気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(3)まず<私>に戻ること

2017-03-26 05:35:08 | 意識の拡大
人々が世界や世間、社会で教わるのは、主に、
いかに生きてゆくか、いかに有利に、安楽に生きていくか、
いかに快楽、心地よさを求めてゆくか、・・・

当然ながら、社会という限られた自由の中で、
経済社会で競争しつつも、いかに秩序正しく生きてゆくか・・、
学校でもメディアでもそういう類のことをアピールしている。
国語、算数、理科、社会、数学、論理学、・・

それらはすべて生きてゆくための知的ツールなのである。
さらに自分の有利な状況を求め、様々な世界情報を集めることも行われるわけだ。
仕事のこと専門分野の情報、世界の情報など含めて、
それらを多く獲得したものが、権威となり、
自他ともに認める知的エリート呼ばれることになる。

しかしながら、それらすべてどんな知的情報も、
この世界という時空間で生きるための、外側の情報なのである。

つまりそれら情報を集め蓄積している<当の本人>というか、
<わたし>という主体が、全くおざなりになっているということなのである。
自分のことは全く探求せず、外側の世界、現象の世界のことばかりを
追い回しているということなのだ。

それは原点のない座標軸のようなもの・・、
基本を押さえずして、いきなり応用ばかりチャレンジするようなもの、
鏡に映った自分の姿を見て、そこに・・そう、鏡の中にこそ・・
自分がいると考えているようなもの。
こちら側にいる自分を全く無視し、自分とはあちら側にいると考え、
鏡に映った気に入らない自分の鏡像を、爪でカシカシかきむしるようなもの。
(これなど、じつに不快な感触だ・・笑)
・・・
自己とは何か?私とは何か?
自分が生きているからこそ、この世界を体験している・・その私・・
限られた人生としっていながら、ただ一時だけの外の世界と知っていながら、
私が生まれなければ、今ここにいなければ、
生まれてからの人生経験なども有り得ないにもかかわらず、
その原点たる自分のことを全く探求などすることなく、
無知に沈んだような、大勢人々の実に活発な動きばかりを追まわし、
安楽と苦痛のはざまを体験することが人生だったかもしれない。

そして、その中から、これは全くおかしなことだと・・・
・・心底・・気づく時にいたるまで、
生まれては死に、また死んでは生まれるということを、
余計なお世話だが・・、あなたは繰り返してきたのだ。

そしてそれ自体に無意識であったのだ。
それ自体に無意識であるからには、
無意識的に生まれ、無意識的に死んでゆくそれを「輪廻転生」という。

くるくる回る輪の中に・・閉じ込められ、
その中がすべてであるような意識のままでいた。
くるくる回る洗濯機の中の洗い物のようでもあった(笑)。

人間の無数の個体の集合の中で、
出ては没し、没しては出るような、
まるで海に漂う浮き草のように、何回も、何十回も、何百回も、
この世を味わってきたということだ。



自分は何?ここはどこ?
そういう<本質的な自問自答>が生まれるまで、
様々な世間や社会、世界での苦痛や、時折の快楽のはざまで、
無限の作り出す波動サイクルを味わうことができたということだ。

それって、生活の糧になるのか?
何の得になるのか?・・と世間では笑われるような、質問、

そもそも・・わたしとは何か?
そういう自分への問かけに、
行きつくことが・・今・・最も重要なタスクである。
社会、仕事や家族、上司部下、ご近所、親子関係、人間関係などは、
あくまでもこの世界の属性であり、
決してそれらにとらわれず、その中に埋没した自分という個体意識から、
自らを自らで抽出・・客観視しなければならないのだ。


  (一休禅師自画像)

現象世界のすべてを客観視しようとするように、
それらを観ている・・主たる原因としての<わたし>に目覚めるのである。

少なからぬ人々が、いまもう・・この世界で目覚め初めている。
この世界という、リアルな幻想世界からの目覚め・・・
1つのカテゴリーでの現象世界、
あるいは例えれば、1つの学年からの進級のようなもの。

非常に微妙で気づかないかもしれないが、
そのふるい落としが進行している・・そういう時代だ。

一部欧米から流行ってきたアセンション、
あるいは非二元というワンネスの概念も、
つまりは、
肉体の自己から、普遍的な自己への<目覚め>のことである。

そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならないのだ。

そのポイントが「わたし・・とは・・何か」という、
わたしへの・・問いかけなのである。
これは、
勇気ある魂が、体験次元の底に到達した暁に、
再び浮上するための意識的なツールともいえようか。

今はもう、急速に変化が起き、乱れ始めた世界に気づける人々は、
古い世界がはっきりと終わってしまう、その前に、
今がその時だと気づけるだろう。

洗濯機の中の洗い物のようだった?それぞれのわたしが、
無意識に浮き沈みを繰り返すような、
そんな輪廻転生からの解脱の時が来たのである。

そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならない。

そもそも、世界や現象を観ているところの、
すべての・・・原点である・・

わたしとは・・何か?



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