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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(13)こころを観る者、即ち<魂>

2015-11-21 09:15:32 | 新たなる地平線
●人類の喫緊の課題はこころの浄化である
人類の全てが最優先課題として注目すべきことは何かと言えば、

自己内面の浄化に他ならない。

浄化とは簡単に言えば、洗濯して汚れを落とすことである。

こころの洗濯とは何かと言えば、意識内面に付着した悪想念、悪感情を取り払う事である。

祝詞である「祓いたまえ、清めたまえ・・」は、周囲の環境のことでは無く、

その環境を投影・投射しているところの、基(もとい)である、自己自身のこころを、

汚れのない素の在り方に戻すことである。

唯心諸元、こころ、意識の働きが全ての顕現の元にある・・・のに、

その自己のこころを見ずして、何がどうしたこうしたも、あるわけもない。

●こころの歪みは即ち、歪んだエネルギー
大勢の私達は、支配者や社会や世間が言うことだけに歩調を合わせて、

それをいつのまにか信念として取り込み、そのプログラムに沿って生きることで、

往々にして、競争や争いのパターンにハマりこんでしまい、

本来そうでない魂・意識・・・とのギャップがストレスとなり、

その、「こころの持続せる歪」がエネルギーとなって、

様々な不都合な現象が降りかかってくることになる。


人々は、気付かず知らずに、そういう悪循環に陥っていたのだ。

今、世界で巻き起ころうとしている不穏な動きは、まさにそのパターンの極大化であると言えよう。

そう、今既に、聖書の黙示録の預言の世界に入っていると思えないか。

旧約のダニエル書にある「荒らす憎むべきもの」が既に跳梁跋扈しているように見えないか。

●こころの歪みは自分で創っている
しかしながら、悪いのは外の誰かや、社会や他者ではなく、

それらと接する自己の、そのこころに溜め込んでしまう「こころの歪み」なのだと気付くべきだ。

ここが、魂が人間関係や社会環境で学ぶところの重要なポイントでもある。

争いや無知の蔓延したこの世界、明らかに程度の低いかもしれないこの地球の環境も、

そういう意味で大切な学び舎なのだ。

従って、自己のこころがどういう状態なのか?に気付いていること、

そう、<こころの動きを観察すること>が最も重要な仕事なのである。


人それぞれが最優先にすべきことは、

世界の誰かの巨悪を暴くよりも、

社会システムに革命を起こす事よりも、

愚かな政策に集団デモで対抗する事よりも、

誰かの間違いを証明してあげることでもない。

●意識次元の上昇とは
魂たちが、自己のこころの動きを観ることが、まず最優先課題であり、

なんということもない、日常でのこころの観察という意識的行為こそが、

自らが単なる肉体でなく、単なるこころでもなく、

それらを生ぜしめている本質である魂だと気付くことにつながり、

肉体・物質レベルを含みつつ、それを超え、

マインド・精神のレベルを含みつつ、それを超えたところの、

本質、<魂>としての自己、言わば高次の自己意識に上昇することになる。

そこに在るのは、すべてを生み出すところの静寂でもある。

・・空即是色、そして色即是空・・・は、それを極めて簡素に示した言霊である。


簡単に言えば、我々の時空においては、

物質・肉体心・想念魂・意識  の順により高次元へとつながっている。

