駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

たまにはウザい自分語りなど…

2012年10月27日 | 日記
 今月から、母校の講座に週一回、通い始めました。院生と社会人向けの、キャリアデザインとかライフステージ設計指南みたいなテーマのもので、全11回、受講無料。
 卒業してからは一度か二度しか大学に寄ったことがなかったので、最寄り駅が綺麗になっていたのには仰天しました。
 しかし大学はあいかわらずこじんまりとしたまんまで、あいかわらずのほほんとして感じられました…
 しかし構内が暗い! 節電にも程がある!! 女子大なのに治安悪いよ!!!
 私は鳥目なので夜がこんなに暗いところはかなりつらいです。これはホントどうにかしてほしいわ…

 講座は、ゲスト講師が講義というか講演してくれるような回もあれば、受講生同士数人で班を作ってグループ討議してみる回なんかもあったりして、今のところはなかなか楽しいです。
 私は本当のところ、キャリアアップというか、近く管理職になる心構えとかが自分の中でできていなくて、よりどころとか精神的支柱みたいなもの、あるいはもっと具体的なノウハウみたいなものがあるならそういうものも教わりたい、と思って受講したのですが、今のところそうダイレクトな講義があったわけではありませんでした。
 むしろ最初のうちはずいぶんと漠然とした講義が続いている印象で、「仕事とは何か、人生とは何か」みたいな哲学的なというかそんなそもそも論は今さらもういいんだよ、とか思えたときもあったのですが…
 でも、そういう回からでもやはりそれなりに発見はあって、いい刺激になっています。
 受講生も、これから就職するという院生から、私と同じくらいの社会人歴がある年代の人までさまざまなので、これからそういう受講生同士のワークショップみたいなものもよりおもしろく思えてくるかもしれません。

 私は仕事自体はとても楽しくやっているし、ぶっちゃけ天職だとも思えています。これはかなり幸運なことだと思います。
 バブル最後の世代として、まだまだ売り手市場だったころに入社し、あまり深く考えていなかったけれど配属された先で習い覚えた仕事が向いていて好きで楽しくて得意だとも言えて、その界隈でのみいくつか部署を異動しましたが、基本的には同じようなことをやっていて。
 さすがに不景気がしみてきましたけれど、よっぽどのことがなければ早々つぶれない会社だとも思うし、定年までしっかり勤め上げるつもり出います。これも今やかなり幸運なことですよね。
 で、そうした中で、うちは業界的にもなんとなく出世が遅い傾向があるので、これで普通のペースくらいなのだけれど、ぼちぼち「長」が見えてきているのです。
 ポストは減る傾向にあるし、ここまではなんとなく年次で誰もがほぼ公平に上がってきましたが、ここから先は全員が全員「長」になるものでもない、しかしでは「長」にならなかったらどんなコースが待っているのかといえばそういう事例は今まであまりなかったのでビジョンも持ちにくい、そんな状況です。
 今、私は「副」「長」ですが、「長」以外は結局現場の担当を持っているしペーペーも「副」も一緒です。しいていえばペーペーのトップとして、「長」に対するサブとして、全体を統括するような職務を請け負うことは、部署によってはありました。そしてそれは私の性格的にも能力的にも得意なことで、ストレスなくこなしてこられた、と思っています。
 でも「長」はどうか、と言われると、固まる。
 そもそも「長」になりたいのか、と言われると、それも固まる。
 そんなところに今現在、私はいるのでした。

 現場の仕事が一番楽しいから、「長」になって管理職務をやるようになって担当が持てなくなるのは寂しいだろうな、とは思いますが、部署によっては「長」も担当を持って一現場担当として働くこともあるので、これはなんとも言えません。
 もともと子供のころは学級委員とかやってクラスメイトを仕切りたがる性分だったし、そういうリーダーシップでみんなをひっぱるとか、一方でみんなの様子をちゃんと見て和を大事にするとか、適材を適所に配するとか決断するとか判断するとかトラブルシューティングをするとかは、おそらく得意です。できると思う。
 ただ、私が「長」になるにあたり一番恐れていることは、そういうことではなくて、結果を出すことを求められること。結果が出なかったら責任を取らされるということ。
 もっと言うと、売り上げをたてろと言われることです。

 仕事のジャンルはエンターテインメントです。いいもの、おもしろいものを作ろうと思って働いているけれど、それが売れるとは限らない。何が売れるか、当たるか、ウケるかなんて法則はまったくないしやってみないと全然わからない。そんな業界です。
 入社時がバブルを引きずっていたのでなおさら、当時はどんなものでもある程度売れてしまうような景気の良さでしたし、だからそれを今までずっと引きずってきていて、売れるかどうかなんてやってみないとわかんないんだからまずは自分を信じていいもの、おもしろいと思えるものを地道に作っていこうよ、結果はあとでついてくることもあればついてこないこともあるかもしれないけれど、それはそれで仕方ないさ…という精神でここまできてしまっているんですね。
 でもさすがに昨今の不景気はかなりキている。そしてどこの部署も「長」は赤字なら黒字にすること、黒字ならそれをもっと増やすこと、をとても厳命されているように私には見える。
 そしてそれはもちろんそんなに簡単なことではないし、どこの部署もそうそう儲けなんか出せていない。すると、それが原因というわけでは必ずしもないんだろうけれど、かなり短いスパンで「長」は挿げ替えられていて、それをもうすぐ自分がやらされるのかもしれない…と思うと、とても心穏やかではないのでした。

 営利企業は儲けを出すのが第一義なんてあたりまえ中のあたりまえのことで、何を今さら甘えたこと言ってんの、と言われればまったくそのとおりです。メーカーでも生保でもなんでも、どこでも普通の会社員はまず売り上げを上げる仕事をする教育を受けて育てられると思います。
 でもうちはそうじゃなかったんだよね。オーナー企業だし、鷹揚ぶる社風がある。ここにきてさすがに売り上げ、売り上げと言い出してきたところがみみっちくて嫌なんだけどさ。いいものを作っているんだから売れなくてもそれはそれさ、私財を投じるからいいよ、くらい言ってほしいんだけれどさ。でもまあそんなことを言っていても仕方がない。
 それに本当に、いいものを作ってさえいれば売れなくても仕方ない、なんと思っていませんしね。
 売れてナンボですよ。少なくとも、たくさんの人に届いて、喜んでもらえてナンボだと思っている。本当にいいものなら、おもしろいものなら、絶対にたくさんの人の心に響く、そう信じている。そういうものを作りたいと思っている。
 たくさんの人に喜ばれたい、たくさんの人を楽しませたい。そういうものを作りたい。自分がそういうもので育てられてきたように。そうやって社会に恩返ししたい。世界をより豊かに、明るく楽しい、素晴らしいものにしたい。その一助になりたい。そう考えて、仕事してきました。

