別に宗教とは関係がないが、人とは何か・・と言えば、それは三位一体の存在とも言って良いだろう。
ここでの三位とは
<身体・肉体>と、
<こころ・マインド>と、
そして
<魂・霊>等と言われるものだ。
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簡単に言うならば、
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
そして、
「肉体」と「こころ」を観ているのが、実は「魂」だということだ。
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人は、自分の肉体の他に、自分の「こころ」が観えているだろうか。
「こころ」が観えなければ、後ろの正面の「魂」である自己に気付けない。
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昔から禅の修業やら、瞑想やらは、そういう「こころ」を俯瞰する位置まで昇るためのものだ。
「肉体」も、そして「こころ」も、それを対象として観えるというか、意識の視点が広がるというか、
そういう意識的次元の上昇とでもいうべきものである。
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そうすると、目の前のコーヒーカップが自分そのものではないように、
<肉体>も対象、そして<こころ>も、あくまでも「対象」であって、
自分の<本質>ではないということが『解る』(わかる)ということである。
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この『解る』ということは、究極は、体感でも思考による想像でもないため、
自らが会得というか、感じるというか、それがまさにそうである・・というしかない。
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あるいは目の前にあったベール、塀が解かれると言う方が解りやすいかもしれない。
眼から鱗が落ちる、あるいはこころのかさぶたが剥がれ落ちるとでも言えるだろうか。
余計なものが無くなるだけのことである。
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余計なものとは、身に沁みついた、こころに刷り込まれた、低いレベルの重たい観念なのだ。
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昔から続いている技法、禅や瞑想などによって、肉体とこころを静かに見渡せる意識へと自らを広げること、
そういう意識レベルというか、視座というか、そういう大きく見渡せる、いや、観ずることに親しむならば、
自分の本質ではない肉体や、その環境、あるいは想いや感情に重きを置かなくなるがゆえに、
肉体や環境、物質的事象等に必死になることも、
想いや思想の良し悪しや、感情のとげに嘆くことも、
快楽に酔っ払って、苦痛に顔をゆがませて、分けが分らなくなることも少なくなるのである。
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「それで、それが何の役に立つのか? いくらの銭になるのか?ローンを返せるの?」
そういう、目先だけのプラグマティズムで培われた<こころの癖>も、ぶり返さなくなるだろう。
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尚更、マインド、こころが創り上げる、ウソや騙しに会う事も少なくなるだろう。
なぜならば、既に・・・そのこころ・・が観えるからである。
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我々の共有する世界、この世界が嘘や騙しに満ちていたのは、
肉体や物体は見えているが、それを見ている自己に生起する想念・こころが観えていないため、
他者のこころがどうあるのかも、皆目見えていなかったからだ。
そうではないか。
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人間は三位一体というのは言い得て妙である。
どこかの宗教でいう、神と子と聖霊という表現は、ある意味で、魂と肉体と精神と言って良いかもしれない。
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あるいはその構図とは、
「魂・意識」の<内側に>、「こころ・想念」が起きていて、
さらに、その「こころ」の<内側>に身体が投影されているとも言えようか。
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またここで言う内側、外側とは、
普段イメージしている物や空間、そのあちらやこちらというものではなく、
例えば、高い周波数は低い周波数を当然・・含んでいる、と・・
あるいは、高次元が低次元をふくんでいるという、そういう風なものである。
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低い周波数は、高い周波数をそのままで作ることは出来ない。
低い周波数域では、高い周波数域を見ることが出来ない。
TVやラジオ、携帯端末で使われる電磁波通信でも同じ仕組みだ。
また、粗い角材ではそのままで精妙な芸術品は作れないようなものだ。
ド・とファ・の音だけでは、格調ある音楽は作れない。
逆に、高い周波数では、低い周波数までも作ることが出来るだろう。
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肉体と想念と魂・意識の違い、
ある意味で、それは渾然一体となった、次元の違いと言うしかない。
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例えば、あなたの頭に去来する「想念」は、言わば高次元的波動と言えよう。
次元が違うから肉眼じゃ見えない・・・、そういうことだ。
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しかしながら、イメージや想像が出来ているということは、
あなたはここに居ながら、その次元にも意識的にアクセス、同調していることを示している。
またその次元では、
人々の想念は、個々の自分の想念と同じ出どころのそれ、であることが解るようになるだろう。
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よく言われるテレパシーなども、SFや絵空事でもなく、そういう次元域での同調によるのだ。
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何故なら、宇宙の構図では、
全ては全体の「部分」でありながら、「部分」には全体が潜在しているからだ。
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部分から全体へとその<意識>が次第に広がるならば、全包容的意識においては、
部分も全体もなくなるのである。
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ワンネスという意味は、そういう意味。
部分はまた部分であり、かつ全体なのである。
一は すなわち 多なり・・。
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誰にも、どこにもある、何にでもある「意識」・・というしかないそれで、
全てが満ち満ちているということだ。
そしてまた、それは「空」(くう)として在るように観える。
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それぞれの人間での、その在り方を簡単に言うならば、
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
そして、「こころ」を観ているのが、「魂・意識」ということだ。
魂・意識とは、全体即ちまた、部分としてあるところの・・わたし・・のことである。
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人は自分の「こころ」が観えているだろうか。
今までのように、肉体や物、環境ばかりが見えているならば、それは十分とは言えない。
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こころの動きが観(み)えなければ、その動きの背後にある「魂」である自己に気付けない。
そう・・・、後ろの正面はどうやっても見えないもの、単なる肉眼では「見えない」ということだ。
だから、その仕組みの背後、あるいは広い視座に上る必要があるのである。
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映画のスクリーンは、背後から光で照らされているから、それが見えるのである。
世界とは、そういう仕組みのことである。
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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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