ザ・ポケット、2025年2月23日13時(第一、二、三部縦断上演)。
第一部は1947年~1957年。第二次世界大戦終結から一年、ソビエト連邦の天才ロケット設計士セルゲイ・コロリョフ(植村宏司)率いる第一専門設計局は、ナチスドイツが開発したV-2号機ロケットの国産化に着手した。抑留されているドイツ人工学者アルベルト・レーザ(大柿友哉)らの協力を得ながら、彼らはかつて単純兵器だったロケットを多段式R-7号機ロケットへと昇華させ、地球周回軌道上へ「寄り添うもの スプートニク」を打ち上げるが…
第二部は1957年~1964年。スプートニクが成功し、ソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ(今里真)は米国を出し抜いた歓喜に震えていた。しかしアメリカ航空宇宙局NASAは驚愕のスピードでソビエトを追走し…
第三部は1964年~2025年。熾烈を極めた米ソの競争についに終止符が打たれる。軍事、政治と宇宙開発を分離できないソビエト連邦は、次第にNASAに追い詰められていき…
作・演出/野木萌葱。三部構成で、それぞれは約二時間。縦断上演では第一部と二部の間に15分の小休憩があり、第三部開演までに一度劇場を退場させられる大休憩が1時間半ほどありましたが、ずっと同じ席で観られるスタイルでした。
パラドックス定数の過去の観劇感想はこちらとこちら。
今回の演目は過去に青年座での上演もあるそうで、新作ではなく、ブラッシュアップ再演なのでしょうか。前回より群像劇みが増した、という感想も見かけました。
作者の言によれば、「モノを創る仕事」に憧れがあり、演劇も触ることはできないけれどモノを創る仕事だろう、とのこと。そして宇宙へ向かうロケットを創る仕事は、モノ創りの最高峰なのではないか、とのこと。そして「史実を題材にしたものを自分の作品と言ってしまう烏滸がましさは自覚し」つつ「私は!この作品が!!好きなんだあ!!!」とのこと。でもそれって、単純で当然のようで、素晴らしいことですよね。
ラストシーンは現代ですから、おそらく今回の上演に際して加筆修正されているんでしょう。今の、『ズベズダ』。ロシア語で「星」、サブタイトルは「荒野から宙へ」。ロケット発射場が作られたバイコヌールはかつて遺跡があった、今は何もない荒野で、でもそこにも人類は暮らしていて、数十万年の昔から、夜には星空に手を伸ばしていたはずなのです。そこに、ロケットを作る人々が集まり、働いていた…ロシア宇宙開発史をたどる、6時間の旅でした。
私はアポロ11号による月面着陸の年生まれです。中学生くらいの時にカール・セーガンが流行り、ギリシア神話と星と宇宙とスペースシャトルとスペースコロニーなどなどを学んだSF者です。大学の専攻は素粒子物理でした。なので出てくる単語にたぎりまくりました。スプートニク、ボストーク、バイコヌール、ライカ、ベルカ、ソユーズ、ミール、ダー・チャイカ…!
本当に脚本が秀逸で、無駄な台詞や無意味な台詞、意味不明瞭な台詞がまったくありませんでした。知らない役者(すみません、何回か観ているのにまだちゃんと識別できていなくて…)の知らない国の知らない時代の物語なのに、ロシア人、ドイツ人、技術者、学者、軍人、政治家などのキャラクターたちがあっという間にくっきりと立ち上がり、その人柄、思想、その状況、過去の歴史などがまざまざと理解できるようになるのです。
セットらしいセットはほぼなくて、床にいくらかの段差があるだけ、机と電話機と椅子が数脚あるだけ。ほぼ会話劇で、でも舞台は研究室その他なんにでもなるし、床は狭く天井は低く、しかし役者たちは上手下手に二箇所ずつある出入り口をめまぐるしく出入りしてガンガン場面を進め、熱く物語を進めていきます。実に鮮やかで、舞台って本当になんでもできるんだな…!と胸アツでした。
冷戦という状況、米ソの熾烈な宇宙開発競争、ソビエトという国の在り方ゆえの恐ろしいまでのトップダウンなどなど、いろいろなことが重なって、人類はあっという間に月に達しようとしたのでした。しかし私たちは最初に月に人類を到達させるのがアメリカだと知っている、さらにソビエト連邦という国家がやがてなくなることも知っている…もうすっかり彼らに親身になっているのに、どうなるんだっけ、どうなるんだろう、と泣きそうになりながら見守りました。キューバ危機その他、今に続く戦争の歴史もまた、彼らの活動に影を落としていく…
そして第三部になると、今までなかった正面奥の出入り口から、寿命をまっとうしたキャラクターたちがひとり、またひとりと去っていく…コロナ渦で、ロシアのワクチンにはスプートニクという名前が付けられていたんですね。そしてまた戦争…
おそらく一番若くて、だから生き残ったのだろうアレクサンドラ・スヴィーニナ(松本寛子)が、それでも星空に手を伸ばして、暗転…ラインナップは、役者さんたちが亡くなったのと逆順に出てきて、揃ってお辞儀して、泣かされました…
