気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

実は全て高次元存在

2008-03-10 07:23:29 | 宇宙的気付き

●次元の直感的理解

次元という言葉が最近スピリチュアル系でも流布しつつあります。数学・物理学などでは次元という用語には、それなりのそれぞれの意味があるために、別に違和感はないようです。但し、今流布している次元という意味は根本的な別世界、多層世界のことをイメージしているのは間違いないことでしょう。

良く例で出されるのが、平べったい紙のようなX-Yのみの2次元平面と、それに直交する第3のY軸を追加した時の3次元立体です。2次元平面はどうあがいても、z軸という1次元的独立要素を加えない限り、2次元平面のままであり、その中にあるものは決して2次元平面を出ることは出来ません。2次元平面で動いている存在が何かあっても、その中しか動き回ることが出来ないわけです。

ところが第3次元を追加した場合、立体的になり、その中で自由に動くことが出来るため、2次元平面の存在から見ればとんでもない自由度を得ることになります。2次元平面からの離脱ともとられるため、3次元立体での存在は2次元平面の存在からは見えなくなる、あるいはその一端のみを認識することが出来だけとなります。3次元での球体は、2次元から見ると、単に○でしか認識できなくなり、3次元立体球が動くと、二次元平面からみてそれらは大きくなったり、小さくなったりして、わけのわからない、ふわふわした理屈に合わない存在に見えてしまうでしょう。

下次元から見ると、上次元の存在は、大きいのか?小さいのか?一体どこにいるのか不定の存在に見えてしまうのです。

●物質の不定さに気付く

実はこのような不定の存在ともいえるものが、実は我々の肉体も、家具も、岩石も、植物も、そして地球自体をも構成している、物質なのです。我々が五感で確実に「そこにある」と感じている物質なるものは、実は究極の素粒子レベルにまで突き詰めてゆくと、どこに?どんな形であるのか?が不定になってしまい、苦しまぎれに確率でしかその存在を定義することが出来なくなってしまいます。それらは波動として説明するのが合理的であり、波動であれば、それは振動をしている存在・・とでも言えるわけです。何が振動しているのか?ということになりますが、それは粒子のような塊ではなく、エネルギーを持った確率存在とでも形容できるものでしか定義できなくなってしまいます。

このように考えると、実は我々の五感に映じる、センスできる物質世界は、実は波動で構成されていると考えることが出来るため、あたかも3次元立体ホログラム世界と言っても良くなるわけです。それではそのホログラムの元である素粒子は一体なんであろうかということになるわけですが、次元の考え方で言えば、我々から不定に見えるその素粒子なるものは、実は上次元の存在であるともいえるかもしれません。

2次元から見れば、動き回る3次元立体球は、大きくなったり小さくなったり、現われては消えるような、そんな不定な存在に見えることを思い出してください。素粒子も我々の観測装置などの条件によっては、あちらにもこちらにも存在するような、確率論的な存在に見えるのです。

我々がその存在を当たり前のようにして使い、加工し、接触し、利用している物質が、実は元を正せば、我々より高次元の存在であるかもしれないと考えるのはあながち無理がないと考えられるのです。このような世界観を数式などで証明することは、今後なされるかもしれません。それを先立つ直感的な理解は今あっても良いわけです。別に数学のおかげで我々が生存しているわけではありません。

●実は高次元の中で生きている人間

物質なるものが我々の現在認識よりも、上の次元の投影であるという考えは、我々を惨めなものにするでしょうか?我々よりも高次元の存在に取り巻かれているという考えは受け入れられるでしょうか?そんなことはありません。我々の周りの物質も、我々の肉体を構成する生体、細胞、分子、原子、素粒子自体が、高次元そのものの投影であることも事実と考えればなおさらです。我々が肉体と称して、魂よりも低位なものと感じたりしているこの肉体も、実は上の次元の投影であることは、良く言われる 「人間の身体は神の宮なり」 という言葉にもうなずけるのです。