 そう、だから答えは、すでに自分の中にあったんですよね。

 「長」になったら結果を出すことを求められる、売り上げを立てることを求められる。それに必ず応えられるという自信がない。だって周りの先輩もみんなそんなことできていないように見えるし。こんな時代だし。
 勝ち目がない勝負をさせられるのが怖い。勝てる勝負しかしてこなかったような生き方をしてきたからです。そういうひ弱い人間だからです。負け戦をする際の心の支えみたいなものが欲しかった。
 そういう何かを教えてもらえるかもしれないと思って、この講座を受講したのです。
 でも、あたりまえだけれど、そんなものは簡単には与えられませんでした。必勝の法則なんてものは存在するわけないからです。

 でもだからといって、何も見出せなかったかというと、そうでもなかったのでした。

 理想のリーダー像を考えてみましょう、という講義がありました。具体的な例をあげてもいいし、条件みたいなものを並べてもいい。そして自分がそれになるために、何が足りないのか、何が問題になりそうなのか考えてみましょう、というような。
 そのときに、理想はこうだけれども、自分がなるとなったらまた別だ、ということだってありえる、という話になりました。
 ライフプラントかキャリアデザインとか、言葉はなんでもいいけれど、要するに仕事とか役割とかを会社や社会や家庭の中で担いながら、なるべくストレスなくハッピーに生きられるといい、そういう人生設計をしたいよね、というようなことなのだから、ストレスがあまりに大きいこと、つらいことはできないししなくていいんだ、だから自分にとって何がストレスなのかを見極めるのが大事なのだ、という話になったのです。
 そのとき私は、負け戦を強いられることがストレスなのだ、だから負けない方法みたいなものを教えてくれないか、というようなムシのいいことを考えていたのだけれど、この話を聞いて、ああ、そういうことじゃないのかもしれない、と思ったのです。
 売り上げを立てろと言われることがそんなにも苦痛なら、たとえば人事とか総務とか、会社の中でも売り上げとかとは関係ない部署に異動したっていいんです。
 でもおそらくそういうことではない。
 先述したように私は今の仕事が好きだし、楽しくやっている。そしてやった仕事がたくさんの人に届くといいと思っている。届く保障をくれと願ってもそれは無理なことで、神様にだってできないことなんです。
 だったらもう開き直るしかない。
 勝つこともあれば負けることもあるだろう。でも結局この仕事が好きで、かつたくさんの人に届いてナンボだと考えているんだったら、やっぱりそこに売り上げの多寡が絡んでくるのはあたりまえだし、そこまでセットでこの仕事なんだし、この仕事から離れるということの方がよっぽどストレスなんだろうし、もう多分やるしかないんだよ、ということなのです。
 負けたって何もかもが失われるわけじゃない。命まで取られるわけじゃない。人生は続いていくし会社員生活だって続いていくし仕事も続いていくでしょう。開き直ってやるしかないんです。だってこの仕事が好きなんだから。
 そう、ふと、ぱっと、思えた瞬間が訪れたのでした。

 なので、覚悟ができたので、あとは本当にそんな辞令が下るまでは、忘れたようにして心穏やかに働いていこうと思います。

 そして私は記憶をあまり反芻する方ではないので、楽しいかったことも悲しかったこともすぐ忘れちゃって、なので思い出せるように読書感想でも観劇記でもこうして書きつけておくことにしているのですが、とにかくそんな記憶に自信がない人間が言うことなのでまったく信憑性のかけらもないと自分でも思うのだけれど、実は自分の人生は今が一番楽しくて輝いているのではなかろうか、と思えるのです。

 去年のちょうど今ごろ、胆管結石で人生初入院をやらかしましたが、腹腔鏡手術の跡もかなり薄くなって、現在はバリバリの健康体だし。
 親も元気だし、弟も元気だし。
 ローンだけど住む家あるし。そのローンを払えるだけの稼ぎのある仕事があるし。
 前々「長」とは気が合わなくて最後の一年がホントにつらくて、異動希望出したら異動したのは向こうで、替わった「長」とは問題なかったけれど業務的にはちょっと飽きてて、結局この夏に新しい部署に異動して、今度の「長」とはさらに気楽で仕事も楽しくて。
 かといって残業地獄というほど担当が多いわけでもなく、適量で。だから習い事が始められたり講座に勉強に行けたりしているし。
 遊んでくれる友達がいるし。彼氏がいるし。趣味があるし。
 子供はもともと好きじゃないけど、もう持たないなと明言していい歳になって、あきらめがついたいとうか身軽になれたというか、だし。

 こんな時期、絶対長く続かないと思う。
 だから別にこれは自慢しているわけではなくて、ただただ感謝して、大事にすごしたいと思っている、という宣言です。
 いずれ親の介護とか自分の老後とかのしかかってくるに違いないし、それはそれでがんばるけれど。
 今は、この幸せに感謝して、日々楽しく暮らします。楽しく働いて楽しく食べて飲んで遊んで、楽しい眠りにつきます。
 そんなことを考えた、今日この頃なのでした。





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宝塚歌劇月組『春の雪』

2012年10月20日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚バウホール、2012年10月15日ソワレ。

 明治後期。松枝侯爵家の嫡男・清顕(明日海りお)は、自らの家系に欠ける貴族的優雅に憧れた父親(輝月ゆうま)の意向により、公卿の家柄である綾倉伯爵家に預けられて育った。綾倉家には清顕より2歳年長の令嬢・聡子(咲妃みゆ)がおり、幼い頃より日々をともにしたふたりは次第にお互いを特別な存在として意識するようになるが…
 原作/三島由紀夫、脚本・演出/生田大和、作曲・編曲/太田健、琴編曲・録音/中垣雅葉。全2幕。

