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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

福山康治『マドモアゼル・モーツァルト』

2021年05月08日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 限定版、河出書房新社九龍コミックス全1巻。

 音楽座のミュージカルを観たときの感想はこちら
 今度また再演されるというので、久々に読んでみました。
 そもそもは「コミックモーニング」に連載された青年漫画…ということもあるのかもしれませんが、どうにも不思議な作品です。なのでむしろ今度の舞台に期待したい。今上演するということでもあるし、ものすごくフェミニズム的におもしろくなる題材だと思うのです。
 この作品では、レオポルド・モーツァルトの下の子供でナンネル・モーツァルトの下の兄弟は、エリーザ・モーツァルトという女児だった、となっています。次女の音楽の才の気づいたレオポルドは、エリーザの髪を切って男装させ、ヴォルフガング・モーツァルトとして演奏させ、高名な音楽家への道を歩ませます。この子は天才だから。女では宮廷音楽家にはなれないから。ただのクラヴィーア教師にするには惜しいから。彼女の才を羽ばたかせることが神の意志だから…
 かくして、エリーザはもともとお茶目というには度が過ぎるほどやんちゃなおてんばでしたが、「男の子」になってますます野放図になり、けれど音楽の才能はますます花開き、社交界でももてはやされて…と話が進むのはいいんだけれど、エリーザ自身がこの状態というか境遇をどう考えているのか、はあまり語られません。思えば内心を描く、というのは少女漫画に特有のものなのかもしれません。脱線しますが、男性が今話題のセルフケアに無頓着だとか自意識に無自覚なのって、そういう少年漫画、青年漫画を読んで育つからなのでは…とか思ったりもします。
 モーツァルトが群がる女性ファンたちに次々キスなどしてあげてバサバサ捌いていくところなんかは、性自認が男性で性指向は異性愛で、なので男装して女性の相手をすることを苦にしていないトランスジェンダーだからなのである…というようにも、見える。でも、たとえ生まれながらにはそうではなくても、ごく小さいころに異性装を押しつけられて育つと、当人ですら無自覚に誤解したままに育つ…ということもあるのかもしれない…いやそもそもそうした性規範とかは社会から押しつけられがちで当の本人も誤解しがちなもので…とかとか、いろいろ考えちゃうじゃないですか。でも、特に説明とか解説とかがない。
 コンスタンツェと結婚するはめになるくだりも、エリーザ自身は何をどう考えどういう意図で承知したのか、全然描かれません。自分の「夫」に豊かな乳房があるのを見たコンスタンツェは、驚き動揺し騙されたと泣きわめきます。でも、もちろん恥ずかしいとか経済的な事情とかモーツァルト夫人としてちやほやされる立場を手放したくないとかいろいろあってそう簡単に離婚だなどと言い出せないのかもしれませんが、コンスタンツェのそうした胸の内も具体的には描かれません。うーん、なんだかなあ…
 エリーザはサリエリを「お父さん」と呼んで懐くんだけれど、これも本当はどういう意味なのか、が描かれない。本当は、とか意味、とかはない、ということなのかもしれませんが…でもそれじゃ読者は不安になるんですよ、このお話をどう理解・解釈していいかわからないからです。少なくとも私は不満です。
 父親が死ぬとエリーザは男装をやめ、ヴォルフィの従妹と名乗ってドレスを着てオペラに出かけます。でも本当はずっとそうしたかったのだ…みたいなことも別に描かれない。そしてまたヴォルフィとしてプラハに移り、音楽活動を続ける。そうこうするうちに、病んで、死ぬ。それで終わる、ただそれだけの物語なのです。
 性別越境の物語にもかかわらず、著者には特にフェミニズム的な視点はないように見えます。深読みすれば、性別を偽らなければ自分の才を花開かせ生きられなかった悲劇の天才エリーザ・モーツァルトは、今なおさまざまに抑圧され拘束され搾取されて「ありのままで」いられない不幸な現代女性たちの生き様に十分通じます。でも多分、そんなふうに描く意図はこの著者には、ない。このエリーザは「ありのままで」と歌わないし、偽りの男装をやめるために戦ったりもしない。内心の葛藤すらないように見える。そういう時代ではなかった、のかもしれないけれど、そう感じてもいないようのを不自然に感じるのは、私が現代に生きている女性読者だからなのでしょうか?
