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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『宝塚110年の恋のうた/Razzle Dazzle』

2025年04月23日 | 観劇記/タイトルた行
 宝塚大劇場、2025年1月5日11時、23日18時(新公)。
 東京宝塚劇場、4月16時18時。

 1950年代のロサンゼルス。ハリウッドにほど近いサンセット・ストリップ沿いのナイトクラブ「ラズルダズル」では、今夜も享楽的なセレブが乱痴気騒ぎを繰り広げている。彼らを出迎えるのはこの店の新たなオーナー、レイモンド・ブルー(芹香斗亜)。幼いころに資産家の両親を亡くし、莫大な財産を相続した彼は「ハリウッド一裕福な孤児」の異名を持つが、その全財産を手にするには条件があった。それは、彼の後見人である縁戚の実業家リチャード・ウィンターズ(松風輝)のひとり娘アビゲイル(天彩峰里)と結婚し、いずれは彼の後継者となること。だがレイモンドは物質主義的なこのフィアンセを毛嫌いし、彼女との結婚を断固拒否。自ら商売を始め活路を見出そうと、行きつけだったこのクラブを買い取ったのだ。だが映画のような「真実の愛」を夢見るレイモンドに、アビーは「財産のない彼を愛する女性などこの世にひとりもいない」と豪語する。口論はヒートアップして…
 作・演出/田渕大輔、作曲・編曲/青木朝子、多田里紗、作曲・編曲・稽古ピアノ/植田浩德。

 初日雑感はこちら
 その後は結局、大劇場新公と東京公演一回しか観なかったので、印象はさほど変わっていません。
 日本物のショー(宝塚歌劇百十周年記念奉舞、作・演出/大野拓史)は、例えば「誘われれば観る」程度の特にファンでもなんでもない観客が観たときに、この作品の構造や構成の意味がわかるのかな…とかが私には案じられたのですが、まあ宝塚歌劇なんてファンのファンによるファンのためのもの、みたいな部分が大きいのだろうし、一口に日本物と言ってもいろんな時代のいろんな様式美があってバラエティがあって楽しいな、何より美しくていいな…程度のことは感じてもらえるだろうと思うので、これはこれでいい企画だったのかな、と思うようになりました。
 ジャズ・スラップスティックの方も、レイモンドの遺産(の信託基金?)の受け取り条件ってアビーとの賭けに勝ったからといって法的に変えられるものなのかなとか、所詮はリチャードの胸先三寸ってことなのかなとか、細かいところが私はやっぱり引っかかったままだったのですが、まあ田渕先生のわりには(オイ)ウェルメイドなラブコメディに仕上がっていていいのでは、という印象でまとまりました。
 しかしほぼ裏主役と言っていいもえこシャーリーン(瑠風輝)が素晴らしかったですよね…! 撮影場面はショーアップ場面でもありバックステージものとして嫌いな観客いないでしょ場面でもあり、作品にとって鍵となる重要場面でしたが、その中心に、女王どころか王として燦然と輝き君臨していてとても良きでした。これはずんちゃんトニー(桜木みなと)がどうこうではなくてね。トニーがシャーリーンほどこの仕事やこの映画を愛していない、ということではなくて、ただ愛し方やその表し方が違うのであって、彼はもっと飄々と生きている人なのでしょう、ということです。
 ところでとっぱしのキキちゃん銀橋登場場面といいフィナーレの大階段板付きといい、そこに歓声が上がるようになったのはいつからなんでしょうか…マイ初日にはなかったような。正直、鼻白みました。コンサートなどの特殊なケースを除き、宝塚歌劇では出演者への掛け声は禁止なのでは? 思わず漏れるジワとかじゃないじゃん、やっていいってことにしたからやってるって感じじゃん…そりゃ退団公演だしいろいろあったのもわかってるので、いろいろ肩入れしたくなるのも過剰に盛り上がるのもわかりますが…でもこれじゃ宙組は観ない、とか宝塚歌劇はもう観ない、と言う一部ファンがいるのもわかるよな、と私は感じてしまいました。何も解決されていないのに、というか失われた命は決して戻らないので解決することなど決してないのだけれど、ちょこちょこ発表されている改革案が本当に改善につながっているのか謎だし、そもそもこれまでの経緯が本当に駄目すぎてここから何をしてもとても払拭できるものではないと思っているところにさらに公演がこのありさまでは…と、私は暗澹たる気持ちになってしまったのでした。ずんちゃんトップ体制になれば刷新できる、というものでもないと思うしなあ…それが気になる人は、やはり自ら少しずつ、退いていくしかない、のかな…など、思ったのでした。
 あとホント組子の数が少なくて不安…
 あとホント組んだ相手の目を見ないのが不安…手を取り合ってもその手元、抱き合ってもその肩先とかしか見ていない。あとは中空か客席に向かって観音像のような笑みを浮かべているだけで、相手と目が合ってにっこり笑みが弾けるなんてことは皆無。悲しくなりましたね…誰の目も見られないようになってしまっているのかもしれないけれど、そんな彼女のことは心配だけれど、でもじゃあ私たちは何を見て幸せになればいいのかしらん、と虚しくなってしまうのでした。
 すみません、ごく個人的な所感です。大千秋楽まで、どうぞご安全に。その後の芸能活動もあるなら、そこではのびのびがんばっていただければ、とは思っています。ファンもみんな幸せでありますよう、祈っています。それはきいちゃんのファンも、あるいはご家族も、もう二度と何にも幸せを感じられなくなる、ということはないはずだと思うので…みんなに、幸せでいてください、と祈らないではいられません。


