2005年、イ・ジュンイク監督。カム・ウソン、イ・ジュンギ、チョン・ジニョン。
めっちゃいいBLで、興奮しながら見てしまいました。というか今ならもっとがっつりちゃんとBLとして制作するやろ、と思いました。このぼかし方はいたって不正直だと私は思う。あと、王侯貴族と大衆と芸人と演芸、みたいなモチーフの作品として、ものすごく避けて通れないところを描いている作品だと思いました。
この映画では明言されていませんが、カム・ウソン演じるチャンセンとイ・ジュンギ演じるコンギルは、要するに念者・念弟の関係なんですよね。本当はそれをちゃんと表現しておいた方が作品として明らかにわかりやすかったと思うのだけれど、当時の韓国映画界というか芸能界のコード的にはNGだったのでしょうか。歴史ものなんだし、いいじゃんねえという気しかしないんだけどな。逆に、「そこはそうではないんだ」と言い張るつもりなら「嘘くせえ」としか思えません。
スタートは、おそらく貴族のお屋敷か何かの使用人同士で、おそらく空腹に耐えかねて粗相したコンギルを年長のチャンセンがかばい、結果的にふたりして出奔する羽目になった、というところなのでしょう。ふたりとも真性の同性愛者だったわけではないのかもしれません、けれどこういう境遇では協力し合わないと生き延びられなかったのだろうし、その中で培われざるをえなかった関係性がある、ということなのでしょう。こういうふうに語るのも、あまりにも理屈っぽいことですが。
で、そういう、富裕層の使用人として働かざるをえなかった当時の一般庶民ないし下層民にとって唯一の娯楽って大衆芸能で、だからあの客寄せの太鼓の音には心が躍ったし、ちょっと身体能力やセンスに恵まれた者なら見よう見まねで自分でもやってみる、そしていつしかそれを本職にしてしまう…というのは、ありえることなんだと思います。そうやってチャンセンとコンギルは名コンビの芸人として各地を渡り歩き、日銭を稼いで生きてきた。若いコンギルが女形に扮して芝居めいたことをするのも、ふたりの定番の持ち芸ということです。それは、実際にコンギルがチャンセンの念弟ということとはまったく別の、芸の問題なのです。
けれど、彼らの大衆演芸を覗き見した金持ちの好き者たちが、若く美しいコンギルに常に目をつけ、夜伽をさせようとする。それで大衆の投げ銭よりも遙かに高額を手にすることができるかもしれないけれど、チャンセンはそれをよしとしない。自分たちは芸を売っているのであって色を売っているのではない、という芸人としての矜持があるからだし、コンギルの恋人として彼の身売りなんか容認できないからです。けれどコンギルの方は若い分、またチャンセンや一座の仲間たちを愛しているからこそ、彼らにちょっとの贅沢をさせてあげるためにも一夜の身売りくらいたいしたことはないんじゃないの?と思っている節がある。この齟齬よ…
そしてさらにいろいろあって、彼らは王の前で芝居を打つ羽目になる…
燕山君(ヨンサングン)というのは史上名高い暴君だそうで、妓生あがりの寵姫がいたり…というのも史実なんだそうですね。まあそんな王様なんていくらでもいたんでしょうけれどね。最近自分が中国ドラマづいているので思うのですけれど、というか中国も韓国も日本も、それでいえばヨーロッパなんかもそうですけれど、王権が世襲されるというのには実は問題点しかなくて(順当ならドラマにならない、というのもあるけれど)、先代の寵臣が居残ったり外野が利権に口出ししようとしたりで、当の王様が全然万能じゃなかったりする。当然幸福でもない。この王様もそうなのでした。生母は父親とその妻に殺され、父の死後帝位についても臣下たちは慇懃無礼でいうことを聞かず、王は鬱屈して暮らしている。そこに、その政治状況をからかうことで王を笑わせてくれる芸人一座が現れたのです。王が彼らを贔屓しないわけがあるでしょうか。
