福音について

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

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 山上の説教で、イエスは律法を厳密解釈してすべての人が罪を犯し神と断絶していることを明らかにした。
 神との断絶は、この山に集まるひとりひとりの心の貧しさに結びついている。
 律法違反という罪を悟って悔い改めること、これが救いへのスタートラインとなる。
 そのためにはまず、このイエスの律法を遵守しなくてはならない。どうにも守れず降参するときに、はじめて自身の肉の罪を悟る。

 次いでイエスは呼びかける。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。」
 罪人が罪からの赦しを求め続けるならば、神はイエスを介して赦してくださる。
 神と和解でき、聖霊が内住して下さる。
 腹が満ち足りるわけでも病が癒えるわけでもないが、その人は芯のところで満ち足りる。
 これが福音である。

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他人のちり

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

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 聖書とは何か。
 あえて短くまとめると、個人の魂の救済についての書物である。
 十字架と復活のイエスを仲介者として、神と個人との関係回復を図るための書物である。
 この山上の説教は、どの人も罪人であることに気付かせるためのものである。
 神の子イエスの十字架は、その人の罪深い肉に処罰を与えるための、罪なきイエスの身代わりの業である。
 そして復活は、その業が神に良しとされた結果である。
 私たち個人個人は、イエスが切り開いたこの道に、たった一人で入らされる必要がある。
 その道を通り抜けて神に良しとされて、神-イエス-私という和解の関係ができあがる。
 この救いそれ自体には、他人も兄弟もない。すべてが個人の問題である。

 だから、他人の目のちりを云々する前に、自分の罪(丸太)に気付くことが遙かに大切なことになる。
 他人の罪は、自分の救いには関係ないのだ。
 第一、その人のちり(罪)は、その人の救いのためにはその人が自ら気付かないことには意味がないのであるから、単なるおせっかいにすぎないのである。

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真に求めるべきもの

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)

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 山上の説教より。

 新自由主義下でのマテリアリズム全盛のこの世。
(「新自由主義」といっても、単に原始的な資本主義なだけだ。)
 カネ、モノ、カネ、モノ……なんでも溢れている。
 加えて情報過多でもある。
 そしてそれらが欲しいから、サービス残業も受け入れざるを得ない。
 気付くと悪循環に陥っていて、私たちはマテリアリズムの奴隷となっている。
 この世に神はおられないかのようだ。

 いや、神はおられるのだが私たちには見えないだけだ。
 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とイエスは言う。
 神を真摯に求める者は、必ず神を見いだす。
 仲介者イエスによって、御父との和解が叶う。
 まず求めることはこの和解であり、これが叶えば物質的なものも満たされる。
 といっても、カネ、モノ、カネ、モノ……に溢れかえるということではない。
 過不足ないだけのものが与えられるのである。

 幸いとは、物質に満ちあふれることではない。神との和解にある。
 そのことは、伝道者の書(コヘレトの言葉)を書かざるを得なかったソロモンの失敗によって、私たちはすでに学んでいるはずだ。

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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 山上の説教より。

 「目」というのは、「全身」へと光を導き入れる採光窓のようなものだ。
 だから目が明るければ全身が明るくなるし、目が暗ければ光が入らず全身は暗い。

 次にイエスはこう仰る。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。
 今まで用いてきた「全身」ということばではなく、「あなたのうち」という言葉が用いられている。
 だから、採光窓としての目の話から切り替わっている。
 というより、目の話は単なる導入にすぎない。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが私たちの中で光放たなければ、その暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うと、ニコデモ、彼がこの暗さに絶望している。
 その点ではどの人もニコデモとそれほど変わるところはないだろう。
 その暗さ自体に気付いていない人すらいる。

 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が、内側から輝く。
 内側から輝くいのちの光が、体内を明るく照らす。
 イエスは、すべての人が失ってしまっているこの「いのち」を与えるために、この世に来られた。

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[一版]2007年11月18日
[二版]2010年 5月 4日
[三版]2012年 1月15日
[四版]2013年11月 1日(本日)

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