 大劇場新公の感想を以下、簡単に。
 担当は菅谷元先生でした。新公では何度か見かけるお名前なので、そろそろバウデビューも近いのかな? 楽しみですね。大きな演出変更はありませんでしたが、フィナーレがないのでラスト場面には全員いて、みんなで盛り上がれたのかな。それはよかったと思いましたし、でも飛んだ新公の回数を思うと、この先のこの組がなお心配になりました。
 レイモンドはなるくん、飛んだ新公主演がちゃんとまわってきてよかったです。ただのっけから、とにかく小さいなーという印象で…あと口紅の色が悪くて、なんか死人か幽霊みたいじゃないか?と思っちゃいました。それなりに上手いし、キキちゃんとは違うレイモンド像を作り上げていて、それは好感が持てたのですが…やはりこの組でこのタッパだとこの先未来があるのかな?と私はつい案じてしまったのでした。
 ドロシーは花恋こまちちゃん、こちらも初ヒロイン。ブッキーのウェンディのところをやっていた梨恋あやめちゃんと恋恋コンビとして売り出し中(組ファン的には)ですが、そつなくこなせている印象で、よかったです。こういう舞台度胸は貴重でしょう。容貌はあやめちゃんの方が美女タイプかな…私は正直どちらにもあまりピピピと来ませんでした、すみません。
 トニーは奈央麗斗くん、これは華やかで甘くインパクトがあって、キタコレ感がありました! ナオレートのこの華は組の良き戦力になっていくのでは? 歌もしっかりしていましたね。
 アビーは風羽咲季ちゃん、これも上手かった! 今まで役付きがあまり良くなかった印象ですが、娘役はもう全然いないのでそんなことも言ってられなくなったんでしょう、そして起用すればバッチリ上手いんだコレが! 学年いくつだっけ、新公ヒロインのチャンスはまだあるのか? 真ん中タイプじゃないかもしれませんが、もったいないので起用していきましょう! 実力派も大事にしていかないとヤバいってホント…
 シャーリーンはりせくん、こちらもでっかくて圧があってとても良きでした。
 あとはりずちゃんエヴァのところをやったちっちが良くて、こういう芝居も上手いんだなーと惚れ直しました。というかちっちは華が出てきて全編よく目立っていたと思う…! 可愛いしちっさいのも貴重よ、もっと使ってー!!
 おさよちゃんのところをやったブッキーもさすがでした。
 ハワードのあんくんの上手さも鉄板。あと聖くんもいつも上手いよね。エキストラ3カップルは嵐之くんと楓姫るるちゃんばかり観ていました。
 あとは…やはり組子の数が書くなくて心配、という印象でしたかね。
 主役のパンチが弱いのと、こういう大人のお伽話的ロマンチック・コメディみたいなのの洒脱さは、下級生がやるにはやはりハードルが高いんだな、というのが主な感想でした。もちろん生徒には良き勉強、良き場数になっていたと思います。まずは東西ともやれてよかったよねホント…


