しるし

 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」(マタイ16:1-4)

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 しるしを求めるパリサイ人。

 なぜしるしを求めるのだろう。
 しるしを見ることができれば、イエスを信じよう(信じてやろう)ということだろう。
 それでイエスは「悪い、姦淫の時代」と言っている。
 私もかつて教会に行き聖書を買い求めて、よし自分も信じた、そう思ったことがあった。しかし、それが信仰とはとても呼べない内面の動きだったことは言うまでもない。

 信仰は、信じるのではないし、ましてや、しるしの類で納得するものではない。
 イエスによって、信じさせられるのである。
 唯一与えられたしるし、イエスの十字架と復活が内面に入って初めて、そのイエスに信じさせられる。
 そうなるために私たちにできることは、準備を整えてその恵みの時を待つことだけである。

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