駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『我が愛は山の彼方に/Dance Romanesque』

2011年11月27日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 神奈川県民ホール、2011年11月26日ソワレ。

 十世紀中葉、高麗は長年にわたり女真国の度重なる侵略に苦しめられていた。対岸に女真国を望む楚山の町には襲来に備えて沿岸警備隊が配されており、若き武将・朴秀民(霧矢大夢)もそのひとりであった。秀民は万姫(蒼乃夕妃)と結婚の約束をする仲になっており、父親から結婚の許可をもらうため開城に旅立つ。だが秀民の帰りを待たずして楚山は女真国の襲来に遭い、万姫は囚われの身となってしまう…
 原作/伊藤桂一『落日の悲歌』、脚本・演出/植田紳爾、作曲・編曲/寺田瀧雄。1971年初演、1984年再演、1999年に三演されたグランド・ロマン。

 99年にはすでに宝塚ファンでしたが、何故か見逃している演目です。でも博多座公演版の映像を見たことはあります。
 三角関係の構造がよくできていて、主人公も仇役も白い役という珍しさもあり、とてもいい物語だと思いました。
 しかし当時も補完してもらいたい部分とか修正してもらいたいと思ったところが多々あり、それらがブラッシュアップされての再演を望んでいたのですが…
 足すどころか引いてどうする、というありさまだったので、以下くだくだと「私が観たかった『我が愛』」について語らせていただきたく思います。

 韓流ブームもあって、三演までは桃の花とされていた秀民と万姫の恋を象徴する花が、原作どおりに木槿の花に変更されたとのこと。それだけ朝鮮の風物が身近に感じられるようになってきているということですね、いいことです。
 全国ツアーということもあってブランコ登場はありませんでしたが、まあそんなことはいい。

 さて冒頭。
 万姫の家は落剥した貴族か何かのようで、それというのも父親が讒言にあって無実の罪で処刑されたからであり、今や少なくなってしまった家人たちはその名誉の回復を望んでいるが、万姫はあきらめている…という設定ははっきり言っていらないのではないでしょうか…プログラムのあらすじにも書いていないことだし。
 秀民は一介の武人で本来なら両班のお嬢様と結婚なんかできる身分ではないのに、とかいうようなことが言いたいのでしょうか?
 それとも秀民が逆玉狙いの男でないことを表すため?
 原作がどんな感じなのか未読なのでわからないのですが、普通に「いいところのお嬢さん」でもいいと思うんですけれどね…
 秀民は結婚の許可をもらいに父親のいる都に帰るついでに、万姫の父の疑いを晴らす裁判だかなんだかの手続きもしようとしているようですが、蛇足というかいらない話に思えました…
 このあたりの永順(磯野千尋)と柳花(一原けい)の台詞がくだくだしくてねえ…
 そんなことはどうでもよくて、とにかくラブラブで結婚目前のふたり、ということが紹介できればここは十分なんじゃないかなあ、と思いました。

 まあそんなことはいい。
 そんなわけで秀民は楚山を離れ、その間に町は女真軍に襲われ、万姫は連れ去られてしまうのですが…
 これまた若干どうでもいいことではありますが、女真国はなんだって河を渡って進軍してくるんですかね? さっさと引き返してくるということは略奪目的なの? それともそこを支配して領土を広げていこうという意図があるの? だとしたら何故さっさと引き返したの?
 秀民が戻ってきたのは単なる帰還であって、襲来軍を撃退するためではないですよね? このあたりどうもよくわかりません…

 まあそんなことはそんなわけでまあいいのです。
 次の場面ではできれば追加してもらいたいくだりがあります。
 秀民は永順たちから万姫が女真軍に連れ去られたことを聞きます(ちなみに永順の台詞で「探しても姿が見えなかったが、必ずや連れ去られたに違いありません」みたいな台詞があったのですが、「必ずや」ってのは望ましい願望や推定を引っ張ってくる言葉ではないでしょうかね? 聞いていて違和感を感じました)。
 そして言います、「何があっても生きていてください」と。
 これは要するに、万姫が怪我をさせられたりもっと言えば凌辱されるような目に遭おうとも、とにかく生きていてほしい、命だけは失わないでいてほしい、そうすれば自分は必ず助けに行って、約束どおりあなたを妻に迎えるから…という意味の台詞です。
 それをよりわかりやすくするためにも、柳花とかに、
「もはや生きてはおられますまい。生きておられたとしても、女真軍の慰み者にされているに違いありません。万姫様はもう死んだものとお思いください」
 くらい言わせておくといいと思うんですよね。
 というのは、幸いなことに戦争から長く時間が流れ平和呆けしているような現代日本の観客にとって、敵国に女子供がさらわれる場合、それは強制労働をさせるためであったり性の相手をさせるためであるのは自明のことだ、という感覚がないと思われるからです。
 そしてこの万姫の処女性というかそれへの疑いというかがこのドラマの眼目なのですから、ここはこの時点でクリアにしておいたほうがいいと思うのです。
 つまり、周りの者は、もう万姫は汚されてしまった、失われてしまったも同然だ、妻に迎えるのはあきらめろと秀民に言い、それに対して当の秀民は
「何があろうと、どんな状態になった彼女であろうと、私は彼女を愛するし、妻に向かえる、助けに行く」
 と断言する、というのをやっておくと、続く展開がとてもわかりやすくなると思うのですよ…