 しかしここにおはねが来ても焼け石になんとやらの層の薄さな気がします…私は次期はブッキーで盤石とは思えなくて、他組で仕上がっていてもっとカードを揃えている娘役の組替えもまだあるのでは、と思っていますが、どうなんでしょうねえぇ…ずんさくは合うと思っているので、それは純粋に楽しみなのですが。
 プリレジェのことは何ひとつ知りませんが、ソレジャナイ感は持ってしまっているので…未来に期待したく思っています。
 とりあえず、繰り返しますが大千秋楽までどうぞご安全に、みんなが幸せな日々を過ごせますようお祈りしています。








 
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朗読劇『忠臣蔵』

2025年03月23日 | 観劇記/タイトルた行
 よみうり大手町ホール、2025年3月22日12時。

 オリジナル脚本/柴田侑宏、上演台本・演出/荻田浩一、音楽/吉田優子、編曲/長野ユースケ、美術/角田知穂。1992年に旧宝塚大劇場の最終公演として雪組で上演された作品を、33年ぶりに朗読劇として当時のメンバープラスアルファで再演。全1幕。

 私の雪組はトンちゃんこと紫ともさんの退団公演からなので、かりんちょさん、旧大劇場、『忠臣蔵』に間に合っていません。スカステで以前見たことはあるかと思いますが、あまり記憶なし。主題歌と有名なラストの台詞くらいしか知りませんが、今歌舞伎座で通しで上演中の『仮名手本忠臣蔵』を観ていることもあり(まだ夜の部しか観ていなくて、来週昼の部を観るのですが…)、お友達に誘われたのを幸いに出かけてきました。
 開演前ギリギリの会場着となってしまい、プログラムを終演後に買うことになったため、誰が出ているんだっけ…状態で観ましたが、はやせ翔馬以外は全員わかって(彩海早矢かな、とか思ってた…)懐かしすぎてエモエモのエモで、泣くわ笑うわ大変な観劇となってしまいました。イヤでもホントよくできていたと思うのマジで!
 ミュージシャンは優子先生始め4名とシンプル、演者は全員着物っぽいデザインの金の模様の入った黒のパンツスーツ。セットは斜めに高い台というかステージがあるだけ、ときどき襖や板壁に見えるスクリーンが降りて、当時の舞台写真や歌舞伎題材の浮世絵、江戸の古地図なんかが映し出されます。演者は台本を手にしたり、見台に置いて腰掛けて語ったりしますが、移動も出ハケも多いし、何より歌があり、朗読劇というよりはダンスがないだけのコンサート・バージョンのような見応えがありました。でもフルメンバーじゃないし主要場面だけやっていることもあって、休憩なし100分の舞台に仕上がっていましたが、ちょうどいい塩梅かと思いました。
 というわけで本役同様に大石内蔵助(杜けあき)はかりんちょさん、気合いが違いますよね…! 凜々しい、大きい、素晴らしい。そして阿久里とお蘭(紫とも)の二役のトンちゃん、これまた本役ですが変わらず美しい、色っぽい…確かOGのライブに私が初めて行ったのはトンちゃんのものだった記憶で、背中がバックリ開いたドレス姿に娘役とは違う年相応の色っぽさを見てめっちゃ感動したのを覚えているのですが、最近は歌はやっていないのか、ちょっと弱かったかな? それはやや残念でした。
 イチロさんがやっていた浅野内匠頭(香寿たつき)はたぁたん、これまた凜々しい、素晴らしい…! 新公主演だったんですねえ。後半の岡野金右衛門もよかった! 相手役のおきく(渚あき)があきちゃんで、星組トップコンビ!となったし、そもそも雪組時代も組んでたもんね…!と胸アツでした。ここも新公でやっていたお役なんですね。