今ここで多次元を体現しているのが人間というものだ。

どこか遠くの遥かな別世界にあるわけではないのだ。


常に、自己の言葉や行動の元に有る「想念」を観ること、

例えば、古くからの禅の修業はまさにそれであり、かつての修業は、

騒がしい環境から離れ、ただひたすら自己の内面を観続けることであった。

そうして、何も生産的でないように見えるこころの観察、

こころを見つめ続けることで、こころと体の成りたちが感得されるのだ。

体をそれとして知覚しているのは、こころの働きであり、

そして、

こころと体を観ている行為は、すなわち、魂の視線を意味しているのである。




●自己想念観察の効能
常日頃の人間関係、社会関係の出来事の中で、その中に在りつつも、

常に自らのこころの動きに気付いている意識を維持することで、

どんな心の反応でも、それに埋没してしまうことなく、

悪感情が出てはあちらに・・、怒りが出てはこちらに・・、

さらさらと流せるようになる。

まるで台風の中に在っても、その中心に位置するようなものとなり、

外がどういう騒ぎであったとしても、

こころの不動と静寂の中にいることに気付けるようになる。

またそのこころの動きの中において、微細な情報を感じ取ることも可能となって、

他人の想いや、自然界の意識の働きまでも次第に気づけるようになるものだ。


これはいわゆる超能力とか言われる範囲のものでありながら、

意識は全てがつながっているという表現の、実地検証のようなものに他ならない。

これは実際の行動、意識的行為の先にあるものであって、

さらりと概念を重ね合わせで頭や思考で理解することではない。



こころを観るだって?

それで何の利益があるのか?

どんな効果があるのか?とか、

そういう物質レベルの損得の話ではないからこそ、

それは意識的に行われることでしか悟ることができない。


物質レベルの重い世界から離脱するためには、

こころを発見し、それを意識して使う必要があるということも言えるだろう。


逆に、物質レベルに終始することを選んでいる場合は、

メディアで盛んに宣伝している方向しか見ることが出来ず、

ましてや精神や心など眼中になく、そんなことよりも、銭・金・物、

名誉や地位や権力を、飽きるまで追いまわし続けるだろう。



そうだ、それが今までの古い世界での栄枯盛衰や民族、階級闘争の歴史なのである。

しかしながら、それはもう終わりが来ているのである。


●選択はそれぞれの吾(われ)にあり
新しい世界へのシフトの時が来ているのだが、、

注意すべきは、

誰かがそれを決めるのではなく、またそれまで待つということでもなく、

権威筋が決めるまで様子を見るとかでなく、

それぞれのわたしたちが「今」決めることなのだ。

意識的・意図は、想念となり、エネルギーを経て現象化する。


遅かれ早かれ、そういうことである。

魂にとって常に最善のタイミングでそれらは起きるのであれば、

遅いも、早いも、焦りも不信も全く不要である。

何ごとも、創造においては、全て良しなのだ。

それぞれのわたしのやるべきことは、

「何が楽しいのか・・」それを意識的に決めることである。

後は、潜在意識あるいはエネルギーが働いてくれて、現象という果実を落としてくれるだろう。

今の時期は、意識的選択がなければ、無選択という選択となって、

そのうち無意識の中からまた這い上がるような世界で目覚めるかもしれない。

I am THAT I AM.