 それとも、「モーツァルトは実は女性だった」という設定は、どう解釈しようとも滅茶苦茶で支離滅裂に見えるモーツァルトの生涯の史実を、たとえばこういう事情があったのだとすれば納得できる…とするためのギミックにすぎなかったであって、そこでの主人公の想いとかそういうものはどうでもよくて特に描くに値しないものだと著者は捉えていた…ということなのでしょうか? …まあ、でも、ありえるかな…作家であれなんであれ、男性って本当は女性の内心になんか、もっといえば女性になんか興味ないもんな、と思うからです。根本的な、ミソジニー以前の無関心があるもんね。なのに当の女性が他に興味を持つことは嫌がるんだよな、だからなら女は女だけの国を作りますねとか言うとあんなにも激高して猛反対するんだよな。なんなんだろうないったい…
 またまた脱線しました。
 今やるなら、「モーツァルトは実は女性だった」という設定を使って、もっと別の物語が紡げると思うのです。それはこの作品とはまったく別物になってしまうでしょうが。
 たとえばコンスタンツェとも、ナンネルとも、ユリっぽくすることもシスターフッドの物語にすることもできる。正体を承知で、世間を欺き共闘する偽の夫婦で親友で恋人、みたいな関係って、素敵では? けれどコンスタンツェがひょんなことからよその男と恋に落ちてしまうのかもしれない、あるいは単に関係を持ってしまうのかもしれない、それで妊娠し出産するのかもしれない、それを夫婦の子供として育てることになる、そのときエリーザは…とか、さ。あるいは男性に恋をし男性と性行為をして妊娠し出産するのはエリーザかもしれない。体調不良でごまかして夫婦で引っ込んでコンスタンツェが出産した子だと偽るんだけど…とか、さ。姉に対して、父に対して、サリエリに対して、ベートーヴェンに対して、エリーザは何を思いどう対峙したか…この作品とは違う、別のドラマ、ストーリーがありえるんじゃないのかなあ。
 でも、いかにアイディアには著作権はないとはいえ、「モーツァルトは実は女性だった」という設定で別の物語を描いたら、それはこの作品のパクリだとさすがに言われることでしょう。難しいなあ、もったいないなあ…
 ただ、この作品の舞台化、として、もうちょっとニュアンスの違う作品に仕立てちゃうことは、できるかもしれません。していいのかはまた別にして。原作者が許諾したのならいいのかもしれないし。そのあたりを、今度の舞台にはつい期待してしまうのでした。演出家は、私はちょっと当たり外れがある人だと思っているので、そこはやや不安なのですが…
 でも、みりおはそりゃうまくやることでしょう。
 本当は、宝塚歌劇を卒業した元男役がいつまでも男性の役だの男装の役だのばかりやることには私は反対です。男役は現役だけのもの、宝塚歌劇だけのものだと思っているからです。もちろん演劇って自由で、人間でないものを演じることだってできるんだから性別が違う役を演じることくらいでうるさく言うなよ、と言われそうですが、でも外部の俳優さんになったんならまず女性の役をきちんとまっとうしてほしい、と私は思う。同じようなことやってるなら卒業した意味ないじゃん、と思うからです。何よりその人の新しい姿が観たいからです。それくらいその人の役者としての力量を買っているってことです、だから卒業しても観に行くんですから。
 実際、朝ドラもよかったし『コントが始まる』もすごくいいし(青のなんちゃらは脱落しました…)、主役じゃなくてもとても素敵だし、大きな可能性を持った役者さんだと思うのですよ。だからあまり狭い枠で仕事をしてほしくないのです。もともとどちらかと言えば中性的なタイプだったしそこを愛されているスターだったとも思うので、男役でなくなるとファンが減るのでは、ファンに幻滅されるのでは…という心配はしなくていいタイプだと思うんですよね。というか最近はむしろ、さっさと綺麗に女性化してくれた方が、ファンはむしろ喜ぶんじゃないかなあ。そもそも男役って女性であること含めて愛されている存在だし、美しさ、素敵さが二倍味わえるってことでファンは嬉しいと思うし、何よりその変わり身の鮮やかさ、艶やかさにも一般人は感心し感動するんだと思うんですよ。普通に女性として生きている一般人女性は意外にその女性性を肯定しづらいままに生きづらく過ごしてきているわけですが、そこに差し込む一条の希望の光たりえると思うんですよね、鮮やかに女性化する元男役の存在って。
 なので、みりおがエドガーばっかりやってるような未来にはならなさそうなことに、私はまずは安心したのでした。ブリリアなのは心配ですが、そしてそのころ公演が無事に行われているのかはなはだ心配ですが、信じて、楽しみに、待ちたいと思います。
 そしてまた、観たいと期待していたものが観られなくて勝手に暴れていたら、すみません…おつきあいいただけたら、嬉しいです…



