リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

吉本隆明「大衆の原像」とは

2023-12-16 13:15:40 | その他
 こんにちは。東京地方相変わらず天気不安定、おかげさまで雨も降りまして、ずっと荒れてたわたしの咽頭が湿気でようやく直りました。鼻が悪くて、夜、口開けて寝るもんだから、基本毎晩ヒリヒリ。今、子供の間で咽頭炎がはやってるそうで、この荒れた喉に細菌やウイルスが飛び込めば一発でやられて当然。じめじめも悪いことばかりではありません。
 暮ですね、忘年会とかやりました? 私はもう4年やってない。私はお酒飲むのでみんなでわーっとやるのがいいんですが、チャンスないねえ。。昔、池袋清龍とかで(さらに安手の養老の滝みたいなもん)まぐろブツや2級酒で飲んだのも懐かしい。
 飲まない人はそうでもないのかねえ、、いまどきは食事だけで楽しめるところもいっぱいあるんだろうね。
 
 さてニュースなど。
 まずは大谷さん、ドジャースに明るく移籍。
 明るいニュースだらけの大谷に汚点がついてしまった、、可哀そうなエンゼルスファン、しばらく大谷を見るたび思い出すよ。でも裏切りじゃあないんだ、世の中そういうものだというわけ、、

 次。 
「繁殖させないのはかわいそう」ライオンの"避妊"を公表した動物園に批判殺到…実は”百獣の王”の飼育数は飽和状態に…ライオン避妊 決断の背景とは」(北海道ニュースUHB)
 ほんと、なんでもいいたがるお客さん。そのためのSNSだけど、SNSやるんなら何をいわれても動じない心構えでなきゃ。殺到ったって437件ぽっちなのに取り上げたがるメディア。客もお囃子(はやし)もおんなじ精神なんだろうね。

 次。
 ところでさあ、木曜夜8時にNHKでやってるトリセツショーなる番組。ニュース点けっぱなしだと、へたくそな大阪弁が聞こえてきて。このナレーション、ほんとに関西弁? とってつけたようなウケ狙いにしか聞こえなくて、すぐチャンネルを変えたくなる、って、標準弁でも消すんだけどね。毎週気になるんだ。
 ついでに今日の昼、NHKで関西では片手で扱う移植ゴテをスコップ、両手で扱うスコップをショベル、というなんていってたよ。でも「北日本」では逆なんだって。九州だって逆だろ。関西だけ特別と思うぞ。
 しかもショベルじゃないよ、シャベル。

 次。
「じつは「相対性理論」には参考文献が載っていない…!かのアインシュタインでさえも「無からは生み出せない」という衝撃の事実」(現代ビジネス)志村 史夫(ノースカロライナ州立大学終身教授。
 なんちゅうのもあるよ。マイケルソンやモーレイ、ポアンカレ、フィッツジェラルドらの文献さえない、とか。
 およそ教科書並みの知識を参考文献にするのは徒弟制度でやっと教授になれたバカだけだ。
 わたしゃ正直だから、初めの本には社会の高校教科書を参考文献にしたけどね。あてこすりでもある。
 およそ自分の頭がある人間とはそういうものです。
 あ、お子さん方はマネしないように。つまはじきにされるから。

 さて、さすがに本題は前々々回のポイントにしようかと思いましたが、ポイントって書いたら、あ、これ理解無理みたいになってしまって。もう時も過ぎたし、次だとさらに「々」が増える。停止しようかな。
 
 というわけで、今日は本の(批判の)紹介。
 最近はずっと無味乾燥なヨーロッパ史の本ばかり見てるもんだから、図書館で漫画の代わりに借りた
 呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』
(ああ、S区で2年まえのコナン借りたいのに、なかなか予約が途切れない、、しかももう冬休みでさらに混んじゃう。そりゃ古本買えるけどね、置いとく場所がない)
 知ってる? 「論語」で食ってる転向右翼。これが本1冊かけて吉本の「大衆の原像」は大衆じゃないとか批判してるんだけどさ。
 そんな理由で本にすんなよ、いかに評論家稼業とはいえ。「俺には分かんねえ」ってだけの話。
 まず多くの方々には理解されない「大衆の原像」論、転向右翼がわからないのは無理ないが、本1冊書いても分からないじゃあこまったことだ。
 あのね、まず戦中世代というのは、「どう生きるか」が根本にあるのだよ。聞いてる? 呉氏。知らない? 「プロレタリアの倫理」論、て、クロカンだけど。マウント取るなとか言われるかね、俺の勉強時にはそんな本は読まれてなかった? だから教えてあげるさ。聞くは1時の恥。
 人はどうやって生きるか、その主体的な思想的拠点が、「プロレタリアートじゃなくて大衆だ」ということなのだよ。もうわかったろ? いうのやめるよ?
 無理か。
 その大衆はたしかにレトリックの大衆でしかない。転向右翼も大衆だといわれちゃあかなわない。そうじゃなくて、日々生きているふつうの人々の精神を、主体的に自己の中に組み込んで生きる基盤にせよ、ということなの。転向右翼なんか繰り込まないよ。
 1937年、「君たちはどう生きるか」。吉野源三郎が遊びで書いたと思ったら大間違いだ。
 「主体性」って知ってるだろ? 全共闘やったんだから。その組み込みは自分の問題なんだよ。そんなもん幻想だ? 幻想で上等。他人にとやかくいわれるもんじゃないんだよ。
 と、こういえば同書に1節ある逮捕学生の「思想的弁護論」の意味もわかるだろ? 何が法律論の初歩も知らないだ、そこまで馬鹿とは知らなかったさ。わざわざ「思想的」っていってんじゃないか。ほんとに全共闘か? (書いてみて思った、こう書いても呉氏にはわかんないかも、、要するに根本的に「わかんない」ってことだよ)
 まあ、呉氏も「言語美」はある程度理解されてるもよう。図書館でめくったらそこが目に入ったから借りたんだけどね。けどね、「言語美」の意義は、正しいとかじゃなくて、方法にあることをもっと理解してほしいね。単語で載っかってるように、これはヘーゲル問題なのだ。ちょっと次回本の構成が揺らいできたから「言語美」論議で確認したかったんだけど、結局マンガに終わっちゃったよ。
 あ、それと、関係の絶対性もわかってない。関係全体が人間の行動を決める、って? 行動を、じゃないんだ。人間の心を決めるんだ。本ブログ(2010/09/02)ご参照のこと。
 

コメント
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