わたしとは、わたしである、その者である。

わたしとは、第一義的な自己存立原理そのもの、

自己認識で自らの体験を選んでいる者、とも言い換えられる。

自らの選択に他者など入りようがないし、他者などもともと幻想であり、

わたしという、言わばひとつなるもの、神なるものが、例えば3面鏡で無数に投影されているようなものなのだ。


●文明としての次元上昇の意味
今までの、肉体や物質の観察から、こころの観察への移行によって、

いわゆる3次元的物質偏重世界から、

こころ・精神をも含む世界への移行が行われるということだ。

銭・金・物、物量の蓄積、起きている現象の解析・分析ばかりではなく、

人間の意識の働きが、それらの物質的事象の背後にある要因であると理解される。

これは量子物理上の発見に伴う科学的見解とも言えるのだ。


そういう一段と高い次元というか、意識レベルへ移行した文明・文化は、

時空間での自由度が相当に拡大し、精神性も格段と向上することになる。

そこに住まう者たちは、意識でつながったすべての生命は、

お互いが完全に独自でありながら、

すべてがひとつであると認識している。

●自己のこころは、自己以外とつながっている
自らのこころを観察し、その動きを把握できる存在は、

繋がった意識において、他者のこころとも容易に共感できるわけで、

詐欺や嘘も存在できず、ある意味で非常に効率の良い社会とも言えようか。

当然ながら、詐欺や騙しが存在できず、

そこでは競争や争い、殺戮などあり得るはずもない。

そう、唯一不可能なことを上げれば、お互いを傷つけるバカバカしい行為である。

物質のみならず、精神・マインドも観察対象にした高度文明では、

それが、あらゆる自由度が拡大した世界といえども、

残念ながら、嘘や騙し、そしてそれから来る闘争や戦争、

そう、分裂が故の混乱と騒乱、・・これだけは不可能である。





わたしとは何か (12)魂経験の転換点

2015-11-11 05:28:23 | 新たなる地平線
今までの地球の人類の平均的な在り方は何かといえば、

人間の構成要素である「魂」・・「こころ」・・「肉体」のうちの、

肉体への意識集中が中心であったと言えよう。

肉体へのフォーカスとは、つまり物質的在り方への偏執ということだ。


そう、五感で感じる世界の、そのベースと感じている「肉体」の維持や安楽さを、

まず最も重要な事だとして、生活を送り、文化を築き、文明を創り上げてきたということだ。


あなたの大切なものは何だろうか?

あなたの多少の財産だろうか・・。

あなたの周囲の肉親・家族だろうか・・。

あなたの生活する家だろうか・・。

生活の糧を得る会社や組織だろうか・・?


そりゃそうだろうと思うのだが、それはなぜかと言えば、

この世界で、まず安全に安楽に生きることが先だと思うからだ。

なぜそうなのかと言えば、

魂は、この世界を十分に経験することを目的にしているからだ。


せっかく次元降下して下生したにも拘らず、

分けのわからない人間達の、思惑と無知の流れに押し流されて、

その争いや混乱によって肉体を失い、すぐに天に戻っても、

それは魂、本来の目的ではないからだ。


誰しも、今もどこかで行われている、エゴ同士の衝突に巻き込まれ、

命を落としたことが何度もあるものだ。

あなたは憶えていないというかもしれないが、何度も転生した魂には、

その記憶が間違いなくある・・・。



えー、どこにあるかって言えば、

あなたの「こころ」のどこかにある「恐怖」として残っているではないか。

その恐怖は、単なる身体維持機能上の「警戒心」のみならず、

子供のころに遭遇したかもしれない、大人の歪んだ世界の衝撃による「トラウマ」のみなtらず、

こころのトーンのなかの波動として残っているものである。

とにかく何か怖い、それは時折の夢などでも示されるものなのだが、

気付いているだろう?


自分の潜在意識にどこか「恐怖」があるのを、自らで観て取る必要があろう。

しかしながら、その恐怖はこの世界ならではの「教材」なのである。

そして、恐怖が無くなれば・・その教材は消滅する、そこまでのものだ。


肉体を失う恐怖が、今までの人類の共通の歪んだ感情となっていたのだ。

魂が十分に経験せずに、天に戻ってしまうことは、繰り返し転生で補う事になり、

この粗い世界での数々の、生と死の経験によってその恐怖が蓄積されてきた。

この3次元世界と上位との次元往復を輪廻転生と言って良い。


・・・・

「あー、この世は天国のように居心地が良く、温泉宿のように気楽で、どんなことを所望しても叶えられるところだ、・・・何度でも訪れたい・・!」

・・・等と言うような世界ではなかろう?



近代の、自由で民主的だ、平等だというスローガンは絵に描いた餅のようであり、

結局それは騙しの錦の御旗として、世界で林立して争ってきた、この小さな丸い3次元世界、

その身にとっては意味もなく殺戮が行われ、意味もなく無知が横行し、意味もなく支配者という幼児がのさばってしまっている、まるで千と千尋の「湯屋」。



一体全体・・なんでこういう世界にわざわざ降りてきているのだ?

