死んで生きる

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 いのちとは、また、いのちを見いだすとは。

 ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。
 いわゆる「ソロモンの栄華」というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。
 ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを損なってしまったのである。
 もっとも、このいのちはアダムの違反この方、人間から失われ続けており、そのいのちを人間が回復するよう、キリスト・イエスが十字架に死に復活した。

 「自分の十字架を負い、」とは、文字通り、極刑の十字架を自分が背負うことを指す。
 つまり、人間は律法に照らして極刑相当の存在であり、そうとわかれば極刑の十字架に架からざるを得ない。
 それが赦され救われるための、イエスが切り開いた唯一の道なのである。
 すなわち、自分のその十字架を背負ってその十字架に死に、神によってよみがえっていのちを得る(参/ローマ6:5)。
 そのように死んだ者こそ、かえってよみがえりいのちが与えられる。
 罪赦され、神との和解が回復する。心の芯のところに安心感がある。
 一方、上に挙げたソロモンは、こう叫んでいる。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

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[一版]2010年 7月18日
[二版]2013年11月27日(本日)

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