駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

西UKO『となりのロボット』(秋田書店)

2018年05月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名な行
 女同士、人間とロボット。そんなふたりの恋は不完全なのに真剣で、不器用なのにキラキラしていて、純粋なのに衝動的。キュートでピュアなふたりの少女が贈る最高に愛しいガールズ・ファンタジー!

 「わたしはロボットです/今はだいたい人と同じことができます」か「私の幼なじみはロボットです/今はだいたい人と同じことができるみたいです」のどちらかで始まる連作シリーズで、人間のチカちゃんと、チカちゃんに「ヒロちゃん」と呼ばれるロボットの物語です。「プリンセスGOLD」掲載、2014年秋刊行のコミックスですが、書店の店頭で見つけてふらりと購入してうっかり号泣しかけました。やはり「本屋さんのセレクト」って意味がありますよ!
 私は『ポーの一族』とか『超人ロック』とか『メタルと花嫁』とか、いずれも順に吸血鬼、超能力者、ロボットですが、見た目が歳を取らない存在と年老い死んでいく人間との物語、がツボでして、かつ百合かつSFとあってもう心が揺さぶられまくりでした。てかもうホント深い!
 男女であろうと人間同士であろうと、恋の不安、不確定さ、不明瞭さは変わらないのです。でも「好き」という想いは絶対に絶対にそこにある。だから問題はそれにどう向き合うか、どう疑わないかってことなのです。
 ちょうど『おっさんずラブ』界隈で、「愛とは信じることではなく、疑わないこと」みたいな言葉が感想ツイートに出たりしていましたよね。それなんですよ、同じなんですよ結局。
 ちょっと硬質な絵柄で、いたってストイックに表現されていますが、チカちゃんの在り方とかが類型的でないのがまずいいし、研究員の大人たちもおもしろいし、もちろんヒロちゃん、「タイプ・プラハ」も愛おしい。まだまだ描けそうな、でもとりあえずここまでだからこそいいような、そんな素敵な作品でした。
 ところでチカちゃんはいつヒロちゃんがロボットだと知ったのかなあ…でも子供なりにすぐ受け入れてしまったんでしょうね。そして最初は受け答えに不具合の多いヒロちゃんをお姉さんのように指導したりしたんでしょうね。そうこうするうちに自然と友達になり、好きになった…そして大人になるにつれ、自然と離れた。でも愛はずっとあったし、これからもあるんです。それが信じられる、だから泣ける。素敵な作品です。

 あとがきがまた良くて、読み切り用のネームだったものを連作にしようと提案し指導した担当編集者の慧眼にひれ伏したいです。漫画家本人が無理がっても辛抱強く待ち、熱く励ましたのでしょう。メジャー誌、大手出版社の強みって流通より何より、こういう共同作業にあるんだと思います。同人誌とかネットでの個人の発表ではこういう奇跡は起きないのです。
 著者は他にもいわゆる百合ジャンルの作品を刊行しているようですね。機会があれば読んでみたいと思います。
 
 
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『バリーターク』

2018年05月26日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタートラム、2018年5月25日19時。

 広い部屋、そこにふたりの男。彼らは目覚まし時計の音で起き、80'sの音楽を聴きながら部屋を駆け回って着替えて食べて踊ってフィットネスをして、バリータークという村の話を語る。ふたりは誰か、どこにいるのか、壁の向こうには何があるのか…
 作/エンダ・ウォルシュ、翻訳/小宮山智津子、演出/白井晃。2014年初演、全一幕。KAAT 神奈川芸術劇場と世田谷パブリックシアター初の共同制作作品。

