駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『裸足で散歩』

2022年09月26日 | 観劇記/タイトルは行
 自由劇場、2022年9月24日12時。

 寒い2月のニューヨーク。古いアパートの最上階に新婚のポール・ブラッター(加藤和樹)とコリー・ブラッター(高田夏帆)が引っ越してきた。エレベーターはなく、天窓には穴が開き、暖房も壊れ、家具も届いていない。夜には雪が降るらしい。アパートには変わった住人がたくさんいるようで、コリーはここでの生活を気に入り楽しんでいるが、真面目な弁護士のポールはなじめずにいた。ある日コリーは、母親であるバンクス夫人(戸田恵子)との食事に屋根裏部屋に住む変わり者のヴィクター・ヴェラスコ(松尾貴史)を誘うが…
 作/ニール・サイモン、翻訳/福田響志、演出/元吉庸泰。1963年ブロードウェイ初演、全3幕。

 タイトルは知っていましたが観たことがない演目だったので、チケットを取ってみました。ところで私って自由劇場に行くのが初めてだったのかしらん…? 素敵なハコでした。
 しかしヒロイン女優の名を知らないなあ、と開演前にプログラムをめくったら、これが初舞台とあって、それで先入観を持ってしまったのがよくなかったのかもしれませんが…なんか声が高いというか、ずっと裏声の女優さんなんですよ。別にそういう声質の役者さんがいてもいいとは思うんですけれど、舞台で台詞を聞かせる発声になっているかというと怪しくて…それで、なんか、私は全然嫌になってしまったのでした。
 でもこれって、コリーがほぼ主人公の作品ですよね? このハイパーポジティブハイテンションなキャラの妻に振り回される、繊細で神経質で生真面目な常識人の夫…が主人公というよりは、コリーがパワーと愛嬌と魅力を放ち観客が彼女を好きになってこそ、の作品な気がしました。やっていることは、ニール・サイモンあるあるのワン・シチュエーションの会話劇で、特別な事件が起きるわけでもない、新婚夫婦の喧嘩とちょっとした成長、みたいなだけのお話ですからね。なので、私はこのコリーでは全然ダメだったのでした…
 そもそも、ホテルで6日間のハネムーンを経てからの引っ越し、新婚生活だったようですが、なれそめとかは語られないんですよね。プチ・エスタブリッシュなニューヨーカーのカップルってほぼ大学の同級生で卒業後そのまま結婚してしまうことが多いイメージなのですが、このふたりはどうだったのでしょうか。喧嘩になると明らかになりますが、共通点が全然ないカップルで、何故、どうして、どこを好きになり、なんで結婚しようと思ったの…?って気しかしなかったので。まあ、所詮痴話喧嘩なんだし、愛があれば2月のニューヨークでも愛する人と公演を裸足で散歩できるはずだ、というだけのお話なので、細かいことをつっこむのは野暮なのかもしれませんが…でもその痴話喧嘩も会話の妙というよりは単なる酔っ払いの八つ当たりから始まったようでもあり、犬も食わないというよりは観客もちょっとあきれて他人事…といった空気が漂っていた気がしたので…うーむむむ。
 あと、翻訳にあまり感心しませんでした。コリーの服装とかもそうでしたが、特に1963年という設定ではないのかもしれませんが、でも戯曲は60年前のもので舞台設定も当時のものなはずで、なのにこの10年くらいの新しめの言葉がけっこう使われていて、いわゆる若者言葉としての表現だとしても私は引っかかりました。レトロというかクラシカルな芝居なんだし、言葉もクラシカルでいいのでは? あと、コリーがやたら語尾「じゃん」でしゃべるのも神奈川県出身者としてやや気に障ったのです。
 違う訳、演出、役者でまた観てみたいな…戸田恵子はさすがでした。ちゃんとソファが濡れてる芝居をして笑いを取っていたのに、続く松尾貴史はスルーだったのはなんなんだ…しょんぼり。おしまい。




