自分を救ってみろ

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:39-44)

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 「神の子なら、自分を救ってみろ」。

 十字架上のイエスは、けっして御自身を救わない。
 この十字架で自らの肉を処罰することがイエスのわざであり、多くの人にとっての救いなのだから。
 もしここで十字架から降りてしまったならば、イエスが世に来られた意味もなくなってしまう。
 正にこのときのために、イエスは世に来られた。

 イエスを理解しない人々は、「十字架から降りて来い」とののしったり、あるいは逆に、それに期待をかける。

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