駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『プルーフ/証明』

2013年09月29日 | 観劇記/タイトルは行
 シアター711,2013年9月28日ソワレ(初日)。

 作/デヴィッド・オーバーン、翻訳/谷賢一、演出・上演台本/和田憲明。
 2000年初演、全一幕(幕がない舞台でもこういうのかな…)。

 俺たちの野々すみ花の卒業後舞台第二作初日、行ってきました!
 すっごくよかった!!
 完全ネタバレで語ります。

 舞台は、やや古びたコテージふうの民家のテラス。暗転で時間は飛びますが、場所としてはここだけ。全7,8場くらいあったかな?
 流れるラジオの感じやBGMの選曲からアメリカの田舎かな?という感じでしたが、どうやらシカゴ近郊で、80年代くらいの様子。
 どんな話かほとんど知らないで観に行ったのですが、観ていくうちに、ああそういえばそんな設定だとどこかで読んだっけ?と記憶が蘇りました。
 しかしまったく筋が読めなくて、どんな物語なんだどんなオチになるんだ、と2時間15分、まったく退屈することなく集中して観てしまいました。

 まずヒロイン、キャサリンが夜のテラスに現われます。
 メガネを無造作にかけて、スウェットにロングTシャツみたいな、部屋着というかワンマイルウェア姿。ちょっとくたびれているというか、だらしない感じ。
 肩がなくて胸がなくて尻が出ていて…可愛いよスミカ!
 寝付けなくて、見ているわけでもないテレビのチャンネルをしょっちゅう変えて…そこに父親のロバート(陰山泰)が現われて、誕生日のシャンパンを渡してくれたりします。ラッパ飲みするスミカ!
 ところがそれは実は幽霊というか、キャサリンが見ている幻なのでした。父親は亡くなっていて、明日が葬儀で、ニューヨークから姉のクレア(長崎真友子)も来るし、父の元教え子のハル(春川恭亮)は父の部屋に残された研究ノートなどの遺品の整理に通っているのです。
 ハルに対してキャサリンはちょっと神経質になっていて、その態度はちょっとエキセントリックだったりします。ハルがロバートの研究成果を盗もうとしているのではないかと疑っているのです。
 彼は確かにロバートのノートを持ち出していました。でもそれは、そこにロバートのかつての日記として、キャサリンの誕生日を祝うメッセージが書いてあったからだったのでした。彼はそのノートを誕生日プレゼントとしてキャサリンに渡して去ります。
 翌朝早くクレアがやってきて、キャサリンに喪服を貸したりします。クレアはちょっと派手でちょっと野暮ったいスーツを着て、明るくて美人で、でもちょっと押し付けがましい感じ。キャサリンは姉に対してもちょっと神経質です。
 ロバートは大学の数学教授だったのですが、数学者というのはたいていが早熟です。ロバートも若い頃に大きな成果を上げていましたが、後年はそうしたこともなく、むしろ精神を患ったりしていたのでした。病は良くなったり悪くなったりしていたようで、母親亡き後は主にキャサリンが看病と介護に当たり、結局はそのために大学も辞めてしまっていたのでした。
 クレアは早くに都会に出てバリバリ働いていて、父親を任せきりにしてしまったことを謝り、結婚が決まったのでこの家を引き払って自分のところに出てくるといい、とキャサリンを誘います。
 葬儀には元教え子がたくさん参列し、自宅は来客でにぎわいます。テラスで涼んでいたキャサリンのところにハルがやってきて、昔ロバートのところに論文を提出しに来たときにキャサリンと会っていたことなどを語り合います。
 ブラックドレスを着てメガネを取ったキャサリンは、きちんと25歳の若くて綺麗な女性です。ハルがキスをしてきて、キャサリンが返して、暗転。男に迫るスミカ!
