駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ミュージカル『DEATH TAKES A HOLIDAY』

2024年10月07日 | 観劇記/タイトルた行
 東急シアターオーブ、2024年10月4日18時。

 人類が史上未曾有の「死」に取り憑かれた第一次世界大戦の悪夢から覚め、「狂乱の」1920年代が始まって間もないころ。深夜、イタリア北部の山道を飛ばして走る一台の車があった。乗っているのはランベルティ公爵一家。ひとり娘グラツィア(この日は美園さくら)の婚約をヴェニスで祝った帰りなのだ。だが突如現れた「闇」にハンドルを取られた車がスピンし、グラツィアは夜の闇へと投げ出される。そして「死神」(小瀧望)が現れる…
 作詞・作曲/モーリー・イェストン、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健、振付/三井聡、桜木涼介。イタリアの劇作家アルバート・カゼッラによる戯曲に基づき、ウォルター・フェリスが1929年に英語で戯曲化。34年、98年には映画化もされた。オフ・ブロードウェイ版は2011年初演、17年ウェストエンド初演。23年には宝塚版が上演された。全2幕。

 宝塚歌劇月組版の感想はこちら
 今回の配役は他にエリック/東啓介、コラード/内藤大希、アリス/皆本麻帆、デイジー/斎藤瑠希、ヴィットリオ/宮川浩、ステファニー/月影瞳、ダリオ/田山涼成、エヴァンジェリーナ/木野花、フィデレ/宮下雄也。
 宝塚歌劇団を卒業後、大学院に進学し、最近ではご結婚もなされたそうで、もう芸能活動はしないのかな…と思っていた俺たちのさくさくが! ヒロインで! 舞台に復帰する! と狂喜乱舞したものの主演が旧ジャニーズということもあってチケットが全然取れず、しかし蓋を開けたらおけぴにまあまあ出ていたので、無事にお譲りいただけて観てこられました。1階最高列でしたがセンターブロックで視界良好音響良好、お値引きもしていただけてまさしくお値打ちものでした。ありがとうございました…!
 そして、なかなかにおもしろい観劇体験となりました。
ドン・ジュアン』とか『赤と黒』とか、遡れば『1789』や『ロミオとジュリエット』、『ファントム』、『エリザベート』も、宝塚歌劇でやったあと外部で、という海外ミュージカルは、もちろんもとの舞台があるんだからそれなりに似るんだけれど、でもやっぱり演出や装置や衣装や、作品のどこにどう力点を置くのかなどがけっこう違ってくるもんだな…という印象が私にはあったのですが、今回はわりと見た目というか演出が宝塚版まんまな気がしました。当時印象的だったやたら回る盆はなくて、セット(美術/伊藤雅子)は上下の袖から横に出てくる形でしたが、ミザンスなんかも含めてほぼほぼ同じだったのでは…? イヤ二回しか観ていないし円盤を買っていないので、記憶違いならすみません。またそれがいいとか悪いとかいうつもりはありません。むしろ「この形でベスト」と決まっているならその方が正しい、とも私には思えました。
 その上で、全体に、だからこそわりと違う感触を得たので、それが私にはとてもおもしろく感じられたのでした。
 先にキャストの話をしますと、小瀧くんは私は『ザ・ビューティフル・ゲーム』や『検察側の証人』で観ていて、スタイルのいい、ちゃんとした役者さんだなーという印象は持っていました。ただ『ビューティフル~』はミュージカルだったけれど、歌の記憶はなく、やはり今回は歌がめっさ上手いのに仰天しましたね…! ただ、好みとしては、もうちょっと芝居歌になっていてもいいかな?とは感じました。でも死神なので、あまりウェットにやっていない…のかもしれない。演技ももちろんそつがなかったんですけれど、でももう一息引っかかりが、あるいはチャーミングさが欲しい気もしたんですよね…あとホントにスタイルが良くて長身で頭身バランスも素晴らしいんですけど、顔はもっと描いてもいいのでは、とか思いましたすみません…でもちょっと寂しくなかったですか? いやファンはあの顔が好きなんでしょうし、別に宝塚ばりのメイクを求めているわけではないんですが、これもなんかちょっと引っかかりがないというかチャーミングさが足りないというか、物足りなく感じたんですよね…ホントすみません。でももっと美形になれる気がしてしまったのです…もしかしたらまた開幕して間もなくて、まあまあいっぱいいっぱいなのかもしれません。これからもっと表情豊かになって、より魅力的になっていくのかも。それか、クールで豊かな感情を知らない死神、という役作りならその方向でさらに深めてきたり、後半の変化を表現してくるのかも。今回のところは私にはやや一本調子に見えたのです。が、とにかくこれだけ歌える、踊れることは貴重だと思うので、もっとバリバリにミュージカル・スター街道を驀進していくといいと思います。楽しみです!
 さて、さくさくは…ピッカピカでしたよツヤッツヤでしたよ! イヤそういうメイクだってーのもあるんだけれど、ブランクなんか全然感じさせない、むしろ進化している艶やかでまろやかな美声! くらげちゃんもめっちゃ上手かったけれど、かなり難しい楽曲を楽々と歌いこなして、かつどのお衣装もお似合いで綺麗に着こなして、それほど踊らないんだけど身のこなしが美しく舞台での居方も素晴らしく、もちろん台詞も芝居も良くて、イヤもうホント素晴らしかったです。ファンの欲目もあるでしょうけれど、でもホント絶品でした。
 くらげちゃんはいかにも死に魅入られそうな、ちょっとエキセントリックな不思議ちゃんっぽい役作りをしていたような…な私の記憶なのですが、さくさくはもっと天真爛漫でフツーの、例えばちょっと愚かしいところも含めてごくフツーのどこにでもいるお嬢さんって感じにしているのかなー、と感じました。そしてそのグラツィア像でも成立する物語、世界観、作品になっている…というところが、とてもおもしろく思えました。
 たとえば、宝塚版では当時の座組で2番手スター格だったおだちんがグラツィア父をやっていて、さすがおださんなのでそれは上手かったんですけれど、でもやっぱりいろいろ無理があったわけじゃないですか。それからグラツィア母もグンちゃんがとても艶やかででもどこかのほほんとしていて、戦争で亡くした息子を歌う場面なんかはもちろん泣かせるんですけれど、さくさくの母親ってのがすごく納得できるというか、まあOGだからでもうひとりのダブルキャストとはどう見えていたのかはわからないしアレなんですけれど、要するにとても似合いの母娘に見えました。つまり何が言いたいのかというと、この舞台にはあたりまえですが男性も、おじさんもおばさんも、おじいさんもおばあさんも普通にいるんですよ。そういう年格好の役者がちゃんと揃っている。そのリアリティってすごいな、と改めて感じ入ったのです。声の幅や体格、背格好とかがバラバラで、それぞれ役どころに単純にふさわしいわけです。無理する必要がない、というか…それからすると宝塚はみんな綺麗すぎる、揃いすぎている。年齢の幅だってせいぜいが二十くらいしかないだろうし、何より全員女性です。それでやっているファンタジーなんだな、と改めて感じました。
 だから、なのかあるいは月組の特性なのか、宝塚版は芝居がめっちゃリアル方向に寄っていた気がしました。この役はこういう人柄で、ここではこういうことを感じていて、だからこういうふうに台詞を言うんだ…みたいなことが、ものすごく深く計算され、丁寧に演じられている気がしました。また、こちらもそういうものを読み取ろうとして真面目に舞台を観ていた気がしました。
 でも、なんか今回は、まあ私が単なるさくさく目当てのお客さん気分で観ているとか、お話自体は知っているものを観に来ているという気安さとかもあったかもしれませんが、なんかもっとあっけらかんとした空気感を感じたんですよね。家族を演じるのにふさわしい年格好の役者が揃っている、しかし彼らはあたりまえですが本物の家族ではない、家族に扮しているだけである。これはお芝居だし、死神なんてものが出てくるファンタジーだ…という、戯画化というか大人のお伽噺感というか、海外ミュージカルって冗長なくらい華やかなナンバーとかがバンバンあって楽しいよねー!みたいな、いい意味での作り物感、「お話」感を私は観ていて感じたのでした。
 リアルな身体を持った役者さんたちが、あえてライトに、記号的に役を、家族を演じている。だからおださんやさち花に泣かされたようにはこの両親を気の毒に思えなかったんだけれど、その分グラツィアの選択が受け入れやすかった、というか…全体としてとてもスッキリとした、ある種の筋の通ったわかりやすい作品に仕上がっている気がしました。
 グラツィアはあくまでフツーの、どこにでもいそうな女性で、でも人間どんなに若かろうと美しかろうと交通事故に遭うことはあるし、それで人生が終わることはある。悲劇だけれど、特別なことではない…むしろオマケの2日で「真実の愛」なるものがつかめたのだとしたらラッキーでハッピーなことだし、そもそも人間をやっている限り「永遠の愛」なんてものは得られないので、それが欲しいというのならグラツィアの選択は正しいし、その意味でこれはハッピーエンドの物語なんだ…と、私は素直に思えたのでした。要するに、自分でも意外なほど楽しく、おもしろく観てしまったのでした。宝塚歌劇のフィルターを外して、やっと作品そのものを観られた気もしました。もちろん宝塚版はそれはそれで楽しかったしおもしろく観たし、好きだったので、あくまで別物で、でも同じ作品で、不思議だな…という、味わい深い観劇体験となったのでした。
 りりもおはねも素敵だったけれど、ミュージカルでよく観る皆本さんとかホント達者。とんちゃんとの身長差はややエグかったけど…木野花も歌えるの?とか思ってたんですが(私はテレビでばかり見ていたので…)、さすがに味で聞かせるタイプの歌でしたがこれも役に合っていました。ダリオのフォローがしみましたしね。コラードがしょーもなかったりフィデレが噛んだりのアドリブも楽しかったし、アンサンブルも素敵でした。気持ち長いかなーという気もしたのですが、このおおらかさも含めて楽しむべき大人の娯楽、なのかなーとも感じました。
 劇場はいつも私が見かける観客よりお若く綺麗にしたお嬢さんたちが多く、主演さんファンなんでしょうがミュージカル、舞台そのもののファンにもなってくれると嬉しいな、など思いました。私には楽しい出会いだったので、彼女たちにとってもそう出会って欲しいと思いました。
 ひとつあるとすれば、エアチューでよかったかな…ということでしょうか。一幕ラストの、グラツィアからブチューっといく感じのキスはグラツィアっぽくてよかったんだけれど、どうしても「俺たちのさくさくが…! 珠城さんにもしたことないのに…!!」とか脳の片隅でつい考えちゃうわけですよ。別に知らない役者さん同士のキスだって、他が演技なんだからそこも演技で、振りでいいのよ? 別に覗き趣味とかないよ? とかは思ってしまうのでした。背の高ーい小瀧サーキの首に抱きつくのに爪先立ちになっているさくさくグラツィア、とかは萌えたんですけどね…そのあたり、生田先生はどうお考えなんでしょうかね? 妻であるきぃちゃんも『モーツァルト!』とかがっつりチューしてましたが…もちろん海外ではエアなんて発想はないのでしょうが、それはそもそもの文化の違いなのであって…うぅーむ。
 ともあれ、千秋楽まで無事に上演されますよう、お祈りしています。