 シアタートラムでの白井晃作品は『ピッチフォーク・ディズニー』『マーキュリー・ファー』『レディエント・バーミン』と観ていて、KAATには行けていません。選ばれた戯曲に興味があって観に行ったというよりは、配役に惹かれて、といったところが大きいミーハーなのです。あと横浜は心理的に遠い…(同じ理由で銀河劇場が億劫で嫌い。いい作品をセレクトしているのはわかっているのですが…)今回もお友達に誘われるがままに出向き、アイルランドっぽい戯曲だよと言われてもイメージできないような無教養さで観ましたが、おもしろかったです。30代の男1(草薙剛)と40代の男2(松尾諭)のほぼほぼふたり芝居のノンストップ100分(正確には全3場かな?)、濃密でした。
 先に見た別のお友達が「全然わかんなかったけどすごかった」みたいなことを言っていて、そうか考えるな感じろタイプの作品なんだな、と覚悟はしましたが、しかし私は考えることをやめられないタイプの人間なので、これはなんの暗喩なんだろう、これはその裏で何を表現しているのだろう、とあれこれ自分なりの解釈をしながら舞台を見守りました。だから、つよぽんファンとか、もしかしたらリピーターなのかもしれないけれど、まだ作品世界の前提が全然わからないはずで舞台と客席とのチューニングもできていないはずの初っ端から、登場人物の言動に大仰に笑う人が多かったのには、私はとまどいました。まだなんにもわかんないのに何がおもしろくて笑えるんだろう…中の人のファンだから早くもその役を好きになって同調しているのかもしれないけれど、なんか阿っているように感じてしまったんですよね。でも私はもともと笑いに厳しいので、これはごく個人的ないちゃもんかもしれません、すみません。
 さて、そんなワケで最初のうちは、これはたとえば核シェルターみたいなもので、そんな閉鎖された空間の中で独自のルールを作って、それを遵守することで正気を保ち世界を存在させているつもりのふたり、の話なのかな?とかも思いました。が、そのうち、これはそういう特殊な状況の話というよりもむしろ、普通の社会の、人生の暗喩なのかもしれないな、とも思うようになりました。私たちの誰もが、もしかしたら端から見たら謎としか思えないようなルールに従って、ただぐるぐる働いて生きている…これはそれを描いている話なんじゃないかしらん、とね。ふたりのドタバタに1時間つきあっているとそんなふうに思えてきたのです。
 ところがそこに60代の男3(小林勝也)が現れる。そしてどちらかひとりはその部屋を出てこっちに来て死ねと言う。イヤざっくりすぎますが。それで私は、わあこれってなんの話?とまたなりました。
 男2は年長だから俺が行く、と言います。歳の順、というのはわかる気がします。死ぬというのが本当に死ぬことだとしたらそれは当然とも言えます。でも、ここに来て、この部屋はたとえば子宮の中みたいなもので、ひとりずつここを出て生まれていきます、みたいなことなのかも?と思ったり。それでも歳の順なのは当然のような気がしました。
 でも、男1が代わりに行くと言う。男2が男1にこの世界を与えてくれたから、男2の代わりに自分が死ぬと言う。なので今度は愛の話のようにも思えてきました。愛する者の身代わりになる精神、みたいな。
 でも一方で、死ぬということがどういうことかは別として、少なくともこの部屋を出て行くということは、この世界からの解放であり何かから自由になることであり救いであり許しであり、となると残される男2の方があまりにかわいそうなのではないの? しかも終盤になって、どうやらこの部屋には先に男2がいて、そこにまだ少年の男1が来て、ともに歳をとりながらこの世界を築いてきたようなことが語られるじゃないですか。ということは男2は男1が来る前にも誰かを迎えその誰かに去られたことがあるの? なのにまた今この男1に去られるの? それとも男2は男1と出会う前は誰か別の年長の男といて、前回は彼が去り男2が残されたの? それもつらくない?
 そこにさらに7歳の少女が現れて、物語は終わります。ふたりとも驚き、おびえ、けれど少女はとりあえずの脅威がないとみると部屋を物珍しげに眺めたりして、椅子に座り、くつろぎ始める。男2の方は、諦観のような絶望のような無表情になる。そして暗転…
 再び明かりがついたら空っぽの部屋で、そこに役者が出てきて、自然と拍手していました。もの悲しいようなせつないような理不尽さに震えるような、でも生きるって愛って死ってこういうものなのかもしれない、と形のない何かをつかめた気が一瞬だけしたような…そんな不思議な観劇でした。
 終盤、客席からはすすり泣きもけっこう聞こえましたが…そしてラインナップのときに立ち上がっている観客もいて、シアタートラムでスタオベって初めて見たとか思いましたが、そうしたことも含めて刺激的でおもしろかったです。
 つよぽんは汗びっしょりの大熱演で、しかしふたりとも噛みもせず緩急自在の台詞まわしに感心しました。松尾さん、よかったなあ。
 男3を女優が演じたり、部屋の中のふたりが女性の演出バージョンもあるそうです。そうね、ここには性別や性差はあまり意味がない、のかもしれません。でも違うものも見えてきそう。不思議な作品ですね。
 あと、プログラムが構成とかレイアウト、写真がなかなかにお洒落で読ませました。立ち見も出て盛況でしたが、回る3会場のうちトラムが一番小さいもんねえ? もしかしたらセットの部屋はもう少し大きくてただっ広く見えてもいいのかなとも思いましたが、とにかくおもしろかったです。

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宝塚歌劇花組『あかねさす紫の花/Sante!!』

2018年05月23日 | 観劇記/タイトルあ行
 博多座、2018年5月5日15時、6日11時、22日15時。

 天智七年五月五日、即位して天智天皇となった中大兄皇子を祝って、近江の蒲生野で盛大な薬狩の行事が催された。その席には、天智天皇、弟の大海人皇子、もとは大海人皇子の妃であったが今は天智天皇の妃となっている額田女王、そして額田女王の姉・鏡女王らが列席していた。この四人を襲った運命のいたずらは、大和朝廷の混沌とした有様を象徴しているかのようであった…
 作/柴田侑宏、演出/大野拓史、作曲・編曲・録音音楽指揮/吉田優子、作曲・編曲/寺田瀧雄、振付/峰さお理。1976年の初演以来たびたび再演されてきた万葉ロマン、12年ぶりの再演。

