人々が世界や世間、社会で教わるのは、主に、
いかに生きてゆくか、いかに有利に、安楽に生きていくか、
いかに快楽、心地よさを求めてゆくか、・・・
当然ながら、社会という限られた自由の中で、
経済社会で競争しつつも、いかに秩序正しく生きてゆくか・・、
学校でもメディアでもそういう類のことをアピールしている。
国語、算数、理科、社会、数学、論理学、・・
それらはすべて生きてゆくための知的ツールなのである。
さらに自分の有利な状況を求め、様々な世界情報を集めることも行われるわけだ。
仕事のこと専門分野の情報、世界の情報など含めて、
それらを多く獲得したものが、権威となり、
自他ともに認める知的エリート呼ばれることになる。
しかしながら、それらすべてどんな知的情報も、
この世界という時空間で生きるための、外側の情報なのである。
つまりそれら情報を集め蓄積している<当の本人>というか、
<わたし>という主体が、全くおざなりになっているということなのである。
自分のことは全く探求せず、外側の世界、現象の世界のことばかりを
追い回しているということなのだ。
それは原点のない座標軸のようなもの・・、
基本を押さえずして、いきなり応用ばかりチャレンジするようなもの、
鏡に映った自分の姿を見て、そこに・・そう、鏡の中にこそ・・
自分がいると考えているようなもの。
こちら側にいる自分を全く無視し、自分とはあちら側にいると考え、
鏡に映った気に入らない自分の鏡像を、爪でカシカシかきむしるようなもの。
(これなど、じつに不快な感触だ・・笑)
・・・
自己とは何か?私とは何か?
自分が生きているからこそ、この世界を体験している・・その私・・
限られた人生としっていながら、ただ一時だけの外の世界と知っていながら、
私が生まれなければ、今ここにいなければ、
生まれてからの人生経験なども有り得ないにもかかわらず、
その原点たる自分のことを全く探求などすることなく、
無知に沈んだような、大勢人々の実に活発な動きばかりを追まわし、
安楽と苦痛のはざまを体験することが人生だったかもしれない。
、
そして、その中から、これは全くおかしなことだと・・・
・・心底・・気づく時にいたるまで、
生まれては死に、また死んでは生まれるということを、
余計なお世話だが・・、あなたは繰り返してきたのだ。
そしてそれ自体に無意識であったのだ。
それ自体に無意識であるからには、
無意識的に生まれ、無意識的に死んでゆくそれを「輪廻転生」という。
くるくる回る輪の中に・・閉じ込められ、
その中がすべてであるような意識のままでいた。
くるくる回る洗濯機の中の洗い物のようでもあった(笑)。
人間の無数の個体の集合の中で、
出ては没し、没しては出るような、
まるで海に漂う浮き草のように、何回も、何十回も、何百回も、
この世を味わってきたということだ。
自分は何?ここはどこ?
そういう<本質的な自問自答>が生まれるまで、
様々な世間や社会、世界での苦痛や、時折の快楽のはざまで、
無限の作り出す波動サイクルを味わうことができたということだ。
それって、生活の糧になるのか?
何の得になるのか?・・と世間では笑われるような、質問、
そもそも・・わたしとは何か?
そういう自分への問かけに、
行きつくことが・・今・・最も重要なタスクである。
社会、仕事や家族、上司部下、ご近所、親子関係、人間関係などは、
あくまでもこの世界の属性であり、
決してそれらにとらわれず、その中に埋没した自分という個体意識から、
自らを自らで抽出・・客観視しなければならないのだ。
(一休禅師自画像)
現象世界のすべてを客観視しようとするように、
それらを観ている・・主たる原因としての<わたし>に目覚めるのである。
少なからぬ人々が、いまもう・・この世界で目覚め初めている。
この世界という、リアルな幻想世界からの目覚め・・・
1つのカテゴリーでの現象世界、
あるいは例えれば、1つの学年からの進級のようなもの。
非常に微妙で気づかないかもしれないが、
そのふるい落としが進行している・・そういう時代だ。
一部欧米から流行ってきたアセンション、
あるいは非二元というワンネスの概念も、
つまりは、
肉体の自己から、普遍的な自己への<目覚め>のことである。
そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならないのだ。
そのポイントが「わたし・・とは・・何か」という、
わたしへの・・問いかけなのである。
これは、
勇気ある魂が、体験次元の底に到達した暁に、
再び浮上するための意識的なツールともいえようか。
今はもう、急速に変化が起き、乱れ始めた世界に気づける人々は、
古い世界がはっきりと終わってしまう、その前に、
今がその時だと気づけるだろう。
洗濯機の中の洗い物のようだった?それぞれのわたしが、
無意識に浮き沈みを繰り返すような、
そんな輪廻転生からの解脱の時が来たのである。
そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならない。
そもそも、世界や現象を観ているところの、
すべての・・・原点である・・
わたしとは・・何か?
