●人類の喫緊の課題はこころの浄化である
人類の全てが最優先課題として注目すべきことは何かと言えば、
自己内面の浄化に他ならない。
浄化とは簡単に言えば、洗濯して汚れを落とすことである。
こころの洗濯とは何かと言えば、意識内面に付着した悪想念、悪感情を取り払う事である。
祝詞である「祓いたまえ、清めたまえ・・」は、周囲の環境のことでは無く、
その環境を投影・投射しているところの、基(もとい)である、自己自身のこころを、
汚れのない素の在り方に戻すことである。
唯心諸元、こころ、意識の働きが全ての顕現の元にある・・・のに、
その自己のこころを見ずして、何がどうしたこうしたも、あるわけもない。
●こころの歪みは即ち、歪んだエネルギー
大勢の私達は、支配者や社会や世間が言うことだけに歩調を合わせて、
それをいつのまにか信念として取り込み、そのプログラムに沿って生きることで、
往々にして、競争や争いのパターンにハマりこんでしまい、
本来そうでない魂・意識・・・とのギャップがストレスとなり、
その、「こころの持続せる歪」がエネルギーとなって、
様々な不都合な現象が降りかかってくることになる。
人々は、気付かず知らずに、そういう悪循環に陥っていたのだ。
今、世界で巻き起ころうとしている不穏な動きは、まさにそのパターンの極大化であると言えよう。
そう、今既に、聖書の黙示録の預言の世界に入っていると思えないか。
旧約のダニエル書にある「荒らす憎むべきもの」が既に跳梁跋扈しているように見えないか。
●こころの歪みは自分で創っている
しかしながら、悪いのは外の誰かや、社会や他者ではなく、
それらと接する自己の、そのこころに溜め込んでしまう「こころの歪み」なのだと気付くべきだ。
ここが、魂が人間関係や社会環境で学ぶところの重要なポイントでもある。
争いや無知の蔓延したこの世界、明らかに程度の低いかもしれないこの地球の環境も、
そういう意味で大切な学び舎なのだ。
従って、自己のこころがどういう状態なのか?に気付いていること、
そう、<こころの動きを観察すること>が最も重要な仕事なのである。
人それぞれが最優先にすべきことは、
世界の誰かの巨悪を暴くよりも、
社会システムに革命を起こす事よりも、
愚かな政策に集団デモで対抗する事よりも、
誰かの間違いを証明してあげることでもない。
●意識次元の上昇とは
魂たちが、自己のこころの動きを観ることが、まず最優先課題であり、
なんということもない、日常でのこころの観察という意識的行為こそが、
自らが単なる肉体でなく、単なるこころでもなく、
それらを生ぜしめている本質である魂だと気付くことにつながり、
肉体・物質レベルを含みつつ、それを超え、
マインド・精神のレベルを含みつつ、それを超えたところの、
本質、<魂>としての自己、言わば高次の自己意識に上昇することになる。
そこに在るのは、すべてを生み出すところの静寂でもある。
・・空即是色、そして色即是空・・・は、それを極めて簡素に示した言霊である。
簡単に言えば、我々の時空においては、
物質・肉体⇒心・想念⇒魂・意識 の順により高次元へとつながっている。
今ここで多次元を体現しているのが人間というものだ。
どこか遠くの遥かな別世界にあるわけではないのだ。
常に、自己の言葉や行動の元に有る「想念」を観ること、
例えば、古くからの禅の修業はまさにそれであり、かつての修業は、
騒がしい環境から離れ、ただひたすら自己の内面を観続けることであった。
そうして、何も生産的でないように見えるこころの観察、
こころを見つめ続けることで、こころと体の成りたちが感得されるのだ。
体をそれとして知覚しているのは、こころの働きであり、
そして、
こころと体を観ている行為は、すなわち、魂の視線を意味しているのである。

●自己想念観察の効能
常日頃の人間関係、社会関係の出来事の中で、その中に在りつつも、
常に自らのこころの動きに気付いている意識を維持することで、
どんな心の反応でも、それに埋没してしまうことなく、
悪感情が出てはあちらに・・、怒りが出てはこちらに・・、
さらさらと流せるようになる。
まるで台風の中に在っても、その中心に位置するようなものとなり、
外がどういう騒ぎであったとしても、
こころの不動と静寂の中にいることに気付けるようになる。
またそのこころの動きの中において、微細な情報を感じ取ることも可能となって、
他人の想いや、自然界の意識の働きまでも次第に気づけるようになるものだ。
これはいわゆる超能力とか言われる範囲のものでありながら、
意識は全てがつながっているという表現の、実地検証のようなものに他ならない。
これは実際の行動、意識的行為の先にあるものであって、
さらりと概念を重ね合わせで頭や思考で理解することではない。
こころを観るだって?