 みりおちゃんが大海人、ちなつが中大兄、れいちゃん天比古のAパターンを二度、みりお中大兄、れいちゃん大海人、ちなつ天比古のBパターンを一度観ました。
 イチロさんのものもオサのものもアサコのものも、もう宝塚歌劇ファンでしたが何故か生では観られていなくて、初めて映像で見たときには「えっ、これで終わり!?」と思った作品でした。でもミホコの歌声には思い出深いですし大空さんの中大兄の歌は愛聴していて、ずっと生で観たいと思っていたので嬉しい再演でした。かつ主役の役替わり、とてもおもしろい企画だと思いました。
 博多座には珍しく(オイ)ものすごいチケ難公演だったようでしたが(とはいえさすがに中では動いていたのかな?)、みりお会にいる親友のおかけで初見は一階後方どセンター、二回目は二階後方どセンター、三回目は三階席最前列どセンター(ただし落下防止用のガラス板の縁がかなり目障り)というお席で観られていずれもたいそう観やすくおもしろく変化に富み、芝居が心に染みて胸打たれました。いやぁよかった!!!
 私は柴田スキーではあるのですが、宙全ツで観た『バレンシアの熱い花』とか星中日『うたかたの恋』とかは、正直さすがにちょっと芝居として作品としてアナクロかなとは感じたんですよね。でもこの作品は、日本物バイアスでかえって古びなく思える、ということもあるのかもしれませんが、まさに不朽の名作だと思いました。何度も再演されているのでちょっとずつ改変が加わりアップデートされているのかもしれませんし、今回はことに演出が大野先生なのでもしかしたらこれまでと印象がまた違うのかもしれませんが、私はとてもいいと思いました。シンプルで、質実剛健と言っていいくらいの演出だと思うのですが、その削ぎ落とし方がかえっていろいろなドラマや感情を含んでみせていて、描かれていない部分のエピソードを生み出しているようでもあり、素晴らしかったと思いました。四角いスポット照明の使い方とか、意味のある、雰囲気のある暗転、ストレスのまったくない緞帳前の使い方…心地よかったです。
 そして台詞が本当に素晴らしい。古代王朝物だからゆかしい日本語が多い、ということ以上に、会話の妙が素晴らしい。受け答えってこういうものだし、たとえばまっすぐ返事しないことで描けるものってのもあるし、会話の中での絶妙な比喩や皮肉の効かせ方、里歌の暗喩などなど、もう素晴らしすぎました! 『カンパニー』の脚本への不満が浄化される思いがしましたよ…今回の「ル・サンク」が出て脚本が載るなら、どこがどう素晴らしいのかを書き出すために素晴らしいと感じたところに傍線引くだけで真っ赤にする自信がありますよ私!(ウザい)
 そして何より描かれているドラマが、人間関係と恋愛のもつれのドラマが、素晴らしい。というかとにかく好み。これに尽きます。
 残された史実や詩歌はごくわずかで、でもこういうことであったのだろう、とされているこの兄弟とヒロインのいわゆる三角関係は、でも実際はどうだったのかは誰にもわからないのだしまたどうとでも脚色できるものだと思います。代々を見比べることができているわけではないのでわからないのですが、役者の演じ方や持ち味によってもけっこうニュアンスは変わって見えそうですよね。なんせ主役が変わっても成立する物語なんですものね。
 だからこそキモはやはりヒロインの額田なのでしょう。そしてアタマ二回を一緒に観た我が親友は、こういう女が嫌いだしそもそも柴田ロマンがあまり好きでないことがやっとわかった、と言っていました(笑)。彼女が額田を嫌うのは私もわかるし、私だって別に好きじゃないし現実にいても友達にならないと思います。でもこういうことってあると思うんだよね、こういう女ならこうなっちゃうと思うんだよね~、ってところに私は萌えるのです。萌えて物語を楽しめるのです。彼女は、みりおのファンだからということもあるかもしれないけれど、もっと真面目で潔癖なヒロイン像を物語に求めるタイプなんでしょう。それは現実の彼女の恋愛観とはけっこう違っていたりする。それがおもしろかったです。
 額田は、少なくとも今回の額田は、私は潔癖どころかまったく潔くない女だと思います。でもただ流されているだけの浮気な、意志の弱い、か弱い、かわいそうな女では全然ない。彼女には最初から下心というか権力志向というか、自己実現したいしかもそれでチヤホヤされたい、という意志がちゃんとありましたし、そう描かれていました。大人になっての出番以降はそういうふうには明言しないけれど、そういう希望があることは十分描かれているし、そこに時の皇太子からの誘いがあったんだからそりゃ揺れるよねてか浮かれるよねってのが実によくわかる展開だったと思います。
 でも一応は断ってみせろよ、と言うのがもちろん我が親友の意見なんだけれど、あそこで夫に「自分から断りなさい、そうすれば皇子も容赦してくれるよ」みたいに水向けられて、でも返事をしないで去る、ってのがザッツ・額田なんだとと思うんですよ。そら卑怯ですよ、もう心は揺れるどころか中大兄に傾きかけているのにそう言わないんだから、自分に正直ですらない。まったくもって潔くない。額田がここで何も言わなかったのは、大海人を傷つけたくないからとか人妻として許されないからとかそんな理由ではなく、心の奥底で望んでいた展開が突然降ってきてただとまどってちょっとキャパオーバー、みたいな感じの逃げだったんじゃないかなあ。また、答えず逃げることが許されるという計算ができた、というのもあると私は思う。
 そこからは、姉は実家に帰るわ姪が嫁に来ることになるわで、さも玉突きで仕方なく動いているように見せて、本心ではしてやったりなんですよ。帝の妃となり宮廷一の華と才を咲かせ時めく、幼い日の夢を叶えてみせたんですもの万々歳の我が世の春なんですよ。でもそういう顔はしてみせない。そこがずるいし潔くない(笑)。でも、わかる。
 そして蒲生野の野遊びで、ひとり馬を返して走ってきちゃう大海人に手を振っちゃうわけですよ。無視しろよ、背を向けろよ、たとえまだ恋しい気持ちがあったとしても嬉しくてもつらくても、応じるなよ一線引けよ、それが別れた女の矜持だろう、と我が親友は言います。でも額田はそんなタマじゃないんです。「会いたかった」とか語り合っちゃうし、花びらがとかなんとか言って相手にわざわざ触れちゃうし、そしたら男は抱き寄せちゃうに決まってんじゃん女が誘ってるんですよでも額田はそういう女なんですよそこがいいキャラクターなんだと思うんですよ! そりゃ大海人のことも嫌いになって別れたわけじゃないんだから、今でも愛情があるとかなんとかいろいろあるかもしれないけれど、ぶっちゃけ単に切れたくなかったんだよねこっちももったいなかったんだよね両方欲しかったんだよね、だって向こうは欲しがってくれるんだもんね、そら嬉しいよね応じるよね女なら!!
 イヤ実際には我々はできないんですよ。同じ女といえどこんなふうにモテないってのを別にしても、それこそ潔くないから恥ずかしいから申し訳ないからそんなことしないスルーする、そしてあとでちょっともったいなかったなと悔やむ、とかがリアルだと思う。でも額田はのうのうとやってみせるからヒロインなのだと思うし、それでこそ物語のキャラクターなんだと思うのです。そこがいいんだと思うんですよね、そこにシビれるべきなんだと思うんですよね。それが萌える芝居なんだと思うのです。
 そして柴田先生はそういう恋愛の泥臭さや卑怯さやみっともなさにこそロマンを見てこういう芝居を書き続けてきた作家です。そしてこういうヒロインのことを別に清廉潔白な公明正大な天使のようなキャラクターだとして描いていません。私はそこが好きなのです。それは昨今あちこちで暴露されつつあるミソジニーとは違って、むしろ女性への憧憬が高じたあまりのものであり、女性を真に等身大に扱っていないという点でそれはそれで問題なんだけれど、そしてそういうところが超現代的で最先端を行く我が親友の神経に障るのだろうけれど、私は古い昭和の犬なので大好物なんですよすんません、ということなんだと思うのです。だからもう私は本当に本当にこの芝居に耽溺したのでした。