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宝塚歌劇花組『ドン・ジュアン』

2024年07月30日 | 観劇記/タイトルた行
 御園座、2024年7月24日11時、15時半。

 アンダルシア地方、セビリア。スペイン貴族ドン・ルイ・テノリオ(英真なおき)の跡取り息子でありながら、酒と女に溺れ、悪徳の限りを尽くす放蕩息子として悪名を馳せるドン・ジュアン(永久輝せあ)は、夜ごと女たちとの情事に耽っていた。今宵の相手は誇り高き騎士団長(綺城ひか理)の一人娘(二葉ゆゆ)。事態を知った騎士団長は娘を穢された怒りからドン・ジュアンに決闘を挑み…
 脚本・作詞・作曲/フェリックス・グレイ、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健。2004年カナダ初演、20周年となる今年は世界ツアーを実施中のフランス発ミュージカル。2016年雪組で上演したものから衣装と舞台装置(装置/國包洋子)を一新して、花組新トップコンビのプレお披露目公演として再演、全2幕。

 雪組版の感想はこちら、外部版初演はこちら、再演はこちら。再演はきぃちゃんマリアが素晴らしすぎて円盤買いましたよ…!
 今読み返すに、いろいろとブラッシュアップしてきて、やっとだいぶ整ったんだな、という印象です(まだ「だいぶ」だけど)。最初からこれくらい仕上げてこいよ、という言い方もできるけれど…良くなっているので良きですね。わかりやすくなった分、シンプルでスタイリッシュになりすぎたのでは?と感じているようなツイートも見ましたが、まあこのあたりは好みもあるかな…私はストーリーがあるもの、その整合性がある物語、作品が好きなので。
 あとはやはりラストの「愛のために、俺は死ぬ」ってなんなんだ、って問題は、まだあるかな…? これ、そもそもフランス版ではどんなニュアンスで描かれているんでしょうかね? だって向こうの人は、自殺ダメ、ゼッタイ、な価値観なんでしょ…? あと、「ために」って訳されているけど、「for」みたいな意味なのか、それとも「by」みたいな「愛によって、愛が原因で命を落とす」というような意味なのか…?ってのもありますよね。まあなんか私としても未だ納得したようなしないようななんですが、でもオチとしては「ドン・ジュアンの死」しかない気もするし、とにかく全体としてとてもおもしろく観たので、満足です。楽曲もいいし、改めて好きな作品だな、と思いました。日帰りダブル観劇遠征でしたが、大充実、大満足でした。