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『トーマの心臓』再読

2021年05月05日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 私が持っているフラワーコミックス全3巻はPP貼りされていないカバーが折り目からもはや崩壊しそうなので、今回は『萩尾望都Perfect Selection』の1、2巻の方で再読しました。これは連載時のカラーや扉をそのままに収録していて、紙が良くて印刷が綺麗で、A5版と大きいので目に優しく、2巻の方には『訪問者』と『11月のギムナジウム』も収録されている優れものです。が、私はフラワーコミックス版がすでに血肉になっているので、連載の切れ目には毎度「ここで区切れるんだ!?」と驚くことになるのでした。
 舞台化のときに初めて『ポーの一族』を読んだ、というような方々は、主に時間経過描写というか話が時系列順に並んでいないことに関して読みにくさを訴えることが多かった印象があるのですが、この作品もまたそう感じる方々には「読みにくい、わかりにくい」と言われてしまうのだろうな、と改めて思いました。そこが苦にならない人、むしろ好きな人にはそここそがたまらないのだし、こんな構成のお話をよくも考えられるものだな!?と感心し感動するんですけれどね…
 そしてそういう漫画的な演出のことを全部抜きにしても、この素材というかテーマでお話を作る、ということがもうものすごいことだと改めて思います。だって多分作者は多くの日本人同様に、別に特になんらかの宗派の信徒とかいうことは全然ないんだろうと思うのですよ。漠然とした信心みたいなものはあるにせよ、それはお日さまのお恵みとかそうしたものに対してのものであって、さ。それなのに、この時代のこの国のこういう両親から生まれたこういう家庭の育ちのこういう人となりの少年の神様への信仰が、いかに裏切られその後どうなったか、というテーマで少女漫画を一本描くだなんて、並みの天才ではできない所業だと思います。ザッツ・天才of天才…!
「100分de萩尾望都」の中で、サイフリートたちがユーリにした「お遊び」「実証」には性暴力、もっと言えば強姦も含まれる、みたいなことを言うパネリストがいましたが、私は当時も今もその意見には与しません。私個人はそう読み取ったことはなく、またいろいろ考えてもそう読みたくはないのでした。今の再読の流れでいうと、これは「少年愛漫画」ではないと私は考えるから、というのもあります。作品冒頭に「この少年としての愛が 性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって 投げだされる」とあるとおり、これは性未分化の時を生きる者たちの物語で、同性同士だったのはたまたまこの時代のこの国の教育システムがこうしたものだったから、というだけのことにすぎないのではないかと考えているからでもあります(これはちょっと、卵か先か鶏が先か、感はありますが)。
 何より、そんな過剰さが要らないくらい、ユーリは十分に傷つけられたわけじゃないですか。神を捨てさせられるということがどんなにひどいことか、無宗教で無信心な私でも、いやそんな私だからこそわかります。特定の宗派に属すことがなくても、人はだいたいは本来的に、何か温かいもの、優しいもの、たとえばお日さまの恵みみたいなそういったもののありがたさを知っていて、それらを愛し敬い信じ感謝して生きるものじゃないですか。それを否定させられるのですから、人として生きる根本をもがれるも同然です。
 もちろん本当は神は人に応えることなどしないものであり、それはたとえば有名なところではその名もずばり『沈黙』という作品もあるわけですが(というかそういう意味ではもちろん神などいないわけですが)、それとこれとは別問題です。一個人によって暴力をもって強制的に否定させられる、その暴力性、卑劣さにむしろ心が折れるということです。そしてその心や魂の傷の前に、そうした暴力の前に、身体が、あるいは性器(あるいはそれ以外の器官? 内臓??)が傷つけられることなどなんだというのでしょう、と私は考えるからです。せめてそれくらいは守られていてほしい、というのもあるけれど、やはりそれはもはや必要のない観点だと思う、とでも言えばいいのかな…もちろんまず肉体的な痛みに耐えかねて神を捨てるに至るのだけれど、それは殴る蹴るだの鞭打ちだの煙草の火を押しつけるだので十分じゃないですか。そんな痛みくらい耐えられてしかるべきだ、もっとひどい痛みがなければこうはならない、だからレイプもあったんだ、などと言う人のことは私は信じられない。私は痛いのは嫌です。アッシュは特例で、そして彼自身はそんな特例をまったく希望していなかったのです。この悲しさ、過酷さがわからない人とは話ができない。肉体的な痛みに屈して神を捨て魂を売った、他人に暴力によって売らされた、という事実とその恥辱は、性的に陵辱されたかどうかなんてものを軽く上書きし凌駕してしまうものだと私は思うのです。それは別に性的なものを軽視している、とかではなくて、単に位相の差の問題だと思う。
 そしてユーリは「ぼくにはなんの価値もな」いと思うようになり、「自分はだれも愛してはいないのだといいきかせ」て日々を送り、だからトーマの好意も無視し、けれどトーマはユーリを愛していたので、ハナから「ただいっさいをなにがあろうと許していた」のです。
 本当は、私は弱虫なので、だからといってトーマがこんなふうに「ゆく」ことができることが実は信じられません。少なくとも自分にできる自信は全然ない。そりゃトーマは「恋神」だったのかもしれないけれど、それはあくまで喩えであって、そこまで特殊な聖人とかではなかったはずです。でもとても誰にでもできることだとは思えない。「からだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない」とは私は思えない。
 だからそこはお話なのではないか、と思います。でもあたりまえですよね、これは「お話」なのです。そして初めて読んだ当時は「それがわかった時」のユーリが神学校への転校を決意することにも納得しがたいものを感じていたのですが、それはやはり私が無宗教だからで、これはお話であり舞台はキリスト教世界なんだからそらそうなるんだよな、それが「お話」としてのあるべき流れだよな、と少し大人になると理解するようになりました。しかしそこまで描ける1974年の少女漫画なんて、いや少年漫画であれ青年漫画であれ小説であれ映画であれ、そんな「お話」があったか? いやない、ここにしかなかったのだ、なんなら現在に至るまでなお似たものすらないのだ…という厳然たる事実に、改めて心震えます。
 やはり名作、傑作です。このターン、結局それしか言ってないな私…