一体全体・・どうして「わたし意識」をいったんリセットしてまで、何度も赤子で生れてくるのかと言えば、


あなたの本質である「魂」が<経験>をするためである。

魂が経験し、「こころ」で感慨を生み出す、

そのための世界との接点が、「肉体」なのだ。


わたしが、自分が死んだら終わりの単なる身体であるというたわごとは、

たわごとを教えた、それが例えあなたの無知な親であっても、

あるいは、何か知ってそうで何も知っていなかった学校の先生であっても、

いつも何かありそうな騒ぎの社会であっても、


あなた自身が、それは戯言(たわごと)である事を<見切る>ことが、

それ即ち、そういう人生舞台での競演者たち、親や先生や社会や多くの他者のためになるということに気付いているだろうか。


過ぎたる銭・金・物、地位や権威や権力は、いっさいがっさい何の役にもたたない代物。

それらにしがみ付き、必死で執着するエゴの頑張りは、尚更恐怖を蓄積する行為であり、

まるで、いたいけな赤子の汚物のように、この世界や周辺世界をどこか汚染して来たとも言えるだろう。

それにしがみ付く者たちは、また同じことを違うところで繰り返すことを所望している。

・・

しかし母なる地球は人類のおむつ替え時期、幼年期を終え、

人類自らで歩けるようにという眼差しに移行した今の段階では、

一切の過保護を打ち切ることになるわけで、

それは、明らかに厳しくなった今の大自然の様相や、

それを無意識で感じている人達の、焦りや騒ぎで観て取ることが出来るだろう。


朋よ、今はそういう「舞台の転換」時期なのだ。

今はもう地べたに這いつくばっていてはなるまい。

銭・金・物、地位や権力、支配や収奪から意識を外す時なのだ。

肉体、こころ、魂・スピリットへと意識を戻す時期ということだ。

そして、今・・わたし・・に帰還する時なのである。




魂の経験のプロセスで昇華される、えも言われぬ味わい、

泥の世界でこそ、咲く蓮(はす)の花、

無明なる世界でこそ、光が灯ることを意味するのである。

それが、不自由でどこか不快なことの多い、

この世界の接点としての肉体経験で得た「魂の知恵」なのだ。


一体全体・・なんでこういう世界にわざわざ降りてきているのだ?

一体全体・・どうして「わたし意識」をいったんリセットしてまで、何度も赤子で生れてくるのか。



今・・ここにいるわたしたちは、もう、それに気づいているはずである。

魂の経験のプロセスで昇華される、えも言われぬ味わい、

泥の世界でこそ、咲く蓮(はす)の花、

無明なる世界でこそ、光が灯ることを意味するのである。

また、それに気付いたあなたは、既に成し遂げたと知るべきである。


そして・・今あるのは、あらゆることに対する感謝ではないか。

肉体よ、ありがとう、

こころよ、ありがとう、

スピリットよ、ありがとう。

真に実感することによって、

人間のそれら3つの層は、一つに統合された「わたし」に帰還する。

周囲の人々よ、ありがとう、

銭・金・物よ、ありがとう、

地球よ、ありがとう、


あらゆる全ての創造は、全てにおいて・・完全に良し!

そう、これからの魂の体験は、それが芯としてある経験になるだろう。

今来ている・・その魂経験の転換点を・・雄々しく越えよ!





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


わたしとは何か (11)潜在意識と顕在意識

2015-11-07 06:27:59 | 新たなる地平線
潜在意識という概念は、ユングやフロイトによって導入されたもので、膨大な意識の領域を示すものだといえるだろう。

