●人間体験=人の間
大勢の人々の中では、人と人との狭間で様々な想いや感情をいだくものだ。それがゆえに人生を悲観したり、あるいは喜んだりする場合もある。実に人の間での想いこそが我々の四六時中の体験そのものであると言っていいだろう。
しかしながら、そのような有態の中で、我々を時において不幸の底に突き落とす想いが生じるのは、決して他者の発言や行動そのものではなく、それに対する自己の想いなのである。また逆に我々を幸せと安寧の里に導くのも自己の想いである
。
●意識的・意識=目覚め
何をどう感じるかは我々の想い次第であることも事実なのだ。問題は実のところ、自己の想いの有り方にあることはもう既に理解出来ることだろう。
そのような現状の社会のなかで悠々とすごすには、先ず自らの想いを観ることができなければならないことは自明だろう。その想いや感情の中味を自ら自己吟味することが出来るようになれば、それは精神的な自由を獲得したということであり、意識的に自立出来たと言えるだろう。そうなれば、他者の言動に戦々恐々となったり、一喜一憂するようなことは少なくなるのだ。
●先ず観察すべきは自己の想いである
他者を観察してもその何たるかを変えるのは他者自身でしかありえない。自己の想いを差し置いて、他者の良い悪い思いを必要以上に追求・批判してもどうしようもないことではないか。批判や議論が何がしかのヒントを自己に与えるとしても、それは究極のあり方とは程遠い。自己を観ることが出来ない人間に他者をどうこうすることは出来ないことは火を見るより明らかなのだ。自己の面倒を見れない人間達が如何様にして他者への奉仕が可能であろうか。
全ての行動の因であるところの自己の想いに気づき、それをしっかり観ることが人にとって最重要なプロセスなのではないのか。イメージや発想をいかように多様に表現しえたとしても、その表現の在りかたを決めるところの自分の想いや感情を制御できない間は、現代文明のような、刺激に満ちてはいるがいつどうなるかも知れない無軌道な軌跡をえがく浮遊世界を創り続けるのだ。
●内観とは
ここでいう内観とは内なるこころの動きを観る行為である。内とは内面・こころの動きのことであり、自己自身の想いや感情のことである。肉体を構成する数十兆以上の細胞を見ることでもない。あなたの創り上げる心模様をあなたが自身が観ることなのだ。プラス思考でネガティブ思考を克服するという思考の技術は昨今浸透してきており、それは大変に素晴らしい意識進化のあり方であるが、その思考・想いの発する因たるこころのあり方をしっかりと把握する必要があるのだ。
往々にしてネガティブともいわれるこころの動きを観ることで光が当たる。光が当たればそれが露(あら)わになり、それはこころの影ではなくなるものだ。恐怖も不安もその出所に、意識の光が当たれば不明・不安の影が知識に変わり、もうそれには力などはないのが理解されてくるだろう。辛抱や我慢は、日常という与えられた生活体験のなかで、自己の内面を観ることの努力の途上で味わうものであり、外の世界から押し付けられるものではないのだ。
わたしは今怒りまくっている・・・のを観るわたしに気づいていること。
わたしは今嘆き悲しんでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。
わたしは今ずるく立ち回っている・・・のを観るわたしに気づいていること。
わたしは今ブルーなこころでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。
どのような場面でも、それに対峙し感情に呑み込まれずに、出来るだけその想いや感情を観ることが出来るならば、それはその感情を知るという高度な意識的行為を行なっていることになる。感情を理解するどころか、その奔流に流される火遊びで怪我をすることには、もうすでに十分気づいているはずなのだ。
想念・感情は御しがたい暴れ馬のごときものであるが、自己の想いや感情を自己自身で識(し)るならば、その暴れ馬のごときエネルギーは、天上、地上を自在に賭けるペガサスのごとき優美で自由なあり方を示してくれることに驚くに違いない。
自己の想いを無意識に垂れ流しせず、それが創造の奔流と悟り、少しづつ制御するのが我々のここでの人生の目的の1つであろう。そのためにこその、いまの世界、何でも有りの世界構造と思えないだろうか。まさに進化・発展途上の世界である。この地球も人存在もいつも可能性に満ちているのだ。