王がコンギルを呼んだのは、コンギルが若い男だからです。というか王が男だから、と言ってもいい。本当はノクス(カン・ソンヨン)で十分なはずなんですよ。そりゃ彼女は元は妓生で王の肩書き目当て、権力目当てで阿っているにすぎないのかもしれない。でも関係も熟すればちゃんと理解も情愛も生まれるはずで、王が心を開きさえすればノクスはちゃんと愛で応えたはずなのです。
でも王にはそれができない。彼は男で、自然と女を見下しているからです。といってチャンセンと酒を酌み交わす度胸もないわけです。だから歳下のコンギルしか呼べない。この卑屈なホモソーシャル感よ…
ここで本当はやることやってるに違いないんだけれど、それは描かれていないし、そういうこととは別に、コンギルは人として優しいので、王の孤独に同情し、慰めてあげたい、と人として思うのでしょう。けれどチャンセンにはそれが理解できず、ヘンに妬いてしまう…
真の意味でこの三人が友となれていたら、三人ともずっと幸せになれたのに…
ラスト、私はコンギルも自ら目をついて、『春琴抄』よろしくチャンセンと支え合いながら盲人の芝居の稽古をしつつ都を去る…みたいなシーンも思い浮かべたのですが、映画はここにクーデターを重ね、まさしく宙に放り出して終わります。せつない…
しかし本当にタイトルが秀逸で、これは別にタイトルロールがコンギルだとかそういうことではなくて、ホモソーシャルの悲劇がテーマだということだと思うんですよね…「王の女」ノクスに向ける視線があれば、全然違ったのに、という。女子としては、なのでこれをBLとして美味しく消化しますが、しかし男はホントもっとものを考えて楽になれる道、幸せになれる生き方を考えた方がいいし、それで世界は格段に優しく幸せ多きものに変われると本当に思いますけれどね。でも今までもさんざんそう指摘し手を差し伸べてきてので、これ以上やる気は女の側からもだいぶ薄れてきましたけれどね…男さまのお気持ちとかこれ以上慮れませんよね。
この映画からももうすぐ20年。今ならもう少し違う物語が描かれるのでしょうか?
めっちゃいいBLで、興奮しながら見てしまいました。というか今ならもっとがっつりちゃんとBLとして制作するやろ、と思いました。このぼかし方はいたって不正直だと私は思う。あと、王侯貴族と大衆と芸人と演芸、みたいなモチーフの作品として、ものすごく避けて通れないところを描いている作品だと思いました。
この映画では明言されていませんが、カム・ウソン演じるチャンセンとイ・ジュンギ演じるコンギルは、要するに念者・念弟の関係なんですよね。本当はそれをちゃんと表現しておいた方が作品として明らかにわかりやすかったと思うのだけれど、当時の韓国映画界というか芸能界のコード的にはNGだったのでしょうか。歴史ものなんだし、いいじゃんねえという気しかしないんだけどな。逆に、「そこはそうではないんだ」と言い張るつもりなら「嘘くせえ」としか思えません。
スタートは、おそらく貴族のお屋敷か何かの使用人同士で、おそらく空腹に耐えかねて粗相したコンギルを年長のチャンセンがかばい、結果的にふたりして出奔する羽目になった、というところなのでしょう。ふたりとも真性の同性愛者だったわけではないのかもしれません、けれどこういう境遇では協力し合わないと生き延びられなかったのだろうし、その中で培われざるをえなかった関係性がある、ということなのでしょう。こういうふうに語るのも、あまりにも理屈っぽいことですが。
で、そういう、富裕層の使用人として働かざるをえなかった当時の一般庶民ないし下層民にとって唯一の娯楽って大衆芸能で、だからあの客寄せの太鼓の音には心が躍ったし、ちょっと身体能力やセンスに恵まれた者なら見よう見まねで自分でもやってみる、そしていつしかそれを本職にしてしまう…というのは、ありえることなんだと思います。そうやってチャンセンとコンギルは名コンビの芸人として各地を渡り歩き、日銭を稼いで生きてきた。若いコンギルが女形に扮して芝居めいたことをするのも、ふたりの定番の持ち芸ということです。それは、実際にコンギルがチャンセンの念弟ということとはまったく別の、芸の問題なのです。
