気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人とは何か :三位一体

2014-11-01 23:14:10 | 見えないものから見えるものへ

   
別に宗教とは関係がないが、人とは何か・・と言えば、それは三位一体の存在とも言って良いだろう。
  
ここでの三位とは
 
<身体・肉体>と、
 
<こころ・マインド>と、
 
そして
 
<魂・霊>等と言われるものだ。
 
・・・
 
簡単に言うならば、
 
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
 
そして、
 
「肉体」と「こころ」を観ているのが、実は「魂」だということだ。
 
・・・
  
人は、自分の肉体の他に、自分の「こころ」が観えているだろうか。
 
「こころ」が観えなければ、後ろの正面の「魂」である自己に気付けない。
 
・・・
 
昔から禅の修業やら、瞑想やらは、そういう「こころ」を俯瞰する位置まで昇るためのものだ。
 
「肉体」も、そして「こころ」も、それを対象として観えるというか、意識の視点が広がるというか、
 
そういう意識的次元の上昇とでもいうべきものである。
 
・・・ 

そうすると、目の前のコーヒーカップが自分そのものではないように、
  
<肉体>も対象、そして<こころ>も、あくまでも「対象」であって、
 
自分の<本質>ではないということが『解る』(わかる)ということである。
 
・・・
 
この『解る』ということは、究極は、体感でも思考による想像でもないため、
 
自らが会得というか、感じるというか、それがまさにそうである・・というしかない。
 
・・・
  
あるいは目の前にあったベール、塀が解かれると言う方が解りやすいかもしれない。

眼から鱗が落ちる、あるいはこころのかさぶたが剥がれ落ちるとでも言えるだろうか。
 
余計なものが無くなるだけのことである。
 
・・・
余計なものとは、身に沁みついた、こころに刷り込まれた、低いレベルの重たい観念なのだ。
 
---
 
昔から続いている技法、禅や瞑想などによって、肉体とこころを静かに見渡せる意識へと自らを広げること、
 
そういう意識レベルというか、視座というか、そういう大きく見渡せる、いや、観ずることに親しむならば、
 
自分の本質ではない肉体や、その環境、あるいは想いや感情に重きを置かなくなるがゆえに、
 
肉体や環境、物質的事象等に必死になることも、
 
想いや思想の良し悪しや、感情のとげに嘆くことも、
 
快楽に酔っ払って、苦痛に顔をゆがませて、分けが分らなくなることも少なくなるのである。
・・・ 
 
「それで、それが何の役に立つのか? いくらの銭になるのか?ローンを返せるの?」
 
そういう、目先だけのプラグマティズムで培われた<こころの癖>も、ぶり返さなくなるだろう。
 
・・・
 
尚更、マインド、こころが創り上げる、ウソや騙しに会う事も少なくなるだろう。
 
なぜならば、既に・・・そのこころ・・が観えるからである。
 
・・・
 
我々の共有する世界、この世界が嘘や騙しに満ちていたのは、
 
肉体や物体は見えているが、それを見ている自己に生起する想念・こころが観えていないため、
 
他者のこころがどうあるのかも、皆目見えていなかったからだ。 
 
そうではないか。
 
・・・
 
人間は三位一体というのは言い得て妙である。
 
どこかの宗教でいう、神と子と聖霊という表現は、ある意味で、魂と肉体と精神と言って良いかもしれない。
 
・・・  
あるいはその構図とは、
 
「魂・意識」の<内側に>、「こころ・想念」が起きていて、
 
さらに、その「こころ」の<内側>に身体が投影されているとも言えようか。

 
・・・
またここで言う内側、外側とは、
 
普段イメージしている物や空間、そのあちらやこちらというものではなく、
  
例えば、高い周波数は低い周波数を当然・・含んでいる、と・・
 
あるいは、高次元が低次元をふくんでいるという、そういう風なものである。
 
・・・
 
低い周波数は、高い周波数をそのままで作ることは出来ない。
 
低い周波数域では、高い周波数域を見ることが出来ない。
 
TVやラジオ、携帯端末で使われる電磁波通信でも同じ仕組みだ。
 
また、粗い角材ではそのままで精妙な芸術品は作れないようなものだ。
 
ド・とファ・の音だけでは、格調ある音楽は作れない。
 
逆に、高い周波数では、低い周波数までも作ることが出来るだろう。
 
・・・
 
肉体と想念と魂・意識の違い、
 
ある意味で、それは渾然一体となった、次元の違いと言うしかない。
・・・
 
例えば、あなたの頭に去来する「想念」は、言わば高次元的波動と言えよう。
 
次元が違うから肉眼じゃ見えない・・・、そういうことだ。
 
・・・
しかしながら、イメージや想像が出来ているということは、
 
あなたはここに居ながら、その次元にも意識的にアクセス、同調していることを示している。
 
またその次元では、
 
人々の想念は、個々の自分の想念と同じ出どころのそれ、であることが解るようになるだろう。
・・・
  
よく言われるテレパシーなども、SFや絵空事でもなく、そういう次元域での同調によるのだ。
 
・・・
何故なら、宇宙の構図では、
 
全ては全体の「部分」でありながら、「部分」には全体が潜在しているからだ。
 
・・・
部分から全体へとその<意識>が次第に広がるならば、全包容的意識においては、
 
部分も全体もなくなるのである。
・・ 
 
ワンネスという意味は、そういう意味。
 
部分はまた部分であり、かつ全体なのである。
 
一は すなわち 多なり・・。
・・・ 
誰にも、どこにもある、何にでもある「意識」・・というしかないそれで、
 
全てが満ち満ちているということだ。
 
そしてまた、それは「空」(くう)として在るように観える。
  
・・・

それぞれの人間での、その在り方を簡単に言うならば、
 
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
 
そして、「こころ」を観ているのが、「魂・意識」ということだ。
 
魂・意識とは、全体即ちまた、部分としてあるところの・・わたし・・のことである。
 
・・・ 
 
人は自分の「こころ」が観えているだろうか。
 
今までのように、肉体や物、環境ばかりが見えているならば、それは十分とは言えない。
・・・
  
こころの動きが観(み)えなければ、その動きの背後にある「魂」である自己に気付けない。
 
そう・・・、後ろの正面はどうやっても見えないもの、単なる肉眼では「見えない」ということだ。
 
だから、その仕組みの背後、あるいは広い視座に上る必要があるのである。
・・・
 
映画のスクリーンは、背後から光で照らされているから、それが見えるのである。
 
世界とは、そういう仕組みのことである。

・・・
 

 
・・
 
 
 
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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