 原作は未読、映画も未見。原作をもともと読んでいて最近みりおが気になるの、という同伴友人から「令嬢をたぶらかすヘタレ男の話」とだけ聞いて観劇に臨みました。
 とてもとてもよかったです。原作を知らない私が言うのもなんですが、これこそが『春の雪』だったのではないかしらん。三島に観せてあげたいわ。もちろん彼はこんなものは違うというでしょう、でも違うんだよこれこそが『春の雪』なんだよ。その逆説がおもしろい。だって愚劣で滑稽ででも美しい、いやだからこそ美しいなんて、宝塚歌劇でなければ具現化できません。現実には存在しえない事象を三島は小説に描いたのですよ。だからこそこの舞台こそが『春の雪』なのです。私はそんなふうに思いました。

 明治末期の松枝家から物語は始まります。
 侯爵(下級生なのに『ロミジュリ』大公に引き続き素晴らしいおっさんぶり。かつ枯れていない現役感は確かにただの老け役・脇役向きではなく、今後が楽しみな生徒さんですね!)のスノッブさ、それにおとなしくつきあう夫人(花瀬みずか。ああ大好き! ニンでやっているだけとも言えるが本当に似合う)のおっとりした美しさがよく表現されています。
 そして少年清顕(海乃美月)の早くもこまっしゃくれた生意気な物言い。真面目でいかにも質実剛健っぽそうな書生の飯沼(宇月颯。歌も聞かせたし、よかった!)は忠実に使えつつも青筋立てている、それがよくわかる、引き込まれるオープニングでした。

 プロローグはレビューふうに英霊と海の巫女たちが波を模した布をひらひらとはためかせ、その奥からふうっと漂うように現れてふうっと振り返り、ライトを浴びる美青年・みりお様…!
 特別な飾りのない質素きわまりない詰襟の制服を着てなお光り輝くその美貌よ…!
 この配役だけで勝ったも同然の舞台、ということを十分に予感させました。

 続いて場面は松枝侯爵家の庭園へ。
 清顕と親友の本多(珠城りょう。ああもうこの人のいい人オーラが私は大好き!)が散策などしつつめんどくさい会話を交わし、清様のめんどくさい性格がよくうかがえました。
 そこへ、月修寺門跡(白雪さち花。徳のある高貴なオーラを出していて素晴らしかった!)が紅葉を見るのを案内しているかなんかだったかな?聡子が乳母の蓼科(美穂圭子)を伴って現れます。
 清顕と聡子のつかず離れずの微妙な関係が十分にうかがえました。
 聡子はふいに「私が消えたら清様はどうなさいますか?」みたいなことを言って、清顕を動揺させる…

 しかしその後、両親の会話から、聡子には縁談が持ち上がっていて、聡子はそのことを言っていたのだと清顕は知ります。
 ただの縁談!と言ってほっとしたり、それでかえってキレたように、人をやきもきさせたことを復讐してやる!とか言ってつまらない策略を練り出す清様のゆがみっぷりがたまりません。素直に好きだとかだから不安だったとかだから妬いたとか、そういうことを認められない人間なんですね。わあめんどくさい!
 そして何をしたかと言えば、「俺は女を知ってるんだおまえのことなんざどうでもいいよ」みたいな手紙を書いて、聡子に送りつけるのです。わあお子ちゃま! しかもそのあとすぐにそんな手紙を出したことを後悔し、読まれる前に捨てさせようとバタバタすることになる…わあなんておバカなの! 現実の男性にやらかされたらホントたまらんですわ。でもみりお様だからおもろくも美しく成立できる。怖い。

 続くタイの王子たち(千波華蘭、隼海惺。)の逸話は、『豊饒の海』四部作に至る輪廻転生とかなんとかの筋につながる伏線なんですよね? ここではいささか唐突に感じましたが、からんちゃんが可愛いからいいや。
 王子に恋人の写真を見せられ、代わりに自分の恋人も引きあわせることになってしまい、そんな相手は実はいないわけで、しょうがないから聡子を使うはめになり…わあ情けない。しかしともかく清顕は聡子をオペラ見物に誘い出し、王子たちに会わせることに成功するのでした。
 このオペラの演目が『カルメン』なのは生田先生の創作なんだそうですね。ホセとエスカミリオの間で自由に生き、やがてホセに刺されるカルメン…その不穏さは清顕と聡子の物語もまたこの先決して平穏には終わらないのだということを十分に予感させます。上手い。
 そしてこの劇場で、清顕が聡子を呼び出したその場で、その聡子を宮様(鳳月杏。これまたいい人っぽくてよかった!)がみそめてしまう。その皮肉、素晴らしい!

 そんなわけで聡子の周りにはまたまた縁談を巡るあれこれが渦巻き出すのですが、あいかわらず清顕との仲もつかず離れず続いていて、そんな中で清顕はひたすら、読まずに焼いたというあの手紙を聡子は本当に読んでいないのだろうか、ということばかりを心配している。
 けれど雪見の俥に乗ってふたりきりになったりすると、今度は、聡子が手紙を読んでいないとすれば自分は彼女にただの童貞の小僧だと思われているんだ、そんな屈辱には耐えられない、とか考え始め、それで彼女にキスをする…んですよね? わあちっさ! どんだけ卑屈なのこの男!!
 聡子はごくごく普通の少女として、ただ清顕を好きなだけなのにね。彼女がそうはっきり言わないのは、ただこの時代の女性がそうしたものを言わないからであって、かつ自分が年長であることを気にしているのかもしれないし、とにかくただただ普通の女のこなのでただはずかしいのかもしれないし、要するに含むところはまったくないわけですよ。
 だけど清顕はそこに勝手になんらかの屈託を見ちゃうんだよね。なぜなら自分こそが屈折した人間だからです。ゆがんだプライドと誇りで自分の身を守っているから、素直になれないし人の気持ちも素直に受け取れないし素直に推察できない。わあ怖い!
 このふたつに割れる人力車(だよね?)の装置(?)は、後半で出てくる自動車の装置もそうですが、演出の効果として素晴らしかったです。