 しかし両パターン観ると、もちろん私がAから観たということもありますが、やはりAの方がバランスがいいというか、物語として据わりがいいのではないでしょうか。つまり大海人が主人公の悲劇として、きちんとまとまっている。中大兄は恋敵、ライバル、悪役というポジションに収まっている。ふたりの間で揺れつつも結果的に主人公を振るヒロインは、真のヒロインとしてまた悪女として陰の主役として燦然と輝いている…
 一方Bパターンだと、キャラクターとしての在り方は基本的には変わっていないので、主人公の中大兄がやはりちょっと悪い人すぎて見える気がして、応援しづらくないですかね? そんな男にうっかり揺れちゃうヒロインも弱く見える気がしました。あと、ここをトップコンビがやるんだから、ここがくっつくのがあたりまえに見えちゃうという問題もあります。トップスターがトップ娘役に振られる衝撃、はない。
 私は主人公にはもっと葛藤とかを感じてほしいし物語が盛り上がるためには障害が必要だと考えているので、中大兄がもっと、弟の妻を好きになってしまったことに対して罪悪感を持つとか、額田に対しても強く出る一方で実はけっこう自信がないとかひどいことしすぎたかな嫌われたかなと怯えるとか、鎌足ともっと口論になるとか、政治のためには兄弟が団結してみせることが必要なんだから弟と不仲になっている場合ではないのだがしかしあの女があきらめられないのだ…みたいに悩むとか、なんかとにかくもうちょっと悶えてほしかったんですけれど(^^;)、でも中大兄ってそういうキャラクターではないんですよね。となると本当に女に強引に迫って、それだけの魅力がある男だから仕方ないし女もあっさり落ちるんだけど、それだけ、みたいな話に見えなくもない。弟は怒って暴れるんだけれど、やっばりそれだけ、みたいな…
 うーん、でももともとの初演はショーちゃん中大兄、オトミさん大海人ですよね。このときの花組はショーちゃんがアンドレでオトミさんがオスカルをやった『ベルばら』の前後ってことかな? ダブルトップ体制だったんですよね? だからニンで配しただけで、どっちが主人公ということはなかったのかなあ…オサの中大兄主人公版はどんな感じだったんでしょう、今度のスカステ放送が楽しみです。

