多くの人々は幼児期に幼稚園や保育園などに通った経験もあるでしょう。そこには様々な遊び場あります。ジャングルジム、砂場、積み木、絵本などでよく遊んだのではないでしょうか。もっとも遊びといえども、そのときには皆真剣に遊んだものです。
三角・四角・丸などの形をした積み木で仲良く遊んでいるお友達がいると思えば、積み木の1つを爆弾と称して、折角の積み木のお城を壊して顰蹙(ヒンシュク)をかう子もいます。おどけるつもりで年少さんを驚かせたり、泣かしたりして喜ぶ年長さんもいます。はたまた、おままごとに熱中して、癇癪起こして喧嘩している父母のまねをしている子供たち。
砂場では、山や城と称すもの一所懸命築き上げ、中には、何故か出来た後で一挙に地団太踏んで壊してみたり、はたまた砂場を掘って落とし穴を作り、お友達を誘い込んでは、それに嵌って、砂だらけになったお友達の顔を見て大喜びしたり、それが元で胸ぐらを掴みあうような喧嘩騒ぎになったりもします。
私たちは、そのような様々な真剣な遊びをしてきたものでしょう。
今のこの世界もその「型」は全く同じようなものかもしれません。幼児期の遊びからどうも逸脱などはしていないと考えても、決して的外れではないようです。 小難しき、より複雑な概念や理論を創り上げただけの大人の世界。 ある意味で、社会に氾濫する様々な物質形態やシステム、様々な法律なども、単に複雑になった「おもちゃ」や、その「オモチャ」の使いまわしの為のお友達同士間のルールのようです。
我々は、高度な「おもちゃ」を扱えるようになった、「大人の身体」と「幼児のこころ」を併せ持つ存在である・・といったら言いすぎでしょうか。「砂場」や「あそび場」が、小難しい「社会」になっただけのようだ・・と考えてもいいようです。
様々な物質レベルの扱いを、より高度に操作することを学ぶ事でその知識量や人脈等を価値判断としての、様々な権威・権力を作りだし、また常なき宿命である諸現象の単なるシルエットともいえる、架空の豊かさを追求しつづけ、計測可能な物量を、自ずからの身の周りに御殿のように築き上げることが「成功」である? といったような世相の観念体系は、もう十分にその幻想性を理解出来る人々も多いでしょう。
成功者、富者、権力者、フィクサーなるものに成り上がることが人生の成功である・・等とは、さすがにあからさまには誰も言わないものの、なんとなくそのような臭い・促しが社会の深層意識に、濁流のように流れていた事に気付くでしょうか。
この世界は、時を追うごとに、より複雑になり、更にバラエティーに富み、五感に刺激的なものが溢れてかえってきたのですが、それら外の世界の華やかさは、決してこころの平安をもたらすものではなかったのです。
子供時代は、無意識な行動が多いものの、天真爛漫を旨とするその有り様は、まさに黄金期でもあり、それなりにその時を真剣に遊べるからこそ、大人に至るための大いなる経験意味があるものです。幼年期といっても、程度が高いとか低いとか、良いとか悪いとかの問題ではなく、無限の生命プロセスのなかでの素晴らしい黄金期には違いないのです。あたかも、我々皆々、この愛すべき地球生命圏という遊び場の仲間同士なのです。
視点を変えれば、この世界の表面に生起する様々な出来事は、あたかも、楽しい幼稚園のなかでの、大勢のお友達の様々な遊び、幼児期の砂場や積み木やブランコでの遊びと、それほど変わっていないことがわかるかもしれません。これらの「遊び」は、外と見える世界の中での様々な経験を通して、自らの幸せを自ら創造することを学ぶプロセスとも言えるでしょう。
今、地球生命圏は、その「幼年期の終り」 というプロセスを、一気に通過しているものであり、様々なレベルでの変化が起きてきているようです。外に現われているように見える経済変動、気象変動、地球を取り巻く宇宙環境の変化は、なにか今までとは違う?・・という感覚を持つ人々も多いでしょう。また、それらが全て単に人為的であると思い込まそうするプロパガンダもありますが、1つ言えることは、個人個人の意識、またその集りである人類集合意識が、水面下では明確に、ある意識段階での「飽和」を経験しつつあるということでしょうか。誰しも注意深く観察するならば、自分の内の意識の変化がわかるでしょうし、また愛すべき、ごく身近な人々もその意識レベルが大きく変化しているのがよくわかるはずなのです。
