人間には日常の生活において様々な「想い」があることだろう。
その想いは自己周囲の環境に極めて大きな影響を与えているのだが、本当にどれだけ気付いているだろうか。
実は、『想い』が経験や体験の為の『原因』となっており、その『想い』の質的なパターンがすなわちシナリオのような働きによって周囲に現象化しているという事であるが、
この高次のプロセスに十分気付けることが、人類全般の通過すべき意識進化のステップアップなのである。
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いわゆるここでの高次元世界とは、何処かの「あの世」にあるものではなく、意識の拡大した先に自然と出てくる深みのある表現世界のことである。
従って、既にそういう理解の深まった意識の人々が居る世界は、たしかにその分だけ高次な世界、以前より広く見える世界なのである。
人の意識が広がり深まれば、その存在の知覚する世界は、それだけ高次元的な世界となってゆくということだ。
あるいは逆に、意識が狭く、浅薄な状態であれば、それに相応する世界に在る・・というのが事実だろう。
これは昔から云われるところの、象徴的な世界の違い、あるいは天国と地獄等の意味であって、なるほど昔も今も言っていることは同じである。
それぞれの「魂・意識」の発する「想いの質」が、写されるのが「映し世」、すなわち現世(うつしよ)であって、そういう世界とは、どこかの誰かが陰謀を巡らして、あるいは強制してできるものでは毛頭ないのである。
個々の魂・意識の写し絵、表現フィールドは、
個々から発する、個々の想いで決まるものであって、
決して外から直接強制されるものではないということだ。
ここに本質的な不安があると、どうしても外の何かを怖れたり、悪者だけを退治しようとしたり、あるいは外のシステムだけを改革しようとすることになり、それがそれで、様々な思惑の衝突を招き、またまた余計なカルマを作り出してしまうことにもつながるわけだ。
そんなことよりも、まずそれぞれが行うべきことは、その世界の方を見ているところの原点である、それぞれの「わたし」自身の意識改革をすべきだという事である。
外側とは、内側の表現型であり、内側から事象が発生するのが、言わば宇宙創造理論でいうビッグバンでもあるはずだ。
そういう、想いと現実化の理解が深まり、意識の拡大しつつある人々が増えることによって、その認識で複合構成されるところの「世界」が結果的に現れてくるという事である。
今それが加速度的に起きているという事なのだが、それに気づけるだろうか。
内面にあるものが外に展開するのが現世(うつしよ)であり、また即ち「映し世」であって、いつも空の彼方のどこか遠くにあるわけではないということなのだ。
それはまた魂・意識は、その意図に従ったフィールド世界に同調するという事もいえるだろうか。
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全ての元にあるのが「意識」であり、その意識の変調、あるいは発生した「意思」が、『想念』という、現象・表現のための青写真となる。
従って、全ての意識的な生命体はその「想念」に気付いている必要があるということだ。
今来ている新しい時代に必要な精神的ベクトルは、自己の想念それに本当に気づいており、そしてその想念と、その結果との観察を実践しているだろうかということだろう。
往々にして精神性の高い人、あるいはスピリチュアルといわれる人々も、そういう高次の情報を把握していながら、頭のなかの知識だけになっている場合が多いかもしれない。
知ってはいるが、自己での意識的実践にまで移行しているだろうかということだ。
例えば身近な話、人生経験の豊富な年配の方などは、今の自己の境遇や環境を静かに観てみるならば、なるほど全てが自己の意思決定によって、そういう風になってきたのだという事も分るだろう。
その時の時勢、あるいは時代時代の波が異なっていようと、その中でどういう風に生きてきたか、それは、誰かや社会や国家のせいではなく、自分がどういう風にその人生の波を越えてきたのか、結局は自己の想いや信念、直観等で決めているのである。
・・・違うだろうか。
荒波の中で舵(かじ)を放棄しているのも自己であり、舵を握って自己の意思で航海するのも自己であるわけで、
そもそも、これは良いとか悪いとかの話ではなく、人生も、生存環境、人間関係も、結局は知ってか知らずか自分で創ってきたものだということに、気付くかどうかということが重要なのではなかろうか。
本来人生には失敗も成功もありはせず、多い少ないもあるわけもなく、ただ魂レベルの気づきの拡大のためのものなのだ。
往々にして、大勢の人々の想いや行為との関わりがあるために、
人生を自分が決めてきた等とは露もわからぬ場合もあるだろうが、
何がどうであっても、どういう社会環境であっても、
その中でどういう風に進むかは、全て自己の意識決定なのである。
この世での目的の1つは、何が良いとか悪かったとかの評価ではなく、要はそういう自己の創造性に気付くという事なのである。