 緊迫した事態はじりじりと進んでいき、ついに勅許が出ます。これは皇族の結婚には天皇の許可がいるからで、要するにこれは宮様と聡子の縁談に対して下りたものなのだけれど、それを明言する台詞がなかったので、観客にはちょっと不親切に思えました。「ちょっきょ」って耳で聞いてこの言葉と意味がちゃんと脳裏に浮かぶ教養をすべての観客に期待するのは無理です。「火中」も同様。燃やして捨てろと一度は言い換えないと、わかりづらい言葉だと感じました。
 というワケで聡子の縁談は断れない事態に追い込まれたわけですが、それに狂喜する清様の歪みぶりったら! 何も障害がなくてただフラれる可能性だけがあるときにはいけないんだよね、でもことがこうなってから迫れば、断られてもそれは結婚しているからとかの理由にできる。そういう安心感の中でしか動けない子供、それが清様の正体ですよ。でも本人にはそれがわかっていない。
 普通なら会えない、とわかっていて、わかっているからこそわざわざ会いに押しかける清様。聡子からの手紙をたてにして。わあ卑怯! そして第一幕は幕…逃げて聡子!としか言えないわー、ぞくぞくしました。

 第二幕のプロローグの海の巫女が雨の巫女になって明きます。
 今回の舞台ではそこまではっきりとは描かれていませんでしたが、実は綾倉伯爵と蓼科はかつて関係を持ったことがありました。そのとき使ったのと同じ下宿で聡子は手紙を取り返すために清顕と会い、押し倒されます。
 そしてなお清顕は手紙を返さない。何故ならその手紙は読まずに捨ててしまったからなのだけれど、聡子は返してもらえないなら返してもらえるまで清顕の望むとおりに以後も何度でも会わなくてはならないと言い出し、蓼科を絶句させます。
 この蓼科は私にはなかなかに捕らえづらいキャラクターで、姫様第一なのかお家第一なのか、だとしたらどういう真意でこの手引きをやっているのかとかがなかなかに謎だったのですが、原作ではけっこう交錯しているいろいろな登場人物のいろいろな感情をとりあえず棚上げにして進めている部分もあるようなので仕方ないんですね。
 同伴友人の後の解説によれば、これはお嫁入り前にせめて一度くらい好きな人と一時を過ごさせてやろうという想いからのもので、もちろんそこにはその一時で聡子が処女を失うであろうことは織り込み済みだったのだけれども、かといってその後もこの脅迫まがいの逢瀬が何度も続けられるようではいつ露見するかもしれないわけで困る、というようなことだそうですね。
 そして聡子もまた、本当は手紙がすでになくて返してもらえるはずなどないのだということも知っていて、それでもそれをたてに今後も会うのを承知する、という言い方をしているのだそうです。でも聡子は清顕を愛しているから、清顕と会えるのならどんな形でもいい訳で、露見したら破談だとか家に迷惑をかけるとかいったことはもう冷静には考えられなくなっているわけです。この人はあくまでただの、普通の、女なのですね。

 そう、要するに聡子もちょっと美しくはあってもただの普通の女で、それで言ったら清顕だってちょっと美貌なのかもしれないけれどあくまでただの凡庸な男だったわけですよ。
 けれど彼にはそれが認められない。ムダにプライドが高いから。
 私は彼が怖ろしい美貌の持ち主だったというのは幻想だと思う。彼の幻想であり三島の幻想です。
 本当に美しい容姿の人はこんなふうな人間にはならない。ちょっと美しい人がその美しさを過大視するからこそこんな人間になるのです。
 おそらく聡子は自分が美しいとはあまり思っていないのではないでしょうか。周りが言ってくれているだけのお世辞だと思っていたり、お友達にもっと美人がいるのかもしれないし、何より清顕の美しさよりは自分の美しさは凡庸なものだと思ってしまっているのかもしれない。
 でもそういう冷静な判断ができるところが彼女の美徳であり、自分をきちんとあるいは少し低く見られるくらいには彼女は健全で健康だったのです。
 逆に言えばそれくらい凡庸だったと言ってもいい。そしてそれは清顕には許しがたいことだったのでしょうね。
 彼が聡子に惹かれたのは幼なじみだったからです。そばにいたから好きになったのです。自然であたりまえで、平凡なことです。
 でもそんな平凡さ、普通であることは彼には許せない。自分を非凡なものだと考えているからです。だから聡子にも非凡であってほしい。聡子が美しくある以上に彼は彼女を美しく見ていることでしょう、自分のために。自分を愛する者には美しくあってほしいから。美しくあればこそ自分も愛してやってもいい、くらいの状態でいたいから。
 でもそんなものはみんなみんな幻想なんです。凡庸な人間が設定する精一杯の幻想なのです。それが彼にはわかっていない。今、宝塚歌劇の形でこの物語を観る私たちには、清顕のそして三島の幻想が実によく見えてきます。それを見せるには宝塚歌劇という形が必要だったのです。だからこそこれこそが『春の雪』です。私はそんなふうに思いました。

 一方、健康でまっすくでいい人の本多は裁判官になるために実直に勉強を続けています。
 一幕でオペラ見物をしていた客たちが今度は裁判の見物客になり陪審員になり、痴情や激情のもつれ故の事件を裁き、本多はそこに清顕の未来を見て心配し苦悩します。この演出も素晴らしい。
 それでも本多は清顕に頼まれて、聡子との逢引の手助けをしないではいられません。いい人だから。友達だから。清顕からしたら、今まで言いなりに動いて協力してくれていた飯沼がいなくなって不自由しているので、本多に声をかけただけだというのに…泣けるよたまきち!

 逢瀬を重ねれば必ずできるものができます。
 聡子は懐妊し、蓼科の助言も聞かず幸福に酔いしれ、蓼科は自殺未遂を起こし、宮家と破談になるわけにいかない伯爵家と侯爵家があわてて算段を始めます。
 聡子は堕胎のために東京を離れ奈良の月修寺にやられることになる。清顕が新橋まで追っていっても追い払われ、家で父親にキューで折檻され…その美しいこと、怖い!
 聡子は出家し、宮家との縁談は破談になり、狂気が噂されたりする。侯爵家を出され、今は活動家になっている飯沼がその嘘を糾弾する。泣かせました。
 清顕は奈良に追いかけていき、何度も門前払いをくらいます。でも彼はすでにその事態に酔っています。もしも門が開かれ聡子と会えても、そこになんのビジョンももちろん彼は持てていないのです。会えないとわかっているからこそ、追い払われるからこそ、彼は会いに行くのです。
 そうして彼の体はゆっくりと病んでいきます。人は自分の都合で死ねるのです、なんと身勝手なことでしょう。罰当たりで、髪をも恐れぬ所業です。しかしそれをしでかすのが清顕という人間です。
 でも私は、物語の展開とは別に、死ねばいいと思いましたよ。こんな男は死ねばいいと憎みましたよ。まさしく「憎しみで人が殺せたら!(@『風と木の詩』)」ですよ。
 だって聡子は世を捨てたんですよ? それは彼女の心の平穏のためだったかもしれないけれど、要するに彼女は社会的には抹殺されたということです。ただの恋するごく普通の女にすぎなかったのに。何をしでかしたというほどのこともないのに、清顕のせいでこんな事態に追い込まれたのです。
 それを償うには、贖うには、清顕は命を差し出すしかないですよ。だって彼は男だからさ、男社会で社会的抹殺なんてありえませんもん。やり手の侯爵がきっとなんとかしちゃうにちがいないもん。そして彼は悔やんだり嘆いたりしながらものうのうと生きながらえちゃうに決まってるもん。
 そんなことは許せません。だから私は彼が死ぬべきだと思った。死ねばいいと思ったのです。来たれトート!