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『モダン・ミリー』

2022年09月25日 | 観劇記/タイトルま行
 シアタークリエ、2022年9月21日18時。

 1922年、ニューヨーク。モダンガールに憧れて、カンザスの田舎町から出てきたミリー(朝夏まなと)はニューヨークについて早々、財布を盗まれて無一文に。偶然出会ったジミー(中河内雅貴)から聞いた、女性向けの長期滞在型ホテル・プリシラへたどりつく。中国人のミセス・ミアーズ(一路真輝)がオーナーを務めるこのホテルには、この街での成功を夢見る女の子たちが多く暮らしていた。なかなか就職が決まらず家賃を滞納していたミリーは、ホテルの新たな仲間ドロシー(実咲凛音)と仲良くなったり、ジミーに誘われて世界的歌手マジー(保坂知寿)のパーティーに行ったりと新しい生活を楽しみつつ、速記の腕を認められて保険会社に採用され、玉の輿を狙って社長のグレイドン(廣瀬友祐)への猛アプローチを開始するが…
 脚本/リチャード・モリス、ディック・スキャラン、新音楽/ジニーン・テソーリ、新歌詞/ディック・スキャラン、原作・ユニバーサル・ピクチャーズ同名映画脚本/リチャード・モリス、演出・翻訳/小林香、訳詞/竜真知子、振付/木下菜津子、RON×Ⅱ、松田尚子。ジュリー・アンドリュース主演で1967年に公開された同名映画を舞台化した作品で、2002年ブロードウェイ初演。日本では15年ぶりの上演。全2幕。

