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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『マリー・キュリー』

2023年03月19日 | 観劇記/タイトルま行
 銀河劇場、2023年3月17日18時。

 19世紀末、マリー(愛希れいか)は大学進学のため、パリ行きの列車に乗っていた。そこで出会ったアンヌ(清水くるみ)と希望に胸を躍らせ、当時は少なかった女性科学者として、研究者ピエール・キュリー(上山竜治)とともに新しい元素ラジウムを発見し、ノーベル賞を受賞する。だがミステリアスな男・ルーベン(屋良朝幸)が経営するラジウム工場では、体調を崩す工員が出てきて…
 脚本/チョン・セウン、作曲/チェ・ジョンユン、演出/鈴木裕美、翻訳・訳詞/高橋亜子。2018年韓国初演。歴史的事実ファクトと虚構フィクションを織り交ぜた「ファクション・ミュージカル」、全二幕。

 理学部物理学科卒、専攻は素粒子だった私ですが、今や全部忘れましたし、子供のころにキュリー夫人の伝記を読んで感動した…みたいな経験もありません。でもちゃぴ主演というだけで、ハコとしては素敵なんだけどアクセスが面倒すぎて大嫌いな銀河劇場まで、わざわざ足を運びました。初日から評判が良くて楽しみにしていて、先に観た後輩からも「ゼッタイ好きなヤツ」と言われていたのですが、いただいたお席が3列目どセンターで千鳥でなく床に傾斜がなく、冒頭のベッド上のちゃぴの顔が前列の観客の頭でまるで見えないという事態にげんなりし、ややしょんぼりした観劇になりました。イヤおもしろかったんですけど、ダダ泣きしたんですけど、でも期待しすぎてしまったか、アラというほどではないですがもっとこうしたら…みたいなことが目についた気がしてしまったのです。イヤでも素晴らしい作品でした。
 もともとの韓国ミュージカルとどれくらい違っているのかわかりませんが、まず、せっかくなのでルーベン含めたコロスの衣装(衣裳/前田文子)はもっとデーハーでギラギラした銀と緑、とかにしてもよかったのではないでしょうか。なんなら金と緑でもいい。緑というのはもちろんラジウム・カラーです。ちゃぴがずっと黒ドレスなのは史実なんだろうし(ファクションであろうとこう設定したのは正しいとも思いました)、ソルボンヌの学生たちが黒一色の服装だったり工員たちがくすんだ色の私服や作業着なのはいいんですよ、ナチュラルだしリアリティがあって、シックですらありました。ただセット(美術/伊藤雅子)もレンガ壁と階段だけの簡素なもので色なんてあってなきがごとしだったので、単純に目が寂しかったのです。アンヌも庶民なので色鮮やかな私服を着ているはずもないし、そこは望んでいないので、せめていかにもミュージカルっぽいイメージ場面を歌い踊るコロスはもっと派手でもいいのになー、と私は思いました。ルーベンなんかずっと銀の燕尾とかでいいんじゃないかしらん…イヤ多少の工夫はされていたと思いますが、彼は実際の工場長とトートみたいなルキーニみたいな(笑)非実在キャラクターとを行き来しているような存在のヒールでもあるトリックスターなので、もっと周囲から浮いていてもいいのではないかな、と思ったのでした。
 それから、アンヌはもっと立ててもおもしろかったのではないかしらん。それこそ『MA』がマリー・アントワネットと同じイニシャルのもうひとりのヒロインの物語でもあったように、アンヌもイニシャルがMCとなるような名前にして、マリー以外の一般女性全部を代表するようなキャラクターとして、マリーと完全に対で対等のポジションに据えても、おもしろかったんじゃないかなと思ったのです。マリーと同郷で(しかしあの列車がポーランドからフランスに向かうものなら、フランス人男性があんなふうに乗っているのはおかしいのではあるまいか)ひょんなアクシデントから知り合い、意気投合し、マリーのように天才でもないし、勉強したい大学に行きたい世界の真理を発見したい、なんて大きな望みはまるでない、ごく普通の、でも田舎では食い詰めるばかりなので都会に出てきた、何もできないけどなんでもやるよというバイタリティだけはある、そしてマリーよりよほど世慣れた元気で社交的で生き生きとした女性…とすると、我々観客もまたマリーのようなノーベル賞を二度も取る天才なんかでは全然ないので、アンヌに感情移入して、アンヌになってマリーと寄り添い、支え、励まし合う気持ちでこの物語に参加できるのかな、と思ったのです。その狙いがもっと明確にあってもいいのかも、と思いました。
 アンヌにはマリーのような天才も学力もないけれど、マリーに紹介してもらった工場で地道に一生懸命働きます。マリーが発見したラジウムを使用する工場は最先端で、社長にも進取の精神があり、移民も差別されずにきちんと賃金が支払われ、優秀なら女性がチーム長にも任じられる。みんなが真面目に働いていて仲良しで満たされていて幸せで…という、女性蔑視に耐えながらひとりコツコツと(夫の助力はありつつも、実験室の場面に彼はほとんど登場しない演出になっています)研究を続け苦しむマリーとの対比が、より鮮明に描けるでしょう。
 でも、ラジウムの悪影響が出だすと、工員たちは一転して命を粗末に扱われるようになる…