 花組新トップスターとなったひとこちゃん、改めておめでとうございました。ここで言うことではないかもしれませんが、生え抜きでない花組トップって内外からなんとなくそういう目があってご本人はホントーにタイヘンなんじゃないかと思ったりするのですが、まあなるものはなるんだしなっちゃったんだからもうやるしかないんです。ちょっと小柄というか細身かな…?という気はしなくもないけれど、歴代そんなトップはたくさんいたし、なんでもできる総合力の高いスターさんだと思うので、全然心配していません。あとはこの先も作品に恵まれることを本当に祈っています…!
 プレお披露目がこの作品になったことは、ある程度出来が担保された作品であることや、初演でラファエル(天城れいん)を演じていた生徒がついに主演を…!みたいなエモさも演出されて、よかったと思います。上演する組が違うのもいいですよね、生徒があまり被りすぎていたらこの企画って通りづらかったんじゃないかと思うので…いろいろ違っていることもあり、新鮮に観られましたし、やはり全体のレベルも上がっていて、とてもよかったと思いました。そしてその真ん中をひとこが務めることになんの問題もないし、頼れるし、一番暗く輝いていて、良さも出ていて、これからが楽しみだなー、と純粋に思えました。ひとこドン・ジュアン、よかったです!
 あまり比較して語るのもどうかと思いますし、語れるほど回数を観ていないのですが、だいもんドン・ジュアンより少年っぽさが持ち味としてある気がして、それがまずいいなと思いました。だいもんのワルい顔、ギラギラさ加減はすごすぎて、まあ言うなればクドすぎて、物語の主人公として観客が好感を持ちチャーミングに感じる枠をギリギリ逸脱しているのでは…と当時の私は考えていたので。
 精神的に不安定だったのか、息子の美貌に溺れた母親が溺愛の一線を越えて息子を襲ってしまったらしい…というようなくだりが今回は完全にカットされていたので(ちなみにこれもフランス版にそもそもあったエピソードなのかなあ? 生田先生の付け足し? だから初演も会場替えたらニュアンス変わって外部版からはなくなった…のかなあ?)、そうした性的虐待のトラウマによる女性不信もあり放埒に走っている…のではなく、単に二十歳そこそこくらいの若者がグレてイキってサカって暴れてるんだな、と思えました。なのでドン・ルイは、「息子よ」の歌とかでうっかりいい夫いい父親みたいに見えないよう、もっと妻や息子を顧みなかった、仕事か愛人かにかまけて家にいなかった男に描くとなおいいのではないかと思いましたね。彼は体面を気にして息子を叱っているだけで、心から心配しているわけではない…みたいな方が、逆に心配しすぎてあれこれくっついて回っているドン・カルロ(希波らいと)との対比にもなるし、ドン・ジュアンがそういうのが嫌で寂しくてグレて暴れているのね、って説得力が増すと思うので。
(まあでも、多数の女たちを虜にしたある男がいた…ってのはある程度の事実だとしても、やはり男性作家によるモテ・ドリームみたいなものがそこに乗っている、というか乗りすぎているのはすごく感じるので、そこはちょっとつっこみたいですよね。どんなに金や権力や性技?があろうと、それで寄ってくる女ってそれだけのものでしかないし、人数だってホントたかがしれているはずなんであって…そんなことあるかい、デカいチンコがそんなにすごいと思ってんのか?そこに価値は本当にあるのか?とかの冷静な視点も必要だよね、とか考えたりも、しました。まあでも少女漫画で今でもやっている「みんなからモテモテのあんなに素敵なカレが、何故こんなサエないワタシに…!?」みたいなのもその裏返しなので、男女同罪両成敗なんでしょうけれど…でも、ドン・ジュアンがマリア(星空美咲)とくっついて、要するにただのそこらにいる若い男に成り下がると、周りの女たちはさーっと冷たくなるし、決闘騒ぎにも野次馬的冷やかししかしなくなるのが、リアルでヒドくていいな、と思いました(笑))
 そんなわけで、「俺の名は」はなんかあんまり良く聞こえなかったのですが、「エメ」とか「変わる」(これは邦題「シャンジェ」でいいのでは…「Aimer」が「エメ」なんだから。チェンジのフランス語ってことね、ってわかるでしょう普通…)、「愛だけが」なんかはとてもよかった。初めて恋を知った若い男の、少年のようなきらめき、輝き…キュン! そして、「嫉妬」が本領発揮だと思いました。
 そう、本当に愛があれば、もっと広い心でマリアの「昔の恋」を受け入れられるはずなんですよ。マリアだってドン・ジュアンの過去の愛人たちについていちいち何かを言っていないんだし…でも彼は、騎士団長の呪いとは別に、未だ本当の愛、深い愛を知らないから、プライドとかメンツとかを取って「決闘だ」となってしまう。
 ここでラファエルが応じるのには、ある種の理屈がある気がしますよね。断るなんて恥なので事実上できない、ってのもあるでしょうが…エルヴィラ(美羽愛)がマリアを陥れようとするのと同様で、嫉妬の矛先がダメダメなんですけれどね。つまり、こういうときに人は矛先を恋敵に向けがちだけど、本当に相対すべきは恋人、自分の恋愛相手なんですよね。恋敵なんてふたりの関係にそれこそなんの関係もないし、その人がいなくなれば自分たちの関係が改善されるというものでもない。でも人はたいていそこを見誤る…このあたりはまたラファエルに関するくだりで語ります。
 ところで外部版ではラファエルが本当に不死身で、ドン・ジュアンが刺しても突いても立ち上がり立ち向かってきて、このままだと本当に殺すしかないけれど、いくら決闘での殺人は法的に問われないとはいえ騎士団長に続いて間を置かず二度となるとさすがにマズい気もするし…とドン・ジュアンがためらい、怯え、ラファエルをそうまでして立たせるものってなんなんだ…となって、そこに彼のマリアへの愛を見る…というような解釈を私は前回したように思うのですが、そういうラファエルの不死身感は今回はあまりなかったような気がしました。そこからの「愛のために、俺は死ぬ」なので、やはりここでドン・ジュアンが突然理解した「愛」ってなんなんだ、とこの流れの意味はわかったようなわからないような…なのですが、ともかくどっちかが死ななきゃこの場は納まらないし、でも相手を殺す資格は自分にはない気がしたので自分で自分を死なせることにした、という感じなのかな、とも思いました。愛を知った人として愛に殉じた証として死ぬ…というほどきちんと考えられていない、若者の性急な決断、という気もして、それもひとこドン・ジュアンに似合いかな、という幕切れに感じました。
 うん、ホントよかったです、ひとこドン・ジュアン。主役はなんでもそうだろうけれどそれにしても出番の多い、大変なお役だろうけれど、どうぞがんばって完走してください。そしてまたひとつの伝説となり、この作品が愛され受け継がれ再演されていくことを私は望んでいます。