 私はリカちゃんミリーにジュリちゃんドロシーだった日本初演を観ていて、そのときの感想はこちら。楽しかった記憶があったし今回はまぁ様だしで、いそいそとチケットを手配しました。本当なら20年に上演予定でしたが、コロナで初日直前に中止が決まった公演です。2年越しでなんとか上演にこぎつけて、数回のコロナによる中止はありましたが今もなんとか公演が続けられていて、よかったです。新歌舞伎座でのゴールまで、ご安全をお祈りしています。
 で、とにかく楽しかった可愛かったもうずっとニマニマしていましたー! キャストがみんな達者でチャーミングなのはもちろん、台詞や歌詞の訳に過不足がなく、キャラクターの性格、心情、状況が的確に伝わって、私にありがちな「そういうことがやりたいならこの言い方じゃ伝わらないよ!」とキレる、みたいなのが全然なくて、ノーストレスで観られました。もちろんそんなに難しい話じゃないってのもあるけど(^^;)、でもこのあたりがクリアじゃないと単純な話だってノレないんですよ。でも今回の舞台は本当によかったです。
 中国人云々に関しても、これは差別的な表現とはちょっと違うんだと思います。この頃のチャイナタウンが誘拐などの犯罪の温床だったことは単なる事実なんだろうし、ミセス・ミアーズは中国人ではなく、中国人のふりをしているおそらくはアメリカ人、なのです。もちろん中国人兄弟(安倍康律、小野健斗)を悪巧みに使役しているんだけれど、彼らも母親を中国から呼び寄せるための資金を貯めるために仕方なくやっているのであって、ここにもやはり人種差別的な視線があるわけではないと思いました。中国語台詞が正しいのかは怪しいですが、ヘンに訛った日本語台詞を言わせるくらいなら、むしろこの字幕形式は正しいのかもしれません。
 あとはもう本当にキャストがいいのと、ナンバーが楽しくまた間延びせずに感じられたのもよかったです。まぁ様の歌唱はやっぱりもうあと一歩、には感じたんですけれどね。でもキュートだからいいのです!(甘い)
 ミリーは「恋愛と結婚は別」と考える「モダン」な女性になろうとして奮闘しています。で、着替えるとまぁ様はそらすらりとしていてハンサム・ウーマン感が出ちゃうのですが、でもすごく素朴でまっすぐなミリーをちゃんと演じていて、金にならなさそうな男にうっかり惚れちゃってあわあわする、実にいじらしく微笑ましいヒロインをくるくると楽しげに演じていて絶品なのでした。
 親友になるドロシーが元相手役のみりおんだというのがまたエモいし、また上手いんだコレが! グレイドンとのグラン・パみたいなダンスもすごいし、ミリーとのデュエットではもちろんしっかりまぁ様を支えるし、本当に頼れる共演者っぷりでした。私はみりおんのざっかけない感じが娘役さんとしては苦手だったんですけれど、ミュージカル女優さんとしては本当に素晴らしいと思うので、もっとバリバリ出演してー!と常に思っています。
 てかだいきほでもみりかの(蘭ちゃんでもゆきちゃんでも華ちゃんでも出来るだろうけど、ここの私の好みで)でもチギみゆでも、トップコンビOGはみんなミリーとドロシーをやればいい…!と思いつつも、娘役のミリーだってもちろんあっていいのであって、きぃちゃんミリーとか今ならくり寿ミリーとかいずれ観たいぞ!!とも思いました。
 いわゆるシンデレラ・ストーリーというよりは、真実の愛を選んだらたまたまお金もついてきた、という感じの展開なのもいいですね。私はジミーはドロシーとはお金持ち仲間で面識があって、なんなら親が決めた婚約者同士なんだけど当人はふたりともその気がない、みたいな知り合い同士なのかなと思っていたんですけれど、兄妹とはわかりやすすぎました(笑)。ミリーがいうても色仕掛けではなくちゃんと速記とタイプの腕で雇われるのにも好感が持てましたし、そのボスの廣瀬くんがまた絶品でした! タッパがありすぎて普通のヒーロー役だとちょっと浮いちゃう役者さんだと思っているのですが、こういう役まわりが出来るとホント強いな…! そして中河内くんも本当に素敵でした。まぁ様と並ぶと背が同じくらいなんだけど(なのに頭身は全然違うという恐ろしさよ…!)、その対等感がいいなと思いましたし、やはりすごく愛嬌のある役作りで、ちょっと口が悪かったり辛辣なところがあるはずのキャラなのに憎めない好青年になっているのが本当によかったです。
 そしてイチロさんの悪役、新鮮…!(笑)そして実に楽しそうに演じている気がしました。鷹揚なマジーと実はやはり田舎育ちの同級生、ってのがまたいいですよね。いつかリカちゃんとジュリちゃんのこの二役を観てみたいなと思いました。若いときにミリーとドロシーをやって、20年くらいしたらミセス・ミアーズとマジーをやるって、素敵なことだと思うのです。
 お友達におかげで最前列ほぼセンターみたいなお席で観たので、三階セットを見上げるのはやや首が痛かったですが(^^;)、楽しかったので大丈夫です。女性陣のスカートの中もよく覗けました(笑)。楽しい観劇になりました。



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『恋弾』雑感

2022年09月22日 | 日記
 一応(笑)ゆんゆんファンのつもりというか、少なくとも憎からず思っているので、彼主演で(ヒロインとのダブル主演、扱いかな?)テレビドラマ化されるという箕野希望『恋と弾丸』(小学館Cheese!フラワーコミックス、既刊11巻)を読んでみました。彼氏キャラがヤクザという設定のお話でまあまあ売れている少女漫画、くらいの認識しかなかったのですが、読んでみたらなかなかおもしろかったというか思うところがあったので、ちょいと語らせていただきます。
 11月に第12巻が出て完結とのこと、美しいですね。中盤ちょっとダレたかなーという気もしましたが、目新しいことも多くウケているのも納得の、しかし映像化されるとどうだろうなー、という懸念も湧いた読書となりました。