それで何の利益があるのか?
どんな効果があるのか?とか、
そういう物質レベルの損得の話ではないからこそ、
それは意識的に行われることでしか悟ることができない。
物質レベルの重い世界から離脱するためには、
こころを発見し、それを意識して使う必要があるということも言えるだろう。
逆に、物質レベルに終始することを選んでいる場合は、
メディアで盛んに宣伝している方向しか見ることが出来ず、
ましてや精神や心など眼中になく、そんなことよりも、銭・金・物、
名誉や地位や権力を、飽きるまで追いまわし続けるだろう。
そうだ、それが今までの古い世界での栄枯盛衰や民族、階級闘争の歴史なのである。
しかしながら、それはもう終わりが来ているのである。
●選択はそれぞれの吾(われ)にあり
新しい世界へのシフトの時が来ているのだが、、
注意すべきは、
誰かがそれを決めるのではなく、またそれまで待つということでもなく、
権威筋が決めるまで様子を見るとかでなく、
それぞれのわたしたちが「今」決めることなのだ。
意識的・意図は、想念となり、エネルギーを経て現象化する。
遅かれ早かれ、そういうことである。
魂にとって常に最善のタイミングでそれらは起きるのであれば、
遅いも、早いも、焦りも不信も全く不要である。
何ごとも、創造においては、全て良しなのだ。
それぞれのわたしのやるべきことは、
「何が楽しいのか・・」それを意識的に決めることである。
後は、潜在意識あるいはエネルギーが働いてくれて、現象という果実を落としてくれるだろう。
今の時期は、意識的選択がなければ、無選択という選択となって、
そのうち無意識の中からまた這い上がるような世界で目覚めるかもしれない。
I am THAT I AM.
わたしとは、わたしである、その者である。
わたしとは、第一義的な自己存立原理そのもの、
自己認識で自らの体験を選んでいる者、とも言い換えられる。
自らの選択に他者など入りようがないし、他者などもともと幻想であり、
わたしという、言わばひとつなるもの、神なるものが、例えば3面鏡で無数に投影されているようなものなのだ。
●文明としての次元上昇の意味
今までの、肉体や物質の観察から、こころの観察への移行によって、
いわゆる3次元的物質偏重世界から、
こころ・精神をも含む世界への移行が行われるということだ。
銭・金・物、物量の蓄積、起きている現象の解析・分析ばかりではなく、
人間の意識の働きが、それらの物質的事象の背後にある要因であると理解される。
これは量子物理上の発見に伴う科学的見解とも言えるのだ。
そういう一段と高い次元というか、意識レベルへ移行した文明・文化は、
時空間での自由度が相当に拡大し、精神性も格段と向上することになる。
そこに住まう者たちは、意識でつながったすべての生命は、
お互いが完全に独自でありながら、
すべてがひとつであると認識している。
●自己のこころは、自己以外とつながっている
自らのこころを観察し、その動きを把握できる存在は、
繋がった意識において、他者のこころとも容易に共感できるわけで、
詐欺や嘘も存在できず、ある意味で非常に効率の良い社会とも言えようか。
当然ながら、詐欺や騙しが存在できず、
そこでは競争や争い、殺戮などあり得るはずもない。
そう、唯一不可能なことを上げれば、お互いを傷つけるバカバカしい行為である。
物質のみならず、精神・マインドも観察対象にした高度文明では、
それが、あらゆる自由度が拡大した世界といえども、
残念ながら、嘘や騙し、そしてそれから来る闘争や戦争、
そう、分裂が故の混乱と騒乱、・・これだけは不可能である。
人類の全てが最優先課題として注目すべきことは何かと言えば、
自己内面の浄化に他ならない。
浄化とは簡単に言えば、洗濯して汚れを落とすことである。
こころの洗濯とは何かと言えば、意識内面に付着した悪想念、悪感情を取り払う事である。
祝詞である「祓いたまえ、清めたまえ・・」は、周囲の環境のことでは無く、
その環境を投影・投射しているところの、基(もとい)である、自己自身のこころを、
汚れのない素の在り方に戻すことである。
唯心諸元、こころ、意識の働きが全ての顕現の元にある・・・のに、