 ロバートの病にはいいときもあって、一時は研究に復帰したりもしました。付きっきりでなくてよくなったキャサリンは、大学への編入を決めました。ちょうどその頃ハルが自宅まで論文を届けにやってきて、ふたりはその頃会っていて、お互いなんとはなしの好感を抱いたことを覚えていたのでした。そしてそれは、キャサリンのいつかの誕生日のことだったのでした。
 後朝のふたりはまたまたしどけない部屋着とややだらしないワイシャツ姿。「昨日は良かったよ」とかやに下がる男に対して「私はあんまり良くなかったわ」とか返すスミカ!
 キャサリンはハルに、ロバートの机の引き出しの鍵を渡します。ハルはロバートが療養中に書き付けていたノートを整理していて、重大な研究成果などがないか確認しているのですが、今のところはそういったものは出てきません。キャサリンは、引き出しの中にあるノートがある、と告げます。
 葬儀の来客と夜通し飲んだクレアが二日酔い気味で現われ、キャサリンに再びここを引き払って自分のところに来るよう言います。彼女は不安定な妹を放置しておけないのでした。キャサリンはロバートから数学の力を受け継いでいました。そして、もしかしたら精神の病も。都会なら選択肢がたくさんある。勉強するなら大学も、働くなら勤め先も、そして病院も。
「私がパパの面倒を見たから、今度はお姉ちゃんが私の面倒を見るのね」
 姉妹が喧嘩になりかけたところに、引き出しのノートを見つけたハルが飛び込んできます。そのノートにはあるとても重大な証明問題が書かれていて、精査してみないとわからないが、とてもものすごいものだ、と彼は興奮するのでした。そしてキャサリンは言います。「それは私が書いたのよ」と。
 ハルにはノートの字はロバートのものに見えました。キャサリンが書いたのだとしても、ロバートの口述筆記をしただけかもしれない。こんな証明問題はキャサリンには書けないはずだ、とハルは言います。だってキャサリンは学位もない、ただの普通の女子だから。
 キャサリンは書いたのは自分だと言い募りますが、その証明はできません。もちろんクレアにも判別できません。
 確かにロバートの病は良くなったり悪くなったりして、良かった時期もあったからそのときキャサリンは家を出て大学に編入し、数学の勉強をしたのですが、電話がつながらなくなって心配して家に戻ってみたら、ロバートが氷点下のテラスでノートに書き付けをしていたことがありました。興奮したロバートはノートに書いた研究成果を読み上げろとキャサリンに命令します。キャサリンが読み上げたそれは、数式でも証明でもなく、何かわけのわからないものでした。詩のようでもありましたが、少なくとも数学とはまったく関係のないものでした。ロバートの病はまた悪化し、キャサリンは大学をあきらめざるをえなくなったのでした。
 クレアは家を売りに出し、キャサリンに荷造りさせ、ニューヨークに移る支度を済ませました。でも最後の最後にまた喧嘩になり、クレアはキャサリンのチケットを置いて先に空港に向かってしまいます。そこへハルがやってきて、ノートの証明問題の検証が一応すんだこと、証明が正しいであろうと思われること、数学の歴史を塗り替えるような世紀の研究成果であることを告げます。そして、これを書いたのはキャサリンだと思う、とも。
 論旨の中にごく最近発見された定理などが組み込まれていることもあって、これを書いた人間は最近の数学をきちんと勉強していることがわかるのでした。ロバートはここ数年は病に冒されていたので、そんなことができるはずはないのでした。
 ハルは大学で数学の研究を続けてはいましたが、これといった成果は挙げられてはいませんでした。凡人だったのです。しかし自分では成果が上げられなくても、他人の偉大な成果の検証はできるのでした。ハルはキャサリンに謝ります。
 キャサリンは謝罪を受け入れ、ロバートが健在だったらもっとスマートでエレガントな証明を書いたと思う、私なんかまだまだで、そのノートにも満足していない、と語ります。
 ふたりは頭を寄せ合って、証明を一行ずつたどり、より美しい証明を目指して論じ合い始めました。おそらく飛行機の時間は、もうとっくに過ぎていたことでしょう…