 さらにその次の場面。
 秀民と万姫は最初からラブラブでいい、このふたりの出会いから恋に落ちるまでとかを見せる必要はないと思います。
 しかし万姫とチャムガ(龍真咲)のファースト・コンタクトは絶対に芝居で見せるべきだと思います。
 「囚われの身になってもう二ヶ月」とか時間飛ばしている場合じゃないって!
 ブルテとジュリメは絶対にいた方がいいですがそれはそれとして、エルムチ(越乃リュウ)は略奪先にいい女がいたんで、上官への貢ぎ物にちょうどいい、と思って万姫をさらってきてしまったんですよね。
 一方、万姫と侍女の楚春(憧花ゆりの)は慰み者になるくらいなら舌を噛んで死んでやる、くらいの気概を持っていたでしょう。それは当時の高貴な身分の女性として当然の見解であったにちがいない。
 しかしチャムガはむくつけき野人でもなんでもなくて、礼節を重んじる誇り高い武人でした。敵国人とはいえ女性に乱暴するなど武人の名折れ、自分の軍の元ではそんな無礼は許さない、とばかりにエルムチを叱り飛ばし、万姫に礼を尽くして謝り、必ず折を見て故郷に帰すと約束する…というくだりをやって見せなきゃ絶対にダメ!
 どれだけチャムガに仕えてんだよチャムガのこういう性向を知らなかったのかよエルムチ、というつっこみはともかく。チャムガに叱られて、なんだったら一発張り飛ばされてしゅんとなる越リュウのエルムチが見たかったわとかなんとかいうのとは別に(^^;)。
 こういう場面を設けてこそ、観客の胸にそして万姫の胸に、敵とはいえチャムガの凛々しい男らしさ、優しさ、礼儀正しさが染み渡るわけじゃないですか。
 この場面、絶対に必要だと思います。

 そのあとだったら数ヶ月たたせてもいい。
 とある月夜に庭でカユグムを爪弾く万姫と、そこへ訪れたチャムガとの会話なんて素敵です。
 ところで実際の場面では、なんか会話の理屈が通っていない感じがしました。
 チャムガもエルムチも、万姫と楚春を高麗に帰すと言っているのに、楚春は
「あんな冷酷な人たち、信じられない」
 みたいなことを言う。ど、どこが冷酷なの?
 また万姫がそれをとりなすのに
「あの人たちは私たちを帰してくれると言ったじゃないの」
 みたいなことを楚春に言うのですが、その直前に万姫は帰っても意味はない、帰れなくていい、みたいなことを言っていますよね?
 支離滅裂なんですけれど??
 ここで重要なのは、万姫は未だ木槿の木の下で秀民と愛を誓ったときのままの清らかな乙女であり、誰からも汚されてはいないのだけれど、世間の目はそうは見ないと万姫は思っている、というかわかっているということですね。
 敵国にさらわれた女など慰み者にされたと思われるに決まっている、未だ清らかだと証を立てる手立てはない、そんな状態で秀民の妻におさまれるわけがない、だから今さら高麗に戻っても無意味だ、自分の居場所なんかない…ということですね。
 秀民がどう思うと万姫が思っているかは語られないし、それでいいと思います。ことは複雑な問題なので。
 秀民さまは自分の貞潔を信じてくれるかもしれない、妻に迎えてくれるかもしれない、しかし周りの者は心ないことを必ずや言うであろう、そんな不面目な立場に秀民様を置かせられない…といったところでしょうか。
 だから自分はこのまま女真国に骨をうずめるつもりだ、今は客分扱いでいるがそれも申し訳ない、いずれは下女としてでもなんでも働こう…くらいの決意をしているのでしょう。
 しかし律儀なチャムガは万姫を高麗に帰す約束を果たすつもりでいる。秀民のことは有能な武将として聞いてもいる、その婚約者を傷ひとつつけることなく帰し、その上で正々堂々と戦いたい…みたいなロマンを持ってもいる。
 その正しさ、優しいいたわり、もしかしたらちょっとシャイで不器用なところ…チャムガの人となりがわかってくるにつれ、万姫はとても自分が囚われの不幸な身だとは思えず、むしろたまのチャムガの訪問を心待ちにしている気持ちすら芽生えていて…みたいな。
 まあストックホルム症候群と言ってしまうのは簡単だし、去るものは日々に疎しとも言える。万姫の心が揺れるのはいたし方ありませんよね。

 その同じ月を高麗で見ている秀民のシーンを、私だったら作る。
 楚山の備えを固めるために忙しく働き、万姫奪還のためにむしろこちらから女真国に攻め込みたい気持ちですらいるのに、そんな命令は出ない。
 むしろ都の父親からは、万姫の帰りを待つなどやめて別の姫を嫁に取れとか言ってきているくらいでもいいと思います。
 それを断り、ただひたすらに万姫を思う秀民…みたいな。
 というのも、具体的なエピソードがあるチャムガに比べて、秀民は演じているのがトップスターだということに実はおんぶに抱っこのキャラクターで、その魅力とか素敵さとかを具体的に表している場面がないのです。
 でも秀民とチャムガは拮抗していないとまずいでしょ。「そらチャムガでしょうがないよ当然でしょいい男だもん」てなっちゃったら緊迫した三角関係ドラマにならない。
 だからここらでひとつ、秀民の良さを表す場面が欲しいのです。

 一方で、女真国が再び高麗に侵攻することが決まり、チャムガは万姫を同行させると言う。
 心乱れる万姫。花木槿の幻想の場面へとつながる…いいじゃないですか!

