からし種ほどの信仰

 「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)

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 イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
 つまりそれは、信仰があるのである。
 信仰とは、あるかないかのどちらかしかなく、たとえば30%信仰があるとかということはない。
 違う言い方をすると、信仰は獲得するものではなく与えられるものである。
 罪を自覚しその十字架を背負って死に、よみがえって与えられる。
 この過程で、私たちの内で何かがごろっと大きく動く。山が動いたのである。
 もし実際の山を動かすほどの力が欲しいと思うとすれば、それは、自分は神になりたいというのと同義になってしまう。
 そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあることなのである。

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