 ヒロインは二十歳の女子大生・ユリ。何故か名字が出てきません。対する彼氏キャラは桜夜組の若頭・桜夜才臣、のちに35歳と明らかにされる(ヒロインとの歳の差を気にして赤くなってサバ読もうとする描写アリ)、眼鏡にスーツが素敵な一見紳士でインテリ優男ふうの、しかし脱げば背中と腕と胸に堂々刺青の入った、界隈では大物と目される男性です。「ヤクザ」という言葉はきちんと出てきますが、「暴力団」や「反社会的組織」みたいな用語は使われていません。どこに線引きがあるのだろう…また、桜夜組自体は「何があっても女性に危害は加えない」という「信念」を持っている、という設定になっています。
 まずいいなと思ったのが、ヒロインのキャラです。気が強いとか勝ち気だとか正義感が強いとか義侠心に篤い、という設定のヒロイン像は、実はけっこうよくあります。でもたいていはそれってただ激情家で喧嘩っ早くて向こう見ずだったりするだけで、それで暴走したあとの責任は取らない/取れないキャラが多い。それですぐ窮地に陥って相手役の弱点になっちゃったりする、困ったちゃんキャラになることが多いと思うのです。もちろん、実際に男女に体格差や筋力差はあるので、敵に狙われればそうそう簡単に抗えるものではないし、また敵に捕らわれたりといったピンチに陥って、でもギリギリのところをヒーローに救われたい…というようなスリルと開放感、達成感を味わってみたいという願望が多くの女性にあることは確かだと思うので、そういう読者の期待にきっちり応える展開だとも言えます。でもヒロインがあまりにバカっぽく、幼稚で愚かで、それをヒーローに救出してもらってイイコイイコと頭ナデナデされてワンワン泣いちゃって、ふたりはよりラブラブに…みたいな描写ばかり見せられると、ケッとなっちゃう私もいるワケです。
 でもユリは、そういうヒロイン像とはけっこう違うのです。もっと強く、まっすぐで、ひたむきで、真剣なのです。ハナから「このままの私を好きって言ってくれる人じゃないと嫌!!」と言っている、というのもありますが、まず自分がちゃんと自分を好きで、自分に自信がある、というかまずそういう「自分」をちゃんと持っているところがいい。「私なんて…」とクネクネし、そしてチラッと上目づかいで見てくるような、そういうことをいっさいしないキャラなのです。そこそこ美人で黙っていればまあまあモテる、という設定なのでしょうが、高校まで部活動のバスケットボールをみっちりやっていた体育会系の人間で、かわい子ぶったり人におもねったりつくろったり愛想笑いなんてごめん、という性格で、それが正しいという信念を持って生きている、ごくまっすぐな女性なのでした。
 そこから才臣と出会い、惹かれてしまい、でももう危険な目には遭いたくないし…みたいなターンを経ての、「会いたいって理由で来ただけで/正直なんの覚悟もありません」からの「無理矢理にでも覚悟」するまでがめっさ早かったし、覚悟してからの潔さが実に素晴らしくて痛快なのでした。
 こんなにフラフラ、グラグラしない、揺るがないヒロインって珍しいと思います。それは才臣もそうで、だからふたりの恋愛は読んでいて実にすがすがしいです。障害がある恋愛の物語の場合、たいてい当事者のキャラが「やっぱりこの関係はいけないものなのではなかろうか」とか「上手くいくはずがないのではないか、そもそも相手に本当に愛されてはいないのではないか」とか「相手のために別れた方がいいのではないか」とかとか、悩んだり迷ったり揺らいだりして、そこですれ違いが起きるような、ジレジレとしたドラマを紡ぐことが多いと思います(私は辛気くさい話が大好物なので、めっちゃ好みですが)。でもこのお話にはそういう空気はいっさいない。ユリは誰にも祝福どころか認められることすらない相手だとちゃんとわかっているし、そもそも周りの反応がどうとかより自分が一番この関係には問題があるとよく理解している。それでも好きだから、可能な限り一緒にいる、そしてそのことは誰にも言わない、全部自分で引き受ける、ということができる人間なのでした。