 しかし彼はその死もまた自分のためのものとして迎えたのでしょうね…悔しいわ。
 美しく死ねて、あとはなんの責任も取らずにただいなくなることができて、彼はさぞ満足だったことでしょうよ。傲慢な父親から跡継ぎを奪ってやれて。本多や飯沼は泣いてくれて。聡子の思い出に残れて。
 そのことを彼は疑ってはいなかったでしょう。覚えていてくれる人がいる限り人は本当には死なない。それは『トーマの心臓』のテーマのひとつでもありまたある種の真実だろうけれど、だから死んでいく者の心のよすがになるのだろうけれど、でも聡子は違ったよ。彼女は清顕なんか知らないと最後には言ったよ。
 それは彼女が本当に狂ってしまったことを表していたのかもしれない。そんな人は知らない、もう関係ない、自分は出家したのだから、仏の道に生きていくのだから、そうして幸せになるのだから…という決意表明だったのかもしれない。
 どちらとも取れる、どちらと取られてもいい、あわあわとした聡子の声こそが美しかったよ…

 春の雪はあわあわとはかなくて、心に降り積もった砂を覆い隠すにはあまりにも非力で、だからこそ美しいとも言えるし、あくまで虚しいとも言える。
 そして愚かでも、なさけなくても、くだらなくても、決してなかったことにはできないもの。
 たとえ聡子が本当に忘れても、たとえば本多や飯沼は覚えていて、家には傷が残り、世間も簡単には忘れてくれなくて、何よりこれを事件として物語として観ている私たちの心に残るから…
 そんな『春の雪』だったと、私は思いました。
 その美しさに、悔しくも、泣きました。


 というわけで、尺の関係でフィナーレがなくなったそうですが、なくて正解だったと思う!
 出演者の会釈と簡素なカーテンコールで十分でした。余韻をこそ味わいたい舞台でした。
 本編でのお衣装が地味だったからとかいってキラキラビカビカしたスパニッシュ衣装とか黒燕尾とか着て華やかに踊られたりしたら感動がすっ飛んでいたと思います。今回のみりお様は黒い学ランが一番似合っていたのよ、白いスーツ姿ですら眩しすぎたんだから、これでよかったのよ!

 というわけで。
 とはいえ私はやっぱりみりおがぶっちゃけ好きでも嫌いでもなくて、たとえばちょっと陰性の魅力が大空さんに通じるのではとか言われたりしますが全然ぴんとこなくて、仕分けるとしたらやっぱり可愛いフェアリータイプかなあ好みじゃないなあ、としか思えないのですが、ファンにはたまらない舞台になったのではないでしょうか。
 もちろんもっとキラキラした作品が観たいとか、この人の意外に強くまっすぐなところは実はこういう耽美な作品には似合わないというファンもいるでしょうが、そうだな、だからむしろちょっと気になっているのよねーみたいな人がオチるには最適の作品なのかもしれません(^^;)。
 どこまで理解してやっているのか知りませんが、とても好演していたと思います。
 そしてそれ以上にヒロインが素晴らしかった! それこそどこまで理解してやっているんだろう?って感じでしたが。
 独特の声がとてもよくて、『ロミジュリ』親交ジュリエットではただ歌に健闘しているなあとしか思わなかったものが、今回シビれました。いい意味で生っぽい、女っぽい役ができる下級生がいるということは宝塚歌劇の幅が広がります。メイクはさらに綺麗になれるはず、がんばれ!

 そして私はむしろたまきちにメロメロでしたよ…
 なんかもう、あの、それこそ陽性の、ちょっともっさりした明るさ、おおらかさ、優しさ、親切で気のいい感じが大好き! 何故!? クラくてクールなのが好みのはずの私はどこにいっちゃったの? 疲れてるの??(笑)
 帯とか鎖とかに縛られて歌うのは笑えたわー、似合わなくて。いやイイもの観たわー。

 バウでは最後列観劇だったのですが、さらにその後ろに補助席が出ていて、最上手で生田先生がご観劇でした。
 メモでも取っているのか最初のうちはボールペンがカチカチいう音が耳障りに感じたのですが、だんだんそれどころではなくなり(笑)、終演後は「よくやった!」と言って握手したいくらいだったのですが(何様(^^;))、カテコの間に席を立ったのかもういらっしゃらなくて残念でした…
 大劇場デビュー作が今から楽しみです。もちろん原作があった方がいいタイプなのかもとかいろいろまだまだ心配事はなくはないですが、まあやらせていってみないことにはね! だから何様なんだ私!!

