神を知ろうとするということ

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」(ローマ1:28-31)

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 神を知らない者、また知ろうとしない者への、ありとあらゆる罵詈雑言が並べられている。
 だが、その罵詈雑言には根拠がないのではない。
 「神は彼らを良くない思いに引き渡され」たのである。

 彼らの「良くない思い」には、自覚が全く伴わない。
 自分が良くないことをしているということ自体、気付かない。
 例えば、上記の「陰口を言う者」ひとつとってみても、その頻繁な行為とは裏腹に、自分が「陰口を言う者」であることなど全く頭をよぎらない。
 それは、神が「彼らを良くない思いに引き渡され」たからである。
 盲目にされた存在なのだ。

 だが、神を知ろうとすることによって、目が見えるようになる。
 そうすると、陰口を言い放っていた者が自身の陰口にすぐに気付いて、恥じ入る。
 全てを秩序立てている神を知ろうとするのだから、これはごく自然な変化である。
 今までが死に閉じこめられていたのだ、ということも、見えるようになった目にはっきり映し出されるだろう。

 こうして求道が始まる。

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