 …文章で書いてしまうと、お話としてはこんな感じです。
 先日観た『ネクスト・トゥ・ノーマル』の、双曲性障害を抱える母親のもとで育って自分も将来そうなるのではないかと怯える娘ナンシーをちょっと思い起こしました。
 こちらは「父の娘」で、キャサリンは父の数学の才能を受け継いでいることを誇りに思っていたし、だからこそ同様に遺伝的に精神病をも受け継いでいるのではないかと怯えているのでした。
 実際、天才となんとかは紙一重だとも言いますし、確かにキャサリンは神経質で不安定でエキセントリックです。しかしそれは長い介護に疲れていたり家族が亡くなった直後であれば当然と言える程度でもあります。診断が出ているわけでもなく、真相は誰にもわからない。
 クレアは金融アナリストとして活躍していました。数字に強いというところは父親から受け継いだのかもしれません。でも妹ほどではない。それは彼女にとってコンプレックスでもあったでしょう。彼女は妹を羨むと同時に確かに心配してもいるのでした。父親を任せきりにした贖罪もあるかもしれない。その一方で、妬みから妹を閉じ込めてしまおうとしている面もないとも言えない。その複雑な愛憎もとてもリアルだと思いました。
 私はキャサリンが本当に欠けた天才であるなら、補うべきなのは優秀な凡人であるハルで、ハルには自分では求めても得られない数学的栄達がキャサリンと一緒であれば得られて、それで補い合い支え合い依存しあうカップル、というのもあるよな、とか考え、だったらもっとハルが優男メガネみたいなタイプだったらよかったのに、とか思っていたのですが、でも実はこれはそういう物語ではないのでしょうね。
 ハルは大柄で短髪の青年です。マッチョと言ってもいい。それが私には好みではなかったのだけれど(^^;)、でもそういうことではなくて、この健やかさ、健全さ、健康的な感じこそがこのキャラクターに求められていたものだったのです。
 ハルは優男メガネとかではダメなんです。それではキャサリンに引きずられて閉じて落ちていってしまう。キャサリンが本当に天才で病んでいたらそれでよかったかもしれない。でもそうではないかもしれないのだから、組み合わされるべきはこのハルであり、このふたりなら閉じることなく、明るい方に向かって支え合っていけるのだ、ということなのだと思うのです。
 ラスト、強い光が当たってふたりが絵のようにストップモーションになって、そのあと再び動き出してからは、光は柔らかになりふたりが静かに語り合う様子はあたたかで優しいものになって、舞台は終わりました。
 だからこれはそういう物語なのでした。「それは、人生の証明」というのがこの作品のチラシのコピーでしたが、愛の証明というか、未来の証明というか、希望の証明というか、まあ言葉にするとそういったものを表しているのではないかと思い、じんわりと感動して観終えたのでした。

 スミカの北島マヤっぷりは素晴らしく健在。いやぁいい女優だわあ、こういうスミカが観たかったんだわあ、応援し続けたいわあ。
 そしてお姉ちゃん役も素晴らしかったなー。そういう人にしか見えなかった。ちょっと甘い声がまたよくて、ちょっと大島優子に似て聞こえました。
 ハル役は数学の研究者にしてはしゃべりが朴訥だなと思いましたが、これも下手なんじゃなくてわざとなんだな、キャラなんだなと最後には思いました。あたたかくて怪しくて悲しいお父さんもよかった。
 ザッツ演劇!という感じのがっつり四人芝居、とってもスリリングで素晴らしく、おもしろかったです。



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赤澤竜也『吹部!』(飛鳥新社)

2013年09月23日 | 乱読記/書名さ行
 お気楽弱小吹奏楽部に新しくやってきた変人顧問「ミタセン」。超個性的なメンバー揃いのダメダメ吹部を立て直し、全国大会出場!なんて言ってるけど、そんなの無理に決まってる! 心が元気になる青春ノベル。