 ステージスタジオも楽しかったし、有馬温泉にも行けた楽しい遠征でした。




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福本武久『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(新潮文庫)

2012年10月13日 | 乱読記/書名さ行
 2013年大河ドラマ『八重の桜』の主人公・八重、若き日の戦いと京都での日々。

 大河の予習にと読んだのですが、びっくりするくらいつまらなかった。小説としてなっていない。この書き手がこのヒロインのことを好きで書いているとは思えない。少なくとも、ヒロインのキャラクターをつかんではいない。
 史実はだいたい確認できたので、あとはドラマスタッフの腕前を楽しみに待つとします。なんとでも料理できる素材だと思うしね。
 この小説の八重はひどいよ。どんな性格なのか、どんな考え方をし、何を理想とし何をいいと思う人間なのかがまったく描かれていない。なのに周りで起きる出来事に違和感を感じるとか眉をひそめるとかの表現がやたらと多い。でも自分では何もしない。
 だからただの批評眼ばかりあるだけで自分では何もしようとしない嫌な人間、恨みがましいだけの人間に見えてしまって、まったく魅力でない。だいたい自主性ってものがまったく何ももないもんね、このヒロイン。そういう時代だったから、というのは言い訳にならない。実際の彼女は、そういう時代だったのにもかかわらず、道を切り開いて進んできた人のはずだもの。
 書き手がただそういうふうにこの人物を書けていないんだよ。腹立つなー。なんでこれを囲うと思ったんだろう?
 若い女の色気とかに関する表現がやたらと多いのも本当に目障りで、書き手がそういうのを目の敵にしているんですね?って感じなんだよねー。こんな人にこういうヒロインを書く資格はまったくないと思われるのだが…私がうっかり買っちゃったように、ある程度売れるんだろうなー、悔しいわー…

コメント (4)
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『ロミオ&ジュリエット』

2012年10月08日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアターオーブ、2012年10月8日マチネ。

 長年確執を募らせるイタリア・ヴェローナの二大名家、モンタギュー家とキャピュレット家の一団を前に、絶対的権力者である大公(ステファヌ・メトロ)が人々の惨状を荒々しく吐露する。キャピュレット家ではひとり娘ジュリエット (ジョイ・エステール)にパリス伯爵との縁談が持ち込まれ、従兄ティボルト(トム・ロス)は孤独な人生を憂いていた。一方モンタギュー家のロミオ(シリル・ニコライ)はいつかめぐり逢う運命の人に想いを馳せていた…
 作・音楽/ジェラール・プレスギュルヴィック。2001年初演、2010年日本初演。2010年パリ凱旋公演時の改訂版を招聘。フランス語上演、字幕つき。全2幕。

 星組版の感想はこちら、雪組版の感想はこちら、 男女混合キャストによる日本オリジナル・バージョン版の感想はこちら、月組版の感想はこちら


 まず、シアターオーブですが、ヒカリエの11Fまで上がったスカイロビーの奥に入り口があります。見晴らしがよくて明るくて、気持ちのいい空間でした。高いところ大好き!
 そこからさらにエスカレーターで上がらされたところが正式なエントランス(チケット改札)。入ったロビーも広く明るく、トイレの数も多くよく回転していて、私は使いませんでしたがクロークもきちんとしていて見えました。
 バーカウンターは二階客席ロビーにありました。
 客席は三階まであるのかな? 赤坂ACTとかと似た印象でした。

 席は前すぎて字幕が見づらく、まあ脳内で宝塚版の歌詞が自動的に再生されるのであまり見ませんでしたが、あまりいい訳詞ではなかったような…そしてかなり歌詞のニュアンスが違って感じられるものもありました。

 それにしてもこれがオリジナル版なのでしょうか?
 2幕はけっこう差異がありましたが、1幕はほとんど宝塚版そのままに感じられ(宝塚版にはなく男女版にあったキャピュレット夫人のいわゆる「涙の谷」がちゃんとあったくらい? あと「ティボルト」の位置とか。これは宝塚版でもあったりなかったり位置が違ったりしたし)、なんかもっと違うものを想像していた私にはなんとなく肩透かしでした。
 だってスペクタキュラー・ミュージカルとか言ってさ、フランスのミュージカルはロンドンやニューヨークのものとは違うんだ、みたいな触れ込みだったじゃないですか。なんだっけ、シンガーとダンサーを分けているとか何とか。
 だから私はたとえば、歌うジュリエットと踊るジュリエットがひとりずついるくらいなのかと思っていたわけですよ。ひとりがジュリエットの心情を歌い、合わせてもうひとりがジュリエットの心情を踊る、とかね。普通のミュージカルではひとりがやるけれど分業するということならそういうことなのかな?と思ったり。
 でも別にそんなじゃなかったですよね…確かにメインキャストはほとんど踊らず歌うばかりで、踊るのはモンタギュー・チームやキャピュレット・チームなんだけれど、それって要するにアンサンブルってことで、分業ってほどではないじゃん…
 どこがどうフランス独特なの?
 キャピュレット夫人(ステファニー・ロドリグ)のいわゆる「涙の谷」、原タイトル「おまえは結婚しなければならない」(プログラムのミュージカル・ナンバーに、原タイトルだけでなく日本版というか小池版の曲名もちゃんと入っているのが嬉しい。翻訳によってタイトルの切り取られ方も変わってきているのです。いろいろニュアンスも違っておもしろい)のときに、歌う夫人とそれを聞いているジュリエットの他に、踊る夫人らしきダンサーとジュリエットらしき少女が別にいたけれど…ちなみにあれはもしかしてキャピュレット夫人の母親と少女時代の夫人だったのだろうか? でもあの特徴的なヘアスタイルを代々踏襲しているというのもシュールなんですけど…
 とにかく、ここも特に効果を挙げていたとは思えなかったんですよね。だったら例えば『仮面のロマネスク』でヴァルモンとメルトゥイユが銀橋ないし舞台手前で歌い合うときに舞台奥でその心情を踊るふたりがいた演出とかの方がよっぽど効果的でした。
 うーむ…

 しかしもちろんセットは綺麗で歌唱はしっかりしていて骨太な味わいの舞台はがっつり楽しめました。もちろん私はどロマンチックに仕上げた宝塚版の方が結局は好きですが、それはそれこれはこれ。
 そしてやはり楽曲が良く、楽しく観ました。


 序曲が流れると早くも鳥肌が立ったのですが、ジュンコさんのナレーションが流れてこないのは不満だったりして(^^;)。
 そしてまず「ヴェローナ」ですが、なんか大公はすごく高圧的というかザッツ・権力者で、みんなをいさめ慈しむというよりはおとなしくしてろ馬鹿者、とか言っているくらいのエラそうさで、わーなんか荒んでるわー、という感じがまずおもしろかったです。
 芝居の部分があまりないというか、話の展開はけっこうカットが多く、逆に言うと小池先生はそこを丁寧にかつスマートにつなげたのだなあ、という印象。
 またパリスがほぼアンサンブル扱いで歌わせてもらえていなかったり(キャストの問題かも)、モンタギュー卿がいなかったり、というのもなかなか唖然としました。
 モンタギュー夫人(ブリジット・ヴェンディッティ)は特に未亡人っぽい装いはしていませんでしたが…これもキャストの問題なのかもしれないけれど(卿をさせられそうな中年男性をツアーに連れてこられなかったとか)、だとしたらモンタギューの総大将はもはやロミオということになってしまうので、ちょっとさすがにアレなんじゃないでしょうか…いや愛のためにな何もかも捨てるのもいいけどさ、跡継ぎがやるのと現頭領がやるのとじゃ重さが違くなっちゃうじゃん…

