人間という嵐

 「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:24-27)

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 荒れ狂う湖をなぎにするなど、一体どうやればできるのだろうか。
 だがイエスは、たやすく嵐を収めてしまう。
 私たちとイエスとでは、何が違うのだろう。

 神の子イエスはこの世の全てをお造りになられ、自然界すべてがこの神の子に統御されている。
 その統御に従わないのは、アダムの違反以来の人間くらいだろう。
 私たち人間も神がお造りになったにもかかわらず、アダムの違反以来人間と神との距離は遠く離れてしまい、人間は神の御前に罪深く、絶えず葛藤を抱えている。
 私たちは神の統御の内にあるときに、もっとも生きやすくできている。
 もともとそのように造られたのである。

 人間の側からその本来の関係に戻ることはできない。人間が湖をなぎにできないのと同じだ。
 神があわれみの手を差し伸べてくださって、それで救われ罪赦されて、本来的な関係性へと戻ることがかなう。
 人間という嵐をイエスが静めるのである。

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[一版]2012年 3月 3日
[二版]2013年11月10日(本日)

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