自分の十字架について

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)

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 聖書全体を代表する聖句として、ヨハネ3:16がしばしば挙げられる。
 同じように、上のマタイ10:38-39も聖書全体を代表するもので、救いについて端的に言い表されている。

 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」は、たとえばロマ書6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」にぴったりと符合する。

 極刑である十字架によって私たちは自身を失うのであるが、そもそも私たちはそのアダムの肉の罪深さのかどでこの十字架を背負わざるを得なくなった。
 その罪を自覚して重荷に耐えつつイエスに付き従ってゆくことが、救いのためにどうしても必要となり、その人はいずれキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる。
 よみがえって御父との和解を回復し、「いのち」を得て信仰を頂ける。
 この過程は、イエスの十字架と復活がひな形になっている。

 自分のうちに罪が内在していることに悟ることが、その人が「自分の十字架を負」うということであり、スタートラインである。
 頭での理解では足りず、心が打ちのめされるような、そういう体での理解である必要がある。

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