 しかしやはりこの前に、チャムガには国王ブルテの妹ジュリメという婚約者がいること、というのはやっておいたほうがいいと思うんだけれどなー。
 現状でも秀民の分が悪く見えかねないところでもあり、さらにこのエピソードがあるとチャムガもつらいんだねでもそんな中ですごいよねとさらにチャムガのポイントが上がりかねないエピソードなので、苦しいところではありますが…
 というかそれもあってカットされたのかもしれませんが…
 しかしやはり高貴の身には政略結婚があって当然、とか、チャムガは妹婿に迎えられるくらい国王の信任厚い勇将なのだ、とか、チャムガもジュリメに情はあるのだろうがしかし…とか、やはり物語に厚みが出ると思うんですよね。
 確かジュリメは万姫がチャムガの心を盗んだと嫉妬して、暗殺を企てるようなくだりがあったんじゃなかったんでしたっけ? すっかりりっちーあたりがやるものかと思っていましたよ…
 とにかくこの事件があると万姫のかわいそうさはより増して、それを押しとどめたチャムガにより頼るようになる流れも結果的に納得しやすくなるのですよ。
 また、妹を哀れに思った国王が、懲罰のような形でチャムガに出征を命じ、チャムガは逆らったりせずそれを拝命する…というのも泣かせていいんですよねー。
 ああもったいないカットだよ…
 それで言うとブルテはだから越リュウがやってもいいし、そうしたらエルムチはモリエがやればいいし、まあ玄喜がもともとはふたり組のキャラクターだったのはヤングスターのための顔見世だから全ツではひとりにしちゃってもいいんだけれど、でもとしちゃんとゆうきとかにやらせればよかったと思う。
 さらにそれで言うと楚春はみくちゃんですーちゃんは柳花に回ればいいよね。上級生をないがしろにしていいということではないけれど、下級生にもっと役を与えて経験を積ませないとダメだって。てかプリマさんとか久々に見たよ…もちろん専科をないがしろにしていいということではさらにないけれど、何もわざわざ…と思ってしまいました。

 さて女真軍は侵攻し、明日にも高麗軍と戦闘、というところで、チャムガは万姫に形見の宝刀を授けて別れを告げる。あなたはもう自由の身、ここはもうあなたの故国、愛する人の元へお帰りなさい、と…(ちなみにここでエルムチが言う女真国の人間にとって形見の品とは云々ってのがよくわからなかったんですけれど…???)
 山を降りた万姫は高麗の兵士に遭遇し、高麗軍が罠をしかけて女真軍を一網打尽にしようとしているのを知り、
「私は女真軍の武将チャムガの妻です」
 と名乗る。ちなみにここでチャムガを呼び捨てにするのは身内としての発言なので当然なのですが、そのあと秀民との会話でも何度かチャムガを呼び捨てにするのはやや解せません。秀民に対して敵国の武将として呼び捨てにしているのかもしれないけれど、そんな礼節に気が回る状態に万姫をしておくのはおかしい。秀民の前であっても「チャムガ様」と様づけしてこそ、秀民が感じることもあるでしょう。
 同様に、独り言になったチャムガが万姫を「おまえ」呼ばわりするのも気になりました。それまで客人扱いして丁重に遇してきたじゃん、「そなた」だろうここは! ここは呼び方フェチとしてうるさくもの申したい。
 
 万姫と再会した秀民は、しかし万姫の心がチャムガにあるのを知り、かつチャムガが高潔な武人であることを知ると、むざむざと死なせたくないと考えて、降伏勧告に行く。ここは秀民の素敵ポイントです。
 しかしこの前後のチャムガとエルムチの会話がまた理屈として意味不明なんですよね。袋のネズミになって敗色濃厚なのに「戦いは空しい」とか寒いことをチャムガに言わせないでくださいよ…それこそ負け惜しみだっつーの。
 それから、自分が敵の囮に誘われて誤った決断を下し、部下を窮地に落としいれ無駄死にさせるかもしれない、ということをチャムガにあまりに気に病ませてしまうと、だったらなんで秀民が降伏を勧めてきたのに従わないの?となってしまう。
 ここも整理してほしいところです。
 そのあとの戦闘シーン、一騎打ちを提案するのは秀民であるべきだと思う。チャムガでもいいけれど。
 勝負の大勢が決し、けれど万姫のためにもチャムガを救いたいので、秀民が大将同士の一騎打ちを提案する。負けてやるつもりがあったのかもしれないし、王に褒美として彼の助命を嘆願するつもりだったのかもしれない。
 一方でチャムガも、最後のひとりまで戦い抜いて死ぬなんて空しい、部下の命は救いたい、だから一騎打ちを提案する。自分が死ねば戦は終わり、部下たちは捕虜となるにせよ命は助かる、と考えて。
 でも少なくともエルムチが言っていい提案ではない、彼にそんな権限はないと思います。

