リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

生産力と人間の矛盾

2009-02-22 21:26:43 | 歴史への視角
 こんばんは、お寒むうございます。
 冬って同じ気温でもだんだん寒くなって、ほんと布団が好き。

 さてと、社会科学をかじったちょっと古い人ですと、「生産力は人間の力だ」なんて言葉を読んだことがあるのではないかと思います。ま、そういう古い人間はお客さんにはいらっしゃらないんでしょうね。
 昔はマルクス主義なんてご法度でしたから、っていつの時代だ、とにかくマルクスの代わりに、自由主義者はアダムスミスを読んだのです。自由主義者って穏健革命願望家って意味ですけどね。そんなアダムスミスの発想が、「人間が生産力を作る」。

 長い前置きでしたが、そんな話ではなくて。
 本当に自由を望む主義者は、個人の立場を守らざるを得ない。他人て奴は、社長であれ部長であれ課長であれ、どれだけ我々を拘束すれば気が済むでしょうか。
 なんて、ほら、いちおう筆名だし。知ってても知らないふりとかね。みんな大人だから。
 ま、そんなことはどうでもよくて。
 
 生産力に魅入られたのが、アダムのリンゴ、人間の原罪、っていう話です。
 
 個々の人間というのは残念ながら他の人々の助けを借りなければ、豊かな暮らしはできない。
 この寒い冬、これなしに生きられるかという炬燵、ストーブ、エアコン、くるまれる布団も自分一人や家族一つで作れるものはありはしない。これがなくなってもいいか、といって、まず誰一人いいとはいわない、と断言してもいいでしょう。日本の800年前は綿を包んだ布団などなかった、天皇・将軍もそんなものは掛けられなかった(PS.絹綿を詰めた着物があったって、訂正)、今は毛布を含めればそれがないのは1万人以下。それが生産力です。
 そして、これが原罪です。個人は誰もが個人では生きられない。それ以上にもっといい暮らしを望んだりする、であればあるほど、人間個人は、他の人々の意思と折り合いをつけていかなければならない。
 
 こればっかりはマルクスもいわない、ってこのブログはマルクスもいわない話ばっかりですが。
 マルクス・エンゲルスの時代ですと、というより、その衣鉢を受け継いだつい20年前までは、「公共権力は階級の区別がなくなると公共権力はその政治的性格を失う」とか言われたもんです、って「共産党宣言」そのまんまですが。
 だからなんやねん。公共権力ってなにか偉いんか。
 政治的性格を失ったら戦争しても鬼畜じゃないとでもいうんか。
   なんちゅうと、戦争は階級が起こすとかいうんだよね。ばーか。
 
 まあ、同じ左翼として現実に戻り、とにかく、道路を作り、橋を架け、水道管を敷設し、そんなこんなは、社会には必須といえる。そこで、ともかくも、国家には公共的な事務はどんな時代にも残る、それをどう表現しようか、というのは、国家を廃止し個人の自由を生きられる社会を探るアナーキストの問題です。
 「国家は公共事務の担い手だ」とするアピールでは、じゃあ、公共的な共同体暴政ならいいのか、という話になる。スイスだってそおさあ、みんな徴兵されて国家のいいなりさあ。

 そんな話よりは、「国家はただの一工場、土木やら働けない人救済やら、そんなカテゴリーに限った仕事をする」、まだこのほうがずいぶんいい気がする。
 これだと、「国家は工場だから下っ端公務員はみな派遣だよ」みたいな話にはなるけど、今の社会、ほっといたってみんな派遣だからね。
 ポイントは「一」工場、というところ。国家を廃止しようという外見を持つボルシェビキが廃止の一歩にもかかれなかったのは、歴史的規定性だけではない。それだけなら、まだスウェーデン的福祉資本主義の道もとれた。そんな発想さえないというのが、「階級」では一見ない、「国家」の権力に涎れをたらし続けるマルクス以来の血の絆、というものです。
 
 どうも切れてない論ですけどね、アナーキストであリ続けるのには、案外苦労するんですよ。

コメント
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