 さて、何度も何度も言いますし毎度申し訳ないのですが私は星空ちゃんが苦手で、それは残念ながら未だ変わらないのですが、しかしマリアはよかったです。というか「石の像」の歌がホントよかった! きぃちゃんのこの歌は絶品で、そらこの歌声にどんな人間もメロメロになるよ…!という説得力がハンパなかったのですが、それに匹敵しました。もともと歌が上手いスターさんだよなとはずっと思ってきましたが、磨きがかかった気がします。歌声に彩りがあり、艶があり、華やかでした。それでカーンとノミ?木槌?を振るわれたらそらハートにガツンときますって…! ひとことのハモリのあるデュエットも素晴らしく、いくらまどかが支えてもこれはれいちゃんには無理だった…とか思うと耳が幸せでした。
 みちるマリアは騎士団長の像を途中までは彫って、その後壊しちゃったんでしたっけ? 今回は手もつけていないので、職人として芸術家としてどーなんだって気もしますが、別に恋に溺れたら仕事はどーでもよくなった、とかではなくて、この石じゃないのでちょっと仕切り直しね、ってだけにも見えて、私はわりと納得できました。ただ、周りにあったのは歩廊としていた騎士団彫像のイメージってこと? 私はマリアの過去作かなとか思っていたのですが…どういう設定なんでしょうね?
 ラファエルとの関係に関しても、マリアが結婚式を先延ばしにするのに「あなたは戦争で死ぬかもしれないんだから」みたいな、人としてかなり薄情に聞こえかねない台詞を言うのがなくなっていて、よかったなと思いました。おそらく幼馴染みで、嫌いじゃないから押し切られてつきあってきて、周りから愛されているんだから幸せでしょ、それが愛よ、と言われるけど今ひとつピンときていなくて…みたいな、やはりいろいろとまだ幼い、若い、早熟すぎるこの時代・社会の女性からしたらちょっと変わった、でも本当に普通の女性という感じで、別に芸術家だからエキセントリックだとか浮き世離れしている、とかはないヒロインに私には思えて、好感が持てました。
 キャラのせいもあるかもしれないけれど、ドレスになっても星空ちゃんが変に膝折りしていなくて(靴はペタンコで、作業着姿のときのブーツの方がヒールがあったと思いますが)、結果ふたりの身長はほぼ揃っているんだけれど、それで対等なカップル、という感じが出ているのもいいなと思いました。ドン・ジュアンはそんなことを気にする男じゃないと思いますしね。
 ただ、お衣装はなー…(衣装/有村淳)作業着としてなめし革のエプロンみたいなのを身につけていてもいいしズボンでもいいんだけれど、ブラウスはスモーキーなピンクとか、別に白でも、なんかとにかくもうちょっと可愛い、綺麗な服を着ていてもよくないですか? ドレスになっても謎のグリーンで…もっと明るい黄色でもオレンジでもよくない?
 あと、「歌劇」かなんかで演出としてもっとプラトニック感を出したい、みたいなことが語られていたかもしれませんが(歌詞にも残っているし、セックスしてないワケないので意味あんの?って気もしますが)、それで寝室での翌朝みたいな場面が抽象的なものになるのはいいんだけれど、そこでマリアがドレスを脱いだら黒いレースの縁飾りがある白の変なワンピース姿になってるのは、なんでなの!? 飾りはあってもいいけど、もっとロングの白のドレスとかじゃダメ? 別にネグリジェには見えない白ドレスなんて売るほど持ってるでしょ劇団は!? なんなのあのワンピ、あのころのセビリアにそんな服はないよ、てかそこだけ新宿のガールズバーみたいだったじゃん! やめてくれ!! 
 さらに言うとラストのどう見ても喪服な黒ドレス…いくら決闘で誰かしら死人は出るだろうと予想されるにしても、準備よすぎでは? てかそう思われちゃうでしょ? 教会へ祈りに行ったあとで、祈りのための厳かな服装なんだ…ってことなのかもしれないけど、なんの説明もないでしょ? ここでまたグリーンのドレスじゃつまらないのはわかる、でもなんかもっと他にあってもよくない…!?
 ラスト、ドン・ジュアンを掻き抱く姿はピエタっぽくて、とてもよかったです。
 このあとマリアは、ドン・ジュアンを想って愛の像を彫って、そのあとはもう彫刻はやめてひっそり生きていくのかもしれない…し、また別の恋をするのかもしれません。それはわからない。ラファエルも、エルヴィラも、ドン・カルロも、イザベル(美穂圭子)も、また別の恋人と出会っていくのかもしれません。愛はひとつじゃないのです…
 あとは一幕ラストの、みんなして総踊りになる場面のダンスがキレッキレでとても良くて、本公演のショーがとても楽しみになりました。学年は若いけれど、キャリアは十分踏まされてきたトップ娘役さんだと思います。がんばれー!

 さて、初演の2番手格は咲ちゃんのドン・カルロだったと思うし、がおりは当時もそれ以前も以後も別格スター扱いだったとと思いますが、今回の2番手格はしっかり騎士団長役のあかちゃんでした。あかちゃんも別格は別格なんだけれど、スカステの番組なんか見ていても、他の組と揃えて3番手や4番手格まで並べるときに、あかちゃんとはなこが今のところ置かれていますもんね。でもホントはだいやらいとれいん…って流れなんだろうけどな、など思ってしまっているわけですよ私は…(てからいとなんでしょ? 休演が長かったのが痛いけれど、今や少しも早くバウ主演をください…!!)
 でも騎士団長/亡霊って本当にキーパーソンだし、あかちゃんはひとこの同期でもあるわけで納得の起用だし、もうひとりのドン・ジュアンのようでもあって存在感ありまくりだし、ホントいい仕事をしていたと思いました。なんだろう、亡霊とか死神というより、まっとうな、あるいは理想の男の姿、本来ドン・ジュアンが目指すべき人間像…みたいなものだったのかもしれません。仕事して、周りの人望があって、家族を持ち、愛して…みたいな、ある意味、普通の、まっとうな男、人間…
 登場のカッコいいことよ! 御園座にセリってあるんだ…!みたいな新鮮な驚きもありましたね。
 かつての宙組のテルキタみたいでもあるかな…ま、いいか悪いかは別にして。カテコでにこやかなのもラブリーでした(笑)。