人類集合意識の中の、膨大にある気付いてない部分とも言えようし、個々においても、潜在として存在するけれど、それに「気づいていない」・・そういう意識のことだ。

未分化の気付き、現れていない気付き・・と言っても良い。

潜在せる意識、多かれ少なかれその人が「気付いていること」「憶えていること」を表面意識とすれば、

潜在意識は、その背後にあるバックグランド、意識表面の・・その背後にある意識と言えよう。

あなたが今世界で色々見ている・・その『後ろの正面』である。


それはよく海に例えられ、巻き起こる水面上の個々の波の・・その下には、膨大な大海があるということだ。




その「意識の大海」のことを、潜在意識あるいは「神意識」といって良いし、「根源意識」と言って良いだろう。

そう、潜在意識とは、人間の頭脳の片隅にある忘れている人生の記憶群だけではなく、

幾多の人生の記憶の生きた倉庫であるだけではなく、

それらのすそ野が多次元層に渡って交差しながら続いている、

その「無限の意識」のことである。


あなたが、今・・ここで生きて、五感で世界の様々なことを知覚していること、

またそれについて感じていること、考えること、感情が動くことは、

つまり、その都度現れている「表面意識」の波立ちのようなものなのだ。


意識の働き、それらすべて頭脳が作り出している等と言う短絡した定義づけは、

機械還元論者、物質収集好きの、言わば唯物論オタクのたわごとであり、

誰もそれを証明も検証もしていないものを、さも尤もらしく権威づけして、勝手に決めつけているだけのことだ。

そういう者たちがいわゆる人類の支配層に成り上がってしまっている為に、

気付きの少ない一般民衆はそれに騙されているか、あるいは安易に頼っているということだ。


意識の働き、それらすべて「頭脳が作り出している」・・等と言う短絡した定義づけは、

例えばあなたが持っている「スマホ」の中であらゆる情報全てが造られていると勘違いするようなものだ。

スマホは、情報通信を経由して、様々なサーバーと接続され、

情報がダウンロード、アップロードされているからこそ、スマホなのである。

スマホ内部で情報全てが造られているわけではなく、

それは情報通信、データ変換が主な機能であるように、

人間の肉体そして頭脳は、意識の大海の様々な情報、気づきを送受信、変換しているのだ。

そう、意識ある存在、人は皆、膨大な意識と常時接続されている。

別の表現では、人は神と常時接続されているということだ!


そしてそれに気付いていないなんて・・、なんという奇跡だ。

OH MY GOD!




なるほど、人が気付く範囲、顕在意識は確かに未だに小さいが、

潜在意識においては「人は神」ということになるが、あなたは驚かないのだろうか。

これこそが真なる現実なのだが、爆発的な感情が起きないために、まだそれに気づかないのだろうか。


目先のトラブル解消や、成果の達成、ローンの支払いがあるために、

根本的な真なる自己の「現実」を感じられないのだろうか。

なるほど、古いこころのパターンの覆いの脱落には、やはり意識的努力が必要である。

お金払って出来るものではない。


人は皆、膨大な意識と常時接続されている。

別の表現では、人は神と常時接続されている!


それを実感すれば、それが現れてくる。


幸福は意識的に実感すること⇒ で嬉しくも⇒ 現象化するのが「創造の法則」である。

想像は創造につながると言われる所以である。


原因は「意識」に在り、どうして「現象」結果が先行しようか?