 さらにお久しぶりの立ともみ、りく(小乙女幸)のりんごちゃん! みちる姐さんの歌! 最下がすっしぃ! 懐かしさに震えるしかありませんでした…当時は雪組にいなかったおっちょんとまだ予科生だったというユミコも上手くで何役もできて頼もしい! もうもう、どこ見ても楽しかったです…!
 そして改めて、歌舞伎と同じような改変やオリジナルのキャラクター、エピソードの立て方など、上手くできた作品だなーと感じ入りました。歌舞伎にもある「由良さんこちら」など、内蔵助が放蕩者の振りをするくだりに上杉方の女スパイを絡めていくとか、浪人となって町人の振りをした志士たちにも恋模様を作って娘役の出番を作るとか、ホント柴田先生ってすごい…!と感心しきりでした。悪役の作り方も本当に上手い。シビれます…!
 でもこれも討ち入り後の引き上げで終わるんですね…バレエの「ザ・カブキ」は全員の切腹までやって終わるのにな。志士たちは吉良の首を取って主君の仇討ちをしたあとは、すぐにも追い腹を切るつもりだったのでしょうが、一応は幕府の沙汰を待つことにして、お詣りだけしておとなしく引き下がったんですよね。そこから幕府は処置に悩みに悩んで、江戸の町民たちは赤穂贔屓だしそもそも喧嘩両成敗のところを片手落ちの判断をした引け目があるしで揉めに揉めて引っ張って、結局は解放でもなく打ち首でもなく切腹を許したわけです。その時点では内匠頭の弟によるお家再興は許可が出ていなくて、志士たちはそりゃそれぞれは思うところもいろいろあったでしょうが、まあある種納得して殉死していったのでしょう。この時代の生死観を今の尺度では測れないし、それはそれとしてやはりあまりに特殊で野蛮だろうとも思うのですが、これは復讐とか仇討ちとかだけで捉えるとちょっと違うのではないか、とも私は思ったりするのでした。内匠頭には即日切腹を申しつけておいて吉良にはなんのお咎めもなし、そもそも何故殿中での刃傷沙汰となったのかの取り調べもなし、では幕府の判断がおかしい、と糾弾されるのは当然のことで、でもそれがまったく覆らなかったので、抗議としてのデモンストレーション…みたいな面も強かったのでは、と思うのです。国会の前で焼身自殺をしてみせるような、アレです。もちろん野蛮だし、暴力は他人に振るうのも自分に振るうのも論外なのですが、最後の手段として…というのは、認めてもいいのではないか、と…それで世論が動いた、それでないと世論も動かず幕府も折れなかった(志士の切腹ののちにお家再興の決定がされたので)、というのはあるので…
 なので、どう描くか、という点を上手く扱えれば、現代でも上演される意義はあると思う題材だと思いますけどね…歌舞伎だと「伝統芸能だから」みたいなある種のファンタジーとして捉えられやすいのかもしれませんが、宝塚歌劇でも今一度取り上げてみたらいいのに、と思います。女性キャラクター視点がきちんと入っている点は大きいと思いますしね。
 プログラムやポスターが秀逸で、このビジュアルがきちんと残っていて使用できるのは大きいなと思いました。梅芸のOG企画はいろいろありますが、これは良き企画だったと思います。偉そうですみませんが、これからもいろいろと練っていってほしいものです。










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た組『ドードーが落下する』

2025年01月15日 | 観劇記/タイトルた行
 KATT神奈川芸術劇場大スタジオ、2025年1月11日18時(プレビュー)。

 作・演出/加藤拓也。2022年に初演されたものの大幅改訂リクリエーション版。全1幕。
 夏目/平原テツ、賢/金子岳憲、信也/秋元龍太朗、鯖江・芽衣子/今井隆文、ほか。