その自己のこころを見ずして、何がどうしたこうしたも、あるわけもない。
●こころの歪みは即ち、歪んだエネルギー
大勢の私達は、支配者や社会や世間が言うことだけに歩調を合わせて、
それをいつのまにか信念として取り込み、そのプログラムに沿って生きることで、
往々にして、競争や争いのパターンにハマりこんでしまい、
本来そうでない魂・意識・・・とのギャップがストレスとなり、
その、「こころの持続せる歪」がエネルギーとなって、
様々な不都合な現象が降りかかってくることになる。
人々は、気付かず知らずに、そういう悪循環に陥っていたのだ。
今、世界で巻き起ころうとしている不穏な動きは、まさにそのパターンの極大化であると言えよう。
そう、今既に、聖書の黙示録の預言の世界に入っていると思えないか。
旧約のダニエル書にある「荒らす憎むべきもの」が既に跳梁跋扈しているように見えないか。
●こころの歪みは自分で創っている
しかしながら、悪いのは外の誰かや、社会や他者ではなく、
それらと接する自己の、そのこころに溜め込んでしまう「こころの歪み」なのだと気付くべきだ。
ここが、魂が人間関係や社会環境で学ぶところの重要なポイントでもある。
争いや無知の蔓延したこの世界、明らかに程度の低いかもしれないこの地球の環境も、
そういう意味で大切な学び舎なのだ。
従って、自己のこころがどういう状態なのか?に気付いていること、
そう、<こころの動きを観察すること>が最も重要な仕事なのである。
人それぞれが最優先にすべきことは、
世界の誰かの巨悪を暴くよりも、
社会システムに革命を起こす事よりも、
愚かな政策に集団デモで対抗する事よりも、
誰かの間違いを証明してあげることでもない。
●意識次元の上昇とは
魂たちが、自己のこころの動きを観ることが、まず最優先課題であり、
なんということもない、日常でのこころの観察という意識的行為こそが、
自らが単なる肉体でなく、単なるこころでもなく、
それらを生ぜしめている本質である魂だと気付くことにつながり、
肉体・物質レベルを含みつつ、それを超え、
マインド・精神のレベルを含みつつ、それを超えたところの、
本質、<魂>としての自己、言わば高次の自己意識に上昇することになる。
そこに在るのは、すべてを生み出すところの静寂でもある。
・・空即是色、そして色即是空・・・は、それを極めて簡素に示した言霊である。
簡単に言えば、我々の時空においては、
物質・肉体⇒心・想念⇒魂・意識 の順により高次元へとつながっている。
今ここで多次元を体現しているのが人間というものだ。
どこか遠くの遥かな別世界にあるわけではないのだ。
常に、自己の言葉や行動の元に有る「想念」を観ること、
例えば、古くからの禅の修業はまさにそれであり、かつての修業は、
騒がしい環境から離れ、ただひたすら自己の内面を観続けることであった。
そうして、何も生産的でないように見えるこころの観察、
こころを見つめ続けることで、こころと体の成りたちが感得されるのだ。
体をそれとして知覚しているのは、こころの働きであり、
そして、
こころと体を観ている行為は、すなわち、魂の視線を意味しているのである。

●自己想念観察の効能
常日頃の人間関係、社会関係の出来事の中で、その中に在りつつも、
常に自らのこころの動きに気付いている意識を維持することで、
どんな心の反応でも、それに埋没してしまうことなく、
悪感情が出てはあちらに・・、怒りが出てはこちらに・・、
さらさらと流せるようになる。
まるで台風の中に在っても、その中心に位置するようなものとなり、
外がどういう騒ぎであったとしても、
こころの不動と静寂の中にいることに気付けるようになる。
またそのこころの動きの中において、微細な情報を感じ取ることも可能となって、
他人の想いや、自然界の意識の働きまでも次第に気づけるようになるものだ。
これはいわゆる超能力とか言われる範囲のものでありながら、
意識は全てがつながっているという表現の、実地検証のようなものに他ならない。
これは実際の行動、意識的行為の先にあるものであって、
さらりと概念を重ね合わせで頭や思考で理解することではない。
こころを観るだって?