●他ではなく「我」のこころに対峙せよ
生起する想いや感情にすぐさま蓋をしないことが大切である。世間的な我慢や世慣れたごまかしをしないで、まずその有りのままを生起せしめ、それを観ることが実に重要なことなのだ。逆に、それらの想いや感情がわめき散らすのをしっかりと味わい、しっかりと受け止めることが出来れば、無軌道な言葉や行動に及ぶことがなくなるのだ。自己の感情のざわめきにパニックになるのはいつも一体誰なのか。
注目すべきは、彼らなりの発展途上を表現しているその他者の言動、社会の有り方のほうでなく、それらに対峙している自己の発する想いなのである。自分に意識を集めることが出来ないからこそ、自己以外の他者に意識がゆき、その言動に一喜一憂するような自縄自縛、外からの支配の罠に陥るのである。
自己の想いや感情、行動という自己にとっての全存在に対峙できず、自己以外の世界に批判と攻撃を与えることは日常茶飯事ではないだろうか。自己の肉体を維持しているのは命といわれる眼に見えないエネルギーであり、そのエネルギーの顕在化する鋳型が「想い」なのだ。その現実化の因たる「想い」を観ることで、顕在化され続けている外の世界の仕組みが理解出来るだろう。
●世界はあなたのこころの窓から観える景色
我々の体験とあわせて生じるところの想いや感情は、すぐさま再び拡大再生産のための鋳型になる。意識という宇宙に遍満する波動をこころで変調することで自己や周囲の世界が現れることに気づくことが、言葉を変えて言うところの意識次元の拡大となる。
外が変われば自己が変わるのではない。自己の想念は環境から生じるものではなく、環境にどういう風に対応するかという「想い」によって生じるものである。自然に満ちた世界を野卑で怖い世界と見るか、その美しい有り方に感動するかはそれぞれの想いによるのだ。
社会を汚濁に満ちたものと見るか、切磋琢磨の修行の場と見るか、全く異なった観点の位置に立つことになるだろう。ゴミと汚泥にまみれた世界と感じるか、更なる光を求めるた為のあり得ないほどに御膳立てされた世界と感じるか、その感じ方捉え方がそのまま世界という顕現へと変化してゆくことに気づくだろうか。
世界が汚濁で満ちているのは、どこかしらある我々の汚濁の想いの集積、観念という鋳型の歪を通して見ているいるからなのだ。
●自己を観る、思い切った勇気
自己のこころの歪を勇気をもって自由にさせ、開放させることが浄化へと繋がる。こころとは、想いや感情の集大成であり、その見えない鋳型のパターンから歪を取去ることが今求められているものだ。
そのためには、瞬間に発し続けるところの自己の想いを観る必要がある。それを観る、認めることでその歪は開放されてゆき、本然たるこころのあり方が現れてくるだろう。
●ハイアーセルフは大きなあなた自身である
考えてみれば、この地上の一般の社会において、我々という個を身体的なレベルで面倒見てくれた者は、両親以外にないだろう。親身に無条件に思いやりを与えてくれるのは、我々がこの世界を体験すべく、無意識のプロセスではありながらその門戸を開いてくれた両親以外にはないのだ。この地での体験の為の身体を構築するきっかけを与えてくれたのは両親であり、また、この地にその体験の花を咲かせようとしたのは、あなたの今の個我を含むところの魂なのだ。
我々の想いや感情を知ることで生じる意識の拡大に伴い、更に大きな自己が階層的な気づきをもって現れてくるようになるだろう。それを高次の自己、ハイアーセルフと呼んでいるのではないだろうか。小さな個我の自己をありのままに見ることが出来る視座にあるのが高次の自己というあなたである。
高次の自己、ハイアーセルフとは、子供のような今の個我を、大きな観点から観ている自己なのだ。それは夢幻の向こうにいる、よそよそしいわたしではなく、今ここに潜在するさらに大きなわたしのことなのだ。それはあらゆる可能性の波動に満ちた者、いわば確かに光の存在というべきものであろう。
●時空の本質は「今」ここにある
神なる根源は、物理宇宙または多次元ともいえる諸世界のどこかの「場所」に居るわけではなく、あなたやわたしの「内面」にいる本然のわたしのことである。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。