行ないの原理、信仰の原理

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:27-28)

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 例えば電車で席を譲ると、いいことをしたと少し誇らしく思う。
 そしてこのことは、公共のマナーにも適って(かなって)いる。

 だが、そうした善行の類というのは、神の御目には全く留まりもしない。
 何故なら、既に行ないの原理は取り除かれたからだ。
 キリストの十字架は、この行ないの原理を取り除いたのである。
 そして、この十字架を信じる信仰の原理が、キリストを復活させた神によって導入された。
 神はもっぱら、この信仰をご覧になる。

 そういうわけで、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」のである。

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公にされているイエスの十字架

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26)

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 十字架のイエスは、なだめの供え物として、神が公にされた。
 なだめる対象は、神である。
 そのための供え物を、神が公にされる。
 神は、御自らそのようにされた御子イエスの十字架をもって、その肉の処分を通して神の義を現された。
 私たちは、準備されたイエスの十字架を信じることができれば、義と認められる。
 この恵みこそ、新しい契約における神の義である。

 繰り言になるが、十字架のイエスは既に公にされている。
 そのイエスを信じることで、(義からは程遠い存在であるにもかかわらず)義と認められる。

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値なしの義

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

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 すべての人が罪を犯している。
 人間はアダムの肉を引き継いでいるので、神の御目に正しいとは映らず、その神の御前にはすべての人が罪深い( sin )。
 何をやったから罪だ( guilty )というよりも、そもそも罪深い存在としか神には認めていただけない。「義人はいない」のである。
 それゆえ、この絶対的な存在である神から、栄誉も栄光も受けるには私たちははるか程遠い。

 ここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。
 それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
 イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰して死に、三日目に神によって復活する。
 それは、このイエスを信じる私たちのアダムの肉に神の赦しがおりるための、救いのみわざだ。
 私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義とされて(義認)、罪赦される。

 では、「信じる」とはなんだろうか。
 それは、「神の恵みにより」はじめて得られる営みだ。
 つまり、とても通れそうにない針の穴を通ってしまうことが「神の恵み」である。
 その神の恵みには、対価は全く要求されない。
 「価なし」である。
 ありていにいうと、神はいけにえを要求されない。
 値なしにもかかわらず神はその人を恵んでくださり、十字架のイエスを信じる信仰に進ませてくださる。
 人はその信仰によってのみ、義と認められる。

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新しい約束

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:20-22)

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 律法とは、神の完全な秩序の文字である。
 これを守るように言われた人間には、しかし、律法を行い切ることがどうしてもできない。
 そのことは、イエスの山上の説教で先鋭化して明らかにされる。
 そうすると、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」とあるのは、そもそもだれひとり、神の基準に照らせば律法を行なうことができておらず、それゆえ義に到達し得ない、ということだ。
 これが旧約の時代である。

 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」。
 すなわち、十字架のイエスと、その復活である。
 イエスは肉を十字架につけてこれを処罰し、神がその処罰を良しとしてこのイエスをよみがえらせた。
 ここでいう「肉」は、私たち一人一人の罪、アダムの肉のことである。
 イエスが旧約時代よりメシア(キリスト:救世主)と待ちこがれていたのは、この意味において成就した。イスラエル再興という些末なことのためになど来られたのではない。

 そして、このイエス・キリストは、新しい約束をこの全世界に導入してくださった。
 それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」である。
 イエスが私たちの罪の身代わりに十字架で処罰したのであれば、神の御目に、私たちはキリストにあってこの罪は赦されている。
 しかも、その処罰の正当性は、神のわざである復活によってゆるぎない。
 だから、キリストによる罪の赦しもまた、ゆるぎない。旧約時代とはその点、全く異なる。

 イエス・キリストを信じる信仰は、全世界すべての人の鼻先にぶらさがっている。
 だが、すべての人がイエスキリストを信じるわけではない。
 更に言えば、パウロの回心(使徒9:3-19)のようなことが、キリストの信仰のために不可欠なのだろう。
 ちなみにこのパウロは、律法を突き詰めようとしていた。
 人間が、神の基準に照らせば律法を行なうことができておらず、それゆえ義に到達し得ないということ自体は、今も全く変わっていない。
 この律法が、義に飢え乾く人を追いつめ、義とされるための新しい約束へと進ませるのである。

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神の御目に適う人

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:9-10)