 そしてチャムガは、秀民に助けられて生きながらえるのをよしとしなかった。負け戦の責任をとるためでもあるし、故国に戻って意に沿わぬ妻を娶って暮らすのもいやだったんだろうし。万姫も帰せたことだし、もうこれで終わり、と幕を引きたかったのでしょう。
 そして改めて秀民に言う、
「万姫は我が妻にあらず」
 と。万姫が「チャムガの妻です」と言ったと聞いて、チャムガはどんなにか嬉しく感じたことでしょう。それは万姫の愛の告白でした。でも名誉を重んじるチャムガは、あくまで万姫を秀民に返そうとしたのです。
 そして潔く自刃した。そこへ駆けつけた万姫に、秀民がチャムガの最後の言葉として伝えたものは、
「万姫は私の妻だ」
 という言葉でした。それはチャムガを愛している万姫のための嘘です。それくらい秀民は万姫を愛していたのです。
 万姫とチャムガの愛は認める、でもチャムガは死んだ、傷が癒えるのに長いときがかかるかもしれないが、自分は万姫を愛し続けられる、これからはふたりで二度と離れずに生きていこう…そんなことを秀民は考えていたのでしょう。
 しかし万姫もまた武人の心を持った女人とでも言いましょうか、そんな選択はできなかったのでした。秀民のことを愛してもいたから、だと思いたいけれど、そういうことってあると思うけれど、形としてはチャムガに殉じるように、チャムガの形見の宝剣で自害し、身を投げます。
「私はチャムガ様の妻です」
 と言って…
 残された秀民の絶唱。
 何も悪くないのになんかかわいそうでやや間抜けにも見える主人公、みたく秀民を見せないような流れをここまでにちゃんと作って、それこそ本当に戦争が悪いんだ、人々が争い合うが故の悲劇だ、誰も悪人ではなかったのに…と観客が涙する物語…として、私はこの舞台を観たいのですよ…
 次の再演ではぜひ、頼みます…ああまた「高声低声」に投稿しようかな、とても1000字に短縮できるとは思えないけれど…(^^;)

 というワケでこの物語は万姫の処女性が焦点になっています。
 あるいは貞節とか結婚といったものがテーマになっています。この点に関して、贔屓公演の話ですみませんが『誰がために鐘は鳴る』をちょっと思い起こしました。
 あの作品でも、
「私をあなたの奥さんにしてくれる?」
 というマリアに対して、ロベルトは
「君はもう僕の妻だ」
 と言います。ちなみにこの時点でふたりはまだ結ばれていません(と私は解釈しています。原作小説は一夜目からやってるんだけど、この舞台では三夜目、この会話のあと、初めてふたりは結ばれたとされているように私には見えました)。
 つまり結婚とは、届け出を出すことでも式をあげることでも初夜を過ごすことでも神の前で誓うことですらなく、愛し合う男女が一生の愛をただただ確認し合うこと、とされているんですね。
 現代だったら、恋愛と結婚は違うよとか、セックスの相性って大事だから事前にやっておいたほうがいいよとか、子供を持つかどうかとか働くかどうかとか家事をどうするかとかの人生設計が違う場合があるから慎重に話し合ったほうがいいよとか、いろいろ条件があるのですが、そう選択肢が多くない、シンプルな時代のドラマではそういう心配はいらない、というかないものとされているわけです。
 愛し合っているのなら結婚に進んで当然。その結婚は絶対に揺らがないものとされて当然。そういう愛こそが本物、という世界観。ロマンチック・ラブ・イデオロギーの真髄。
 万姫は処女のままで、秀民ともチャムガとも関係を持ったことはない。それでも万姫は言うのです、
「私はチャムガの妻です」
 と。
 秀民は万姫の貞操が汚されていようと、愛し続ける気だったし変わらず妻に迎えるつもりだった。けれど失われたのは万姫の貞操ではなく、心だったのです。
 万姫は秀民を嫌いになったわけではないし、ふたりを違った意味で愛していたのだろうとは思いますが、女真軍が負けそうになっていたからこそ、こう言わないではいられなかったのでしょう。
 でもチャムガは
「万姫は私の妻ではない」
 と言った。それは事実でもある。万姫の心が得られたと知って嬉しかったけれど、自軍の敗北が見えた今、万姫には元どおり秀民の妻として幸せに生きてもらいたい、と思ったからです。
 これはちょっと『カサブランカ』を思わせました。
 リックはイルザが自分のもとを訪れたときのことを、ラズロのビザを得るために自分に気がある振りをしただけで、自分もそれに調子を合わせたが実際には何事もなかったのだ、と言います。ちなみに私は実際にはここではコトがあったんだと思っていますけれどね! 映画では微妙だったのかな? でもリックなんか上着脱いでるしね!
 つまりリックはイルザのために、そしてラズロのために嘘をつく。そしてラズロもまた、その嘘を嘘と知りつつ信じる振りをする。イルザを愛しているし、リックに感謝しているから。
 言っているのが嘘か真実かという違いはあれど、愛する者のため故の発言、というのが似ているかなと思ったのです。
 愛する者のために、秀民もまた万姫に嘘をつきます。チャムガが万姫を自分の妻と言った、と。
「愛しているからこそおまえに愛を選ばせたのだ」
 とはそういうことです。
 しかしツイッターで語っておられる方がいましたが、愛の悲劇とは常に、優しい男が女に愛を「選ばせる」ことから起こる、と。至言です。
 愛しているから、妻として、死んだ夫に殉じて死ぬ。
 愛しているから、何もかも忘れたかのようにして妻の座におさまることなんてできない。
 もつれあったメナージェ・ド・トロワは誰かが死なないと解消されない、とかフランス映画では言いますが、アジアではふたりも死んじゃうんですよ…!というのは冗談としても、これはそうして残された主人公の絶唱が胸を打つ名作たりえる物語なのでした。

***

 ショーの方は、越リュウとみくちゃんばっかり見ていましたすみません。
 アルビンとエルのリフトに涙がこぼれました。
 「エンドレス・ラブ」で踊る新デュエダンにもじんときました。
 このトップコンビが見られる時間も残り少ないと思うと、今から寂しいです…