 ゆきちゃんが本当に本当に上手くて素晴らしくて、彼女あったればこその公演だったかなとすら思いました。過去には『仮面のロマネスク』とか、私が期待しすぎて行ったせいかアレレ?な印象なときもあったのですが、今回はアムダリヤやシーラに並ぶ代表作になったかとと思います。
 そしてもちろんみりおがよかった。みりおの歌は、だいもんとかまこっちゃんのような上手さとはまた違う上手さがありますよね。台詞の呂律は多少怪しくても歌詞は何故かクリア、というのもある。大海人の歌にはどれも泣かされました。中大兄は私はちょっと役としてつかめなくて、この人ホントに額田が好きなんかいな…とも思いましたが。二役は大変だったでしょうが、企画としてもとてもおもしろいものだったと思いますし、今の花組の布陣ありきのものだったろうので、その意味でも貴重な公演となりましたね。
 れいちゃんは、私には天比古では役不足に見え、大海人では力不足に見えました。難しいものだなあ…歌はすごく良くなっていたし、お芝居にもホント情感があるんだけれど、みりおに対してどうしても引いてしまっているように見えたのかもしれません。私は本当はみりお大海人にれいちゃん中大兄という組み合わせが観てみたかったんだけれど、踏まえて考えると今はまだちょっと荷が重かったのかな…でもこれくらいの配役で振りきってやってみて、みりおに並び立つれいちゃんが観てみたかったです。
 ちなつはそつなくなんでも本当に上手いですよね。天比古は額田より年長に見えたかな。そして菩薩像を傷つけずに終えたこともあり、怪我が癒えたら仏像作りを再開し小月とうまくやっていくのかも…と思えました。れいちゃんの天比古だともうあの怪我で腕も上がらず仏像作りどころか普通の暮らしもできなくなり、ボロボロに零落していくのが似合いに思えましたが…
 なのでやはりちなつ中大兄だと、みりおに対する在り方とかもバランスが良く見えたかなーという印象でした。
 べーちゃんがまた素晴らしかったですね! 鏡女王というのは立派なセカンド・ヒロインだと思いますし、かつ最終的には鎌足に再嫁して幸せになれたのではあるまいかという希望を託せる、素敵な女性キャラクターだと思います。それを過不足なく演じてくれました。鎌足との応酬の場面は、もちろん脚本が素晴らしいというのもあるんだけれど、あんな捨て台詞と悲しい哄笑、なかなかできませんよ。あざやかな場面でした。べーちゃんはいつまでも丸いし瑞々しいんだけれど、芝居はもう女役の域に入るものをしっかりできる娘役さんになりましたよね。好き!
 あきらは、私にはちょっともの足りなかったかな…鎌足って私は大好きなキャラクターで、皇子さま大事と言いつつ実質的には中大兄を操っているくらいの、かつ色悪めいたところも出してもいいキャラクターだと思うのですが、今回はわりと小粒な単なる能吏に見えちゃった気がしました。ちなつ鎌足とかも観たかったかな…
 あとは、さおたやじゅりあやたそやくみちゃんが本当にいい仕事をしていて、せのちゃんの有馬皇子も良くて、しぃちゃんやびっくがいいところでちゃんと歌って、くりすも華ちゃんもとても良くて、なんとも緊密な、本当にいい舞台でした。
 全ツにしちゃうには寂しいと思うので、いいメンバーのときにまたこれくらいの別箱で再演していくといいのではないでしょうか。盆が回るのと同時にふたつのセリを上下させられるのは確か博多座だけだったと思うので、白雉の賀での三人の舞は立体的でドラマチックで、どこから見ても本当に圧巻でした。