 た組の演目はいくつか観ていますし、これは確か何か受賞したはずでタイトルに記憶があったのと、宝塚歌劇雪組のKATT公演とハシゴできることがわかったのでチケットを取ってみました。大スタジオも同じ五階で、向かいにあるんですね。入場しに行ったらちょうどフィナーレにかかるあたりの音漏れがよく聞こえました(笑)。ただ、よくよく考えると温度差で風邪でも引きそうなハシゴでした…先日『愛の不時着』からの『朧の森に棲む鬼』というハシゴをしましたが、そのときといい勝負でした。
 お笑い芸人とその友人たちとの話、ではあります。病院の廊下かロビーを思わせるような、無味乾燥な白い壁と蛍光灯、平らなソファというか長椅子、というセット(美術・衣裳/山本貴愛)は、初演からずいぶんと変更されていると聞きました。
 入院用ガウンらしきものを着た夏目が誰かと携帯電話で話している…というようなところからお話は始まり、彼がガウンを脱いで時間が過去に戻り日常が描かれ出すと、その場はカラオケボックスの一室になったりお笑いライブ会場の楽屋か何かになったり、変化していきますが、その場の登場人物たちは白い壁の上から壁を乗り越えてその場にやってきます。それがもう怖い。
 そしてみんなめっちゃフツーにしゃべる。コレ、ホントに台詞?みたいにナチュラルな話し言葉、言い回し、態度で、でもあたりまえですがそういう演技なわけで、役者って芝居ってホント怖い、とまたぞわぞわします。
 場面は切れ切れに変わっていくんだけれど、会話はきちんと通じていなかったりごまかされたりすることが多々あり、それも日常の会話や生活の中では実はけっこうあることなんだけれど、舞台でやられるとなお怖くて寒くてまたぞわぞわするワケです。
 で、だんだん、夏目がそもそもごく若いころから双極症を患っていて(今は双極性障害とか躁鬱病とかはあまり言わないんですよね、再放送していた精神科医のドラマ『シュリンク』で見ました。障害ではなく単なる病気で、ドラマでは心の病気とか心の風邪という言い方もしていなくて、脳のバグ、という表現をしていました)、でも薬を飲んだり飲まなかったりしていて、それで発作が出て言動がおかしなことになることがあるのであり、しかしそれはそれとして売れない芸人だということで周りからいじられたりいじめられたりバイト先の若い店長に怒鳴りつけられたり妻からなじられたりしているのだ…ということが見えてくるわけです。それがもうホントに怖い。
 相方も、才能を買っているスタッフも、仲のいい先輩芸人も、それなりにいろいろしてくれようとするんだけれど、上手くいかないし妻とは離婚することになるし相方も芸人をやめると言う…怖い、寒い、悲しい、つらい、しんどい、怖い。夏目の妄想はますます暴走し、宗教っぽいような、あるいはもうホントになんだかわからないようなことをごくナチュラルに口にし出す。怖い怖い怖い…!
 ただ、なんか、不思議と観終えたあとは心が温かいのでした。夏目のギャグに賢が笑ってくれていたから…なのでしょうか。事態は特に改善されていなくて、でも彼の笑い声が響く中、暗転して芝居は終わったのでした。人はひとりでは生きられない、とか、どんな状態でも状況でもコミュニケーションを取るものだ、とか、そういうことを暗示している…というほどのラストシーンでもない気はしましたが、しかし怖いばかりで絶望で終えるような舞台でもありませんでした。不思議なものを観ました。
 ドードーというのは絶滅した鳥のことですよね。夏目の意識からいなくなっていた友人たちは、ひとりひとり壁の向こうへ落ちるようにして消えていきました。落下する、というのはその部分かな、とは思うのですが、ではタイトルとしてどんな意味があるのか、は私には皆目わからない、そんな作品でした。ポスタービジュアルなんかは文字が反転されていたり、主役の顔が逆向きになっていたりするものでしたが、そういうイメージもあるんでしょうね。何が真実で何が正しいのか…みたいなことは表裏一体というか紙一重、みたいな…? でも、わかったようなわからないような、です。
 でも、ここにしかないものがある気がするので、また来年の新作を観に来ようと思ってはいます。プレビュー最後の回でした、ここからの無事の上演をお祈りしています。