 被曝の原理が解明される前だったからとはいえ、梅毒と一絡げに診断されて闇に葬られていた、という史実が本当にさもありなん、です…!(そしてこの期に及んで若い世代に梅毒が広まっているという本邦への絶望感たるや…!)今や治療法もあるし、適正な避妊をしていれば(あるいは傷があるのに他人と粘膜接触などしない、というような注意があれば)まず感染しない性病ですが、当時はとかく不名誉な病とされていたでしょうし、実際には患者は男女同数いただろうに女性の方がことさらにふしだらだ乱行のせいだと糾弾されたのです。身を粉にして働き青春を楽しむ暇すらないくらいだったのに、やりまくったせいで死んだなんて言われるなんて…というような歌詞の女工員たち(男性も混じっていましたが)の歌がありましたが、もうホントせつなくてしんどくて観ていて怒りに震えたし、よくぞまんまの歌詞にしてまんま訳してくれたよ、と思いました。これは怒っていい、怒るべき事態です。
 私が爆泣きしたのは夜にアンヌが服を脱いで、ラジウムの影響で青く光る身体を晒した場面でした。犠牲になるのはいつも最前線に立たされる弱き者、名もなき一般庶民、ことに女なのです。アンヌ、つまり一女性、つまり私たちです。何も悪くないのに、指示を信じてただ真面目に働いていただけなのに、誰も危険だなんて教えてくれなかったのに、何故こんな目に…そのあとのマリーとのデュエットももちろん素晴らしかったけれど、その前のこのアンヌの姿が、本当に圧巻で白眉でした。
 アンヌは結局は死を免れたのかもしれない。身体を傷めてはいたろうけれどどこかで生きていて、だからのちにマリーにプレゼントが贈れたのかもしれない。でもアンヌはそもそもフィクションの存在で、私たちそのもののような、私たちのすべてを統合したような存在なのだから、その生死は均一でなく重要でもなくて、最後の場面のような夢や幻のような在り方でいいのです。マリーに寄り添った、マリーを愛した、マリーを支えマリーに支えられた私たち、の概念。清水くるみの上手さと存在感は完全に裏ヒロインのものでしたし、だったらそれをもっと前面に出す構造にしてもおもしろかったのかもしれないな、と私は考えたのでした。
 なので全体には、特に一幕はやや冗長に感じましたし、もっとポイントが絞れて展開して見えるとよかったのかな、と思ったのでした。
 でも夫のピエールとのバランスやエピソードの取捨などがとてもよかったですね。どなたかの感想ツイートにありましたが、「夫婦愛とシスターフッドは両立する」、まったくです。
 史実のマリーはラジウムの危険性に無頓着で、なんならムキになって死ぬまで認めなかったそうなので、こういう形のドラマは実際にはなかったわけですが、そこが本当によくできている作品だなと思いました。原爆に関するアインシュタインなんかもそうですし、それでいうと放射能とはマリーの作った用語だそうですが、世界の真理、科学的な真実はもう発見されたかまだかの違いはあれど厳然とそこにあるのであり、仮説を立てて究明したらいつか必ずたどりつくものであり、そしてひとたび発見されたらそれは広く人々に活用されるべきなのだから使用に特許など設けない、人類が賢く運用することに期待する…というマリーの考え方は、確かに正しいと思いますし私も支持したい。でもラジウムの乱用による人体へのこうした悪影響もそうだし、原子力の兵器としての利用など、邪悪な使い方を考え出す愚劣な人間というものは常にいるものなのですよね、残念ながら、ね。
 世界は今なお核戦争の恐怖の下にあります。そして現在の日本の原発を見ればわかるように、人間の手には負えない、コントロールしきれないテクノロジーというものは確かにある…それはテクノロジーの問題ではなく、それを運用する我々人間の問題です。人類はそれほど賢くはないのです。それは科学者だけの責任ではまったくなく、我々人類が種全体で背負わなければならない業ですが、この物語の中で悩み苦しみ傷ついたちゃぴマリーに涙した私たちがせめてできることは、やはりまずは目先の原発のむやみな運用期間延長ストップとか、ちゃんとした審査なしの再稼働禁止とか、そういうことかなと思いましたよ…
 私とマリーは百二年しか生まれ年が違いません。とっくにすぎたこと、大昔のことではないのです。現代に直結している、今なお解決されていない問題なのですよね、原子力って。だからこそ、架空の物語に感動し泣いているだけじゃなくて、今を生きる者として、責任持って考えないとダメですよね、でなきゃマリーも浮かばれないよね、と思うのでした。
 娘のイレーヌ(能條愛未)へ向けて語られる形で紹介される、マリーの功績もものすごかったです。女性の地位向上に努めたこと、過ちを認め正義を求め真実から目を逸らさなかった姿勢…そうしたことをこそ、見習いたいです。
 派手さのない、ごくコンパクトなミュージカルだけれど、とても深くて、新しい作品でした。性別や人種、国籍になされる言われなき差別、真実の隠蔽、人間の悪意、それでも希望や正義や理想があること…を、静かに、力強く描いた佳作だと思いました。アンサンブル含めて役者みんなが達者で、素晴らしかったです。
 そして卒業後のちゃぴで、初めて歌に不安がなかった気がしました。こんなにも良きミュージカル・スターになったとは…! 難しいけれど印象的な楽曲が多く、楽しかったです。あんなに細いのに、あんなにボタボタ泣いて、あんなに歌い上げて…ちゃぴはすごかった。本当に素晴らしかったです、誇らしかった。良き作品に巡り会えて、嬉しかったです。
 ドラマシティ大楽まで、どうぞご安全に。





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