いかに生きてゆくか、いかに有利に、安楽に生きていくか、
いかに快楽、心地よさを求めてゆくか、・・・
当然ながら、社会という限られた自由の中で、
経済社会で競争しつつも、いかに秩序正しく生きてゆくか・・、
学校でもメディアでもそういう類のことをアピールしている。
国語、算数、理科、社会、数学、論理学、・・
それらはすべて生きてゆくための知的ツールなのである。
さらに自分の有利な状況を求め、様々な世界情報を集めることも行われるわけだ。
仕事のこと専門分野の情報、世界の情報など含めて、
それらを多く獲得したものが、権威となり、
自他ともに認める知的エリート呼ばれることになる。
しかしながら、それらすべてどんな知的情報も、
この世界という時空間で生きるための、外側の情報なのである。
つまりそれら情報を集め蓄積している<当の本人>というか、
<わたし>という主体が、全くおざなりになっているということなのである。
自分のことは全く探求せず、外側の世界、現象の世界のことばかりを
追い回しているということなのだ。
それは原点のない座標軸のようなもの・・、
基本を押さえずして、いきなり応用ばかりチャレンジするようなもの、
鏡に映った自分の姿を見て、そこに・・そう、鏡の中にこそ・・
自分がいると考えているようなもの。
こちら側にいる自分を全く無視し、自分とはあちら側にいると考え、
鏡に映った気に入らない自分の鏡像を、爪でカシカシかきむしるようなもの。
(これなど、じつに不快な感触だ・・笑)
・・・
自己とは何か?私とは何か?
自分が生きているからこそ、この世界を体験している・・その私・・
限られた人生としっていながら、ただ一時だけの外の世界と知っていながら、
私が生まれなければ、今ここにいなければ、
生まれてからの人生経験なども有り得ないにもかかわらず、
その原点たる自分のことを全く探求などすることなく、
無知に沈んだような、大勢人々の実に活発な動きばかりを追まわし、
安楽と苦痛のはざまを体験することが人生だったかもしれない。
、
そして、その中から、これは全くおかしなことだと・・・
・・心底・・気づく時にいたるまで、
生まれては死に、また死んでは生まれるということを、
余計なお世話だが・・、あなたは繰り返してきたのだ。
そしてそれ自体に無意識であったのだ。
それ自体に無意識であるからには、
無意識的に生まれ、無意識的に死んでゆくそれを「輪廻転生」という。
くるくる回る輪の中に・・閉じ込められ、
その中がすべてであるような意識のままでいた。
くるくる回る洗濯機の中の洗い物のようでもあった(笑)。
人間の無数の個体の集合の中で、
出ては没し、没しては出るような、
まるで海に漂う浮き草のように、何回も、何十回も、何百回も、
この世を味わってきたということだ。
自分は何?ここはどこ?
そういう<本質的な自問自答>が生まれるまで、
様々な世間や社会、世界での苦痛や、時折の快楽のはざまで、
無限の作り出す波動サイクルを味わうことができたということだ。
それって、生活の糧になるのか?
何の得になるのか?・・と世間では笑われるような、質問、
そもそも・・わたしとは何か?
そういう自分への問かけに、
行きつくことが・・今・・最も重要なタスクである。
社会、仕事や家族、上司部下、ご近所、親子関係、人間関係などは、
あくまでもこの世界の属性であり、
決してそれらにとらわれず、その中に埋没した自分という個体意識から、
自らを自らで抽出・・客観視しなければならないのだ。
(一休禅師自画像)
現象世界のすべてを客観視しようとするように、
それらを観ている・・主たる原因としての<わたし>に目覚めるのである。
少なからぬ人々が、いまもう・・この世界で目覚め初めている。
この世界という、リアルな幻想世界からの目覚め・・・
1つのカテゴリーでの現象世界、
あるいは例えれば、1つの学年からの進級のようなもの。
非常に微妙で気づかないかもしれないが、
そのふるい落としが進行している・・そういう時代だ。
一部欧米から流行ってきたアセンション、
あるいは非二元というワンネスの概念も、
つまりは、
肉体の自己から、普遍的な自己への<目覚め>のことである。
そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならないのだ。
そのポイントが「わたし・・とは・・何か」という、
わたしへの・・問いかけなのである。
これは、
勇気ある魂が、体験次元の底に到達した暁に、
再び浮上するための意識的なツールともいえようか。
今はもう、急速に変化が起き、乱れ始めた世界に気づける人々は、
古い世界がはっきりと終わってしまう、その前に、
今がその時だと気づけるだろう。
洗濯機の中の洗い物のようだった?それぞれのわたしが、
無意識に浮き沈みを繰り返すような、
そんな輪廻転生からの解脱の時が来たのである。
そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならない。
そもそも、世界や現象を観ているところの、
すべての・・・原点である・・
わたしとは・・何か?
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