ロケット開発全権主任のコロリョフと、エンジン主任設計士ヴァレンティン・グルシュコ(神農直隆)のコンビ感は萌え燃えでしたね。第零部として過去のいきさつを描いてほしかったくらいです。しかしロシア革命からこちら、粛正その他大変なことがあったのだろうし、どんな天才でもそれだけでは生き延びられなかったろうことを思うと、本当に恐ろしいです。私は社会主義というのはとても素晴らしい理論だけれど、人類はそこまで賢く優しくなれていないのではないか、と考えているんですよね…
サーシャはレイラ・ゼレノヴァ(前園あかり)やルカ・ヤノフスキー(岡本篤)らとともにソビエト連邦科学アカデミーから協力のためにやってきた後発隊で、このヤングな雰囲気もよかったです。みんな愛称で呼び合っていましたしね。でもサーシャもレーリャもバリバリの研究者や技術者で、いわゆる女言葉をほとんど話さないし、誰かと恋仲になったり結婚や出産でリタイアする様が描かれることがなく、とてもよかったです。性別がそういうドラマの要因にされることがなく、もちろん研究者たちの男女誰にでもそれなりの家庭生活はあったのかもしれないけれどそれはここでの物語とは関係ないので…というスタイルがよかったのです。で、そう思っていたらなんとルカーシャとサーシャは結婚しているようなのでした。定年退職、みたいなものがシステムとしてあるのかわかりませんが、物語終盤の現代パートはこのふたりが自宅のリビングのソファに並んで腰掛けて、テレビを見る様子から描かれるのでした。上手い…!
フルシチョフとか、こんなおじさんだったのかなあニヤニヤ、ってのもたまりませんでしたし、いろんな意味で体制派に見えたウスチノフ大臣(谷仲恵輔)や逆に学問一辺倒っぽかったケルディシュ博士(酒巻誉洋)もどんどんいい味出していくし、そういう人間の多面さを描く展開も素晴らしかったです。英雄視されて重荷に悩むユーリー・ガガーリン(鍛冶本大樹)もとてもよかった。
いろんな人がいて、完全な善人も完全な悪人もいなくて、政治や経済がしっちゃかめっちゃかでも夢を追う人はいて、でもやっぱり全部つながっているのでそれだけでは駄目で、もしかして人類は衰退期に入っていて新しい国際宇宙ステーションもなんともならないかもしれないしアルテミス計画も怪しいし火星も金星も遠いままなのかもしれない。それでも…という、想いが、伝わりました。人間ってすごいし、演劇ってすごい。心震える観劇でした。
第一部は1947年~1957年。第二次世界大戦終結から一年、ソビエト連邦の天才ロケット設計士セルゲイ・コロリョフ(植村宏司)率いる第一専門設計局は、ナチスドイツが開発したV-2号機ロケットの国産化に着手した。抑留されているドイツ人工学者アルベルト・レーザ(大柿友哉)らの協力を得ながら、彼らはかつて単純兵器だったロケットを多段式R-7号機ロケットへと昇華させ、地球周回軌道上へ「寄り添うもの スプートニク」を打ち上げるが…
第二部は1957年~1964年。スプートニクが成功し、ソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ(今里真)は米国を出し抜いた歓喜に震えていた。しかしアメリカ航空宇宙局NASAは驚愕のスピードでソビエトを追走し…
第三部は1964年~2025年。熾烈を極めた米ソの競争についに終止符が打たれる。軍事、政治と宇宙開発を分離できないソビエト連邦は、次第にNASAに追い詰められていき…
作・演出/野木萌葱。三部構成で、それぞれは約二時間。縦断上演では第一部と二部の間に15分の小休憩があり、第三部開演までに一度劇場を退場させられる大休憩が1時間半ほどありましたが、ずっと同じ席で観られるスタイルでした。
パラドックス定数の過去の観劇感想はこちらとこちら。
今回の演目は過去に青年座での上演もあるそうで、新作ではなく、ブラッシュアップ再演なのでしょうか。前回より群像劇みが増した、という感想も見かけました。
作者の言によれば、「モノを創る仕事」に憧れがあり、演劇も触ることはできないけれどモノを創る仕事だろう、とのこと。そして宇宙へ向かうロケットを創る仕事は、モノ創りの最高峰なのではないか、とのこと。そして「史実を題材にしたものを自分の作品と言ってしまう烏滸がましさは自覚し」つつ「私は!この作品が!!好きなんだあ!!!」とのこと。でもそれって、単純で当然のようで、素晴らしいことですよね。
ラストシーンは現代ですから、おそらく今回の上演に際して加筆修正されているんでしょう。今の、『ズベズダ』。ロシア語で「星」、サブタイトルは「荒野から宙へ」。ロケット発射場が作られたバイコヌールはかつて遺跡があった、今は何もない荒野で、でもそこにも人類は暮らしていて、数十万年の昔から、夜には星空に手を伸ばしていたはずなのです。そこに、ロケットを作る人々が集まり、働いていた…ロシア宇宙開発史をたどる、6時間の旅でした。
私はアポロ11号による月面着陸の年生まれです。中学生くらいの時にカール・セーガンが流行り、ギリシア神話と星と宇宙とスペースシャトルとスペースコロニーなどなどを学んだSF者です。大学の専攻は素粒子物理でした。なので出てくる単語にたぎりまくりました。スプートニク、ボストーク、バイコヌール、ライカ、ベルカ、ソユーズ、ミール、ダー・チャイカ…!