 ソフトカバー単行本ですがカラー口絵付きで挿絵入り、完全にライトノベルの作りです。
 ただ、今のライトノベルって男声向けも女性向けもすごくマニアックに特化されているから、こういう普通の青春もの、いわゆるヤングアダルト小説というのはやはり一般文芸でやるのがベストなんだろうなあ、と思うと、その住み分けの細かさ狭さにちょっとどんよりしますけれどね…
 私は楽器はまったくダメですが、中学時代に友達がみんな吹奏楽部だったこともあり(吹奏楽部の仲良し同士のところに転校していって友達になったので)ねなんとなく好感と憧れを持っています。なので楽しく読みました。
 上手く行き出す後半からは、スピードアップもして上手く行きすぎなんじゃないの?という気もしなくもありませんでしたが、でもこういう変化とか奇跡とかって若い頃にはそれこそ奇跡的だけれど絶対起こりえることで、だから嘘くさいなんて全然思わず、楽しく読んでしまいました。
 一生懸命に輝けるって、素晴らしい。簡単に映像化されたりしないといいけどな、という余計なおせっかいも焼きつつ、楽しかった読書記録として残します。

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『ネクスト・トゥ・ノーマル』

2013年09月22日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアタークリエ、2013年9月21日ソワレ。

 郊外の町に暮らす平凡な四人家族は、ある事情を抱えていた。母親のダイアナ(ダブルキャスト、この日は安蘭けい)が長年精神的な病にかかっているのだ。父親のダン(岸祐二)はそんな妻を献身的に支えながらも疲れきっている。ダイアナは息子のゲイブに(ダブルキャスト、この日は小西遼生)に愛情を注いでおり、母から愛されていないと思い込む娘のナタリー(村川絵梨)ハ同じ学校に通うヘンリー(松下洸平)とつきあい始める…
 音楽/トム・キット、脚本・歌詞/ブライアン・ヨーキー、演出/マイケル・グライフ、ミュージカル・ステージング/セルジオ・トゥルヒーヨ、美術/マーク・ウェンドランド、日本版リステージ/ローラ・ピエトロビント、翻訳/小嶋麻倫子、訳詞/小林香。
 2009年ブロードウェイ初演。09年トニー賞、10年ピュリッツァー賞受賞作。全二幕。

 簡単に言うと、ヒロインは息子を幼いときに失って以来、いわゆる躁鬱病というか双極性障害を患っていて、18年がたって薬物治療を続けていても改善が見られず、成長していく息子の幻覚を見続けており、夫や娘は困惑の日々を送っている…という話です。
 複雑な楽曲と、とてもシンプルでスタイリッシュなセットを縦横無尽に使ったなめらかなステージングで、6人の役者が丹念に物語を紡いでいきます。なかなか見せられました。
 特にナタリーを演じた女優さんは、私の中ではテレビ女優さんというイメージだったので、地声でビシバシ歌うのでその上手さに仰天しました。そしてこのキャラクターがまたせつない。
 自分が生まれたときにはすでにこの世を去っていた兄の幻を母親は見ていて、普通にしているときは普通の良き母親なのだろうけれど、テンションが変になると通常の暮らしもままならないほどに混乱し、家族は否応なしに巻き込まれます。成績は優秀なようですが難しい時期でもあり、母親にかまいつける父親からも十分な愛情をえられていないと思っていて、仕方がないんだと頭ではわかっていながらもあがき苦しむ思春期の少女。そして、この先自分もあんなふうに狂ってしまうことがあるのではないかと怯えている…
 共感するとか感情移入するとかではなくて、でも同情してしまうというのでもなくて、ただただその痛々しさがかわいそうでいじらしくて、幸せにしてあげて、と祈るしかないようなキャラクターでした。おずおずと好意を寄せるヘンリーもとても良かったです。