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また、
その人の世界にあって自らの意識を持っているのは、その人以外にないということに気付く必要があるだろう。
え?どういう事・・・、他にも人がいっぱいいるじゃないか・・・とも思うのだが、
わたしが、わたしである・・・という自意識は、世界中にわたし以外になく、
同じくあなたが・・・あなたである・・・という自意識は、あなた以外にないはずである。
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あなたが見ている世界にあって、あなたが『あなた』だと意識している「意識的中心」は、あなたしかいない、ということ。
これは世界には創造主なるものは・・ひとつ・・しかない、全ては「ひとつ」とも言われる存在原理の投影であるとも言えるだろう。
世界には「わたし」があって、わたしの世界には・・・わたし以外にはない。
これは当たり前の中に埋没している、根本的で最も重要な気付きとも感じるものなのだが、多くの人は、雑多でハチャメチャな世相の中で注意をそらされ、自己の自己たる由縁を忘れているのだと言えるだろう。
そのため自己の在り方を見詰める以前に、他人がどうだとか、社会がどうだとか、良いとか悪いとか、様々な好都合・不都合に基づいた外側の判断を下しているのである。
また他の人を見る場合もそういうことだろうか。
例えばそれは、鏡を見てはいるのだが、鏡に映った者が・・・自分であるとは気づいていない段階・・・とでも言えるだろうか。
「おいおい、鏡に映ったあ奴は・・いったい誰なのか?」と・・・自分で訝しく思っているようなものである。
鏡面に映った平面的な像自体が単独で存在していると思い、鏡をひっかきまわしたり、いじくりまわすような徒労行為のようなものでもあろうか。
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これは言うなれば、宇宙にはわたしがわたしである・・と観察している者は・・・は「わたし」しかいない・・・、また同じく宇宙には「あなた」・・・しかいないとも言えるし、
またそれら「われ」という意識の中心は、あなた、わたし、彼、彼女など・・・無数にあるとも言えるのである。
それぞれの全てが・・・天 上 天 下 唯 我 独 尊・・・・ということ。
お釈迦様の話と伝わる「天上天下唯我独尊」は、エゴの極致でも、荒唐無稽でも、尊大無比でもなく、全てが尊く、・・・ひとつでありながら、かつ独自のものであるという、宇宙的な当たり前の事実を言った言葉なのであろう。
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それはまた、それぞれの人にあっても、気付く気づかないにかかわらず、その想いを時空全体に描き出している・・創造者であるという事でもある。
身近な例としてだが、ある人に向かって「このくそバカ野郎」という想いと言葉を発したならば、大概は、
「なんだとお・・この野郎!」 のような反応が返ってくるだろうし、
「あなたは良い人ですね」・・と、どこかが嘘であっても、そういう想いと言葉を投げかければ、
「あー、いやそれほどでもないよ・・はは・・」 などというような反応があるかも知れない。
実に当たり前のように感じる作用と反作用も、要は、
原理的には、人間関係における「想い」とその「現象化」なのである。
また想念は言葉に変換される抽象的な観念イメージというだけではなく、高次元的実体の波動としてあらゆるところに伝搬している。
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実例を挙げれば、既にご存知かとも思うのだが、水の博士で有名な江本勝さんは、人間の想念が水の結晶構造を形づくるという事を言っている。
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下記は、http://www.hado.com/books/kotae.htm
からの拝借である。
小学校での実験です。 上:「きれいだね」と、ときどき声をかける
上:「かわいいね」と声をかけた水の結晶。 中:「きれいだね」と、頻繁に声をかける
下:「ばかやろう」と声をかける。 下:放置、無視した水の結晶
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何気ない微妙な「想い」が、常に周囲のフィールドにも確実に影響を与えているということであり、
また水も単なるH2Oの無機的分子ではなく、確実にそれをキャッチする「意識」を有しているという事でもある。
即ち人間の意識の特定表現であるところの「想念」は、同じく意識の表現であるところの水にも共鳴するということである。
これも即ち、
『想い』が常に<形>になっていることを示しているのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。