他人のちり

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

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 聖書とは何か。
 あえて短くまとめると、個人の魂の救済についての書物である。
 十字架と復活のイエスを仲介者として、神と個人との関係回復を図るための書物である。
 この山上の説教は、どの人も罪人であることに気付かせるためのものである。
 神の子イエスの十字架は、その人の罪深い肉に処罰を与えるための、罪なきイエスの身代わりの業である。
 そして復活は、その業が神に良しとされた結果である。
 私たち個人個人は、イエスが切り開いたこの道に、たった一人で入らされる必要がある。
 その道を通り抜けて神に良しとされて、神-イエス-私という和解の関係ができあがる。
 この救いそれ自体には、他人も兄弟もない。すべてが個人の問題である。

 だから、他人の目のちりを云々する前に、自分の罪(丸太)に気付くことが遙かに大切なことになる。
 他人の罪は、自分の救いには関係ないのだ。
 第一、その人のちり(罪)は、その人の救いのためにはその人が自ら気付かないことには意味がないのであるから、単なるおせっかいにすぎないのである。

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