●私とはなにか

「私」は、その肉体にある・と考えているのが一般的な考えですが、その普通の常識の観点から見ても、その肉体自体が、我々の通念よりも遥かに高次の存在の投影であるとしたならば、我々はその高次元からの投影を自在に操作している存在であるとも考えられます。起きる、寝る、食べる、排出する、笑う、怒る、等を、自在に出来ることには、実はとんでもない意味があることに気がつくでしょう。それらのごく当たり前の、当然とも言える普通の「行為」は、高次元からの投影物である身体を、自在に表現しているとも言えるわけです。

2次元平面の存在は、決して3次元立体の全貌を理解出来ないということは、逆に言えば、3次元の存在は2次元の存在の全貌を見ることができるということです。高次元存在は、その下の次元存在の全貌を見渡し、理解出来るということでもあります。

それなら、高次元の投影物であるところの、物質で構成されている我々の肉体を、理解し、見ることが出来る「私」はどういう存在であるかは想像がつくかも知れません。物質なる当たり前のものが、実は高次元の存在であるとともに、われわれはその高次の存在以上の存在であるといってもいいかもしれません。

人間がチリによって作られた「動く有機物質」、等というようなイメージは大きな間違いであることに気がつくわけです。ここにこそ、この地球の今の人類の苦悩があると思われます。動く有機物質が、どうして考えることが出来るでしょう。どうして感動することができるでしょう。物質自体が高次の存在の断片・写しならば、人間だけがどうして物質レベル:何か低いレベル・・等と勝手に思いこむ正当性があるのでしょうか。

●私も物質世界も同じく高次元の写し絵

以上は、単に人間は肉体存在であるというだけの見地からでも読み取れる、我々自身の自己認識であります。単にこれだけでも、我々自体が相当高次な存在である可能性に気がつくかも知れません。高次元というのはさらに大きな観点をも意味するだろうと思います。

不満が満足に感じ、争いが平和に転じ、無知が学びに変化するような、そのような大きな観点を発見することが出来るのは、その高次元投影をそれと知り、己が遥かに大きな存在であることを自覚できる存在・すなわち人間のもっている役目なのではないでしょうか。

我々の五感に映ずる全ての物質世界のあらゆるものが、我々の目覚めるのを待っています。我々が、その五感の世界に属さない、逆にそれを投影・創造する存在であることを知ってほしい。五感が限られた機能しかないのは、それを遥かに超えた存在であるからでしょう。

我々は決して物質に属してはいない存在でしょう。なぜなら物質自体も高次元の投影なのです。あなたや私は決して混乱に満ちた物質世界にどっぷりと属している、身動きの取れない不憫な存在では無い事を知ることが、今大切なのでしょう。

●気付かない次元は現われようがない

高いから良いとか、低いからダメとか言うようなものではなく、より広い認識や知覚をしたいと言うのは、それこそ当たり前のことであり、低いままでいたいと言う事のほうが、異なることだと思います。次元の上昇などという言葉が流布しているのは、人類が「今」必要なことであることを集合意識は知っていることを示しています。与えられた概念は、一挙に取去られることで失意に転落することがあるのは、失望という形でよく知っています。与えられるのではなくて自分で進んでゆくこと、希望に向けて自分で歩くことでは、決して失望などは出てこないわけです。希望に常に顔を向けているのは、いつも自分なのですから。

気付きながら選択してゆくこと、おのれという高次元の意識存在の発見を意図すること、未知なるものを既知にしてゆこうとする意識作用、意志等が、今の自分達を超える次なる次元を提供することになりそうです。高次元は、それが理解できる存在、見ようとする存在にだけ、存在を明らかにしてゆくようです。

●今ここにある真実

山川草木国土悉皆成仏

(大自然も、人間も、あらゆるものが皆、仏であり高貴な存在である)

汝ら、汝自身を知れ

(自分自身を知ることだ、そうすれば全てがわかってくる)

照顧脚下

(外ばかり見て逃し続ける愚をやめ、今そこにある、おのれの足元を見るべきである)

いにしえの教えは、今ここに、科学的な見地からの類推・思索でも、その素晴らしい客観性が実感できるかもしれません。例えこの時空全てが物質で構成されているように見えようとも、あまねく高次元の意識の写しとして、尊いことを知る必要があるのではないでしょうか。物質宇宙という観念は実はどこにもなく、存在全ての有り様が無限にあるという事実だけがあるものと考えられます。それらの秩序の1つに次元や階層などもあるのでしょう。