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『トロイメライ』

2024年12月24日 | 観劇記/タイトルた行
 座・高円寺1、2024年12月21日14時(千秋楽)。

 作・演出/シライケイタ。クララ・シューマン/月影瞳、ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス/亀田佳明、ピアノ/秋山紗穂。

 2010年から繰り返し上演されている「ピアノと物語」の新作。これまでの『ジョルジュ』の感想はこちら、『アメリカン・ラプソディ』はこちら
 往復書簡の朗読とピアノ演奏による、クリスマスシーズンにふさわしい、美しい小品シリーズ…というイメージで、今年も出かけてきました。
 クララ、ロベルト、ヨハネスとくれば『翼ある人びと』ですが、あちらはロベルトが亡くなってヨハネスがシューマン家を出るところで終わるので、この関係性のわりと前半だったのだなー、と思いました。今回は、一幕は独身時代のロベルトとクララの往復書簡がメインで、ふたりはクララがかなり幼いころからの知り合いで、クララの父親に反対されながらもゆっくりゆっくり愛情を通わせ合っていたことが語られます。裁判沙汰にしてまで結婚にこぎ着けて子供も生まれ出して、そんなシューマン家にヨハネスが訪ねてきたところで、幕間休憩。
 休憩の間に舞台に落ち葉が撒かれて、二幕はクララの日記の語りでロベルトの入院や死が語られたあとは、ヨハネスとの往復書簡がメインとなるのです。ロベルトとクララは9歳違い、クララとヨハネスは14歳違い。クララとヨハネスとの間にかわされた大量の往復書簡が残っていることは有名で、ここに大ロマンスがあったと語られることも多いわけですが、今回の演出家は資料に当たって、「何を読んでも、どのように解釈しても、クララの後半生は、夫であるロベルト・シューマンに対する愛情が支えになっており、それら資料から浮かび上がってくるのは、ロベルトの死後もロベルトとの深い愛情の中で生涯を生きた女性の姿」を見て、この構成にしたそうです。シューマン研究家でもあるピアニストはその企画意図を聞いて「『ブラームスとの大恋愛の物語を書く』と言われたらどうしようと思ってたんですよ」と応じたそうです。
 どうしてもこれまでのクララは、ロベルトの妻であったこととヨハネスとのロマンスで語られることが多かったと思いますが、それよりもどちらかというと、モーツァルト同様に幼いころからコンサートピアニストとしてバリバリ演奏活動をしていて、作曲もしていた偉大な芸術家であり、結婚してからも夫が病気がちだったこともあってコンサート活動で稼いで一家の経済的な柱となり、かつ8人の子供を産んで夭逝されたり先立たれたりしながらも育て上げ、さらに音楽院の教授として後進の育成にも当たった、もはやスーパーウーマンだったのだな、ということに感じ入りました。イヤ当時こんなふうに家政も育児も背負ってさらに稼がざるをえなかった女性って実はまあまあ多かったのかもしれませんが、それでもクララに関してはピアニストとしてまた作曲家として優れていたことまではなかなか脚光が当たりきっていない気がしたので、ホントほとほと感心させられたのでした。
 その上で、後年の往復書簡が「愛するヨハネス」「愛するクララ」から始められていたとしても、それはあくまで敬愛の表明で、実際は忙しすぎてふたりはほとんど会っていなかったのではなかろうか、とか、ヨハネスの方はクララを異性として愛していたとしても、やはりそれ以上に彼には孤独を愛する気質があったのではないかしらん、つまりふたりに性愛みたいな関係はなかったのではないかしらん…とか考えました。まあ、本当のことは本人たちにしかわからないのだし、外野がとやかく言うことではないのですが…
 とにかく、グンちゃんの声や芝居がいいのもあって、クララのほとんど壮絶と言ってもいいような人生を、変にドラマチックにすることなく淡々と、でも豊かにしっとり語られるのがじわじわとしみて、別に本人は特に望んでいないかもしれないけれどももっと評価されていい生き様だったのでは、でもこんなふうに長く愛されていくならそれで十分なのか…など、感じました。
 亀田さんがロベルトとヨハネスのに役を演じるのもいいですよね。そしてちょっとした仕草でやりとりに参加するピアニストも素敵だし、演奏は本当に饒舌なのでした。ラストが「トロイメライ」で、よく考えるとそう複雑な曲ではないのかもしれませんが、だからこそ豊かで美しく、最後の一音が静寂に吸い込まれるまでの余韻が素晴らしく贅沢でした。フライングブラボーなんかがなく、ジワのように拍手が沸いたのがなおよかったです。