 セカンドヒロインはエルヴィラでしょうが、これまた初演のくらっちとだいぶ印象が違う気がしました。くらっちの方がエキセントリックで、狂信的一歩手前の意外と情熱的な女性、という感じだった気がします。あわちゃんはあくまで世間知らずでおぼこくて残念ながらそんなに頭がいいわけではない、まあ貴族の娘としては平均的な女性…という役作りだったような気がします。だからアンダルシアの美女(紫門ゆりや。この役といえば生腹ですが、細いというより薄い! 内臓はどこに納まっているの!?)に対抗して脱いでも中途半端だし(脱がされすぎ、という感想を見て、スカートも取られるくらいまでいくと思っていたのにアララ残念…とか感じた自分をちょっと反省しました)、その後も酔っぱらって調子に乗った男とキスしようとして、やっぱりできなくて顔を背ける…という仕草がとても印象に残りました。
 そもそもの登場シーンも、事実としては単にふたりが一夜をともにしただけであって、そこからの結婚云々はすべて彼女の常識による彼女の思い込みなんだな、というのがわかりやすくなっていてよかったと思います。その後の彼女の行動も特別悪辣ではないと思うし、いい塩梅でした。ただ観客の同情を誘えるかというと、どうかな…あと第一声は「ありがとうございます、ドン・カルロ」にしてほしい。彼の名前をさっさと提示すべきです。
 結局のところ、女性の生き方として誰かの娘か妻か母親か、未亡人か修道女かさもなければ娼婦、という選択肢しかないこの社会がクソなのであって、エルヴィラには罪はありません。もちろん誘惑されても乗らなかった修道院で勉学している娘、ってのもいるはいるんだろうけれどさ…マリアの職人/芸術家ってのはだいぶイレギュラーなんだろうし、それこそ大きな工房の親方かなんかをやっている父親でもいないと成立していないのかもしれませんよね。そしてタベルナやタブラオにたむろしてドン・ジュアンに群がっている女たちは、あれで誰かの娘か妻か母親であり、そして兼娼婦なのでしょう…
 このあとエルヴィラが修道院に戻るんだとして、彼女が結局この顛末を見て神様についてどう考えるようになったのか謎ですが、修道院が受け入れられたのなら彼女の醜聞は忘れられたかごく小さなことだと判断されたということだろうから、スガナレル(紅羽真希)がドン・ルイに言う理屈はちょっとおかしくない…?とは思いました。
 あわちゃんは歌を心配されていたと思うのだけれど、大健闘していて問題ないと思いましたし、かわいそうになりすぎたり嫌な女になりすぎていない、いい塩梅で作品の中にいるな、と感じました。下級生トップ娘役の体制の中で、娘役さんとしてはここからが勝負でもありおもしろいところなんだから、いっぱいいいお役をやって活躍していただきたいと思っています。わりと好きなんだ、応援しています!

 で、3番手格がらいとドン・カルロなんですかね。幕開きの第一声、そして歌、緊張したでしょうが素敵でしたよ! 2幕とっぱしの後ろ姿もシビれました。長身でスタイルがいい、顔がいい、素晴らしい武器ですよ! すみません好きなんです、甘いです…
 でもマチネは、心配しながら観ていたからかもしれませんが、演技があまり良くないのでは…と感じてしまいました。というか私はドン・カルロみたいなキャラクターが(あるいは彼とドン・ジュアンみたいなキャラクターとの関係性が)好きなので、「私が観たいドン・カルロ」と微妙に違って感じられた、という私の側の問題もあったでしょう。歌は低音で歌えていてよかったんだけれど、芝居の声はもっと明るい地声でもいいのでは、無理して低い声でしかつめらしくしゃべりすぎているのでは…とその似合わなさにちょっとヒヤヒヤしてしまったのです。その方向性の役作りもわかるけれど、ちょっと足りていない気がしたので。だったら、幼馴染みのちょっと歳下の男の子で、ドン・ジュアンがグレ出す前はふたりしてそれこそ子犬のようにじゃれて転がり回って遊んでいたんだろうような、真面目で純粋な男の子で、ドン・ジュアンが何故変わってしまったのか全然わからなくてつらくて、酒や女や博打やに遊び回っていてもドン・ジュアンが全然楽しそうじゃないこともつらくて、とにかく心配でついて回っては小言を言う、でっかい子犬のような青年…みたいな方向性の方が、無理なく自然に作品に中にいられたのでは、と考えてしまったんですよね。
 でも、ソワレはなんか、すとんと納得できました。一回一回、らいとが何かをつかんで明らかに前進し上達している、というのもあるけれど、同い歳の幼馴染みに見えないこともないかもしれない、とも感じました。
 てかあの慇懃無礼に見えるお辞儀、いいなー! ドン・ルイがあまりいい父親ではなかったのなら、ドン・カルロがそれを知っているのなら、あの慇懃無礼さは正解なんですよね。
 あとは、イザベル相手だとしても一人称「私」な男には見えなかったことがネックかな…てかココ別に「僕」でよくない? ダメ?? 私が聞きたいだけですかそうですか…
 ドン・ジュアンが騎士団長を見て話しちゃうところの彼には、「誰と話してるんだ?」「誰もいないぞ、何もないぞ、どうした?」みたいな台詞をもっと足してほしかったかな。アドリブで入れちゃってもいいのよらいと…決闘の最中では、みんなが騎士団長の呪い?で固まってストップモーションになるのに、ドン・カルロは動けている一瞬がありましたよね。あれも、彼がドン・ジュアンを愛しているからこその描写だと思うんだけどなー…プログラムのあらすじの、募らせる「他言する事の出来ぬ淡い想い」ってそういうことでしょう?
 歌詞としてはエルヴィラに対して同情のちラブ、みたいなことが歌われているような気もしますが、自覚があろうとなかろうとドン・カルロが愛しているのはドン・ジュアンなんですよ。むしろエルヴィラのように、服を脱いで彼に迫って愛を乞いたかったことでしょう。でもできない、同性だから、友達だから…床ドンがなくなっても、そしてひとこはだいもんよりさらにドン・カルロにあんま興味なさそうだったけれど、それでもここにあるのはそういう関係性だと思うなあ…二幕冒頭のドン・カルロの目が死んでるのがいいんですよね。マリアの登場は彼にとっては全然嬉しくなかったんですよ、たとえそれでドン・ジュアンが嬉しそうでも、彼のために寿げない。そういう「嫉妬」がドン・カルロにもあったんです。一方的な「友人」でも、ただ彼のそばにいたかった…その気持ちはイザベルが言うように、ドン・ジュアンの周りに侍る女たちと同じなのでした。ドン・ジュアンがマリアと愛し合い、しばらくはマリアだけがいればいい、「愛だけあれば 他に何もいらない」と歌うような状態が続いたとしても、やがてその愛が深まり広がれば、ドン・ジュアンは友人ドン・カルロを求めたし受け入れたはずなのです。ただ、その時間は彼には与えられなかった…
 ドン・カルロがどこぞの貴族の次男坊とかなら、ドン・ルイの養子になって家や財産を継ぐといいと思います。それかエルヴィラが養女になって、その婿に入るのか…うーむ、なんでもいいけど幸せになってねドン・カルロ…!