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宝塚歌劇宙組『クラシコ・イタリアーノ/NICE GUY!!』東宝初日雑感

2011年11月26日 | 日記
 東京宝塚劇場、2011年11月25日ソワレ。

 大劇場初日前日に人生初緊急入院をしてしまったため、遠征計画はすべてパアで、この日がマイ初日になりました。
 ツイッターなどに上がる感想もなるべくネタバレしないよう薄目で読んでいて、予備知識をなるべく持たないよう、いつもの大劇場初日を迎えるときのような心境でいられるよう、プログラムやル・サンクも読まないようにしていました。
 そして今となっては、自分がどんな舞台を想像していたのかもはやわからないのですが…
 そして贔屓公演に関してはいつも、やはりなかなか冷静には観られないなとは感じているのですが…

 なんか、物足りなく感じたんですよね…
 物語が、ね。演技が、ではなくて。
 まあ破綻していないのでそれは最大の長所かもしれませんけれど。景子先生の大劇場作品はあんまり…という印象がどうしても個人的にあるので、大きな劇場に合わせてデカいことやろうとして崩壊するくらいならこじんまりしていていいんですけれど、でもやっぱりバウでよかった、バウがよかった作品に見えました。
 それでいうと、この舞台のくくりというかキャッチ?は「Musical」なんですけれど(「ミュージカル」でないところがまたなんとも…)、まあ全然ミュージカルにはなっていないよね…
 ショーアップされているのはプロローグくらいだし。歌はもちろんいくつか入るんだけれど、ダンスはない。ミュージカルとしての作激は本当にヘタ。
 その前の観劇がお芝居は『仮面の男』だったり、次の観劇予定がお芝居は『我が愛は山の彼方に』で、要するに個人的には「宝塚グランドロマン」モードだったのも悪いほうに出たのかもしれませんが…
 そして私はこの「くくり」が、「ミュージカル」とか「グラン・ステージ」とか「江戸風土記」とかいろいろあるけれど、「宝塚グランドロマン」こそを宝塚歌劇には求めているんだな、と思いました。
 ああ『仮面のロマネスク』が楽しみだよ…そしてその次の本公演はまたスーツというかタキシードの世界だろうし、シブいというかしょっぱい話になりそうだし…やっぱもう一公演やって小柳先生とかに登板してもらってコスチューム・プレイのラブコメが観たいなー…
 そう、ラブが薄いのも寂しかったんですよね…テーマがアルティジャーノたちにあるんだから仕方がないんだけどさ…

 というか全体にアタマで作った物語に思えて、萌えとかパッションが感じられないのが興ざめしました。でもすごく景子先生っぽい。
 私は景子先生とは同世代でもあるし、エッセイ本とかも読んですごくシンパシーを感じたし、逆に言えば同属嫌悪を感じるんですよね。
 そして私はクリエイターにはなれなかった、ならなかった、プロデューサー的職業についている。でも景子先生はクリエイターになったんだから、もっともっとがんばってもらいたいわけ。だってこの程度の物語なら企画書で私だって書くよ。それにもっと肉付けできるかどうか、あるいは同じテーマをもっと違うドラマで表現するパワーがあるべきなんじゃないの?と思ってしまうのですよ。
 物語の展開も台詞も歌詞も直截に過ぎて味わいも何もあったもんじゃない。剥き出しすぎる、ダイレクトすぎる、品格がない。もっと違うものを見せて、結果的にこういうことが香気として醸し出される、そんな舞台を求めているんだよなあ…と思ってしまったのです。
 たとえば組ファン以外はリピートしたくはならないんじゃないかな、とかそういう心配もしてしまいますしね。
 ハートウォーミングでウェルメイドな小品、というコンセプト自体はアリだとは思いますけれどね…ううーむ…

 サルヴァトーレ・フェリというキャラクターは、私にはとても実直で、仕事熱心で、でもアメリカ人が画一的な番組を作ろうとしているのに対し宣伝のためにはアメリカ人好みの「イタリアの伊達男」になってみせて派手なショーを提案してみせるくらいの度量もある、すごく大きな人物に見えました。
 でも本当はもうちょっと、功をあせって先走っている感じとか、大事なものを忘れかけている感じとかがあってもよかったのかもしれません。クラウディアの台詞で、彼のやり方は本流ではないと見る保守派の人もいるようなことが後で語られますが、彼こそが主流派に見えましたもん。
 だからこそアメリカ進出を断念したことは私には立派に敗北に見えた。そしてそれは物語の主人公にたどらせるべき道筋ではないのではないかしらん、と居心地悪く感じました。
 それもあって、だったら失敗もやむなしと見えるような危なげな感じを漂わせておいてもいいのかもしれない、と思ったのです。どうなんだろう?