 親友とも言える女友達ふたりにすら恋人の有無についてニッコリ笑って嘘をつく、その強さと真剣みには惚れ惚れしましたねー! これまた親友にだけは打ち明けちゃう、みたいな展開がありがちだと思うのですが、ユリは彼女たちのために、自分のために、何より才臣のために口をつぐむ。黙っていること、隠していることって実はすごくつらくてしんどいことですけれど、その苦痛を引き受ける。その覚悟と強さがある人間なのです。すごい。というか彼女をそう描くこの作家がすごい。
 だって、離れている間寂しかったり不安だったりしても、グズグズ泣いて待ったりせず、筋トレとかしちゃうんですよこのヒロイン! 心も体も鍛えて、強くあろうとし、相手に見合う自分でいようとする。その心意気に、読者としても惚れざるをえません。
 才臣の方も、ユリのことが気になって好きになってだからこそ巻き込みたくない、という葛藤はあったかと思いますがそこはあんまり描かれず(笑)、「生き急いで」いるのでヘンに待ったりせず、「会えた今だけは」「最後になるかもしれない」と一心にユリを愛す。そして「生きてたらまた連絡する」と言って去る。無駄な安請け合いやおためごかしは言わないし、守れない約束はしない。ふたりとも遠からず才臣は命を落とすものと覚悟していて、期限つきの恋愛だと覚悟して、会える時間を大事にしようと真摯に努めている。その必死さがいじらしく、またものすごくすがすがしいのでした。
 実際切った貼ったの危ない稼業なんだろうし、殺されないまでも逮捕される、裁かれる、罰せられることは十分ありえる立場なのでしょう。というかそうでないとそんな社会、世の中ダメだろうって話で、その自覚がふたりともにちゃんとあるし、そうした「境界線」も作品内できちんと描かれています。まあちょっと扱いが難しいのか、警察官キャラも少し出ただけですぐフェイドアウトしたりはしましたが…つまり才臣のヤクザぶりは非常に巧妙に演出されつつうまく表現されていて、そのバランスも実にまっとうで上手いのです。よく、「『ワンピース』に憧れて子供が海賊になりたがったらどうするんだ、海賊行為は犯罪だぞ!」みたいな言い方がフィクションに対してされることがありますが、この作品を読んで「私もヤクザと恋したい」と読者の女性が思うことはまずありえない、ということです。悪いことは悪いこと、として線は引かれていて、これは特殊で特異なケースだときちんとされて、万人が安易にできることではないとされている。その中で、このふたりは極力周りに迷惑をかけずに、かつおそらく期間限定でしか続けられないことだから…という自己責任の中で恋愛していて、それでギリギリ成立している関係、作品なのです。たいしたものだと思います。
 何より、ファンタジー感がすごい(笑)。厳密な意味での資金源についてはあまり考えたくないところではありますが、才臣にはお金がある、あるいは自由に使える設定になっていて、そのゴージャスさはちょっと笑っちゃうほどです。マンガ的というよりは、石油王もののはハーレクイン・ロマンスみたいなゴージャスさ、突拍子もなさで、リアリティはあまりない。だからあくまで「お話」として、でもきちんと楽しめる、そういう作品になっていると思いました。
 でもなあ、どう終わるのかなあ、才臣が死んでユリが泣いておしまい、なのかなあ。でもなあ、なんらかの形でユリが一緒に死んじゃうのは、描き方によっては問題だしなあ…楽しみなような怖いような、です。