 ひとこがかつて演じたラファエルはれいんくん。でもこれがまた、だいもんドン・ジュアンも濃かったけどひとこラファエルも濃かったんだなー、と改めて思い知らされる、なんというか…ライトさでした。それこそ地声や持ち味が明るいタイプだからなー…ならもっとやんちゃ小僧で作ってもよかったかもしれませんけどね。無理にドス効かせるとか、ホント無理なものだからさ…モラハラ男じゃなくなっても、いいヤツなんだけどちょっとめんどくさい男、みたいな表現はできるはずですしね。でも、れいんくんも健闘しているとは思いました。別箱でこれくらいの大きめなお役、絶対に糧になりますよ…!
 マリアとの関係は、ラファエルの強引さというか思い込みというかな部分は確かに大きいのだけれど、マリアも明確には否定しなかったのが悪いんだから、確かにちゃんと婚約者なんですよ、自他ともに認めているんですよ。そりゃ戦闘で生死不明、というのは誰にとっても残酷だったと思うけれど、マリアがラファエルが帰らないことに全然傷ついていない様子なのが、もう、ね…イヤわかるし、別にラッキー!これでドン・ジュアンと被らないじゃん!とか考えてるわけではない、ってのもわかる。でも深く考えたくなかったんだよね、言いたくなかった、言わないですませたかった…ヒロインの発言としてはいかがかと思われますが、リアルだし真実だろうし、私はいいなと思いました。そらもう男たちは決闘で決着つけるしかなくなりますよね、まあなんの決着?って話なんですけれどね…
 ドン・カルロは「ドン・ジュアン、きみの方が強い」とか歌いますけれど、貴族のボンボンでそれなりに嗜みはあるだろうけれど、酔いどれへっぽこ男に職業軍人が負けるものなのか…とかちょっと思ったんですよね。でもラファエルたちって民兵というか、民間人だけど徴兵制があって簡単な訓練だけで前線に送られるような、ほとんど一般人なのかもしれないな、とも考え直しました。それでもカッとなれば剣を抜いてドン・ジュアンにつっかかっていくラファエル、ドン・ジュアンを庇って剣を抜き応戦するドン・カルロ…萌えしかないシチュエーションでした…! 今回足されたんでしたっけね?
 それでも、ラファエルだって心移りした恋人の気持ちは取り戻せない、なんてことはわかっていたと思うんですよね。だから決闘なんてなんの解決策にもなっていないんだけど、でもやっちゃうのが男なんですよね、馬鹿ですよね…決闘の最中、マリアが割って入ろうとしたりつらそうに顔を背けたりドン・ジュアンを案じて泣いているのを見て、ラファエルの「恋人を奪われた怒り」みたいなものはしおしおと小さくなっていくのがわかります。なんならマリアのために決闘なんて途中ででやめてあげたいくらいなんだけれど、でもそういうわけにもいかないから続けるし、それとは別に死にたくないからがんばるわけで…その袋小路感がたまりません。
 でもこのラファエルの必死さ、真剣さが、ドン・ジュアンに自分とは違うな、とも思わせたのでしょう。本当の意味で愛を知っている人間の戦い方は、あまりにも刹那的な自分とは違う…とは感じられたのではないかしらん。だから、その域に自分がいくには、死んでみせるしかなかったのではないでしょうか…
 このときの怪我がもとでその後脚が少し悪くなったりしても、ドン・ルイが何かしらの経済的援助をしてくれる、とかはあるんじゃないでしょうかね。そして彼もまた次の恋に出会うこともあるでしょう。幸せになってねラファエル…

 初演から続投のじゅんこさんと圭子姐さんは頼もしい。特に圭子さんは外部のオサのイザベルに近くなったというか、これまた塩梅良く作品の中にいるなと思いました。場を攫いすぎていないところがいいし、ドン・ジュアンの最初期の女としていい感じの存在感を醸し出していて上手いな、と唸らされました。主演と学年差が開いたからかな…ホントは凛乃姐さんとかがここをやっても、できなかないんでしょうけれどね。
 ところでフェルナンド(紫門ゆりや。『アルカンシェル』に続いて二役ですが、ホントすごいよ…!)は伍長だしラファエルの上官なんじゃないの? なんか口調おかしくなかった…? パロマ(凛乃しづか)の妊娠って以前はなかったんでしたっけ? てかタマラの詩希すみれちゃん、よかったなあぁ…! てかファニータ(咲乃深音)も、歌えるってのもあるけどだいぶ目立つ役になっていた気がしましたが、まさか次でやめないよねみょんちゃん…? あとはカルラの湖春ひめ花ちゃんが垢抜けてきて娘役として綺麗になってきて良きでした。入ってきたときは顔がデカすぎて童顔すぎてこれは難しいのでは…などと心配していましたすみません。シュッとしてきて、こうなるとこの特徴的なお顔は目立ってイイのですよ…! 
 あとはやはり美空のまるくんがいつでもどこでも上手いですね。最下に近いところにいた、おそらく希蘭るねくんかな?が華やかな美貌で目を惹きました。

 行きの新幹線では持参したお弁当をいただき、大休憩はちょっと離れたカフェで涼んで、終演後は御園座の下の「おか富士」さんでテイクアウト予約した鰻丼を買って帰りました。ちょうど土用丑の日だったんですよね。曇天で暑さがそこまでではなく、楽しい遠征となりました。スカステで映像で見るのも楽しみです、早く放送されてー!
 お披露目本公演のポスターもいい感じでしたし、この先も楽しみです!!