 日本版では黒衣の男性の死が印象的でしたが、フランス版では白いドレスの女性が死(オレリー・バドル)に扮しています。
 そして宝塚版の愛と死にしろ日本版の死にしろ、とても端整なたたずまいだったと思うのだけれど、フランス版の死は肉食系です。女性がやっているからってたおやかということはない。がんがん人間たちの間に割って入って噛み付いて掻き回して、黒い感情を引きずり出している感じでしょうか。
 そんな死に翻弄されながら歌うロミオの「僕は怖い」は、だから本当に戦いのようで、しかも完全に負け戦感満載で、死に誘われるような背徳感とかBL感とかは全然ないんですね。おもしろい。でも最後の最後は聖母子像のようにも見えるという、不思議なナンバーになっていました。

 仮面舞踏会はアヌビスとかが出ているからエジプトふう仮装しばりなのかな?
 そして舞踏会の演出がこちらの方が私は好みでした。
 ロミオとジュリエットが出会っていわゆる「天使の歌が聞こえる」になるとき(原タイトルは「幸福な愛」)、宝塚版では他の客たちはみんなハケてしまってふたりきりになるじゃないですか。
 それはもちろんふたりの眼中にはお互いしかなくなり、ふたりだけの世界を作り出してしまっていることを表しているのだけれど、不自然といえば不自然でしょ? だってそこはパーティー会場で、みんながふたりだけ残して場所を変えるなんてあるわけないんだから。
 フランス版では、周りの客はそのままそこにいますが動きを止めてしまい、ロミオとジュリエットだけが動き歌い寄り添い合い抱きしめ合うのです。
 そこへほぼ連続してティボルトの「本当の俺じゃない」(原タイトル「俺のせいじゃない」)が始まります。このティボルトは一族の跡継ぎでちょっと乱暴者だけれどカリスマがあって…というよりは、どうもみそっかす扱いされているような、ハブられ厄介者扱いされている感じの悲哀が漂っているのですよ。そして歌声が意外に甘く優しい。
 で、愛し方を教わっていない、だから愛し方がわからないだけ、俺のせいじゃないのに…みたいなことを歌いながら、カップルになって固まっている舞踏会の客たちをどついて倒していく。だけで抱き合ったまま固まっているロミオとジュリエットだけは倒されないんです。すごくいい演出だなと思いました。
 それでいうとだから、キャピュレット夫人とテイボルトの関係というのは何もないことになっていたんじゃないかな? 私が何か見逃しただけ? でものちにティボルトが死んだときの夫人の嘆きも、あくまで保護者レベルに見えました。
 このキャピュレット夫人は夫が浮気するなら自分もする、みたいな現代的なタイプの女性ではなくて、高圧的な夫に虐げられていて苦しんでいる、わりと古いタイプの家庭婦人に見えました。夫に愛されていないことに苦しんでいて、ジュリエットに結婚を命じる夫にも渋々従っていて、とにかく自分ひとりでは何もできないでいるように見えました。

 ロミオが神父に式を挙げてもらうよう頼みに行くくだりでは、ジュリエットもこの歌に混じったりしているんですね。
 そして乳母(グラディス・フライオリ)の「彼女はあなたを愛してる」(原タイトル「そして今、彼女は愛している」)では、下手で結婚式に向けて着飾り鏡の前で踊るジュリエットが浮かび上がり、上手ではキャピュレット夫人が手鏡を覗き込んでは嘆く姿が浮かび上がります。若さと美貌が失われ夫の愛が冷めていくのを嘆いているんですよね。この対象性がせつないわ…
 でも一幕ラストの「エメ」に乳母が参加していないのは寂しいと思うの! やはり立ち会ってほしいものです。ここは小池先生の改変なのでしょう、GJ!!

 二幕冒頭でも大公が「パワー」という権勢欲を歌い上げる歌を歌うので、このマッチョに在り方が宝塚版とは全然違うんだなあ、とちょっとあきれます。
 そして決闘場面。
 宝塚版ではロミオがティボルトを刺すナイフってマーキューシオが落としたものですよね? でもフランス版ではティボルトのナイフなんですね。
 まずもってマーキューシオが刺されたのが、ロミオが乱入して交差した拍子に、という感じではなかった。そしてマーキューシオの死にティボルトはものすごくショックを受けて、ナイフを取り落とすし手に着いた血を必死で拭おうとしたりする。その取り落としたナイフをロミオが拾って復讐するんですねえ。
 ティボルトはだから、なんというか、わりと繊細な普通の青年にするちょっと見えるんですよね…髪型はエキセントリックだけれど小柄だし、キャラクターとしてどういうイメージの存在なんだろう、とちょっと不思議に思いました。
 続く「代償」でちょっとおもしろかったのが、宝塚版ではベンヴォーリオ(ステファヌ・ネヴィル)が「僕たちは犠牲者だ」みたいなことを歌うフレーズがあるじゃないですか。大人たちから憎しみしか教わっていないからそのとおりやったんだ、みたいな論法の、それはそうかもしれないがしかしさすがに無責任すぎてひどい言い草だなオイ、とみんながむずがゆく思うと思う箇所ですが(^^;)、フランス版ではそれをロミオが歌うんですね。なんかそれこそオイオイで、なんかちょっともはや相当おもしろかったわ…

 歌詞とその意味がずいぶん違うなと思ったのは神父(フレデリック・シャルテール)と乳母が歌う「神はまだお見捨てにならない」で、原タイトルは「絶望のデュエット」ですよ。
 そして私は今回やっとラストの「罪びと」のラスト部分がこの歌のリプライズであることに気づいたのですが、今回はそのくだりがなかった…しょぼん…ラストにスモークや天国デュエダンがないことは知っていましたが(日本版でもなかったし)、霊廟でのみんなでの歌い上げまではそのままあると思っていたので…