 さて、というわけで実際に読んでみるまでは、「ヒロインがヤクザの男となんかずっとイチャイチャしてる漫画じゃなかったっけ?」みたいなイメージだったのですが、そしてそれは本当にそうでベッドシーンが非常に多い作品ではあるのですが、ここにもまたおもしろい発見がありました。
 まず、BLなんかでもそうですけれど、これは少女漫画的なコードというよりは主に作家の画力の問題なのか、たいていの男性キャラクターがズボンを脱がずに、膝まで下ろすこともせずに、ベルトとボタン外してファスナー下ろすだけでセックスしますよね。何度か書いたことがありますが私はこれが本当にダメで…リアリティがない、というのもありますし、陰毛がファスナーに絡んだりして痛そうとかなんならペニスが挟まることだってありそうで大惨事ではとか挿入される女体側にも内腿とかがファスナーで冷たいか傷がつきそうでは?とハラハラしてしまうのです。これは漫画家が男性のお尻を上手く描けないか、男性がお尻を出すことは恥ずかしい、セクシーじゃない、とされているからなんだと思います。
 でも、この作品ではハナからちゃんと全裸でした(笑)。これまた全裸でも腰から下はコマの外に来る構図にして描かない、みたいなことも従来の作品では散見されますが、それだと結合部分は描けないので何がなされているかが読者にはよくわからず(笑)萌えない濡れない、という残念さがあるかと思います。が、この作品はあっさり、ちゃんと、濡れ場で才臣のお尻を描いています。デッサン的にも正しいし、セクシーかどうかは判断な迷うところですが、要するに普通にまっとうにお尻を描いていて、ある意味でしごく当然です。いやぁ感心しましたねー!
 それから、気が強いとされるヒロインがセックスではへなちょこ、というのも従来の作品では散見されますが、たとえ経験が男性キャラより少ないと設定されているせいだとしても、いつも半泣きで頬染めてイヤイヤダメダメ言いながら攻められよがらせられてばかりなのは、それはそれで私は萎えます。でもユリは違うんです、積極的に、対等にセックスを楽しみにいっているし、能動的に動くんです。もちろん相手を喜ばせるためでもあるけれど、自分の快感のためというか、一緒に気持ちよくなってナンボでしょ、という意識がちゃんとある(主に作家に)。悪いことだとかはしたないことだとかいう意識はまったくない。その健全さ、健康さがまぶしいのでした。この感覚、成人女性向けのレディースコミックでもなかなかないと思います。そちらは逆にヘンに露悪的になりがちなんですよね、それはそれで問題だと私は思っています。
 もちろんユリが積極的なターンだと、よがる才臣を描けるという、ややBLめいた見せ方ができる利点もあるかとは思いますが、この対等感はとにかく貴重だと思うのです。そりゃ身体の凹凸はあるから男女のセックスはペニスをヴァギナに挿入することが中心になりがちなんですが、だからって男が女を攻めてばかりとか逆に男が女に奉仕してばかりとかってことはないでしょ、NOマグロ! 抱け、抱かれろ!! それでビビる男なんざこっちから捨てろ、という強いメッセージすら勝手に感じて、私は好感を持ったのでした。イヤ作家にそこまでの主張はないかもしれないけれど、でも女性読者が少女漫画から恋愛だのセックスだののイメージやパターンを学んでしまうことは多いと思うので(この作品の掲載誌は高校生か20代前半女性を読者対象にしていて、でも実際の読者は立派なアラサー以上なのではないかと思われますが)、リアルかついい意味で理想的な形を描いてあげるべきだと思うんですよね。
 その意味では、避妊の描写がまったくないのは気がかりでした。これまた従来の作品ではコンドームの袋の端をくわえて片手で封を切る描写が散見されまくるわけですが、この作品には全然ありません。現代のお嬢さんだしユリだし、普段からピルを飲んでいる設定でもいい気もしますが、その描写もない。私は『NANA』くらいしか寡聞にして知らないんですよね、ヒロインがピルを服薬している少女漫画って。でもこれも、女性が漫画から学習すること/学習してしまうことってたくさんあるので、きちんと描いてあげてもよかったんじゃないかなと思いました。妊娠なんて考えられない状況だし、というような描写とかがあってもよかったとと思いますしね。てか今思いついたんですが、まさか才臣は死んだけどお腹に新しい命が宿って…みたいなラストだったらヤダなー。私はこのパターンのオチは好かないのです。ま、ピルは飲んでいたとしても性病感染予防その他の観点からコンドームの使用はやはりあった方がいいと思いますけれどね。
 いい方の話に戻ると、ユリのマスターベーションがこれまた普通に描かれることです。これまたいけないこととかふしだらなこととされるようなことはまったくなく、ただ、している。そのあっけらかんとした健やかさといったら! 素晴らしいと思いました。さらに、オマケ漫画ではありますが、ユリが通販でバイブレーターらしき「大人のおもちゃ」を買うエピソードもあり、ギャグタッチになっていますが、やはりまったく後ろ暗さがなくて素晴らしいです。少女漫画ってちゃんと進化してるんだなー!と感動しました。こういうことでもなければ存在すら知らないままに大人にさせられてしまう女性たちがまだまだいるんだろうから、漫画で普通に扱うのって、人生の教材としてとても正しいと思うのでした。これまた成人向け女性漫画だとつまらない方向に変に扇情的な描写になったりすることが多く、それはその世代の作家や担当編集者に植え付けられてしまった妙な罪悪感に裏打ちされたものだと思うので、そういうことがない、若い世代が健やかに育っていくといいなと思うのです。

