人存在は 体と こころと 魂で構成されていると言って良いだろう。
もちろん体は誰にも見えるし、こころも観ることが出来るようになる。
しかしながら、魂は見ることも、観ることも出来ない。
世間でどこか漠然と信じ込んでいるような魂や霊という観念にも、理解不十分な人間知の手あかが付いているかもしれない。
何せ、見る・聞く・触る・・というような、限られた五感の窓しか認識していないために、どうしても有るとも無いとも言えるものと感じているかもしれない。
この人類の認識の狭さは確かに造られたものでもあり、物質次元に閉じ込められた有様を示していると言えようか。
1つの表現形態である今の物質的次元を超えて存在するところの、自らの有り方、すなわち魂の有り方に気付くためには、この世界で造られたまことしやかな幻影を自らで見破る必要がある。
・・が、しかし待っていて与えられるものではないのだ。
いや逆にその前に、魂ってなに?と問いかける前に、
・・そんなことよりも何よりも、
自分が物質肉体である、死んだら終わりだ・・等というような、まことしやかな虚妄の観念に無意識に支配されていることに気付く必要があるのだ。
またひょっとして、そのような観念でもって死んで終わりになった・・後・・どうなるのだろうか。
それに、一体ぜんたい、誰がそのような観念に責任を持つのであろうか。
政治家か? どこかの大統領か? 権威筋の先生か?
自分が何者で、どこから来て、どこに行くのか・・・
それぞれの自己に関する最重要な知識を、世間の人々が全て理解、体現しているとでも言うのであろうか。
いいや、実のところ誰も責任など持てるわけもないし、
残念ながらこの世界ではそれは違うのである。
あなたもわたし達も、それは良く知っているはずである。
死んだら終わりの肉体自己・・・で終始すること。
これは究極の勝負と言えなくもないが、常に勝負には負けるのである。
意識は不滅であることを識(し)るまでは、迷い続ける輪廻という観念の輪の中に再び戻ってくることになるだろう。
実のところ、それは確かに恩寵ではあるが、いい加減卒業すべきものでもあろう。
この世界とはまるで魂の学校のようなものであるが、
今はもう大きなサイクルの切り替え時期が来ているようでもある。
未知から既知への学びの1段階でもあるこの世界の有り方、
そう、迷路で右往左往して遊ぶ時期は残念ながら過ぎているし、大きな道も既に開けていることに、
多分、あなたも気づいていることだろう。
しかしながら、その開けた道に至る<鍵>は、外の世界にあるわけではなく、
あなたの内にあるということもわかっているに違いない。
全ては偶然であり、ハプニングであり、世界は物質のたまたまの結合や組み合わせであるというような観念に染まっていない限りは・・・。
・・・
変化を感じている人々も、外の世界が何かをきっかけに、すぐにでもばら色に変わるものだと思っている人もいるようだし、そうなれば自分がよりよい状態になるかもしれないと信じて頑張っている人もいるだろう。
しかしながら、
外の何か、外の誰か・・・を信じることは<愛>でもなければ<善>でもない。
それは期待や執着がその姿を変えた代物でしかない。
大切なのは、外の現象をめくら的に信じることよりも自らで内面を探求することである。
探求して掘り出したものを他に利用することがかなうならば、それこそ本当の意味での慈善であろう。
・・・・・・
人間は体と心と魂で構成されているが、
体は誰にも見えるし、こころも観ることが出来るようになる。
しかしながら、魂は見ることも、観ることも出来ない。
魂は本質そのものであり、見ること、聞くこと、感じること、そしてマインド・こころを観ること、の根源にあるものであるからだ。
五感で感じる我々の主に3次元的な生態、あるいはそれを超えた次元である想念をも含みながら、さらにそれを超えた <わたし>そのものである。
それは、究極あるいは全体としての多次元的宇宙、大自然をその<身体>とし、
その全てを自らとする意識、宇宙意識を<こころ>とし、
その根源であるところの、いわゆる<神>と本質は同じである。
あなたはそれを否定するかもしれないが、(笑)
今在る・・ということは・・・それがその証拠そのもの。
それは、今のその瞬間にある<あなた>そのものである。
とはいえ、これは難しい方程式や論理等ではなかなか理解できず、
いや・・それではますますわからなくなってしまうかもしれないのだが、
ましてや、お金や地位や豪邸では何の解決にもならず、
いや・・それではますます維持観念に固まってしまうかもしれないのだが、
しかしながら、そうこうしながらも、
何処か何か常に内面から感じる方向に自らの意識を向け、
思索、探求、あるいは人生経験から醸し出される知恵を集めながら、
未だ無明の多くの人々の集合のなかで、右に行き、左に行き、
こころが有頂天になったと思えば奈落に沈むような、
そんな、
この世界ならではの体験をすることで得られる<こころ>のある種の容(かたち)に至るまでのことである。
別の表現では、嗚呼・・それがそうだ!・・・と腑に落ちる瞬間がくるまでのことである。
なるほど・・腑に落ちる・・ということは、
お腹で消化吸収したと言う意味である。
確かに・・真理は・・・頭では吸収・消化できないということだ。
そのような、あらゆる物事が腑に落ちるような、
そのこころの容(かたち)は、どういうかたちなのか?
・・・
そのようなこころの容(かたち)は、
・・・即ち、・・・容(かたち)そのものである。
こころが何かの観念に占有されていることではなく、
容(かたち)そのものの状態とも言えるだろう。
それは昔から言われる・・・無の境地でもある。
無と言っても何もないのではなく、
どんなものにもなるということである。
確かに容器そのものは、中身が空(から)であるはずだ。
常に容器の中に何かがあって占有している状態では、
その形自体を造り上げている容器自体に気付かない。
ざわめく様々なこころで自己を満たしているならば、
そのコロコロ変わる容器の中身のざわめきが主人となってしまい、
その本来の元に在るこころの容(かたち)に気付かないのだ。
TVを見ていてそれを現実化している原因である受像機に気付かない。
映画を観ていて、その映像の投影の仕組みに気付かない。
あるいは人生を生きていて、それを現象化している意識自体に気付かない。
まさに・・そういうことである。
無の境地とは、
意識の投影先すなわち現象そのものに、我を忘れて自己投入していないことを意味するのだ。
例えば人生を生きていて、人生に飲み込まれないことを意味する。
本質に気づいている言わば不動の在り方、
あるいは想いや感情そのものに自己投入し、それに支配され、それによって突き動かされてしまうことのない、意識の位置とも言えるだろう。
その意識の位置・・が<魂>の視座とも言えるだろう。
・・・
物質形態を表すところの肉体でもなく、常に自在変化するこころでもなく、それをそうだと捉えているところの、言わば静謐の本源意識・・とでも言えるだろう。
確かにそれは知識、観念ではなく
・・・<存在>そのものである。
今あること・・・そのものの<本質>とも言える。
騒がしい世の中、外の世界にその本質は無い。
激しい感覚や刺激、宗教的な甘だるい美しさ、あるいは一見壮大に見える尤もらしいファンファーレの中には決して無いのだ。
・・・
現われた全ての事は、常に変化するところを本分とした投影された儚き夢であり、
その夢を観ている<あなた>という本質に気付くための、この次元での仕組みなのである。
今はもう、
体を観るように、こころ自体に気づき、
これを静め、空(くう)となすべきであり、
自らのこころという魔法の鏡を澄み渡らせるべきなのである。
そうして自己の本質に気付くこと、
今はもうその時であるようだ。
なるほど<今>という瞬間には・・・時間は存在していないということだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。