 キャピュレット卿(セバスティエン・エル・シャト)の「娘よ」(原タイトル「娘を持つこと」)はまたちょっと違うニュアンスの歌でしたね。卿が女好きの男であることは変わりがないんだけれど、若い女と遊ぶ男って自分の娘だけは別だと思っていたり、逆に自分の娘に近づく男をものっすごく警戒したりしますよね。これは後者の歌でした。その愚かな男っぷりがより染みました。
 それから私は「彼女なしの人生」で、マントヴァに向かうロミオが銀橋を渡り、一方舞台では神父のもとに泣きつきに行ったジュリエットがいてハモる、というくだりが大好きなのですが(ああいう舞台空間の使い方って本当に素晴らしいと思うので)、フランス版にはなかった…! おそるべしイケコ!!
 ロミオに毒薬を売るのが実は死だったというのもすごく好きなんですが、それもなかった。というかロミオが毒薬を手に入れるくだりがまったくなかったけれど、それでも話は通じることになっているのか、すごいなオイ。死はジョン(名前出てこないけど)からさっさと神父の手紙を取り上げて破り捨てていました(^^;)。
 「どうやって伝えよう」(原タイトル「彼にどう伝えよう」)もシャウト部分がなかったよ、残念…

 霊廟では、ロミオが毒薬を飲むと同時にジュリエットの手足がピクリと動き、ロミオが倒れ伏すと同時にジュリエットが身を起こすものすごいタイミングのすれ違いっぷりに仰天。
 そしてジュリエットは傍らに横たわるロミオを見てすぐ死んでいると見て取って嘆き始めます。あの「起きて、旅に出ましょう」みたいなくだりがない! あそこが泣かせどころなのに!! イケコ演出なのか、すごいな!!!
 続く神父たちの恨みがましい「何故」がまたいいですよね。神の沈黙を嘆き恨み不満を鳴らすこういうくだりを観るたびに、信心している人ってすごいよなあ…とか考えたりします。神様は絶対に絶対に応えてくれないものなのにね(だっていないんだもんね、ということではなく)、それでも信じて祈るんだよね…


 アンコールでは「20歳とは」のあと「ヴェローナ」でまさかの大公客席下り、「世界の王」では客席スタオベ手拍子でした。宝塚版歌詞を歌って参加しましたよ(^^;)。
 ロミオがちょっと馬面過ぎたのが難だったけれど、ジュリエットは美人だし、楽しかったです。


 
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『タップ・ジゴロ』

2012年10月08日 | 観劇記/タイトルた行
 博品館劇場、2012年10月7日マチネ。

 日本が戦争からの復興にわきながらも、まだアメリカの占領下にあった頃。銀座のキャバレー・ペンギンに客も女も魅了し続ける天才タップダンサー・ジョニー佐々木(HIDEBOH)がいた。ある日彼の前に、歌手を夢見る田舎娘・鞠子(横山智佐)が現れる…
 脚本/広井王子、演出/本間憲一、振付/HIDEBOH,森新吾、音楽/鈴木和郎。2010年初演の再演版。全2幕。

 私は広井氏は昔々に仕事でちょっと知っていて、舞台の脚本家ではないという認識だったので、そういう先入観がありました。
 タップダンサーがタップダンサーを演じる舞台だけれど、役者じゃないしな、とか。
 だから序盤は、芝居としての構成とか、出演者の演技の様式美の違いとか温度差みたいなものに戸惑ってしまって、でもタップダンスは確かに素晴らしいのだし、もっとショーアップしたものに徹してしまってもいいのではないかしらん…とか思いながら観ていました。
 しかし人は慣れるもので(^^;)、だんだん話に引き込まれてしまうのですね。最後はけっこうほろりとさせられてしまいました。
 芸人は芸を披露したらどんな客からのどんな意味での金も受け取らなくてはならない…みたいな台詞がけっこう刺さりましたねえ。
 進駐軍の時代とか戦後の復興期とか、もちろん知らないし正直ピンとこないし時代としてそんなに興味があるわけではなく、だからその時期に徒花のように咲いたキャバレー芸、とか言われてもこれまた正直よくわからないのですが…芸と芸人、客と金、という問題は現代にも通じるな、とか感じたので。
 時代とともにあるいは加齢とともに古くなったり廃れたりするかもしれない芸、それでもやはり磨き続けられたものは一流…みたいなラストに、けっこう感動させられたのでした。

 目当ては宝塚OGでした。
 ユリちゃんこと星奈優里は米兵相手の売れっ子売春婦、のちにヤクザの情婦といった役どころでしたが、あいかわらず細くて色っぽくていい感じで影があって気だるげででも決して汚れきっていなくて、素敵でした…! カーテンコールで飛ばした投げキスに『JFK』のマリリン・モンローを思い起こしてうっかり泣きかけました。
 ミドリこと大鳥れいは外務省の公務員で、ジョニーを映画にスカウトするキャリアウーマンという感じ。ジョニーともペンギンの支配人の井上和彦ともワケありのようで、そのあたりがあまりクリアにされなかったのはやや不満だし役不足にも感じたけれど、デキる女感はよく出ていてよかったです。こちらはフィナーレのタップがキレッキレでカッコよかった!
 私は古い世代のアニメファンなので井上和彦の二枚目声にときめき、声優として名前くらいしか知らなかった横山智佐の芸達者ぶりに驚きました。
 あと、カーテンコールからフィナーレへつないだ芋洗坂係長の芸はさすがだったと思いました。靴を履き替える、袖口に隠した靴ベラ出すだけで間をもたせるのってそうそうできませんよ?
 浅草ダンサー役をストリッパーとして活躍してきたチナツが演じていて、そのヌード芸はさすがだなと思ったのですが、笑顔が固かったのには驚いたなあ…ヌードダンサーには輝くような笑顔は求められていないのかなあ?

 ルテ銀が閉館するのは寂しいですが、キャパとしては同じくくらいかな? 経営母体とかはよくわかりませんが、博品館のほうがカジュアルというか下世話なイメージがありますが(というかルテ銀がスノッブなんだよね)、うまいこと銀座の舞台興行の火を消さないでくれればいいなと思います。

 この日はHIDEBOHのお誕生日で、カテコの後にサプライズのハピバもありました。めでたいめでたい。楽しかったです。
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