 レニーのいかにも軽薄なアメリカ人青年っぽいキラキラっぷりはさすがテルでした。
 みーちゃんのおおげさでテキトーでケチなプロデューサーもよかった。カイちゃんも(りくくんは識別できなかった、すみません…)。
 一方ナポリチームはみっちゃんマリオがこれまたいい役で、みっちゃんはいい人役もいいけどこういう役もホントに上手いよなーと思います。サルヴァトーレとのやり取りは飛んだ萌えポイントでした。
 その弟のちーちゃんもしっかり求められる働きをしていてよかったです。
 ビジネスパーソンとしてはすっしーさんやトモエさん、その秘書のひかるんがきっちり務めていましたね。アメリカ人資本家の冷徹さや調子の良さを上手く体現していたもっさんやいちくんもとてもよかった。
 サルヴァトーレのコピーとしてのし上がり、アメリカ人にすり寄るまさこもきっちり役をつかんでいました。
 サルヴァトーレのパトロンである大ちゃんも、ちゃんとクラウディアと夫婦に見えたしよかったです。
 れーれもこういう役が実は上手いよねー。せーこはしどころがなかったかな、あとたらちゃんは仕事としては何をしている人なのかよく見えなかったのが残念。
 ビアンカはあれだけ語られているんだから、もっとぱっと美人に見えるうららちゃんを配役した方が良かったのでは…

 そしてもちろんおやっさんは素晴らしい。幻想の中でアレツサンドロと語るサルヴァトーレの芝居は絶品でした。
 あとはミーナに対する芝居も本当にイイ。

 しかしミーナは…ミーナねえ…
 もちろん個人的にドジっ子萌えが少なくともヒロインに関してはないせいもあるんだけれど…景子先生はワケありの女や大人の女や悪女はまあまあ上手く作るのに、普通の女子が本当に下手で、こういうところにも世代を感じます。より下の世代はもっと自分の女子力に自信があったりてらいがなかったりするので、普通のヒロインもごくナチュラルに作りますからね。
 せっかくスミカが変に背伸びしない作りこみ過ぎないキャラクター(何しろ演技力があるのでそれもこなしてしまうのだけれど)をやれそうと期待していたのに、肝心のキャラクターに魅力がないのではいかんともしがたい…
 ただ、プルチネッラの扮装で生き生きと踊り出したときには本当に鳥肌が立ったんですよね。だから彼女には隠された才能がちゃんとあった、というか、自信が持てさえすれば発揮できる才能を持っている人だったんだ、ということにするのかと思っていたんだけれど、続く仕事もNG出したりしているし、舞台女優になったといっても喜劇女優でどうやら格下に見ている感じだし(本当のことを言えばそんなことはないと思うのだけれど…)、要するにごく普通の女の子の域を出ていないわけです。
 これじゃヒロインにならないよね…まあこの話はそもそもラブロマンスではないのでヒロイン不在でも成立しているんですが、それは宝塚歌劇としてどうなのよって感じですよね。
 ラストシーンはもちろん素敵でした。でもそういうこととは別に、もっとラブラブとかべたべたとかいちゃいちゃとかドロドロとか見たいやん、という下世話な欲求が満たされていないのですよ。
 代わりに高尚ぶった職人の意地とは、伝統とは、一流とは、絆とは…みたいな言わずもがなのことを延々と語られた舞台、という印象が、どうにもぬぐえなかったんですよねえ…

 なんだろうこのチューニングの合わなさぶり。
 これでまた二回目以降の観劇では全然違う感触を得ることも私は経験として知っているので、あまり心配はしていないのですが、しかし一般的にはリピーターの方が稀なわけでさ、やっぱりちょっと評判とかが心配なのですよ…
 口うるさくてすみません。

 そうだ、あと、なんか今回の短靴ってヒール低いですかね?
 大空さんのいつものカリスマレベルのスタイルの良さ、足の長さを感じなかったんですけれど…???

***

 「ショー・アトラクト」は、これも次からはより楽しめるようになるかなー。私はショーの見方が下手なので。
 とりあえず場面や出番を抑えるのに懸命になってしまった感じだし。
 ただ、主題歌のあっかるい歌謡曲ノリは意外にツボりました。大空さんに似合わなげなのにスミカのナイス・ドールと楽しげに歌うナイス・ガイがとてもよかったです。ほらイチャイチャしているトップコンビはそれだけで可愛いんだよ…
 風の場面では泣きたいんだけど、そして千秋楽近くになるにつれ泣くのが目に見えているんだけれど、これまたザッツ宝塚であるブロード・マインデッドみたいなお衣装が私は笑えて苦手なので、それがつらいよな…大空さんでは見たくないんだよね…すみません…
 あと、ここのあもたまの歌とかは本当に素晴らしいのでいいんだけれど、もちもちはエトワールだけだしせーこもソロないよね? いくら磐石安心の圭子お姉さまを呼んでいるとはいえ、歌える人にはもっと歌わせてほしい。もっさんとかいちくんとかも。みっちゃんにももっと朗々と聞かせるいい曲を長く。
 なんか全体に歌が弱いショーだなあと思ったんですよね。キムやまっつが素晴らしい『RSF』のあとだったからかもしれませんが…
 あとスミカはホント歌がんばんないと! ダンスとなると俄然輝くだけにホントに!!

***

 明日また見に行くので、全然違うことを言っていたらすみません…


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高田都『心星ひとつ』(ハルキ文庫)

2011年11月25日 | 乱読記/書名さ行
 酷暑を過ぎた葉月のある午後、扇屋の楼主伝右衛門がつる家を訪れた。伝右衛門の口から語られたのは、手を貸すので吉原にて天満一兆庵を再建しないか、という話だった。一方、登龍楼の采女宗馬からも、神田須田町の店を居抜きで売るのでつる家として移ってこないか、との話が届いていた。料理人として岐路に立たされた澪は…『みをつくし料理帖』シリーズ最大の転機となる第六弾。