 しかしそれからすると『11月の~』にはあまり神様臭(言い方…)がないのですね。『訪問者』にはもちろんある、そもそもタイトルロールです。
 思えば『11月の~』は不思議な作品です。「キャラが同じ」と解説されているけれど、キャラクターのファーストネームとデザインが同じなだけでキャラ、つまり性格というか人となりはだいぶニュアンスが違うものが多い。オスカーだけは名字も同じなのですが(ここにオスカーの特別性を感じます。私はユーリがもちろん大好きなんだけど、結局はオスカーが一番好きなのかなあ…自分の作ったキャラクターにも名付けたしなあ…てかそんな人、何万人といそうですよね…)、オスカーのキャラもわりと違います。これまた違ったトーマの、いうなれば念者みたいなこのオスカーも、私はかなり好きです。
 そしてここのオスカーとトーマのカップル感のせいか、この作品はかなり少年愛漫画だと思います。ラストといい、単なるエーリクとトーマの兄弟ものではないと思う。そういう意味でも不思議な「スライド」をした作品だと思います。
『訪問者』までのセットは絶対にあった方がいいと思うけれど、『11月の~』はちょっと別かもしれません。「全然関係のない、別のお話」と解説されてもいますし、いわゆる手塚治虫式スターシステムで描かれたもの、と解釈する方がよくて、かつ内容が微妙に近くて違うだけに、むしろあえて棲み分けた方がいいのではないか、とも思うのでした。