現象結果が幸福だから・・・それを実感する・・真逆の「ウソ」によって、

3次元的、唯物論的人生に、永遠と思えるほどに、

こき使われることこそ、バカバカしい話ではないか。

・・・
豊かになったから・・・嬉しい・・・は、旧次元的なものであり、

豊かにならなければ、永遠に嬉しさは出ない様に仕組まれているものだ。

嬉しく楽しいから・・結果、様々で豊かである・・が創造的様式である。
・・・


潜在せる無限の神意識、それと常時接続ならば、幸福でないわけがなかろう。

ただ、それをイメージ・実感する・・そう意識的選択だけが必要である。


それを意識の顕在化と言うし、また創造というし、

そしてその顕在化の拡大が「意識の進化」である。

そう、無意識から意識的意識への目覚めを経験するための、

この次元世界での幾多の転生はそのためのものではなかったか。


なるほど今までは、

機械還元論者、物質収集好きの、言わば唯物論オタクの積極的な無知の宣伝努力のおかげで、それに気づける人びとは少なく、

教科書などで婉曲に刷り込まれたごとく、

自らが単なる高度な知的動物、動物よりは知能が高い肉体生物、社会的動物、

肉体間で切り離された単独無縁の個別の存在と思い込み、

その個別の肉体の生存維持、サバイバルを繰り返してきたというわけだ。

実際そういうことを何千年という歴史絵巻の中で繰り返していたわけだ。

嗚呼、なんという苦しさ、なんという楽しさだったろうか。

・・・

しかしながら朋よ、今はもう目覚める時が来ているのである。

幼稚園から小学校に上がるように、また学校で学年が上がったように、

通信機器の周波数がより高機能化のための高周波数帯に移行するように、

人間存在達の、今まで良しとされた狭い顕在意識が、より広い顕在意識へと拡張する・・、

今はその時期なのである。

人は神と常時接続されていること、

今必要なことは、それを実感することである。

多分・・それは、

今までのあなたの内面がどう変化して来たかを観ることで解るだろう。

潜在せる神の意識からのバックアップを、その人生で謙虚に感じられる人は幸せである。

人類の全てとは言わず、

気付ける者たちは、またあなたは、今それに気付いているはずである。





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わたしとは何か(10)何者でもない者・・わたし

2015-11-01 07:39:40 | 新たなる地平線
●人間は、意識による自己創造者

人間だれでも「自意識」がある。

自意識・・わたし意識・・「わたしが私である」・・という自己認識であるが、

地上のあらゆる生命種のなかで、この自意識というものが顕著にあるのは、人間をおいてほかにない。

わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・

つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを・・自己発見している・・

あるいは、自己が自己を創立せしめている、

・・・つまり原初の創造者と言えるのである。

創造者とは、それ、今のあなたやわたしたちのごとく、

何かに成ることが出来ても、本当は・・、

わたしとは、これだ、あれだという特定の者ではない。

何者でもない者、わたしは・・即ち・・わたし・・である。

I AM that I am !

これが真実の表明なのだ。


●永遠の今・・吾あり

オー・マイ・ゴッド! とは、どこかの神に向けた想いではなく、自己自身に向けた感嘆符である。

「Oh、my GOD!!」

体の大きさや性格、年齢、血筋、年収、経歴等も、そう・・各自の体験の記憶さえも、

どうでも良い、まったく枝葉以外のものでなく、

それらすべてを可能にせしめている・・存在法則、

「吾・・在り・・」という意識自体が、それ即ち・・自己創造、自己定立原理そのものなのだ。

●動物も神の派生、御使いのようなもの

例えばあなたの家のペット、犬や猫、小鳥等も生命種の1形態であるが、わたしは私だよ・・という自意識は極めて少ないのがわかるだろう。

そう、動物には自意識が無いのではなく、人間ほど顕著ではないだけなのだ。

なぜなら動物にも、個としての意図や行動があり、そして外界刺激に対する反応がある。

動物にある「意識」、それが人間にとって単純に見えていても、

意識~意図~エネルギー~行動 という意識の発現様式、つまり創造のプロセスを表現しているのである。




たとえそれが未分化であっても、人間の赤子の時がそうであるように、

「吾在り・・」意識が根っ子にあるのである。

そう、すべての生命の根源には「吾あり・・」があるということだ。

根源は、ただひとつの・・わたし・・それを神とか創造主とか根源とか名づけているだけの話だ。

●外から内に還るとき

大きさや、重さ、お金の額、そういう物量的な大きさの比較論ばかりが氾濫する現代文明では、

これは、一体全体なんのことやら意味不明ということになるが、

それは全くもって「灯台もと暗し」であり、あるいはよく例えられるように、

王様が自分を乞食だと思い込んでいる悲喜劇を示している。

自己自身の存立原理に気付かないこと、それを何千年もの転生で繰り返しをしてきたわけで、

まさにそれは喜劇や悲劇という名の幾多の人生劇場と言えるだろう。

「おー、マイ、GOD!」
・・・・

●物・銭・金の支配観念から抜け出せ
それが何の役に立つ?とか、

効果はどの程度なのか?とか、

お金でいくらになる?とか、・・・・

この世相の中で、ついついそういう思考や、感覚になってしまうことで、

いつもいつも、今ある奇跡的な自己の在り方から、意識をそらせていたことに、

もういい加減に気づくべきであろう。

外側から来る刺激、びっくり仰天、どかーん、バッコーン等という爆発的な刺激の中には・・、

身体の安楽さからくる、目くるめく夢心地の麻痺的感覚の中には・・・、

死ぬの生きるの・・という怒涛の激情の中には・・

決して真実は無い。


しかしながら、現在どれほどの魂達が自己の無限性を思い出しているだろうか、

自己の自己たる存在原理、真実に気付いているだろうか?

時間など存在せず、在るのは、今・・という常なる瞬間しかないのだ。

今、目覚めないで、一体全体・・いつ目覚めるのか?

ただ、それが問題ともいえるかもしれない。

あなたは気付いているか?