そのような「意識変容」を促すような様々な情報や、形而下でのエネルギー等も内外から溢れてきているようです。一風変わった表現をすれば、それはあたかも、我々を愛してやまない大いなる根源からの眼差しであり、父兄たちの心づかいのようであり、父母の愛のようであり、先輩たる諸先生方の思いやりのようであり、はたまた、創造の根源より現われ出でたところの、我々と同じ大いなる「魂の分け御霊(わけみたま)」 たちの暖かすぎる応援のようでもあります。
例えて言えば、今の時期は、あたかも悠久の時間の遊びの中で定期的に行なわれる「大運動会」のようであり、お遊戯発表会のようでもあり、いつもながらその桟敷には、子供達の成長を願ってやまない様々な家族が詰め掛けているものです。
一般的に言って、「飽和」の次には、大なり小なりの相変移、量子励起ジャンプ、カタストロフィー、脱皮、解脱、ステップアップというイメージで説明できそうな 「非連続な変化」 が起きるであろうと考えられます。人類の歴史において、何事においても今ほど加速された変化のある時代はないような見識をもたれている人々も多いと思われます。またその中に埋没していることで、変化も何も気付かぬ人々も多いでしょう。
また往々にして、人間の意識の変容過程は感情の放出を伴うものであり、一見不安定に見える様々な感情変化は、内面の経験や気付きを整理整頓している、無意識レベルの意識活動でもあるのでしょう。同じく地球という意識レベルでも「感情の放出」とも言える、自然界の大きな変化もあるでしょう。
個々の存在のこころ(意識の働き)は、地球とも宇宙ともつながっているものであり、各自のこころ模様が、できるだけ平安で美しく、また暖かいものであれば、その個々を取り巻く世界もまさにそのようであるのです。常に我々は「信念」、言いかえれば、その段階段階において、「真実そうだ・・と実感できる意識状態」 を外に投影している存在です。
そんなことある分けないじゃないか・・とも思いやすい、一見非常にわかりにくい概念ですが、これが例外の入る余地のない「存在原理」「創造原理」でもあろうことは、今のいま、我々の目の前に在る世界の有り様そのものが示しているのです。
汝が信じるごとく汝になる・・・という言葉は、例外のない「存在原理」であればこそ、外の世界の変幻を見て大騒ぎする必要もなく、それを観ている各人の「こころのスクリーン」こそを清らかにすべきものでしょう。外の世界を映し出すのは、我々皆々にあるところの、「こころのスクリーン」でしかないのですから。
わたしたちは何者か? 生と死とは、 生命とは、 世界とはなにか?
今無意識から目覚め、たとえ真実の一端であっても、それを「知る」べきときが来ているようです。無意識に遊ぶ幼年期の終わりには、古いオモチャはそれぞれのこころの小箱にしまうことが必要でしょうか。それこそ、古い遊びに飽きるということは、まさに「飽和」することであり、一段と認識レベルが広がる為のエネルギーが満ちたということもいえるでしょう。
本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。
昨日最後の記事を書きました^^
明日見てくださいね。
ありがとうございました。
また どこかで^^
アスタマニャーニャ[E:scissors]
もう既に新しい素晴らしい記事を見させていただいているようです。
「洋上の光溢れる世界に、ようこそ」
形式ばらずともともよいでしょうね。
気楽が一番。
いつも本当にありがとうございますね。[E:sun]
遊べや遊べ 親のないすずめ
・・・という歌
歌を詠ってる人がちゃんと「居る」のですね
タイトルに とてもじーん、ときました。。
ありがとうございます
幼稚園、・・・泥団子作り得意でしたー
ようこそ、こんな峠まで、ありがとうございます。
温めの玄米茶でございますが・・・(笑)
色々なことがありますが、全て良きことばかりですね。
時間のズレ、チョッとした遊びが、
その経験の色と濃淡を創ってくれますね。
(流れる文章も可能・・誰にもですよね(・□<)・・・変な顔文字・・すいません)
また気が向いた時に、いつでも気楽にお越しくださいませ。
せんぱい![E:sun]