●個我の「わたし」という認識
我々はそれぞれの別個の肉体という独立した単位をもっているように見える。肉体の外との境界は我々の皮膚と思っているに違いない。皮膚付近にある視覚、臭覚、味覚、音覚、触覚は外界の情報源の窓という役割をもっていると捉えているだろう。
我々の存在感覚の中心が顔、頭の周囲にあるという漠然とした感覚は、その五感の窓口が頭部に集中しているからに他ならない。特に視覚と音覚は支配的な感覚である。
●五感は意識の体験の窓
その五感の情報は体内の細胞、神経伝達などの情報伝達ルートを通じて、脳に集められそこで情報処理をされたうえで、映像、臭い、味、音、触感という、いわば味のある立体的な存在感覚を生じさせるのだ。家に居ても町を歩いても、様々な映像や音、振動等を常に内面に取り込むことで、その時々の外の世界にいるように知覚している。
多かれ少なかれ、我々が今生きているという「感じ」は、このような体内の五感情報による実感を基にしているのだ。それらの情報が、今我々が認識しているような3次元的な世界を映し出すのであるが、それらの外界からと見える様々な五感の情報は、全て波動・振動なのである。視野を創るのは光・電磁波であり、音や味や臭いは空気と細胞や物質の電気的、物質的振動波の伝達といえるだろう。触感は人体周囲すべてに存在する同じく振動波の窓口といえるものだ。
●物質も波動である
原子核は素粒子という微細なもので出来ており、更に微細なクオークに分割され、その素粒子レベルの物質は粒子という塊の性質よりは波として波動の性質をもっている。波動の塊が粒子と観測されるとも考えられており、基本は全て波動・振動であるということだろう。物質科学の先端といわれる「ヒモ理論」は、物質は全て微細な「ひも状」の何かが振動して出来ていると考える理論である。その「何か」とはエネルギーとも考えられる。それらはまさに弦の振動を彷彿とさせるものだ。
我々が生きていると認識しているこの世界は、結局は波動によって構成されているのだ。我々の認識する限りの種類の波動の間の共鳴、伝播、干渉等で出来上がっていると言っていいだろう。物質が硬いものだと感じるのは、その波動の塊どうしの振動数の違いと考えていい。扇風機のような高速回転(振動)しているものに手を差し出せば、その振動数の違いで弾かれてしまう。弾かれることは、反撥されることであり、そこに硬いものがあると感じることと同じである。みかんを手にしてそれに物質感をもつのは、組成の違いとか、質量があるとかいう説明よりも、その振動数による違いによる周波数ギャップとも言えるだろう。
●世界は波動・ホログラム
突き詰めて考えれば、我々が外界と感じている世界は無限ともいえる種類の波動の様々な周波数の違いで構成されているといえるのだ。外界の中にいると思っている、我々の表現形である肉体も、同じく物質とするならば、それもすべからく「波動」で出来ていることには違いはない。やわらかい、透明、硬質、不透明等というのも全て波動の振動数または粗密の違いにすぎないと考えていいだろう。
●三次元世界
我々の住むと感じている世界は、光・電磁波でその境界を創っているようだ。物質は光速の速度の限界を超えられないと言う相対性理論でその境界が生じるのだ。相対性理論では我々の認識する物質世界は「光」の速さを超えられないとされている。光が四方八方に伝播することで現れる世界は3次元的な立体的な視覚認識をもたらす。
我々の認識する世界を構成する「物質」が、究極は色々な周波数をもつ電磁エネルギーの塊であるとすれば、なるほど光(電磁波)は超えられないのは自明だろう。物質は元は光であり、光の振動数を様々な周波数に分かち、またその速度を落としている、または存在次元を降下させていると言う表現は、あながちいい加減な表現ではないだろう。
宇宙の辺境といわれる何十億光年先の銀河の映像も、五感情報の辺境といわれるものであり、その先には宇宙の存在は規定できないものと理解されている。見えないのだから確かにどうしようもない。これはいわば「肉眼」の限界なのである。光の速度の向こうまでは、我々の肉眼は追いつかないということだ。ハッブル望遠鏡は我々の肉眼の延長なのだ。
●三(四)次元を超えつつある今