 ちなみに持っているのを忘れていたくらいの森博嗣『トーマの心臓』(メディアファクトリー)も再読しました。「『トーマの心臓』の美しさの本質を再現したかった」という趣旨の企画のようなのですが、小説化というより謎のパラレル・ノベライズで、一応オスカーの一人称視点なんですけど、なんせ舞台がなんちゃって日本だし、キャラもエピソードも少しずつ歪んだようにねじれたように違っていて、別になんの「本質」も描かれていないと思われる代物です。ファンの二次創作だとしても出来が悪い。造本が美しいのと、描き下ろしの挿絵が数点あることだけに意味があるような本だと私は思います。しょぼん。





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萩尾望都『海のアリア』

2020年09月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 角川書店あすかコミックス全3巻。

 夏の朝、ぼくら4人がヨットで沖へ出たとたん、天候が急変した。不思議な火の玉を目撃したあと、4人は海に投げ出され、アベルが行方不明になった。半月後、アベルに似た少年が沖縄で見つかるが…異色SFマリーン・ロマンシア。

 1990年のコミックスで長らく愛蔵していますが、感想をまとめていないことに気づいたので再読してみました。
 音楽とはそもそも数学的に調和が取れたもの、あるいは調和が取れていることが美しいとされ、目指すべきものとされ、なんなら音楽で世界を整え調律しようとする思想もあるような、そういう分野の芸術というか学問というか思考です。それが地球外の波動生命体とか、その結晶生物/鉱物とか、それと感応する演奏家とか、その演奏家自身のトラウマとかその解放とかそうして奏でられる音楽とか芸術とか演奏者と楽器のパートナーシップとか、そういうイマジネーション豊かな、とても濃くにぎやかで楽しい物語です。
 主人公はアベルなんだけれど、途中で記憶喪失になったりすることもあるので、語り手としては当初は友達の十里、次いで双子の弟のコリンが立てられるのだけれど、彼らはそれぞれ中途半端な立ち位置のキャラクターでもあって、やがてアベルが記憶を取り戻しかつ新しい生き方としての自覚を持つようになって動き出すとフェイドアウトしていってしまうので、物語としては構成があまり良くない、ある種の読みづらさを抱えたものになってしまっています。が、ワケわからないままに読み進めるのも楽しい、魅力あふれる作品になっているとも思います。
 アベルが楽器として、それでも演奏家の単なる道具ではなく対等のパートナーであると主張し、アリアドに迫っていくところなんかは、関係性萌えとして読んでもとてもおもしろく、やりようによってはBLっぽくもなりそうなのだけれど、そういう尺はないしそっちの方向には作者の興味もないのか話はあまりそちらには進まず、ちょっともったいなくもあります。ともあれSFとしてとてもスリリングでチャーミング、現代学園もの特有の青春活劇の味わいもきっちりあって、小品と言っていいのでしょうがとても魅力的な、おもしろい一作です。私は大好き。この頃のやや骨太な絵柄も好きです。カラーイラストもとても美しい。音が出ない漫画ですが、音楽を見事に扱った一作でもあります。
 宇宙にとっての地球って、本当にこんな感じなんじゃないかな、とも思ったりします。そうだとしたら、とても楽しそうです。



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藤原よしこ『恋なんかはじまらない』

2020年06月27日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 小学館Cheese!フラワーコミックス全7巻。