 レビュー・ファンタスティーク『Sante!!』は、本公演もそんなに数を観たわけではなくまたいつもの定番のダイスケショーという印象ではありましたが、何しろ最近通っているのが『シト風』なので100万倍おもしろく見えましたよね! キキ、マイティーが抜けて専科特出で存在感を放っていたマギーと圭子お姉様も抜けたので、けっこう顔ぶれが変わっていたのも新鮮で楽しかったです。
 五大美女はナミケーとあれんくんが参戦、フレッシュででもいい感じにオカマ感があってよかったです。それでこそ男役の女装!
 そして博多座はまあまあ段数がある大階段があるからいいよね、引き抜きからの明転でパッと華やかに盛り上がるプロローグにゾクゾクしました。そして今回のアンジュもみんな可愛い! 特に最下の詩希すみれちゃんカワイイ可愛い!!
 ブランシュがたそでルージュが鞠花ゆめちゃんってのもいい布陣。フルーティーな美女たちもみんな可愛いしオチのびっくも効いていました。ジゴロもみんな素敵よー! 3組デュエダンがこりのちゃん、しょみちゃんという起用になるというのもいいですねー。てかしょみちゃんめっちゃスタイルいいんですね今までちゃんと把握していませんでしたすんません!! 素晴らしい美脚でした。
 シェフはあれんくんでアシスタントがくりすになってるのも可愛かった。そしてあきらとくみちゃん、さおたとじゅりあ…濃い…からのトップコンビ・デュエダンの歌手がびっくで圭子姉さんと同じ歌、でも男役歌唱、でも超絶美声、素晴らしい!
 ちなつとべーちゃんもお似合いですが、しかしべーちゃんはまた丸さが戻ってきてしまったのでは…? れいちゃんのロケットボーイが続行で嬉しかったけれど、隣のカンカンのあれんくんがでっかくて目立ってたなー(笑)。
 そしてみりおの新女装、素晴らしいよね! 当人はけっこうこういうのを嫌がるタイプだと聞いていますが、断らないでやるんだもんね偉いよね美しいよね! 男顔だと思うし私はみりおにあまり興味がないんだけれど(^^;)、それでもおお!と高揚しましたからね。大事!!
 ところで私は星組大劇場も見てきてシンキワミにメロメロになり、同じノリでせのちゃんにもメロメロになったらどうしよう、と身構えていたあきらとのデュエットですが、とりあえず大丈夫でした。てかもっと痩せようよ…あとあのお衣装のパンツはもっと腰履きでいこう…お肉が乗っていたりしわやたるみを見たくないんだよがんばれ…(ToT)
 マギーと圭子さんがやっていたマルセル・セルダンとエディット・ピアフの場面はちなつとべーちゃんになりましたが、ふたりとも持ち味違いだったので、がさっと新場面にするか、別の生徒の起用で観たかったかもしれません。
 キリストの血みたいな場面はダイスケあるあるでくりすの歌を聴くのみなので、まあ、いいかな…
 いわゆるエイト・シャルマン、ゆきちゃんに率いられる娘役8人場面は変わらず素晴らしすぎましたね花娘サイコーでしたね!
 黒燕尾はもちろん素晴らしく、そしてトップコンビ・デュエダンの歌手にれいちゃんとは二番手スターの面目躍如ですよれいちゃんホント歌向上してるよー!!
 エトワールはえみちゃんに更紗姉さんにうららちゃん、これまた別箱っぽくていいですね。華やかであっという間のショーで大満足でした。緞帳降り際の飲兵衛騒ぎも楽しいです。観劇後のごはんではもちろん楽しくサンテしました!


 花組さん、充実期ですよね。次の本公演もおもしろいものでありますように…ダガハラダではありますが、この目で観るまでは信じて待っています!




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久松エイト『NEON』(集英社EYE COMICS Bloom)

2018年05月20日 | 乱読記/書名な行
 人気ファッション雑誌「CROQUIS」の読モとして人気を博している多田明良には秘密がある。それは地方からの上京組であること。しかしひょんなことから同じ読モの波野彦一にそのことを知られてしまう。初めこそ動揺や焦りから彦一に当たってしまっていた明良だが、彦一の優しさに次第に心を開いていき…スタイリッシュ&極上ピュア・ラブ。

 またしても、キャラ設定と関係性はいいのに話の運びに繊細さが今ひとつなくてもったいないBLに出会ってしまいました。ネーム直させてくれ、もったいないもったいないもったいないよ! もっと萌えられる作品にできたよコレはー!!
 読モってのがまずおもしろい題材だと思うのです。でもそれがきちんと、どころかはっきりと描かれていないのがまずもったいない。
 そしてメインのキャラクターふたりがどちらもトーン髪なのがとにかくいただけない。描き分けられているつもりなのかもしれないけれどわかりづらいよー、ベタに白髪と黒髪とかにすればいいのに。ああもったいない。そしておそらくモデルとして、目つきや顔つき体つきなんかもすごく違うけど組むとすごくバランスが良いふたり、という設定なんだろうけれど、それを描写するだけの力量がないのも惜しい。ホントもったいないよー。