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 例外なく、すべての人が罪( sin )の下にある。

 ここでいう罪とは、たとえば窃盗罪で捕まって裁きを受けるとこ、そういう意味での罪(刑法上の、または社会通念上の;guilty )のことではない。
(それにしても、日本語聖書はどうして sin に「罪」という字を当ててしまったのだろう。)
 では何故、すべての人が罪の下にいるのだろう。
 それは「義人はいない。ひとりもいない」からだ。
 すなわち、神の御目に適う(かなう)人間など、ただの一人もいないのだ。
 この神の御目に、すべての人は罪の下にある。

 二千年前、神の御目に適った人が存在した。
 バステスマのヨハネからバステスマを受けたイエスである。
 このイエスがすべての人の罪を背負って、神の御前にその肉を十字架につけて処罰された。
 それで、この十字架のイエスを信じる信仰が、その人の罪への赦しを与えるのである。
 すなわち、神の御目に正しいと「みなされる」。

 ただ、すべての人がその信仰を持つわけではなく両者が存在するということは、イエスのさまざまなたとえ話からも明らかなところだ。
 信仰とは恵みにより持たせていただける、そのようなものだからである。

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怒りを下す神

 「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」(ローマ3:5-6)

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 「怒りを下す神は不正なのでしょうか」。

 絶対にそんなことはない。
 それどころか、神の怒りこそ、神の神たる絶対的正義の源泉である。
 それ以外にも、神のあわれみ、神の恵み、そして神の愛、こういった諸々の万能性、これらを目の当たりにして、私たちはこの神にひれ伏している。
 私たちが正しくないが故に神が正しい、そのような次元の話ではない。

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心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 割礼というのは、信じていることの印を自身の体につけること、とでもいえばいいのだろうか。
 ここでいう信じる、というのは、もっぱら旧約信仰のことである。

 外見(そとみ)を、神は判断されない。
 いいかえると、行いが信仰に至ることは、ない。
 行いというのは、どこまでいっても行いきれるものではなく、かえってそれとは反することをしてしまうのである(ローマ2:17-23)。

 そうこうして行き詰まってゆくと、やがて恵みによって「神から来るもの」を賜る。
 心の割礼だ。
 それは、密やかな、だが神から賜った信仰の印である。自分でつけたのとはわけが違う。
 ここでいう信仰とは、十字架に死んでよみがえった御子イエスを信じる信仰のことだ。
 イエスへの信仰とは、「神から来るもの」なのである。

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善行とは

 「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
 神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:6-11)

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 「善を行なう」とは、どういう事だろう。
 善、とは何に照らして判断されるのだろう。律法だろうか。

 「善を行なう」とは、いわゆる行ないによる義とは似て非なるものである。
 何故かと言うと、善行の最たるものは、神が遣わした御子イエスを信じるというわざだからだ。
 そのわざを行うには、神の恵みがどうしても欠かせない。
 そうすると、イエスを信じる信仰、また、そうありたいと神の恵みを信じる信仰、このような信仰による義が、すなわち神にとっての善なのではないだろうか。

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悔い改めへの導き

 「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

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 神がその人を、悔い改めへと導かれるのである。
 その人が悔い改めるのではない。
 アダムの肉が自力でどうにかなる、そんな生やさしいものではないからこそ、キリストが十字架で肉を処罰して死に、よみがえられた。
 同様に、これこれこうすれば悔い改めに至る、というような方法論もまた、存在しない。
 ただ神の恵みによって、その神がその人を悔い改めへと導かれるのである。

 そうであるためには、神の慈愛や寛容を信じ続けるという下地が欠かせないだろう。
 それがあれば、時至って復活のイエスに出会うこともあるかもしれない。

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神を知ろうとするということ

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」(ローマ1:28-31)

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 神を知らない者、また知ろうとしない者への、ありとあらゆる罵詈雑言が並べられている。
 だが、その罵詈雑言には根拠がないのではない。
 「神は彼らを良くない思いに引き渡され」たのである。

 彼らの「良くない思い」には、自覚が全く伴わない。
 自分が良くないことをしているということ自体、気付かない。
 例えば、上記の「陰口を言う者」ひとつとってみても、その頻繁な行為とは裏腹に、自分が「陰口を言う者」であることなど全く頭をよぎらない。
 それは、神が「彼らを良くない思いに引き渡され」たからである。
 盲目にされた存在なのだ。

 だが、神を知ろうとすることによって、目が見えるようになる。
 そうすると、陰口を言い放っていた者が自身の陰口にすぐに気付いて、恥じ入る。
 全てを秩序立てている神を知ろうとするのだから、これはごく自然な変化である。
 今までが死に閉じこめられていたのだ、ということも、見えるようになった目にはっきり映し出されるだろう。

 こうして求道が始まる。

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