 なのでホント映像化が心配です…テレビドラマのコードってまた別のところにあるので、原作漫画の作品世界を完全には再現できないだろうと思いますし…またこういうタイプの少女漫画だからこそのファンタジー感って、現実の生身の俳優さんによって現実の風景やセットの中で演じられることで妙な現実感とショボさが出てしまいそうで、激しく不安です。多少別物になっても、ドラマとしておもしろく、かつ原作漫画への興味もそそられて、双方評判になり収益を上げて…となるのが理想なんでしょうが、さてどうなりますことやら…
 見守りたいと思います。









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『COLOR』

2022年09月21日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場、2022年9月19日13時。

 帰宅途中、大学一年生の糸沢草太(この日はぼく/成河)は交通事故に遭い、救急車で搬送されるが、意識不明の重体に。奇跡的に目を覚ましたときには、記憶は失われ、両親のこと、友人のこと、自分自身のこと、言葉や文字、食べる、眠るなどの感覚さえ何もかも忘れていた。母・葉子(この日は濱田めぐみ)は過去の記憶を取り戻してあげたいと必死になるが、草太の目に映る日常は何もかもが新しく、謎と驚きに満ちていて…
 原作/坪倉優介『記憶喪失になったぼくが見た世界』(朝日文庫)、音楽・歌詞/植村花菜、脚本・歌詞/高橋知伽江、演出/小山ゆうな、編曲・音楽監督/木原健太郎。草木染作家の手記をベースにしたオリジナル・ミュージカル。全1幕。

 母親役はちえちゃんとのダブルキャストで、そのときは「ぼく」は浦井健治。他に「大切な人たち」をこのときは成河が、今回私が観たバージョンではウラケンが演じるという、85分の三人芝居でした。
 実際にあったことが元、と聞いて、感動ポルノのように消費してはいけない、とつい身構えてしまったせいか、もちろん舞台そのものもすごくよく抑制されて作られていたのですが、でもちょっとさらりと、淡々と私には感じられてしまったかな、という観劇になってしまいました。周りからはすすり泣きもけっこう聞こえていたので、もっと入り込んでエモエモに観てもよかったのかもしれませんが…
 でも、要するにほとんど赤ちゃん帰りしちゃったってことですよね。それでまた一から学びなおして…ってホント大変だったろうな、と思います。ご本人は今は52歳だそうで、事故からは30年以上経っていて未だ以前の記憶は戻らず、けれど作中にあったように今は記憶が戻るのが怖くて、何故なら「新しい過去」を大切にしたいからなんでしょうけれど、記憶が戻ってしまうことがあるのか、そのとき事故後の記憶は失われてしまうのかはわからず、その恐怖も抱えながら今、草木染作家として生きていらっしゃるわけです。その事実の重さには、なまなかな物語や作品では太刀打ちできないのではないでしょうか…
 あたりまえですが三人はとても達者で歌も演技もノーストレスで、セットも簡素ながらに美しく(美術/乘峯雅寛)、緩急もあり飽きさせずスムーズでおもしろく、よかったんですけれど…ね。
 ちえちゃんの母親役とウラケンの「ぼく」では、また空気が違う作品になっているんでしょうね。もっとモダンになっていそうな気がします。見比べるべき作品なのかもしれません、サボってすみません…
 コンパクトサイズで読みでのあるプログラムがとても素敵でした。また、宣伝美術と舞台の美術、イメージに乖離がなかったのもよかったです。