 ネタバレすると、薬を飲んだり飲まなかったりで病状が悪化したダイアナは電気けいれん療法を受けることになり、結果、息子の幻覚は見なくなりましたが、結婚生活の記憶もまだらでほとんど忘れてしまう始末。写真などを見たり思い出話がつながり出して、だんだんと記憶は蘇ってきますが、ダンはゲイブのことを隠したままなので、ダイアナは何か忘れたままな気がする、という思いから離れられません。
 ついにゲイブのことを思い出したダイアナは、再度の電気治療を勧められますが、断ります。忘れるのではなく、つきあい続けることを選択したのです。つらい記憶と、幻覚と、病と。
 けれどそれだとともに暮らす家族を傷つけてしまう。どんなに愛し合い許しあい支えあう家族でも、いやそれだからこそ、傷つけ合ってしまうことがあるわけで、だからダイアナは別れを選択しました。限界に行き着いて崩壊するより前に、発展的に解散してしまった方がいいということなのでしょう。
 確かに子供たちにとってはもはや巣立ちのときでした。ナタリーはダンと出会ったころのダイアナの歳に近づこうとしています。ヘンリーもいる。ナタリーをヘンリーとのダンスに送り出すダイアナは、立派に母親の勤めを果たしました。
 子供がいなくなれば、夫婦もまた他人に戻ることが可能です。たとえ愛し合っていても、ともに暮らすことがあまりに苦痛で不可能なら、それは仕方のないことなのです。
 実はダンにもまたゲイブは見えていました。死んだ子の歳を数えない親はいない。父親だからおなかを痛めてないし子供の死を嘆かないということはない。ダンもまたゲイブの死を悼んでいたし受け入れきれないでいたのです。だからこそ幻覚を見る。ただ彼はその幻覚をずっと無視してきました。そうすることでなんとか日常生活を保ってきたのです。
 でもゲイブもまたダイアナと出会ったころのダンの歳にほぼなっていました。親子というよりは親友の男同士みたいになってやっと、ダンはゲイブの幻覚を受け入れられ、そしてゲイブの死を受け止められ、そして前に歩み出すことを始められたのではないでしょうか。
 ゲイブは生き返らない、病気は完治しない、家族は元には戻らない。だから単純なハッピーエンドではないかもしれません。それでも人生は続いていき、人は生きていくしかないのだから、心にそっと灯をともして生きていく、その光は確かにこの世にある…
 そんな作品だったように私には思えました。

 普通って何かよくわからないから、普通のちょっと隣でいい。
 そう言って、慈しみ合える家族がいる。常にともに暮らしていなくても。それはとても素晴らしいことで、でもたいていの人たちが恵まれているはずのことで、それを感謝しなくちゃいけないな…とかも、思いました。


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『ロミオ&ジュリエット』

2013年09月22日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアターオーブ、2013年9月20日マチネ。

 初演の感想はこちら
 この日のキャストはロミオ/城田優、ジュリエット/フランク莉奈、ベンヴォーリオ/平方元基、ティボルト/加藤和樹、マーキューシオ/水田航生、パリス/岡田亮輔、死/大貫勇輔。

 先輩に誘っていただいて、4列目どセンターで観ました。
 そうそう、男声でのハーモニーだとこうなるんだった、とか、そうそうこっちはこういうセットだったっけ、とか、上手と下手がたいてい逆の使われ方をするんだよね、とか、ああ元のお衣装に戻ったりするんだ、宝塚版との比較をしながら楽しく観ました。
 初演から2年がたって、城田くんの歌はより上手くなり、明るく優しいロミオになっていて成長がうかがえた気がしました。城田くんのティボルトも好評だそうですね、そっちもいいだろうなあ。
 莉奈ちゃんも歌がだいぶ良くなっていたそうですが、メイクはまだ改良の余地があるかな? もっと美人に見せられるだろうになあ。
 「ヴェローナ」ラストで死にガン見される席で、怖かったです…『ドリアン・グレイ』ではある種さわやかな青年だったのになあ、怖いわ…
 スマホとかやっぱり必要ない気がするし、フィナーレや天国場面がなかったとしてもやっぱり相対的なロマンチックな宝塚版の方が最終的には好みではありますが、やっぱりいい作品だなあ、とは改めて思いました。
 カナメさんもハマコも変わらずやってくれていますし、いいミュージカルが上手く根づいていってくれることは嬉しいことだなと思いました。なんか立ち位置不明な感想で申し訳ない…



