気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)の話 

2017-12-20 06:58:44 | 真我実現シリーズ
先記事で巻末に添付した内容の補足。
これは有り難いことに、大学の集中講義の資料らしく、
世界の色即是空の真実を、現代的に裏付けることが出来るだろう。

悲しいかな、権威筋の話を聞くように躾けられた現代人も、
わたしは常識しか信じない・・という人も、
物質だけが実在するものだという、
幻想の世界には、いつまでも浸っていられないだろう。
いや、言い換えるならば、
我々とは・・それら幻想を観察しているもの・・と言うことが出来よう。
またそれに対して生じる2次的な想念の質が問題ということなのだ。

問題だ・・問題だ・・という「想念」こそが、問題なのである。
不安で恐ろしい映画ばかりなんか、実につまらないではないか?
観るものが・・どう感じるかは、観る側の「問題」でしかない。


幻想で命をかけ、幻想で地獄の観念を造り、幻想で富をあさり、
幻想で人々を虐げ、幻想で恐れおののく・・・

それは映画を現実と勘違いし、それをまともに見れない幼児のようなものだ。

ちなみに、私は幼少期の頃、親父に怪談映画に連れてゆかれたが、
そのおどろしい映像に怖れおののき、まともに見ることが出来ず、
前の観客椅子の背もたれに、必死になって隠れていたものだった(苦笑)。

・・・・
我々の周りにあるのは「空間」といわれるものだ。
その中にすべてが存在する。・・
いや存在すると・・観察している。

あなたのまわりの・・右も、左も、近くも遠くもすべて空間である。
というか、我々そのものが・・空間であることに気づけるだろう。
何度も言うが、原子核の物質密度は・・ほとんどゼロ、10の-15乗程度だ。



このようなモデルをよく見るが、実際には原子核と電子の間は相当に離れている。
原子核がバレーボール大ならば、さらに小さい電子は数十キロ先を回っているとされている。
そんなの描けないからこんな絵になっているわけだ。



スカスカとよく言われるが、人々はあまりにも常識的観念にくぎ付けされているため、
こんな視点などほとんど持っていないだろう。

そんなことより、「お金が欲しい」であり、
延々と「目先の問題を片づけなければ・・」であり、
「そうは言うけど、で、何の役に立つの?」で終わってしまう。

なるほど、延々と役に立つことばかりを教えられ、
それら枝葉観念ばかりを仕込まれて、それだけが常識と想い、
真実が覆い隠されていた中で・・健気に生きてきたのかもしれない。

しかしながら、健気でまじめであればいいという事でもない。

TV、ラジオ、ネット、メディアも・・未だに繰り返し繰り返し、
ほんの少しの事実を別物に味付けしつつ。
尤もらしい嘘を流し続けている・・ことにも、気付いていないのかもしれない。

人々は、これらの膨大な枝葉の観念、快楽と苦痛という飴と鞭の狭間で、
長い長い幻想で出来た「現実という夢」を観ていたのである。

その夢から目覚めることが・・覚醒・・悟りと言われるもの、
欧米流の流行り言葉で言えばアセンション等と言われるものだ。

・・・

科学でも日常でも空間という言葉は使われているが、
これが何なのか?分かっていなかった。

我々の物質形の肉体も、木も岩も山も、川もあらゆる形は、
その空間の中に存在している・・と観察される。

人や動物が空間を歩くなり、走るなりして移動するわけだが、
それはどうして可能なのか?と言えば、

「それは筋肉で足を動かして、こうしてああして移動するのだ」
「重力や摩擦に打ち勝って、筋肉で移動しているんだよ」
と、いうだろうが、

実際には、身の回りの空間が・・・空(くう)であるからなのだ。
空間、間の空(くう)、空っぽ・・であるから、
その空の間を移動できるのである。

水に満たされたプールで移動しようとすると、なかなか難しいのは、
プールの中に水の分子がひしめき合っているからだということは、
誰でも知っているものだ。

空間は、その間には”何もない”ため・・摩擦抵抗なく移動が可能なのである。

完全に分子などのない空間を「真空」と言っているが、
実際には・・真空・・何もない、
あるいはそれゆえ、どこか怖いはずの空(くう)は、

すべての存在の、エネルギーの生じる場であったという、
そういう科学的認識に至ったということである。

あるいは、・・・
空間においての物の移動とは・・・移動ではなく、まるでパラパラ漫画の連続動画のように、
存在の・・出現消滅の繰り返し転移・・とも言えよう。
・・理解可能だろうか?

物質偏重の色濃い、西洋式の思考を元にした探求で、
物質なるものを、観察可能な限度まで分解していったところ、
そこにはエネルギーなる微小の振動があった。
微細な原子まで観察してゆくと、動き回る何かが有った、
それは回転振動しているエネルギーとも言われるものだった。

原子、電子、更に微小なクオークはジッとした粒子というものではなく、
そのような形にも現れてくる、エネルギー振動・波動のように観察されるのである。

そして、その微細なエネルギーは空間から生じ、空間へと消え去っている。
エネルギーの生成、消滅を、直観力のある人は、
それを”揺らぎ”というイメージで感じているかもしれない。

⊿E×⊿t>=h/π と描くが、(E:エネルギー、t:時間、h:プランク定数)
hは・・・6.626070040(81)×10−34 J s とされる。要は極めて小さいということ。
これを現代科学からいうならば、時空間の最小画素?ともいえるかもしれない。



空(くう)に、エネルギーの微小な波高が出現し、消滅することを示す絵。
これは何か他所事ではなく、我々の身体含む、時空そのものであることを示しているのだ。


微小なエネルギーが微小な時間内で出現可能、あるいは出没しているということを示し、
つまり真空は・・空っぽではなく、微細エネルギーで充満しているともいえるのだ。
さらに言えば、

宇宙、時空・・全ては、空なるスクリーンに描かれたエネルギー描画等とも言えようし、
人であること、意識ある存在は、それを観察、認識する者であるともいえよう。

世界を知覚し、認識する、意識する、気づいているのが・・わたし・・である。、
創造を観察、認識するのが・・わたし・・という認識主体である。

その・・わたしは・・何か?
この問いかけこそが、第一に重要と思えないか?




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