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『血の婚礼』

2022年09月20日 | 観劇記/タイトルた行
 シアターコクーン、2022年9月18日12時半。

 南スペインのアンダルシア地方のとある村。気性の激しい「母親」(安蘭けい)に優しく接しながら暮らす「花婿」(須賀健太)は、ある日母親に「花嫁」(早見あかり)と結婚したいと告げる。息子が家を去ることに複雑な思いを抱きつつ、結婚を認める母親。しかし「村の女」(大西多摩恵)から、以前花嫁がレオナルド(木村達成)と心を通わせていたことを聞かされ…
 原作/フェデリコ・ガルシーア・ロルカ、翻訳/田尻陽一、演出/杉原邦生。スペインを代表する劇作家ロルカの最高傑作と名高い戯曲を、独創的な公演を手がけることで注目を集める気鋭の演出家が自由な発想で演出した舞台。全2幕。

 以前、白井晃演出で観たときの感想はこちら。おもしろかった記憶があったので今回もチケットを取ってみたのですが(今『オールドファッションカップケーキ』も楽しく観ていますしね)、梅芸の宣伝ツイートがどうも鼻につく感じだったので、不安ではあったんですよね…で、観てみたら、私は全然ダメでした。
 なんかやたらスタイリッシュなセット(美術/トラフ建築設計事務所)とお衣装(衣装/早川すみれ)でなんかやたらと泥臭い芝居を見せられた気が、私はしました。リアリティのある芝居、という意味ではなく、演技臭さが鼻につく芝居、という意味です。なんが、演劇を観たことがない人がイメージする演劇って、こんな感じなんじゃないかなあ…みたいな。よくわからない言葉を感情的にずっとがなり続けていて、よくわからない動きをする、みたいな…すみません。ちなみにもともとの戯曲がどんな感じのものなのかを完全に理解できているわけではないので、これが正解なんですよと言われたらハアそうですか、としか言い返せないのですが…どうなんでしょうね? 白井晃版とは出てくる登場人物が微妙に違うので、多少の翻案はどちらかがしているのでしょうか。うーん、それにしても…
 別にキャラクターが見えないとかお話がわからないとかいうことはないのですが、台詞も詩的かというとそうでもない気もするし、ではリアリティがあるかといえばそういうものでもなくて、でもなんかとにかく妙に劇的で感情的で…なんか、観客としてどんなテンションでどこ視点で観ればいいのか、私にはよくわからなかったのでした。なので退屈しました。
 2幕はさらに詩的というかファンタジックというかで…でもトウコさんが月の女神らしき、ちょっと笑っちゃうようなギンギラのお衣装でネズミの国のパレード・フロートみたいなものに乗って出てきたりするので、ライト当たったら拍手かな、とか思いましたよね…我慢できた私、偉い。総じてトウコちゃんと、レオナルドの妻役の南沢奈央の台詞が良かったと思いました。
 主役三人もまあ別にてせきていたというか、よかったんですけれど…しかし早見あかりは須賀健太にはちょっと大柄すぎませんでしたかね? 顔が小さいのか、すごく体格がよく見えて、背も高く、並ぶと花婿が貧相な男に見えちゃうのは、表現としてちょっと残念だったのではないでしょうか。木村達成は王子さまスタイルだから遜色なかったけど…でもこれって、彼が主役の物語なのかなあ? とにかくなんかよくわかりませんでした…
 2幕では舞台の奥の壁を見せる、コクーンあるあるでした。1幕のセットを裏から見ているイメージなのかな?とも思いましたが、特にそういうことでもなかったようですね。じゃあ1幕のあれは、特に照明器具は、なんだったんだ…
 で、三角関係の大アクションのあと、それこそ詩のような、なんか朗詠のような、台詞が語られて、終わる…すみません、「あっ、これで終わり!?」と久々に思ってしまいました。ホント良くない観客だったんだろうなと思います…
 演奏はとてもよかったなー。以上です。すみません、なんかホントもっとちゃんとした見方とかがあるものなら、ご教示ください…しょぼん。





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