 両親の転勤で知り合いの家に居候することになった真琴。でもその家には、親友をフッた学校一のモテ男・カンナがいて…

 最新連載『あしなが王子様は失恋する』も設定がベタで好きでコミックスを買っているのですが、そういえば愛蔵しているこの作品について語っていなかった…と久々に再読して記事を上げています。いやー、カワイイ。めっちゃ好き。
 著作の多い漫画家さんで、出世作は『キス、絶交、キス』だったと思うのですが、あれはやんちゃな男の子と優等生ヒロインのお話でしたかね。でも私はヤンキーとか不良萌えがあまりないので、『恋はじ』(と略されていたかな連載当時…今なら話題は『恋つづ」ですね。てかなんで動詞がひらがななんだろう…)のパターンの方が好きなのです。すなわち、優等生男子とへっぽこ女子、の組み合わせです。これでヒロインがあまりにおバカだったりカマトトだったりすると鼻白むんですが、真琴はもう突き抜けておバカでコドモで単純でまっすぐでいじらしくて可愛いので、許せてしまうのです。そのおバカがカンナに移っちゃうまでのお話、になっているので、それで正解なのです。
 さらに、親の都合でひとつ屋根の下、ドキドキワクワクキャッキャウフフ、なんて少女漫画は手を変え品を変えそれこそ何千何万と描かれてきていて、この作品に関してもカンナの元カノから真琴をいいなと思ってくれる男子、昔憧れていた教生、誕生日、修学旅行、お泊まりデートと出てくるエピソードはベタのオンパレードで、別に目新しいところなんざ何ひとつないわけですが、でもその定番エピソードの描写ひとつひとつがていねいで繊細で、読んでいてとにかくニマニマキュンキュンできるのです。泣いて笑ってときめいて意地張って、喧嘩して仲直りして、またくっついて。ホント可愛すぎます、せつなすぎます、幸せすぎるのです。
 こういうベタな作品はラストもベタにプロポーズないし結婚式で締めるべき、というのが私の持論なのですが、そこをちゃんとクリアしているのも素晴らしいです。
 あと個人的に好きなのが、2巻の最終話、カンナが改めて真琴に好意を告白してくれて交際を申し込んでくれるエピソード。なし崩しになっちゃうんじゃなくてちゃんとしてほしい、してもらえないと不安、っていうのは、甘えかもしれないけれど心情的にすごくわかるじゃないですか。それを真っ赤になりながらでもちゃんとやってくれるカンナが、とにかく愛しいのです。
 というか少女漫画はやっぱりこの、紅潮を示す頬や鼻の上に描かれる斜線ね、コレが大事だよね! コレが多ければ多いほど悶えますよね。クールにスカせない、本気の本音がにじみ出ちゃうって記号ですからね。マジ大事です、試験に出ます。
 あとは再読して気づいたのですが、片目のときもあるけど主に両目に跨がって、瞳の真ん中にまっすぐ一本線を引いて瞬きを表現する漫符(?)、最近の漫画ではあまり見ないなーと思いました。きょとん、パチクリ、みたいなときの瞬きを表しているんですけれど。もう流行らないのかな、伝わらなくなってっちゃうのかな、もったいないなー…
 本編は本誌連載だったわけですが、いつも増刊に掲載されていたショート番外編が巻末に収録されていて、それがまたごく短いながらもいちいち秀逸で、作者の才能とセンスをホントに感じます。オマケページのオマケ漫画もおもろくてカワイイ。ケンケンとタマちゃんが最終巻の表4側カバー袖に載ってる描き下ろしカラーカットでやっとくっついてるんですよ、すごくないですか!? そういえばこういう部分っておそらく電子書籍化されていないんでしょうね…やはり紙だよ、紙で愛蔵してときどき虫干しがてら読み返して愛していくのが大事なんですよ!!
 はー、幸せな再読でした。つらいときにはまた読んで萌えて癒やされますね…






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『EXIT』の出口はどっちだ?