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『トスカ』

2024年07月22日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場オペラパレス、2024年7月19日19時。

 原作/ヴィクトリアン・サルドゥ、台本/ジュゼッペ・ジャコーザ、ルイージ・イッリカ、作曲/ジャコモ・プッチーニ。指揮/マウリツィオ・ベニーニ、演出/アントネッロ・マダウ=ディアツ、美術/川口直次、衣裳/ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティ。
 トスカ/ジョイス・エル=コーリー、カヴァラドッシ/テオトール・イリンカイ、スカルピア/青山貴、アンジェロッティ/妻屋秀和。

 過去に観たものではこちらこちらなど。
 今回も安定のB席、3階最前列センターブロック上手寄りで、十分に堪能しました。
 1幕はやや眠かったのですが、2幕は俄然おもしろくて、やはりゲスのスカルピアが出てきてこそなのかもしれない…など思いました。あとは、今年いっぱい毎月月末に刊行される『新装版 動物のお医者さん』を楽しく買い集めているので、新装版ではまだその収録巻が出ていないのですがトスカ回のことをついつい思い出してしまい、おお空気椅子、ナイフがない、蝋燭が熱い…などニヤニヤして観てしまった、というのもあります。イヤすみません…
 しかしトスカがあまりに嫉妬深い女とされていることは解せないなー。オペラはミュージカルと違って現代解釈で改変するなどはしづらいから仕方ないんでしょうけれど、当時フツーだったのかもしれないこうしたミソジニー感は今となっては気に障りますよね…まあスカルピアのゲスっぷりもたいがいなんだけれどさ。
 歌手はみなさん押し出しも良く声はもちろん素晴らしく、楽しく観ました。「歌に生き、愛に生き」もとてもとてもよかったなあぁ、ピアニッシモまで綺麗に響いて…
 スカルピアはキャスト変更でしたが、まったく問題ありませんでした。満足!










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『デカローグ』プログラムD、E

2024年07月12日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場小劇場、2024年7月5日19時(D)、11日19時(E)。

 プログラムA、Bの感想はこちら、Cはこちら
 7は、両親と同居している22歳のマイカ(吉田美月喜)が、6歳の妹のアニャ(この日は三井絢月)を連れてカナダに逃げたいと考えていて…という「ある告白に関する物語」。8は女性大学教授ソフィア(高田聖子)が著書の英訳者である女性大学教員エルジュビェタ(岡本玲)と出会って…という「ある過去に関する物語」。
 9は40歳の外科医ロマン(伊達暁)が性的不能になったと診断されて…という「ある孤独に関する物語」。10はパンクロックグループのリーダー・アルトゥル(竪山隼太)が、コンサート会場にやってきた兄イェジ(石母田志朗)から父の死を知らされて…という「ある希望に関する物語」。

 ラストは9→10の順に観てゴール、のつもりでしたが、犬(ロキス/ローザ。ジャーマンシェパードに見えました。プログラムによればアンダースタディのセシルはドーベルマンに見えます)の出演があって夜公演は時間制限があるとのことで(子役と同等なのでしょうか?)、10→9の上演順となっていました。10の方がラスト感があったらヤダなー、など考えつつ観ましたが、そんなこともなくて、まあよかったです。というか、わりと「で? だから??」となりがちな地味で渋くどちらかと言うと暗いエピソードも多い中で、プログラムEの2本はわりと派手だったと思います。思えばそもそも1は子供の死から始まるという重さだったわけですが、だんだん明るくなっていく…ということでもなかったとも思うので、この落差はなんなんだろう、とも感じました。演出のふたりの差も私にはそれほど明確には感じられなかったので…
 結局ほとんどの人が10作ちゃんと全部観たのかなあ? でないとワケわかりませんわね、でもじゃあ通して観たから何かわかったかと言われると…??
 殺すなかれ、盗むなかれ…といった十戒は、まあ知らないわけではないし、特に難しいことを言っているものでもないと思うけれど、やはり欧米人のようにはピンと来るものでもなく、まあその戒めそのものよりもそれを犯してしまう人間の悲喜劇を描いた連作だったのでしょうが、そして深読みすればサブキャラが重なっていたり似たモチーフが何度も出てきたりそもそもひとつの団地の話だったりするんだけれど、でもその連作性にそれほどの意味があったかも私にはよくわかりませんでした。全編に出てくる亀田佳明、というのも贅沢すぎたし、それでいてなんの意味があったんだと言われると…? ずーっとしゃべらないでいたのに8でだけ急にわーっと台詞があるんだけれど(「男」としての台詞ではなかったとも思うけれど)、その意味もやや不明でしたしね…
 昼夜一日がかりの公演にするのは厳しいでしょうが、せめて4、3、3に分けてやる、とかなら、まだつながりが感じられたかもしれません。でもどうかな、そういう問題でもないのかな…
 好みとしては圧倒的に10かな。単純におもしろかったです。8でも出てきた切手コレクター(大滝寛)が兄弟の父親だったのかな? 8ではそんな偏屈な感じもしなかったので、その界隈の別人なのかな? ともあれ趣味の切手収集に明け暮れていて家庭を顧みず家族には貧乏をさせたらしい父親が死に、だいぶ以前から疎遠だったので兄弟も嘆き悲しむようなこともなく、残された切手に莫大な価値があるとなって舞い上がるものの…といったお話なのですが、株式みたいな財産と違ってこういうものは換金が難しく、素人には扱いかねるものなのです。全然タイプの違う兄弟が、それでもなんとなく息が合っている様子や、濡れ手で粟の大金って人を狂わせるものだと思うのだけれど、彼らにとっては所詮まだただの小さな切手で現実感がないのか、そこまで人が変わらずにただわたわたしているのが微笑ましくて、結果的にはコレクションは暴力的に奪われてしまうんだけれど、かえってそれでよかったような気もするし…という、不思議な味わいがあるエピソードで、観ていて楽しかったのです。ま、リアルわんこを出す意味は特に感じませんでしたが…(いい子でした。ちゃんと演技をしていました。ただカテコでハンドラーさんが出てきたら明らかに態度が違っていたので、それもおもしろかったです)
 あとは、男女のゴタゴタしたエピソードはやはりおもしろく観ました。総じて男性が情けなかった気もしますけどね…
 始まったときには、というかチケットを取ったときには先すぎる…!など思っていましたが、意外にもあっという間で、まあまあ忘れないうちに完走できてよかったです。おもしろい企画ではありました。





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『デカローグ』プログラムC

2024年05月30日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場小劇場、2024年5月24日19時。

 プログラムA、Bの感想はこちら
 5は、街中で見かけたタクシー運転手ヴァルデマル(寺十吾)を殺した20歳の青年ヤツェク(福崎那由他)と、彼の弁護をすることになった新人弁護士ピョトル(渋谷謙人)の「ある殺人に関する物語」。6は、郵便局に勤める19歳のトメク(田中亨)と、向かいに住む30代の魅力的な女性マグダ(仙名彩世)の「ある愛に関する物語」。
 
