神の御目に適う人

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:9-10)

---

 例外なく、すべての人が罪( sin )の下にある。

 ここでいう罪とは、たとえば窃盗罪で捕まって裁きを受けるとこ、そういう意味での罪(刑法上の、または社会通念上の;guilty )のことではない。
(それにしても、日本語聖書はどうして sin に「罪」という字を当ててしまったのだろう。)
 では何故、すべての人が罪の下にいるのだろう。
 それは「義人はいない。ひとりもいない」からだ。
 すなわち、神の御目に適う(かなう)人間など、ただの一人もいないのだ。
 この神の御目に、すべての人は罪の下にある。

 二千年前、神の御目に適った人が存在した。
 バステスマのヨハネからバステスマを受けたイエスである。
 このイエスがすべての人の罪を背負って、神の御前にその肉を十字架につけて処罰された。
 それで、この十字架のイエスを信じる信仰が、その人の罪への赦しを与えるのである。
 すなわち、神の御目に正しいと「みなされる」。

 ただ、すべての人がその信仰を持つわけではなく両者が存在するということは、イエスのさまざまなたとえ話からも明らかなところだ。
 信仰とは恵みにより持たせていただける、そのようなものだからである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )