが最もスマートだということ。
この世界での悟りというのが、そういう浄化と清算の意識プロセスを意味しているのである。
今はその最終時期ということで、大勢の意識体への目覚めの合図がここかしこにあるのだが、
気付いているだろうか?
今まで、バッファー、緩衝領域、時空の周波数の周囲に中間世界があった、
そうであるからこそ、魂意識の周波数域の上下移行、生まれ変わりが可能なことになる。
その中間界、現実界でのプロセスでは、
いわゆる霊的ガイド、天使、いわゆる高次元意識体達の、
そこはかとない、しかしながら親身で漏れのないケアが行われるのである。
時折下生する霊的教師たちはそういう、高次元のケアマネージャーのような存在である。
それをまー、磔にするとか、追いやるとか、祭り上げるとか、そういうことしかできない者たち、「何をしているのか皆目わからない者たち」も大勢いるのがこの世界だったのだ。
ところで、この世界にいる人々は、自分の受けているそういう霊的ケアに気付いているだろうか。
例えばそう、幼稚園にも園児の面倒を見る保母さん、あるいは先生がいるだろう。
幼稚園に通い、夕方には家に戻り、また幼稚園に通うことで次第に成長してゆくわけである。
そして通い詰めた幼稚園はやがて終わり、小学校に上がるようなものである。
進化のパターンは同じなのだ。
あなたやわたし達が、何度もこの3次元的世界に生まれ変わってきたということは、
そういう後ろの正面の・・・ケアを受けつつ、魂・意識を拡大するためなのだ。
・・・・
どこでも類は友を呼ぶという法則があるようで、
それは確かに同調、干渉、反発等のような波動の法則の結果ともいえるだろう。
確かに、全ては「波動」であり、「エネルギー」である。
そしてその波動の変調、あるいは色付けをするのは「想い」である。
物質とは、その波動域の、ある波長域の重合したエネルギーにすぎない。
そう、この3次元的な世界も程度の差は大きくあるものの、実際それに変わりがないのだ。
例えば、目の前にある様々な物質形態物は、
波動・エネルギーの、ある周波数域の振動形態に過ぎない。
その周波数域の同調・反発・重合は・・・意識、想念によっているのである。
だから、肝心なことは外の世界ではなく、自己の内面に注意せよ!ということになる。
そういう仕組みが、引き寄せの法則、親和同調の法則とも呼ばれているものだ。
・・・
地球表面次元にある存在諸物も、突き詰めればエネルギー・波動であり、
それは地球という意識体の想いで色付けされているわけで、
未だ十分にそういう認識を出来ない魂達にとっては、ずいぶんに御膳立てされた造りとなっているわけだ。
山あり川あり、海あり土地あり、そういう大自然の造りは、
地球や太陽、宇宙によってお膳立てされた学び舎であるというのはそういう意味である。
そういう環境を波動共有する「意識レベル」にある魂たちは、
相互に自己創造を学ぶことを通じて、霊的進化が出来るのである。
進化と言っても肉体、物質の偶然の単体進化ではなく、それを表現・体現することを通じた<魂>の進化だ。
例えればパソコンの高機能化、進化は・・・その設計者の進化なのだ。
そうだろう。
・・・・・
なぜ、わたし達はここにいる?
わたし達とは何か?
少し答えになっているかもしれない。
・・・・
あなたは毎日何を感じ何を思っているのか。
何を・・・自らの意識に取り込んでいるのか。
注意すべきではなかろうか。
何故なら、意識において、常に波動同調・調整をしているからである。
つまり自分の想念に対して、条件反応的、無意識的であってはならないのだ。
実に、自己の想念、想いを自らで観る・・・ことが、この世界の学びの重要ポイント。
銭、金、物、仮の名誉や地位への執着は何の役にも立たないどころか、
そういうものへの執着は、自らの意識の波動である想念を重くし、
気付かず知らず、粗く重い周波数世界に同調することにもなるのだ。
世間の中の想念のゴミばかりに注意を払ってはいないだろうか。
想念のゴミは、他者が掃除してくれるものではなく、
赤子のおしめを替えてあげるようなものでもなく、
お金を払えば、あら気持ちいい・・・等というようなものではない。
また大勢の中に埋没してシュプレヒコールを上げれば霊得が積まれるようなものでもない。
・・・・
世界を股にかけた大きなパフォーマンス行為をすることでもない。
世界の背後にある悪意と欺瞞を掘り出すことでもない。
だからと言って、自己の都合のよい信念体系に逃げ込むことでもない。
そうではないのだ。
自らの「想い」を自らで観ることが出来ること・・・。
自己の想いを ”垂れ流して” 気付かないような霊的幼児から、
想いを自らで調律、選択できる意識的な大人へと進んでゆくことだ。
その為に毎日の生活、家族のなりわい、人間関係、社会との折衝があるのである。
他者の振り見て、わが振り直し、
自らの体験を導くところの、自らの想いを調律すること、
そして、自らの想いの精緻な観察が出来るならば、
条件反射的な行動や扇動に惑わされることもなく、
他者の想いや行為にも気づける意識レベルとなり、
意識と意識が相通じる拡大された世界へと自らを導くことになる。
なぜ、わたし達はここにいる?
わたし達とは何か?
そのレベルの学びは、この世界ではもうじき終了となる。
なぜならば、地球、宇宙も同じ繰り返しをしているようでも、
螺旋のように、確実に変化、進化しているからであり、
本質の展開パターンを変える時期に来ているということ。
そう、今がその時なのだ。
そして、それがあからさまな現象になって顕れる時は、
既に成った時なのである。
例えば、地軸の傾きの変化があるとするならば、
そんなに時間がたたない間に、グレンと全てが様変わりすることになる。