本当に脚本が秀逸で、無駄な台詞や無意味な台詞、意味不明瞭な台詞がまったくありませんでした。知らない役者(すみません、何回か観ているのにまだちゃんと識別できていなくて…)の知らない国の知らない時代の物語なのに、ロシア人、ドイツ人、技術者、学者、軍人、政治家などのキャラクターたちがあっという間にくっきりと立ち上がり、その人柄、思想、その状況、過去の歴史などがまざまざと理解できるようになるのです。
セットらしいセットはほぼなくて、床にいくらかの段差があるだけ、机と電話機と椅子が数脚あるだけ。ほぼ会話劇で、でも舞台は研究室その他なんにでもなるし、床は狭く天井は低く、しかし役者たちは上手下手に二箇所ずつある出入り口をめまぐるしく出入りしてガンガン場面を進め、熱く物語を進めていきます。実に鮮やかで、舞台って本当になんでもできるんだな…!と胸アツでした。
冷戦という状況、米ソの熾烈な宇宙開発競争、ソビエトという国の在り方ゆえの恐ろしいまでのトップダウンなどなど、いろいろなことが重なって、人類はあっという間に月に達しようとしたのでした。しかし私たちは最初に月に人類を到達させるのがアメリカだと知っている、さらにソビエト連邦という国家がやがてなくなることも知っている…もうすっかり彼らに親身になっているのに、どうなるんだっけ、どうなるんだろう、と泣きそうになりながら見守りました。キューバ危機その他、今に続く戦争の歴史もまた、彼らの活動に影を落としていく…
そして第三部になると、今までなかった正面奥の出入り口から、寿命をまっとうしたキャラクターたちがひとり、またひとりと去っていく…コロナ渦で、ロシアのワクチンにはスプートニクという名前が付けられていたんですね。そしてまた戦争…
おそらく一番若くて、だから生き残ったのだろうアレクサンドラ・スヴィーニナ(松本寛子)が、それでも星空に手を伸ばして、暗転…ラインナップは、役者さんたちが亡くなったのと逆順に出てきて、揃ってお辞儀して、泣かされました…
ロケット開発全権主任のコロリョフと、エンジン主任設計士ヴァレンティン・グルシュコ(神農直隆)のコンビ感は萌え燃えでしたね。第零部として過去のいきさつを描いてほしかったくらいです。しかしロシア革命からこちら、粛正その他大変なことがあったのだろうし、どんな天才でもそれだけでは生き延びられなかったろうことを思うと、本当に恐ろしいです。私は社会主義というのはとても素晴らしい理論だけれど、人類はそこまで賢く優しくなれていないのではないか、と考えているんですよね…
サーシャはレイラ・ゼレノヴァ(前園あかり)やルカ・ヤノフスキー(岡本篤)らとともにソビエト連邦科学アカデミーから協力のためにやってきた後発隊で、このヤングな雰囲気もよかったです。みんな愛称で呼び合っていましたしね。でもサーシャもレーリャもバリバリの研究者や技術者で、いわゆる女言葉をほとんど話さないし、誰かと恋仲になったり結婚や出産でリタイアする様が描かれることがなく、とてもよかったです。性別がそういうドラマの要因にされることがなく、もちろん研究者たちの男女誰にでもそれなりの家庭生活はあったのかもしれないけれどそれはここでの物語とは関係ないので…というスタイルがよかったのです。で、そう思っていたらなんとルカーシャとサーシャは結婚しているようなのでした。定年退職、みたいなものがシステムとしてあるのかわかりませんが、物語終盤の現代パートはこのふたりが自宅のリビングのソファに並んで腰掛けて、テレビを見る様子から描かれるのでした。上手い…!
フルシチョフとか、こんなおじさんだったのかなあニヤニヤ、ってのもたまりませんでしたし、いろんな意味で体制派に見えたウスチノフ大臣(谷仲恵輔)や逆に学問一辺倒っぽかったケルディシュ博士(酒巻誉洋)もどんどんいい味出していくし、そういう人間の多面さを描く展開も素晴らしかったです。英雄視されて重荷に悩むユーリー・ガガーリン(鍛冶本大樹)もとてもよかった。
いろんな人がいて、完全な善人も完全な悪人もいなくて、政治や経済がしっちゃかめっちゃかでも夢を追う人はいて、でもやっぱり全部つながっているのでそれだけでは駄目で、もしかして人類は衰退期に入っていて新しい国際宇宙ステーションもなんともならないかもしれないしアルテミス計画も怪しいし火星も金星も遠いままなのかもしれない。それでも…という、想いが、伝わりました。人間ってすごいし、演劇ってすごい。心震える観劇でした。