 江戸時代の神田界隈を舞台にした、小料理屋の料理人であるヒロインとその仲間たちとの交情を描いた連作時代小説で、丹念な料理描写と人情話をほろほろと読まされているうちに、ゆっくりゆっくりとラブも進んでいってはいたのですが…
 ここに来てなんたる急転直下!
 しかしこの時代の身分とか社会とかのありようの不自由さといったら…
 ヒロインのように才や夢のある女子にとっては玉の輿になることも一概に幸運とは言えず、好いた男と添うことも親友を身請けすることも恩人の店を再建することも、なんでもかんでもやり遂げるのはあちらを立てればこちらが立たずとなりそうで、なんとも前途多難です。
 シリーズのゴールは作ってあるとのことですが、どこに着地させるつもりなのでしょう…ハラハラ。
 しかし驚いたのはプロポーズの言葉がつい最近宝塚歌劇花組で再演された『小さな花がひらいた』の若棟梁の台詞と同じだったことですよ!
 いや正確に言うといろいろと状況というか口にするのは違う人というか…なのですが。
 ああでもとにかく次巻が楽しみすぎです!!
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ナイロン100℃『ノーアート・ノーライフ』

2011年11月19日 | 観劇記/タイトルな行
 本多劇場、2011年11月17日ソワレ。

 1974年の暮れ、フランスはパリのモンマルトル。地下酒場「レ・トロワ・ペロンヌ・ローンドゥ」は日本人ばかりが集まるためにフランス人が寄り付かず、今日もパリの日本人ばかりが訪れる。画家、オブジェ作家、小説家、そして稼業が何かよくわからない、パリから離れられなくなった男たち…才能と世の中の折り合いについての激しく愚鈍極まりない物語。
 作・演出/ケラリーノメサンドロヴィッチ。2001年初演、キャストをひとりだけ変えての10年ぶりの再演。

 オケタニ(三宅弘城)とかトニー(喜安浩平)とかのウザさはハンパないし、とんでもない人々の間に入る唯一の常識人に見えて実はやっぱりこの人も変な人…みたいな役どころが抜群にうまい大倉孝二といい、アテ書きってすばらしい。まあトニーは新キャストなんですが。
 しかし、女優ばかりの舞台『すべての犬は天国に行く』がなんか凛々しいものになったそうなんですが、じゃあということで男優だけの舞台を作ったらダメでいい人ばかりの話になったんだそうです。女優のみ版を観ればよかったかな…(^^;)

 いやまあでも感銘を受けなかったわけではないのです。
 シチュエーション・コメディってなかなか難しいと思うんだけれど、まあまあ笑ったし。最初から笑う気満々で来ていておかしくもないところで笑うか観客には辟易していましたが。あと、なぜか明らかに子供の観客がいて、明らかに子供の笑いのタイミングで笑うので、客席が微妙な空気になったな…まあそれは仕方がないのですが。

 私は物語が好きで、生きるのに物語を必要としていて、物語の表現方法としては映画とか小説とか舞台とかより漫画が一番に好きで、それを仕事にしてお給料をもらって生きているのですが、物語を必要とせずに生きていける人がいることも知っています。
 そして、物語、というほど具体的ではなくても、絵画とか彫刻とか音楽とかの、いわゆる一般的な美術というか芸術というか、何かを表現しているもの、アートというものも世の中にはあって、私にはそれほどそれらを鑑賞する力がないのだけれど、そういうものを作らないでは生きていけない人がいることも知っています。
 それらは物語性のあるものに比べてより商売に遠いかもしれません。しかし売れようが売れまいが、認められようが認められまいが、とにかく作る側の人にとっては作らないでは生きていけないものなわけです。
 売れたい、認められたいとは思ってしまうこともあるだろうし、そのために本当に作りたいものとは違うものを作ってしまうこともあるかもしれない。それでもとにかく作らないではいられない。売りたいから、認められたいからではなく、ただ作りたいから。
 そうして作られるもの、作ってしまう人のことは、認められようがなかろうがとにかくそこにある、いる。それは、芸術家診断テストがあっても判定回答(?)がなかったように、他人に決められることではない。認定を必要とされることではない。ただとにかくそこにある、いる。
 そういうもんなんだろうな、と思いました。業、とか言ってしまうと簡単すぎるかもしれませんが。
 それを示す幕切れはドスンときましたし、それを効かせるためのそれまでのぐだぐだなんだよね、とは思いました。
 それが生き様であり、人生であり、人間なのだ、ということを訴える舞台でした。

 あと、パンフレットの装丁が感動的に凝っていたのが印象的でした! 仕掛け絵本か!!
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『カナリア』

2011年11月11日 | 観劇記/タイトルか行
 日本青年館、2011年11月7日マチネ。

 世紀末--卒業シーズンを迎えた悪魔学校では、ひとりの生徒ヴィム(壮一帆)が最後の課題に取り組むために人間界へ送られようとしていた。ヴィムに与えられた課題のひとつは、人間界で最初に出会った人間を不幸のどん底に叩き落すこと。だが、必ず一流の悪魔になって人間界に君臨してやる、との決意を胸に人間界に潜り込んだヴィムが最初に出会ったのは、これ以上不幸になりようがないほど悲惨な人生を送っていたアジャーニ(実咲凛音)という女性だった…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城。
 2001年に初演された作品の再演。全2幕。