 キャラはものすごく立っていて、いいんですよねー。ツボりました。
 ど田舎出身で、でも美しいものやとんがったファッションが大好きで、地元では浮いていて、家族や周囲の反対を押し切って上京してきて、今は美しいものばかりに囲まれて幸せで、自分のために美しく装って、それがお金になる仕事ができて楽しくて、仲間もできて、でも口下手でコミュ障で友達ができない明良。
 片や、横浜出身の大学生でなんとなくバイトを始めただけの、友達も多くて彼女もいたことがあって優しくておおらかな彦一。でも今時でこんな名前なんだったらなんかそこにもドラマがありそうだけれどなー。あと描き下ろしの番外編で明良の帰郷につきあうエピソードがあったけれど、こういう中途半端に都会に生まれた人間は田舎にものすごいあこがれを抱いていたりするものなので、そのあたりにもドラマがあったはずだけれどもなー。
 ともあれそんな彦一が明良に友達のなり方を教えて、友達になって、さらにドキドキするようになんかなっちゃったりして…
 明良は撮影で彦一にキスとかしてくるんだけど、単にその角度だと顔と服が一番綺麗に見せられるから、みたいな理由だったらしく、彦一は混乱して…
 みたいな、まあ、「この感情はなんなんだ? 恋なのか? 相手は同性なのに? そして向こうはこっちを本当のところどう思っているんだ?」みたいな葛藤を楽しませるべきお話なんだと思うんですけれど、まず男女の描き分けができていないから(ヘアメイクに女性キャラがいる? ファンの女子は出てくる)その差異が出なくておもしろくないし、虎と和は公認のゲイカップルっていうことなんじゃないのかなと思うんだけれど(というか私が担当編集者だったらそうさせるけれど)それもきちんと描かれていないから主人公たちとの差異も出なくておもしろくない。何より彦一が、自分が「同性である」明良に惹かれていることにとまどう、というくだりがないので、なんなのこの世界では同性愛は普通のことで障害でもなんでもないの?ってなっちゃってつまらないんです。読者は障害や葛藤に萌えたいんだからさ。イヤ本当は差別も障害なんかもない世界が理想なんだけれど、今のところ残念ながら世界はそうはなっていないじゃないですか。だから悩む、けれど乗り越えて愛を取る、みたいなドラマが見たくて人はBLを読むんでしょう? 少なくとも私はそうです。なのに同性であることに葛藤しないなら意味ないじゃん。てかそんなふうにナチュラルに受け入れちゃうこの世界にはリアリティがなくなっちゃって、だとしたらその世界にいるこのキャラクターたちの感情にもリアリティが感じられなくなっちゃって、読者は感情移入できなくなって引いちゃうんですよ。ああもったいない。
 明良の方は、天然というか無垢というか妖精というかで、「何で抜いてるの?」と聞かれて「抜くって何を?」と聞き返しちゃうようなコドモで、だから唯一の友達である彦一にただ無心に懐いているだけのようでもある。また美至上主義だから、映りがいい美しい組み合わせとしての自分と彦一、を愛しているだけのようにも思える。それが、明良に惹かれ始めてしまった彦一には不安で不満で、明良と距離を取ろうとし、それが明良を困惑させ…
 って流れなんだけれど、連作短編みたいな形で視点人物が交互に入れ替わるのはいいとして、それぞれの立ち位置をクリアにして、その上でそのキャラが相手の何をどう誤解していて何に悩んでいるのか、をきちんと読者にわかるように見せないと、読者は萌えられないじゃないですか。くっつくゴールなんてハナからわかってんだからさ。そこはほとんど計算というかセオリーで作れるところなのになあ、ひとりよがりでわかりづらいんだよなあ。だから担当編集者が指摘して修正させて客観性を持ち込むべきところなんですよ。それだけで全然伝わりやすくなるのに…せっかくこんなおもしろいキャラクター設計をしておいて、そこがザルだなんてホントもったいなかったです。
 知らないレーベルですが、元は電子とかなのかなあ? 大手ではBLはうまくいかないことも多いけれど、それは結局は漫画家の質とかより担当編集者のノウハウの有り無しの問題だと私は思っています。さて、どうなんでしょうかねえ…?

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『人形の家』

2018年05月19日 | 観劇記/タイトルな行
 東京芸術劇場シアターウエスト、2018年5月16日19時。

 弁護士ヘルメル(佐藤アツヒロ)の妻ノラ(北乃きい)は純粋で無垢な女性だった。若くして結婚し三人の可愛い子供も授かり、夫に守られて生きている。そんなある日、古くからの友人であるリンデ夫人(大空ゆうひ)が突然訪ねてくる。夫を亡くし母を看取ってひとりきりになり、仕事を求めてやってきたというのだ。ヘルメルは年が明けると銀行の頭取の地位に就く。ノラはヘルメルにリンデ夫人の雇用を頼むが…
 作/ヘンリック・イプセン、訳/楠山正雄『人形の家』より、上演台本/笹部博司、演出/一色隆司。1879年初演、全2幕。