ところが、昨今の素粒子の研究では素粒子の情報自体が、光速度を超えて伝播することがわかったようだ。簡単にいえば、素粒子の磁気スピン(回転)情報が、別の場所にある同じような素粒子の磁気スピン情報(回転)に、ほぼ瞬時に影響を伝達するというものだ。物質を構成する素粒子の磁気的回転(磁気モーメント)は、真空に渦を生起させると考えられ、その渦同士は相互作用を行なうという風にも考えられている。その相互作用の速度は光速の比ではなく、その10億倍という試算もあるようだ。ほぼ瞬時ともいえる相互作用である。
これらを説明する為には、何もないと思われていた「空・間」自体がその波動を生み出すと考えるしかないようだ。空間は空っぽどころか、光を含むあらゆる波動を生じせしめる母体そのものなのである。そう考えれば、遥か彼方の空間も、我々を取り巻く空間も全く同じ母体であることが理解出来るだろう。どこか遠くも、今ここも、空間であっては同質であり、遠い・近いは空間にとっては一所であるということだ。空(間)の変調波動が様々な物質形態を生ぜしめ、またその様々な形態は全てとの相互作用を維持しているといえるだろう。
まさに「色(現象)即是空」 「空即是色」なのである。
●肉体は万物と水面下でつながっている
我々という存在は、肉眼視できる範囲の波動の調和的な塊である「肉体」をもっている、あるいはその中にいる・・という風に理解しているに違いない。誰でも理解出来るところの肉体という個別の表現形態も、個別、別個と考えているが、実のところ、それは氷山の一角を観るごときものである。我々の信奉する物質自体も、我々の固定観念の水面下では瞬時の相互作用を行なっているごとく、全ては全てにつながっているのだ。
全てが個別でありながら、全てとつながっている認識を持つことで、否応となく現れる世界に気づくだろうか。ウソも隠しもだましも、それはつまらない子供だましと認識する世界である。
個別、分裂、二元性の観念世界から、全包容的な世界への認識の変換が意識の統合である。何をどう認識するのかどういう世界に顕現しているのか、全ては個々の気づきと意識の拡大に因っている。
●意識が「空」で紡ぎだす万象世界
万物全ては、どこにもある「空」から波動として紡ぎだされるものであり、その画き手は他ならぬ「意識」である。「意識」は物質を紡ぐ者であり、当然ながら物質形態をその内部に含む存在であり、また物質形態を含むあらゆるものを創造するものである。あなたやわたし達にある「意識」は、すなわち人間で言えば個性ある「こころ」のはたらきは、万象を現すところの根源たる「意識」と同質であり、その一部であり、またその一部であるあなたやわたし達という存在もホログラムのごとく、個別一片でありながら全体をも畳み込んでいる者である。
我々のこころは、全存在としては、全てに筒抜けでありながら「遍満する意識」は非難も中傷もしない。なぜなら、それらは様々な未知なるものから既知なるものへの探求過程から掘り出されるものだからだ。人間社会にあっては善悪、上下という価値観で色づけされる様々な体験も、すべからく「意識」の発見・創造した貴重な経験といえるのだ。
しかしながら何でも有りの混乱した草原から、それらを一大花畑に昇華する方向に進化・拡大してゆくのが人間という意識存在の歩く道であろう。今までの人類の様々な悲哀や喜び、光と影は、決して無駄にはならないのだ。遊びほうけることも、汚すことも、壊すことも、淋しい想いも、そして勇気ある行動も、全ては同質であり、それもこれも様々な知識や体験を生じせしめるところの「未知」のおかげであろうか。なるほどそのとおり、我々は「未知」への探求者なのかも知れない。
●愛とは全てを大切に想うこころ
何世、何生を経ても、いつも今あることに気づくことに、感謝する以外にどのようなことがあるのか?いつも万物の慈愛は注がれ、御膳立てはいつも整っているのだ。幸せも不幸も今、選択するのは自分であることに気づくならば、それに感謝しかないと思えないだろうか。
素粒子の振舞でも解るように、万物は万物と相互に繋がっている。人間的な言葉で言えば相互が相互に「大切に思っている」といえるだろう。
大切に思うこころは「愛」 ともいわれる。
その「愛」が現れたものが今の我々の「宇宙」なのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。