・・・
●放蕩息子の帰還
わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・

つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを自己発見している・・

あるいは、自己が自己を創立せしめている、・・・つまり原初の創造者と言えるのである。

吾・在り・今・という事実感覚以外に、実際確かなものは何もない。

・・・
誰でも人生において、寝ても覚めてもあるのは・・今の・わたし・・ではないか!

生れてから、もの心つき、常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、

これこそが、生きている意味において、根本にある事実なのだ。

それがなければ、ここに生きてはいない。

そうだろう?


常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、

意識する・「わたし」・・において、

その「今」から・・時間が生まれ、その「ここ」・・から空間が生まれ、

多くのわたしの創るそれらの世界が、多次元世界として表出している。

何ごとも、内から外に展開している真実に気づけるか。


それが何の役に立つ?・・という、経済植民地にて擦り込まれた思考で、

事の本質から目をそらさないことだ。

どんな効果?・・という、刹那的・功利的思考で、

もう、事の本質から目をそらさないこと。



I AM that I am !

oh! my GOD!





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わたしとは何か(9)時空を超えた観照者

2015-10-25 06:03:35 | 新たなる地平線
●3次元時空とはなにか
例えば、DVDビデオを再生プレーやにかけると、スクリーンに映像画面が現れ。
その中で様々な人物や時代、土地、歴史の物語を観ることが出来るように、

我々の世界も実際それと似たような構成と言えるわけで、この世は幻想だとかホログラムだとか言われる所以である。

しかしながら、この世界は、いわゆる「次元」という存在ファクターが2次元平面ではなく、つまり、TVスクリーンのような2次元画面ではなく、それは3次元的なものであり、

立体的な感覚つまり「空間」と、その中のエネルギー:物質、それらの変化の持続つまり「時間」を認識することが出来るものだ。

●現代科学ではこの世は4次元
簡単に言えば、我々は・・・
XYZという3次元空間の中の、様々な物質形態の運動・変化を観察しているわけだ。

太陽があり、月が運行し、風が落ち葉を舞い上げ、川が流れ、
人々が往来し、鳥が空を飛んでいる・・、

我々は、そういう3次元的な時空の中の、様々な変化を観ているということだ。

そして、様ざまな変化の履歴・記憶が「時間」と呼ばれるものであり、

それらが4次元時空と呼ばれる我々のこの世界ということになる。

これは物理学的な常識であって、突飛な思いつきではない。




・・・
●時空はそれを観るための「スクリーン」でしかない
しかしながら、ここで肝心なのは、その時空間が出来ている、

物理的な背景をどうしたこうしたと追求している・・その以前に、

それを認識している「人間」がいなければならないはずだ・・ということ。

人間は、それを「意識する」「観察する」ことが出来る存在という意味だ。

●意識不在の欧米型科学の終焉
結局欧米流の科学技術は、外側のスクリーンの動き方ばかりを探究しているわけで、

究極のヒッグス粒子やら、CERNの極大化されたエネルギー場での時空の挙動、ブラックホールが出来るか等、ドキドキしながら試しているわけである。

つまり、あれは「多次元時空」に気付いているからこその、それも実に「危険」な実験なのである。

地球の時空間スクリーンに「穴」を開けられるか?そこから別次元が見えるか?という実験だ。

しかしながら、時空間スクリーンに「穴」を開ければ、向う側が見えたとしても、こちらのスクリーン自体が、つまりこの時空自体がひび割れて、崩壊してしまう危険性もあるということだ。



なるほど、ここにも究極の唯物論的世界観の飽和と崩壊が見てとれる。

行き着くところまで行った、人間不在の物質的世界観・・の、その崩壊を見てとれるのである。

・・・
●世界は意識の中に現れている
多次元大宇宙に、その物質現象として、小さな人間がいる・・としている観点。

つまりこの小さな肉体が人間だという観点にほかならない。

何cm、何kgという物理的大きさによる自己存在規定であるが、

世界というもの、それを認識する側の人間の「意識」に気付いていない。

観察者不在の・・観察対象などあり得るはずもないではないか。

観察する行為がなければ、観察物は存在していないも同然である。


「意識」しなければ、何事も「顕れ」ようがないのだ。

あなたも人生において、これを会得したはずである・・・。

あるいは、得たのは自分以外認めないところの、

その時だけの儚い自己の地位や名誉や、財産だろうか。




●観なければ現れない
そこに花瓶があって、花が活けられていたとしても、

誰もそれを観ることがなければ、それが存在していることを誰が証明するのか?