 初演を観ていたことをすーっかり忘れていたのですが…オチまで観て、
「このオチ私知ってるな…」
 と思って探してみたらプログラムがちゃんとありました(私は観た宝塚の公演はすべてプログラムを買っていて取っておいてあるのです)。
 そうだよね、当時チャーリー好きだったもんね、正塚ファンだしね、観にいってるよね私…
 というワケで、当時の感想はこちら。 
 楽しく観たんですよ。小悪魔たちがホントにイキイキしていて、ショーナンバーとか素敵だったし。
 でも、ぶっちゃけ、なんの話かわからなかった…
 正塚先生は殺し屋とか革命とかタンゴとかガンファイトとかと同じくらい天使とか悪魔とかのモチーフも好きですよね(『スカウト』もこの系譜かと)。
 で、天使もいれば悪魔もいて、それぞれ同等に人間にちょっかい出していて…という設定はまあほかでもよく見るものです。
 それから、悪魔が人間を不幸に陥れようとするのに、いろいろあって逆に幸福にしちゃったりして、その逆転をコメディタッチに描く…というのも実によくある。
 結局これはそういう構造のお話なんだと思うのですが…なんかいろいろきちんとクリアになっていないことがあるように思えて、理屈っぽい私は生徒の熱演に笑わされながらも、なんか納得しづらいままお話を見せられている…みたいな気分になったのでした。

 アジャーニはもうこれ以上不幸になりようがないほど不幸だったから、ヴィムとしてはとりあえずちょっと持ち上げて、そのあと落とそう、ということになった、のかなあ?
 だから銀行強盗をさせる? ところであの強盗が何件も簡単に成功するのはヴィムの魔力のおかげなの? なんかそこらへんもよくわからなかったんですよね、笑わされはするんだけれど。
 でも銀行強盗は犯罪で悪いことだから、アジャーニに悪さをさせるということでは成功しているのかもしれない。
 でもホテルのスイートルームを与えたり美容院に行かせたりドレスを買わせたりするのはなんでなの? 贅沢させて堕落させようということ? それともあとで落とすために一度持ち上げる、つまりここではアジャーニを幸せにしてあげようとしているということなの?
 なんかここらへんが混乱するんですよね。
 ヴィムの意に反して、アジャーニは罪悪感も感じていないし後悔もしていなくて、幸せで満ち足りてしまって、全然不幸になってくれなくて困ってしまう…という形になるべきなんだろうけれど、なんかヴィムが困ってるのかよくわからなかった…
 いや地団太踏んだり描写はあるんですけれどね。
 しかもアジャーニは得たお金で贅沢とかして堕落するどころか、寄付したり善行しちゃって全然悪行の限りを尽くしてくれない。
 悪魔は人間を不幸にしようとしていろいろするのに、その人間はどんどん幸せになっていっちゃって、悪魔はだんだん何がいいことで何が悪いことなのかわかんなくなってきちゃって、なんというか、人間っぽくなっていってしまう。
「今とても幸せだから、不幸にするのはちょっと待って」
 みたいなことを言われて
「待つよ」
 なんて優しく答えてしまうのは、はっきりいってかなり悪魔らしくない所業なワケです。
 そうやってどんどん逆転していって、ついに試験に落第してしまったヴィムは…
 という構造の物語なんだと思うんだけど、それがどうもクリアになりきっていないように見えた、ということですね。

 それから、これは初演を観たときにも思っていましたが、ラストにアジャーニに対するフォローが欲しいとやはり今回も思いました。
 ヴィムは天使になってまたやり直すのもいいだろうけれど、試験で人間界に送られるのは次の世紀末で、もうアジャーニとの再会は叶わないわけですよね?
 ということは、あのボロボロになってほとんど記憶を失った状態でのヴィムとの語らいがアジャーニにとっては最後の機会だったわけです。
 そりゃ魂譲渡契約は解約してくれたし、それでケリはついているのかもしれないけれど、アジャーニの感情としてはそれだけじゃないじゃん。
 ヴィムのおかげで人生変えてもらって、万々歳かもしれないけれど、でもそれでいいだろってもんじゃないでしょ。
 具体的な恋心とまではいかなくても、ヴィムに対する何がしかの感情があったはずなのに、ヴィムは一方的に死んでいってしまって、アジャーニはただ残されるだけなんですよね。
 それがなんかかわいそうすぎて。
 だから、ヴィムの死体がちゃんと残るものなのかよくわかりませんが、たとえばきちんと弔いをして、ケリをつけて、ひとりで強く生きていくわ、というようなアジャーニのシーンをひとつ作る、とかしてほしかったかなー、と。
 でないとヴィムはちゃんと転生?しているのにヒロインがあまりにほっぽっとかれすぎでかわいそうじゃん、と思ってしまったわけです。
 ヴイムだってそこまでは見届けたかったんじゃないのかな、とかね。
 でも脚本がすごく練られたとか変更されたという印象は受けなかったので…ううーむ…

 さて、えりたんはそれはそれはヴィムでしたよ(^^)。
 みりおんもがんばっていたと思います。それでもミドリの華にはまだまだ及びませんが…
 みわっちもこういう役ホント上手いし楽しそうでした(^^)。セットのユキちゃんはとにかく可愛いカワイイ。
 ディディエ(扇めぐむ)はヴィノッシュのことが好きみたいだったけどね、どうにかなったのかね…めぐむんのメガネ姿も素敵でした。
 こういう役ホント上手いよな!と思ったのがさあやのアイリス!
 小悪魔ではきらりとたそがとにかく視線泥棒。そしていろいろやっていたいまっちが本当に目を引きました。
 ウカ(水美舞斗)は抜擢…ですよね? オーディションとかがよかったのかな? 健闘していたと思います。

 この日は東宝休演日でえりたんの古巣の雪組さんが大量に観劇していたこと、まとぶん&めおちゃん(どちらもすっかりきれいなお姉さん! ワンピース姿!!)もご観劇でカーテンコールは大盛り上がりでした。

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