身代わりの愛

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)

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 アダムの肉を持つ罪深い人間は、それゆえ神の怒りの下にある。
 しかし、そのさなかに神の愛の手が差し伸べられた。
 私たちの肉の身代わりとして極刑の処罰を受けたキリストの十字架である。
 この十字架を信じることのできた者は、自身の罪深い肉が処理されて義と認められる。
 キリスト同様に、復活するのである。
 神の愛とは、このことを指す。

 義なるお方はただお一人、神だけである。
 人はみな不義であり、罪深いことにかわりはない。
 ただ、それにもかかわらず義と認められるか認められないかが、決定的に異なるのである。
 義と認められて神と和解するとき、神の怒りから救われ、イエスの永遠のいのちに預かる。

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