心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 割礼というのは、信じていることの印を自身の体につけること、とでもいえばいいのだろうか。
 ここでいう信じる、というのは、もっぱら旧約信仰のことである。

 外見(そとみ)を、神は判断されない。
 いいかえると、行いが信仰に至ることは、ない。
 行いというのは、どこまでいっても行いきれるものではなく、かえってそれとは反することをしてしまうのである(ローマ2:17-23)。

 そうこうして行き詰まってゆくと、やがて恵みによって「神から来るもの」を賜る。
 心の割礼だ。
 それは、密やかな、だが神から賜った信仰の印である。自分でつけたのとはわけが違う。
 ここでいう信仰とは、十字架に死んでよみがえった御子イエスを信じる信仰のことだ。
 イエスへの信仰とは、「神から来るもの」なのである。

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