2020年06月21日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 何度か語っていますが、私は自分にまったく素養がないのでだからこそ音楽もの漫画(何故か映画や小説、演劇ではそこまで惹かれないモチーフなのです)が大好きで、クラシックのくらもちふさこ『いつもポケットにショパン』や二ノ宮知子『のだめカンタービレ』、アイドルというかロックシンガーがモチーフの作品ですが上条淳士『TO-Y』など、いくつかのコミックスを愛蔵しています。『おしゃべりなアマデウス』とか『花音』とかも好きでした。才能と愛憎の絡み合い、みたいな物語が大好物なのと、漫画が音楽を直接は聴かせられないのに表現できてしまうところ、に妙味を感じているんですね。
 バンドものとしてより私はラブストーリーとして評価しているのですが、矢沢あい『NANA』も好きで、続きを待っています。こちらはあと1巻か2巻で完結しそうなところで連載がストップしていますよね。ストーリーとしてはほぼ見えているようなところはありますが、それでもきちんと完結まで読ませてほしいなー。ご病気とも聞きましたが、その後いかがお過ごしなのかしらん…首を長くして待っています。
 そしてそれと同様に「ねえ、まだなの…?」と涙目になりながらずっとずっと続きを待っているのが、藤田貴美『EXIT』です。白泉社花とゆめコミックスのときから買っていて、掲載誌が変わって版元が変わって、新装版で出直したときにも買い直しました。ソニーマガジンズのきみとぼくコミックスで7巻まで、8巻以降は幻冬社バーズコミックスで出て、2011年4月刊行の12巻で止まっています。最後の方は雑誌掲載ではなく電子配信だったようで、08年7月の記載があります。ちなみに第1話の掲載は89年6月だったとのこと。うーん、歴史を感じるなあ…
 BOOWYがモデルだとも聞きますが、私はそれこそ素養がないのでそういうことは全然どうでもいいのです。ただ、キャラクター布陣がすごくよくできていて、話が着々と展開しているので、そしてこういう物語って描き始めたときには作家の中ではもうオチは決まっていてそこ目指して描かれていたんじゃないの?と思えるので、読者としてそのラストまできっちり読ませてほしい、というだけなのです。キャラ萌えはそんなにしていないので(強いて言えば凡ちゃんですが)、あくまで物語を追いたい、この先とオチを知りたい、という感じです。まだあと5、6巻分はあるのかなと思いつつ、終わりの始まりはもう仕込まれているように見えるだけに、なおさらです。

 主人公はボーカルの少年。クラスメイトとバンドを組んで、プロを目指してコンテストに出て、夢を追って事務所に所属して、バイトして、バックシンガー務めて、事務所の先輩バンドに仲良くしてもらって、ギタリストを身請けして、元カノが出戻ってきて、ベーシストと出会ってドラマーと出会って、事務所の社長に独立されるも居残ってアルバムデビューし、やる気のないマネージャーに放置されてツアーし、気に入ってくれる音楽ライターが現れ、契約期間切れを機に独立し、買ってくれるレコード会社の社員が現れ、かつてのクラスメイトに経理とローディを任せ、大手レコード会社のディレクターにコナかけられ、かつての事務所社長が独立した先と契約し、熱心なマネージャーに恵まれ有能なプロデューサーに恵まれてロンドンでレコーディングし、応援してくれる音楽評論家が現れ、追っかけを撒くようになり、テレビの音楽番組で司会者を泣かせ、渋谷公会堂を埋め、日本武道館が決まってチケットがハケた…ところまでで、お話は止まっています。
 このバンドの曲はすべて、ボーカルの卓哉が作詞、ギターの凡ちゃんが作曲しているもので、どのバンドもほぼそうだそうですがこのフロントふたりがバンドの要、とされています。が、卓哉がなんとはなしに作曲したものをあるとき凡ちゃんが聴いて、ある種のショックを受けるエピソードが、わりと早くに描かれています。一方で凡ちゃんには、シンガーソングライターとしてアイドル的な人気があったものの実は作曲家にゴーストライターがいたことが発覚してスキャンダルになった女性シンガーの復帰アルバムに、ギタリストとして参加の口がかかる。「かけ離れて」るから、今までと何も変わらないはず、だけれど、曲のアレンジでもライブの演出でもなんでもツーカーだったふたりの感覚が、少しずつズレていきます。さらに一方で、事務所の先輩格で人気絶頂の、業界トップのバンドのボーカルは喉を痛めていて、ステージが中断される…
 ね!? ドラマが十分に仕込まれているんですよ!
 凡ちゃんはこの女性シンガーとラブになるんだろうし、卓哉はひなちゃんとずっと同棲していてラブ的には波風ないんだけどバンドの人気がここまで来るとスキャンダルになる展開も控えているのかもしれないし、卓哉の歌に惹かれてドラムとローディの見習いをちょっとだけした少年ユズルがこの先どう絡んでくるのかも伏線あるし、先輩バンドはボーカルの才能と人気とカリスマでバンド内がむしろぐちゃぐちゃで(もちろん「一之瀬くん」がツボです。てかこの4人もいいキャラ、いい関係性なのでスピンオフが読みたい!)、薬で騙し騙し歌っているような状態では業界トップの座交代の日も近そうです。卓哉の「勝ちたい」という想いが実を結んでしまうかもしれない、でもそこがはたしてゴールなのか? 卓哉もまたその先で彼のようになってしまうというだけのことではないのか? そこでこの物語は何を描くのか? それを知りたいのです。
 バンドって、ちょっと考えればあたりまえのようですが長く続くものも解散しないものも稀だそうで、それはやはり音楽性の違い、ひいては人間性の違いが原因となるそうで、それは人間同士のやることなんだからこそなのかもしれません。この物語も、「天下取ったぜやっぱり俺たちサイコーだぜ、これからもさらに高み目指して一緒に突っ走ろうな!」完!!か、「喧嘩別れじゃないよ、みんな音楽を愛しているしそれぞれお互いの音楽をリスペクトもしているよ、でも違うんだ笑顔で別れよう元気でな」完…かの二択だろうとは思うのです。誰かが刺されて死んで引き裂かれて終わるような悲劇的結末はさすがにないと思っているのですが、どうだろう…鬱ターン、どん底展開はあるかもしれませんよね、それもまた少女漫画の醍醐味です。ともあれ作者の中には絶対に物語の筋道ができているはずだし、一時期荒れた絵も少し戻ったし、もはやレコードとかランキングとかライブ動員数とかの時代ではないのかもしれないけれどそれでも、全体としてまだまだアリだと思うので、続きを描いていただきたいのです! 読みたいのです!!