けれど、彼らの大衆演芸を覗き見した金持ちの好き者たちが、若く美しいコンギルに常に目をつけ、夜伽をさせようとする。それで大衆の投げ銭よりも遙かに高額を手にすることができるかもしれないけれど、チャンセンはそれをよしとしない。自分たちは芸を売っているのであって色を売っているのではない、という芸人としての矜持があるからだし、コンギルの恋人として彼の身売りなんか容認できないからです。けれどコンギルの方は若い分、またチャンセンや一座の仲間たちを愛しているからこそ、彼らにちょっとの贅沢をさせてあげるためにも一夜の身売りくらいたいしたことはないんじゃないの?と思っている節がある。この齟齬よ…
そしてさらにいろいろあって、彼らは王の前で芝居を打つ羽目になる…
燕山君(ヨンサングン)というのは史上名高い暴君だそうで、妓生あがりの寵姫がいたり…というのも史実なんだそうですね。まあそんな王様なんていくらでもいたんでしょうけれどね。最近自分が中国ドラマづいているので思うのですけれど、というか中国も韓国も日本も、それでいえばヨーロッパなんかもそうですけれど、王権が世襲されるというのには実は問題点しかなくて(順当ならドラマにならない、というのもあるけれど)、先代の寵臣が居残ったり外野が利権に口出ししようとしたりで、当の王様が全然万能じゃなかったりする。当然幸福でもない。この王様もそうなのでした。生母は父親とその妻に殺され、父の死後帝位についても臣下たちは慇懃無礼でいうことを聞かず、王は鬱屈して暮らしている。そこに、その政治状況をからかうことで王を笑わせてくれる芸人一座が現れたのです。王が彼らを贔屓しないわけがあるでしょうか。
王がコンギルを呼んだのは、コンギルが若い男だからです。というか王が男だから、と言ってもいい。本当はノクス(カン・ソンヨン)で十分なはずなんですよ。そりゃ彼女は元は妓生で王の肩書き目当て、権力目当てで阿っているにすぎないのかもしれない。でも関係も熟すればちゃんと理解も情愛も生まれるはずで、王が心を開きさえすればノクスはちゃんと愛で応えたはずなのです。
でも王にはそれができない。彼は男で、自然と女を見下しているからです。といってチャンセンと酒を酌み交わす度胸もないわけです。だから歳下のコンギルしか呼べない。この卑屈なホモソーシャル感よ…
ここで本当はやることやってるに違いないんだけれど、それは描かれていないし、そういうこととは別に、コンギルは人として優しいので、王の孤独に同情し、慰めてあげたい、と人として思うのでしょう。けれどチャンセンにはそれが理解できず、ヘンに妬いてしまう…
真の意味でこの三人が友となれていたら、三人ともずっと幸せになれたのに…
ラスト、私はコンギルも自ら目をついて、『春琴抄』よろしくチャンセンと支え合いながら盲人の芝居の稽古をしつつ都を去る…みたいなシーンも思い浮かべたのですが、映画はここにクーデターを重ね、まさしく宙に放り出して終わります。せつない…
しかし本当にタイトルが秀逸で、これは別にタイトルロールがコンギルだとかそういうことではなくて、ホモソーシャルの悲劇がテーマだということだと思うんですよね…「王の女」ノクスに向ける視線があれば、全然違ったのに、という。女子としては、なのでこれをBLとして美味しく消化しますが、しかし男はホントもっとものを考えて楽になれる道、幸せになれる生き方を考えた方がいいし、それで世界は格段に優しく幸せ多きものに変われると本当に思いますけれどね。でも今までもさんざんそう指摘し手を差し伸べてきてので、これ以上やる気は女の側からもだいぶ薄れてきましたけれどね…男さまのお気持ちとかこれ以上慮れませんよね。
この映画からももうすぐ20年。今ならもう少し違う物語が描かれるのでしょうか?