誰も観ていないものを、一体全体だれがその存在の証をたてるのだ?

いいや、永遠に存在していないままなのである。

在るのに気づいていない・・のではなくて、存在していないのだ!

意識で・・気づかなければ・・・何も出現しない。

つまり、人は皆色々なものの存在を与える者、つまり創造主の端くれなのである。

極めて身近で単純で、当たり前なのだが、ここに気付いていない人々が多いのである。

人が気付いて、観察し、認識をしなければ、何事も存在しないという事実である。

例えば、色々な常識ならざる奇跡なども、観ることで現象化するという原理原則から来ている。

スプーン曲げも明確なイメージと確信による現象化だし、

ラッキーな出会いや遭遇なども、その要因が意識の中にあるからである。

したがって、何に気付いているか、何を想っているか・・常に注意が必要でもある。

だから、<自己観察>が極めて重要なのはそれが理由である。



・・・

そう、あなたがいなければ、あなたの世界はないように、

人間がいなければ、あーだ・こうだという世界は現れない・・!

主人公は、外の世界やそこで動き回る物ではなく、

それを観察しつつ世界を描き出している、それぞれの「あなた」なのだということだ。

決してスピリチュアルな気休めでもなく、これが厳然とした「事実」である!

これはXYZ、tの4次元を含み、それを越えている言わば五次元認識だ。

今までも、そうであったのだが、気づいて認識せねば、それが現れないという原理。

こころを度外視して、物理現象のみが追究するに値する客観的な事象だという・・

誤った3次元的世界「認識」は、もう不要である。


●旧世界文明は終っている

なるほど、今までは、この事実に気付かされる事のないように、

様々な便利で快適な文明の利器で誤魔化されて来たとも言えるかもしれない。

しかしながら、これ以上に便利な利器は出てきそうもない現実にも気づけるだろう。

手で操作する万能端末、スマホの普及の後には、それを頭に埋め込むのだろうか?

それは人間が次元をさらに下る行為であり、そもそも、人間にこれ以下の次元などありはしないではないか。




量子物理で発見された「観察者効果」は、あまり支配や利益に好都合ではないようで、

あくまでもCERNや核兵器等というような。より威力を求める方向に行っているようだが、

そちらの旧次元認識は、やがて崩壊してゆく定めにあり、

それらに惑わされない様にしなければならないはずである。

・・・
●わたしとは何か
わたしとは、わたしの世界の原点であり、

それは見はるかす限りの、聞こえる限りの、

知覚する限りの世界の「原点」なのである。


原点無くして座標軸、世界は生まれず、

その知覚する行為そのものによって、世界が生じているのである。

世界がまず先にあって、そこに私が偶然に転びこんだものではない・・のだ。


多次元世界であろうと、すべては全包容意識の投影するものであり、

その意識の中の、ひとつの意識である「わたし」が観ているのが、

それを観察して、在らしめているのが、この世界そして宇宙である。

意識的に、観ることでそれを在らしめている。

どう在るかは・・・、どう観じているか・・ということだ。

●正しく観る

古来からの仏教では「正見」といっている。

正しく見る、とは・・・自己の内面を、迷いなく観察する行為である

収入の上げ下げや、他人様の顔色や、世界の混乱のことよりも、

それらすべてを観ているわたし・・・自己内面の観察なのである。


観察が正しくあるべきとされている・・、

なぜならば、人の諸行・現象は、その存在の内面の投影像であるからだ。

外の世界とみえるものは、内であり、内と観えるものが外として展開する。

意識~意図~想い~エネルギー・現象化・・であり、

それぞれの世界は・・・「意識」という、それぞれの「わたしの内面」の観察行為によって、

それぞれの・・わたしの世界に描き出されるものであり、

それは神なる根源が、あらゆる全てを展開している有様と同じなのだ。

一は多であり、多は・・すなわち、ひとつである。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。