 数年前にはラノベか何かの挿絵の仕事をやっていたとも聞くので、完全に廃業してしまったわけではないのかもしれませんが、どうしているのでしょうねえ。もう復帰の芽はないんでしょうかねえ?
 漫画の絵(イラストとは違う)が描けることとネームが切れることって私はとても特殊な才能というかテクニックだと思っていて(まあなんでもそうなのかもしれませんが)、この先フルデジタルフルカラー縦スクロールのボーンデジタル漫画が主流になっていくのだとしても、誰にでもできるものではないし、この技を持っている限り仕事の需要は尽きないと思うんですよ。業界全体の原稿料レベルはデジタル隆盛でむしろ落ちていると聞くので、残念ながら食いっぱぐれがないとまでは言えないんだけれど、その気になればいくらでも商業的な発表の場はある、と思うんですね。大手版元のメジャー誌で連載しなくなっても、BLでもTLでも電子でもなんでも、引き続き描いている漫画家さんってたくさんいます。そこに貴賤はないし、そこも同じように玉石混淆で、ちゃんとしているものもおもしろいものもたくさんあります。だから他人と最低限のコミュニケーションが取れて、手が病的に遅くなければ(なんせ上がらないものは載らないので)、仕事は切れない、のではないかと思うんですよね。あとはもちろん作家本人の「描く情熱」みたいなものが枯渇していなければ、なんだけれど、これまたオタクって死ぬまでオタクで描くのやめるなんてできないんじゃないかと私は思っているんですよね…
 なので、なんで描かないのかなあ、続き…と謎ですし、勝手に心配しているのです。描けないのかなあ、自分のためだけにでも描けばいいのになあ。それともちょっとエゴサすれば「続き待ってます」なんてコメントはすぐ何百と拾えると思うんですけど、たとえばそういうのは励みにならないのかなあ。
 このコミックス、どうしようかなあ…続きが別の版元から別のレーベルで出たときに、また出し直してくれるなら、今は手放してもいいのだけれど、今どきそんな体力あるところって少ないですよね。今、版権どうなっているんでしょう、せめてちゃんと漫画のレーベルがあるところと仕事してくれてればなー…これ多分、電子化されていませんよね? となるとコミックスを手放すともう読めなくなるわけです。表4に毎巻いろんな形の「X」が入っているのも含めて、カバーイラストもカバーレイアウトのコンセプトも粋でお洒落で素敵なコミックスなんですよね。手放したくはない、でももう本棚に空きがない。コロナ禍でまた買い込んじゃったコミックスを収める場所がないのです…
 ほとんど暗記している感じはあり、もう未完で終了だというなら、ここまでということですべてなかったことにして、売って場所を空けたい気もしているのです。未練を残させないでほしい…
 と、本棚を前に悶々とする日々なのでした。ちなみに棚板がたわんできているので本棚も買い換えたい、とかさらに悶々としています…出口はどっちだ!?


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