それで何の利益があるのか?
どんな効果があるのか?とか、
そういう物質レベルの損得の話ではないからこそ、
それは意識的に行われることでしか悟ることができない。
物質レベルの重い世界から離脱するためには、
こころを発見し、それを意識して使う必要があるということも言えるだろう。
逆に、物質レベルに終始することを選んでいる場合は、
メディアで盛んに宣伝している方向しか見ることが出来ず、
ましてや精神や心など眼中になく、そんなことよりも、銭・金・物、
名誉や地位や権力を、飽きるまで追いまわし続けるだろう。
そうだ、それが今までの古い世界での栄枯盛衰や民族、階級闘争の歴史なのである。
しかしながら、それはもう終わりが来ているのである。
●選択はそれぞれの吾(われ)にあり
新しい世界へのシフトの時が来ているのだが、、
注意すべきは、
誰かがそれを決めるのではなく、またそれまで待つということでもなく、
権威筋が決めるまで様子を見るとかでなく、
それぞれのわたしたちが「今」決めることなのだ。
意識的・意図は、想念となり、エネルギーを経て現象化する。
遅かれ早かれ、そういうことである。
魂にとって常に最善のタイミングでそれらは起きるのであれば、
遅いも、早いも、焦りも不信も全く不要である。
何ごとも、創造においては、全て良しなのだ。
それぞれのわたしのやるべきことは、
「何が楽しいのか・・」それを意識的に決めることである。
後は、潜在意識あるいはエネルギーが働いてくれて、現象という果実を落としてくれるだろう。
今の時期は、意識的選択がなければ、無選択という選択となって、
そのうち無意識の中からまた這い上がるような世界で目覚めるかもしれない。
I am THAT I AM.
わたしとは、わたしである、その者である。
わたしとは、第一義的な自己存立原理そのもの、
自己認識で自らの体験を選んでいる者、とも言い換えられる。
自らの選択に他者など入りようがないし、他者などもともと幻想であり、
わたしという、言わばひとつなるもの、神なるものが、例えば3面鏡で無数に投影されているようなものなのだ。
●文明としての次元上昇の意味
今までの、肉体や物質の観察から、こころの観察への移行によって、
いわゆる3次元的物質偏重世界から、
こころ・精神をも含む世界への移行が行われるということだ。
銭・金・物、物量の蓄積、起きている現象の解析・分析ばかりではなく、
人間の意識の働きが、それらの物質的事象の背後にある要因であると理解される。
これは量子物理上の発見に伴う科学的見解とも言えるのだ。
そういう一段と高い次元というか、意識レベルへ移行した文明・文化は、
時空間での自由度が相当に拡大し、精神性も格段と向上することになる。
そこに住まう者たちは、意識でつながったすべての生命は、
お互いが完全に独自でありながら、
すべてがひとつであると認識している。
●自己のこころは、自己以外とつながっている
自らのこころを観察し、その動きを把握できる存在は、
繋がった意識において、他者のこころとも容易に共感できるわけで、
詐欺や嘘も存在できず、ある意味で非常に効率の良い社会とも言えようか。
当然ながら、詐欺や騙しが存在できず、
そこでは競争や争い、殺戮などあり得るはずもない。
そう、唯一不可能なことを上げれば、お互いを傷つけるバカバカしい行為である。
物質のみならず、精神・マインドも観察対象にした高度文明では、
それが、あらゆる自由度が拡大した世界といえども、
残念ながら、嘘や騙し、そしてそれから来る闘争や戦争、
そう、分裂が故の混乱と騒乱、・・これだけは不可能である。