 以前に別の舞台を観たときの感想はこちら。すごくおもしろく感じたものの、例によって記憶はさっぱりなく、どんな話か思い出せないままに大空さん目当てで出かけてきました。
 まず北乃きいのスタイルの悪さに仰天しました。テレビで見る俳優さんを生で観ると、イメージより小柄なことに驚くか、スタイルが悪いことに驚くかのほとんど二択な気が私はします。私がタカラジェンヌを見慣れすぎているから、というのもあるかもしれませんが、顔が大きくて6頭身くらいしかなくてウェストが太くて、にこやかで華やかで美人の若妻、を作っているんだけれどいかにも「作っている」だけに見えました。そして演技もまた演技演技していて、私は鼻白みました。えっ、この作品はこういう芝居のテンションでいくの?ととまどった、というか。次に出てくるメイドのヘレーネ役の大浦千佳はちゃんとしていたので、あああテレビ女優の舞台芝居って(舞台出演は二度目だそうですが)こうなっちゃうのかな…とクラッとしました。もちろんノラって芝居がかったところがあるヒロインなんだと思うんだけれど、でもそれを表現しようとしている演技ではなく、単にいかにも演技をしています、台詞を言っています、という芝居に私には見えた、ということです。
 大空さんがまた、超小顔で背が高くてスタイルがいいもんだから、どうやら学生時代の友人のようだけれどさすがに同い歳ということではないんだろうな?でもなんにせよ、地味に作っているけれど本当はわりと美人なのがすぐわかる年かさのクリスティーネと、美人に見せようとしているけれど十人並みなのがわかる年若いノラ、になっちゃっていて、わざと対照的にしようとしたのかもしれないけれどこれってどうなのかしらん…と私は興ざめしました。映像と違って舞台は役者の生身の姿がさらされてしまうのだから、このヒロインありきだったのなら周りの配役はもっと考慮されてもよかったのではあるまいか…そして男優陣はとても地味でした。佐藤アツヒロは昔観た『犬夜叉』とかがすごくよかった印象で、いい俳優さんになったよねとか思っていましたが、今回はこれまたわざとそうしているのかもしれませんが実にフツーの男のヘルメルで、嫌ったらしくもなけれどチャーミングでもなく、私には役として、作品の中での立ち位置として、よくわかりませんでした。ランク医師は淵上泰史で、私にはテレビドラマ『恋がヘタでも生きてます』が印象的な俳優さんでしたが(『ダブルミンツ』の主演をしていたとは! 見たかった!!)、今回はあまり色気が感じられず、でも人の良さとかロマンティストっぽい感じを出そうとしているのだとも受け取れず、これまたよくわかりませんでした。クロクスタの松田賢二も上手いんだろうけれどよくわからなかった…そして音楽とか照明とかセットとかがとてもベタというかダサいというか洗練されていない気がしました。これまたわざとなのだろうとは思うのですが…
 と、散々に言っていますが、ではおもしろくなかったのかと言われるとそんなことはなくて、ただこの舞台に感動したのではなく、もともとの作品に、戯曲に感動したんですね。なのでこの戯曲の他の舞台をもっとたくさん観たいと思いました。
 これは女性の自立の話ではない、とは近年盛んに言われることだそうですが、そうですね、確かに女性の自立の話ではない。物語はノラが家を出ることで終わりますが、別にノラは自立しちゃいないよね、という気がまずしました。頼れる実家も友達もなく、まして働いてひとりで身を立てることなどできやせず、一晩で帰ってきちゃいそうな気もしますしね。しかしそれはどうでもいいのです。これはノラが自立するとかしないとかの話ではない。これは古くからある、未だ改善されない、男と女の間にある深くて暗い河の話、断絶の物語ですよね。ノラが家を出るのは結果にすぎなくて、重要なのはその前の場面です。ノラがしたことが発覚したとときのヘルメルの反応と、それに対するノラの反応、そのドラマです。
 ノラは、自分の悪行(とされていること)がヘルメルに知られることを恐れる一方で、知られてなお理解されること、感謝されること、認められることを願っていたのではないでしょうか。というか、ヘルメルが知ってそうしてくれなかったときに初めて、自分がそれを望んでいたことに気づき、それがなされなかったことに絶望し、ダメだここにはいられないこの人とはやっていけない、となって家を出たのではないでしょうか。ノラは借金に関して、いいか悪いかとか法律に反しているかどうかとかではなく、彼女が何故そうしたのか、そこにどんな意図や考えがあったのかをヘルメルに理解してもらいたかった、認めてもらいたかったのです。そうして彼女が彼女自身の考えを持つひとりの人間であること、父が自分をミルク飲み人形を可愛がるように可愛がったのではない、人形なんかではなく人間であること、夫と対等な存在であることを示したかったのでしょう。けれどヘルメルはそんなことはしませんでした。そこに彼女は絶望したのでしょう。
 それはヘルメルが夫だからかもしれないし、男だからかもしれないし、他者だからかもしれません。自分が他人から真に理解されることなどありえないのかもしれません。でも望んで、それが叶わなかったときに、人はそのままではいられない。これはそういう物語なのだと私は思いました。
 それをもっとあぶり出すような演出と演技の芝居になったこの戯曲の別の舞台をもっと観てみたい…それが私の今回の率直の感想でした。

 大空さんはこれが初の相手役さんとのキスかしらん?(笑)でも、私はクリスティーネはおもしろい女だなと思いました。大空さんがやっているからかもしれないけれど、この人の生き方や考え方はわかるし、別にノラの親友なんかじゃないし、なんなら馬鹿にしていたり意地悪したくなっちゃうようなところだってあるんだろうし、でもそれより何より自分の仕事や恋や結婚とかをきちんと大切にしていて必死で生きている女…というところに好感を持ちました。それは何事からも目をそらして浮かれて生きてきたノラとはまったく違う女の在り方です。これはそういうキャラクターなんだと思います。
 年齢差があっていいならスミカのノラに大空さんクリスティーネとかが観たいけどなー。そんなことも、思いました。


 
コメント
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