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『ジャンヌ』

2013年09月16日 | 観劇記/タイトルさ行
 世田谷パブリックシアター、2013年9月16日マチネ。

 フランスのロレーヌ地方に生まれた乙女ジャンヌ(笹本玲奈)は、ある時突然「神の声」を聞く。それは、イギリス軍に攻め込まれているオルレアンの包囲を解き、王太子ジャルル(浅野雅博)をランスで戴冠せよとの「声」だった…
 作/バーナード・ショー、翻訳/中川龍一、小田島雄志、演出/鵜山仁。全2幕。

 当時の英仏関係とか教会の状況とかは特に知らなくても観られる舞台でした。シンプルな舞台装置に、ドラマチックな出来事そのものよりはその前後の卑近な人間関係の会話がドラマとして語られるような作品でした。
 ジャンヌは最初から神かがっており浮世離れしていてエキセントリックです。その情熱に大人の男たちがあっけなく巻き込まれていくさまを、当初観客はぽかんと見送ることになります。
 でもいづ戴冠がなされると、男たちはジャンヌを重荷に感じはじめ、離反し始めます。でもここに至っても観客はジャンヌをかわいそうだとは思えません。だって我々にとってもジャンヌは異質なままだから。
 舞台の男たちほどではないにせよ、我々だって大なり小なり嘘をついて周りに合わせ穏便に社会生活を営もうとする小市民です。その先に彼らが奔走するような大義とか理想とか戦争とか国家とかがあるのかもしれませんが、それはこの作品の中でも具体的には語られないので、彼らはいっそう我々に近い人々になります。
 彼らがそうやって小さな嘘をつきつつ上手く世の中を回してみんなでなんとかしていこうとしているのに対し、ジャンヌはそういったことにまったく頓着しません。ただひたすらね自分が聞いたというお告げの言葉、神の声のみに従い、ごくごく小さな嘘すらつくことなく、ひたすらゴリ押しに事を推し進め、周りを当惑させ周りに軋轢を生みます。それははっきり言って迷惑行為です。この戯曲は、平凡な小市民である観客をジャンヌに感情移入するようにはなっていません。それはそうです。「あなたたちは私とともに生きるのにふさわしくない」みたいなことを言って全世界を切り捨ててしまえる少女につきあえる者はいません。
 だからむしろ周りの当惑に同調してしまい、ジャンヌをかわいそうだと思えないまま、彼女を火刑台送りにすることになります。
 だからこの舞台の真骨頂は、最終場にあるのでした。火刑から25年もたったフランス国王シャルル七世の枕もとに訪れる、ジャンヌの幽霊、あるいはデュノア(伊礼彼方)の生霊、あるいはフロックコートの紳士たちの語り…
 彼らはみんな、ジャンヌを評価し、褒め称えます。ジャンヌが聖人に列させられたことも祝います。しかし彼女がでは奇跡を起こして復活しましょうか、と提案すると、言葉を濁して逃げるのでした。当然でしょう。彼らにとって彼女はそういう存在なのでした。
 誰も彼もがいなくなってしまい、ひとり取り残されたジャンヌは、神に問います。いつこの地上に神の国は現われるのでしょうか、と。
 しかしそんなときは決して来やしないのです。それは我々が異教徒だからかもしれませんが、『沈黙』という傑作キリスト文学を擁する国の民として、ただ単に知っているのです。神はいない。いたとしても決して応えることはない。
 なのにジャンヌは待つのでしょう、いつかこの地上に現われるはずの神の国を。
 お告げはどうして彼女にのみ聞こえたのでしょうか。田舎のごく普通の少女に過ぎなかった彼女に。少年だったら、権力や財力のある男に聞こえたのだったらきっともっと全然違う結果になったかもしれないのに。
 しかしお告げは万人に平等に達していて、ただ聞く耳を持つもののみに届くものなのかもしれません。それが少女ジャンヌだったというだけなのかもしれません。彼女だったからこそお告げを聞いてしまい、それにしたがって行動してしまい、周りを従えてしまったのかもしれません。そして火刑に死してなお、神の国を待つ存在にさせてしまったのかもしれません。
 待っても無駄なものを待ててしまうのは女に与えられてしまった呪われるべき能力なのかもしれません。本人は待っている間も幸せなのかもしれませんが、私はジャンヌのために泣きたい、と思いました。


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