 十戒の物語だけれど、「十戒を守るべき道徳ではなく、これを破ってしまう人間とその葛藤を描く物語」とのことで、「人間を不完全な存在として認め」「断罪や罰や哀れみすらなく、ただひたすらに人間の弱さや間違いを見つめるまなざしの奥には、人間という存在への根源的な肯定と深い愛が流れている」とのことです。それはそうかな、とは思うのですが、例によって市井の人々のささやかな日常を切り取り、そのまま…みたいな作風でもあるので、受け取る方にもなかなか胆力が要るな、とも感じたりするのでした。
 この二本は映画にもなっているそうなので、シリーズの肝ということなのでしょうか。劇場入り口に喫煙や暴力、自傷の描写がある旨のアナウンスも出ていましたが、確かにそういう意味では濃く、重い二本でした。でも繊細にも丁寧にも描かれているのだけれど…似たような生きづらさを抱えている人やこうしたことにシンパシーを感じてしまう人、引っ張られがちな人は観ていてかなりつらいのではなかろうか、と余計な心配かもしれませんが、私はそんなことにけっこうドキドキしてしまいました。私は今けっこう元気で健康なので、というかだからこそ引っ張られすぎないようにあえて客観視して距離を置こう、所詮他人事だもの、と思わないと目を背けたくなるくらい、なんというかすごくナチュラルで、「人間だもの」という感じでけっこう怖い事態というかお話が進む二本だったので…こういう感想が正しいのかどうか含めて、全然自信がないんですけれど。おもしろくなかったわけではないし、でもおもしろかったと言って片付けてしまっていいのだろうか、とかね…考えさせられました。
 私は学校の勉強がまあまあできた子供だったんですけれど、周りから医者になれば?とか弁護士になれば?とかは言われたことがなかった気がします。それで将来の選択肢に入らず、ただ本や漫画が好きだったから出版業界に勤めた…というようなところがあるのですが、うっかり医者とか弁護士とかにならなくて本当によかったよ、と最近よく思ったりします。なれたかは別にして、なっていたら、きっと世界の理不尽さとか人間の愚かさとかに、私は耐えられなかったと思う…理想を物語に託して創作で糊塗するくらいが私にはお似合いです。
 ピョトルの絶望は、わかります。理想に燃えた新人弁護士で、世の中を正したい明るくしたいと思っていて、死刑制度には反対で、しかし弁護を担当した青年には死刑の判決が下されてしまう。彼は殺人を犯していて、おそらくそれは本人も認めているんだろうし、量刑としては重い気もするけれどこの当時のポーランドの法律では妥当なものだったんでしょう。死刑とは国家による殺人なのでそれは到底認められない、というヤツェクの考えはわかるし、私も死刑には反対です。汝、殺すなかれ…けれど、だからといってヤツェクがヴァルデマルを殺害した事実は変わらないのです。その罪は、贖われなければならない。
 しかも耐えがたいのは死刑執行に対するヤツェクの動揺です。ヤツェクは、もしかしたらどこか足りないか病んでいるのかもしれないし、そういう意味では確かに情状酌量されなければならない身だったのかもしれないけれど、要するに「人が死ぬところを見てみたい」みたいな動機で人を殺した、どうしようもない若者でした。しかも衝動的ではない、ちゃんと準備してシミュレーションまでした。シミュレーションする想像力があるのに、その後どうなるか、自分がどう罰せられるかは想像できないのか? 殺したら殺されるのがあたりまえではないのか? では何故粛々と自分の死を受け入れないのか? 怯えて死にたくないと叫ぶくらいなら何故殺すのを止めなかったのか? ヴァルデマルも死にたくなかったはずだど何故考えないのか? 自分で考え自分で決めて自分で行動して自分で責任を取る、それが人として当然のことで、だから死刑も潔く受け入れるべきなのに、そうしない見苦しさに私はほとんど耐えられませんでした。同情なんかできない、哀れみも持てない、冷たい人間なのです。でもヤツェクは目を反らせることができないし、背負い込んで、落ち込んで、終わる…しんどい、しんどい話です…
 6も若者の話であり、トメクは友達の母親と同居し、家と職場を往復するだけのような、友達も恋人もいない味気ない暮らしをしている青年です。外国語を学ぶ才能があるのに、特に活かせているわけではない、というのがミソかもしれません。そして同じ団地の、向かいの上階に住むマグダの部屋を覗いている。
 マグダは売れないアーティストで、おそらくそれとは別の仕事をしていて、恋人というか部屋に連れてきてセックスをする男が3人ほどいるけれど、特に満足もしていないし幸せでもない、そんな感じの女性です。美しいけれど、もう若くはない、くらい。
 トメクが自分を見ていたことを知って、もちろん気味悪がりはするんだけれどおもしろく感じちゃうようなところもあって、だからトメクが現れなくなると今度はこっちから関わろうとするんだけれど、いろいろあって憑き物が落ちちゃったようなトメクはもうマグダへの関心を失っていて、それでおしまい、というお話です。
 トメクも別に幸せになったわけではないけれと、何かを乗り越え、何かが進んだのならいいな、とは思います。少なくとも命あっての物種だ、大事にならずによかったです。
 一方マグダは、心配かな…ストーカーチックであれ、誰かに関心を持たれていたことが嬉しい、というような気持ちはわからなくはないし、そのとき団地のセットの後ろにある暗いだけの紗幕みたいなのがぱあっと明るい青になって、まるで晴れ晴れとした青空が広がったように見えたのは(美術/針生康、映像/栗山聡之、照明/松本大介)、それは確かにそこで感じられた「愛」を表現していたのかもしれないけれど…結局それはマグダを救わず、どこにも連れていなかった、ということでしょう。まあ彼女は立派な成人なので、未成年の一過性の初恋みたいなものに支えられたりせず、独力でなんとかしなさいよ、ということなのかもしれませんが…しんどい、しんどいよ……
 しかしゆきちゃんはとても素敵でした。フェアリーからしたらとんでもない、という台詞を言わされていましたが、特に露悪的でも扇情的でもなく、ナチュラルでよかったです。こういう舞台にも出るんだなあ、と思うと、これからもますます楽しみです。
 今回も、一幕と二幕(というのか?)で全然別のキャラをやっている役者さんたちが素晴らしかったです。そしてやはりこの亀田佳明は無駄遣いではないのだろうか…10作すべてに出ていて、しかし台詞がない、という役ですが…うぅーむ、やはり10まで観ないと語れないのかもしれません。









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