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『テーバイ』

2024年11月11日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場小劇場、2024年11月8日18時半。

 テーバイの王オイディプス(今井朋彦)は国を災いから救うべく、后イオカステ(池田有希子)の弟クレオン(植本純米)に頼り、「先王ライオスを殺害した犯人を追放すること」という神託を得る。しかしそこで明かされていく真実は、オイディプス自身がライオス王を殺した張本人であること、そして実の母とは知らずにイオカステを后とし、子をもうけているという恐ろしい運命であった。絶望の中でオイディプスは自らの目を突いて盲目となり、放浪の旅に出るが…
 原作/ソポクレス、構成・上演台本・演出/船岩祐太。『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』という、同じ時系列の神話をモチーフにしながらも独立した3作品を原作に、単なるダイジェストではなく、「国家と個人」を巡るドラマにした作品。全三幕(幕間休憩は一回)。

 最近でもこちらなんかを観ていますし、そもそも私はギリシア神話のおたくなので馴染み深い物語ではあるのですが、めっちゃおもしろく観てしまいました。もとの神話が神話なだけにばんばん人が死ぬ、陰惨な話ではあり、しかしホームドラマ、なんならホームコメディでもあるのですが、怖くてスリリングで、そしてとても政治的な現代劇に仕上がっていました。ある種不本意な結果を見た衆院選やアメリカ大統領選に立ち会っている我々が今まさに観るべき演目なのかもしれません。船岩さんという方は私は初めてな気がしますが、すごい手腕の持ち主なのではないかしらん、と思います。
 入場すると幕は上がっていて、執務室らしい、デスクや椅子が置かれた室内のセットが見えます。開演5分前くらいから、白いパフスリーブのドレスの女性が乳母車を押して現れて、部屋の真ん中で乳母車の中の赤ん坊をあやし始めます。彼女についてきた、ずいぶんと古風な兵士らしい格好をした男が、小姓というよりは歩哨のように扉の前に控えています。開演時間になると彼女たちは部屋を出て行って、代わりにどかどかと入ってきた男たちの話が始まるのでした。彼らはみんな白かアイボリーか生成りの、フロックコートにボウタイといった服装で、その古風というかクラシカルというかな空気はとても印象的でした(衣裳/山下和美)。しかし彼らの論議の台詞は特に古典調とかいうわけではなく、ざらざらととげとげしく、耳障りです。神官(國松卓)も国のためを思って言い立てているのでしょうが、王ないし為政者を咎め立てする口調は激しく耳障りで、対するオイディプス王もまあまあ口調が傲慢でふてぶてしく、やはり耳障りです。でも彼らが呪いによる疫病に苛まれていて、追い込まれており、それでもなんとかしようと足掻いているからこそのこのいかいかした状況なのだ、ということは察せられます。その中ではクレオンの飄々とした脳天気さは無責任にも思えるようでしたが、それがのちのちまで効いてくるのでした。
 お話は古典のとおりに進み、テイレシアス(高川裕也)や羊飼(久保酎吉)の証言で真実が露わになり、真実を知ったオイディプスは目を突いて、先に自死したらしい血まみれのイオカステを乳母車に乗せて再度現れ、自らの追放を宣言します。ここまでが第一幕。
 ところでそもそもオイディプスは、というかライオスはなんでこんな予言を受けているのかね…と思ったのですが、プログラムの解説によれば、断片しか残っていないアイスキュロスの『ライオス』という作品があって、それによれば、というかその物語のもととなる神話がすでにあったんでしょうが、ライオスは若いころに美青年を愛し誘惑し死なせていたのでした。まあ美少年をさらうようなことはゼウスもしているので今とはいろいろと感覚が違うのかもしれませんが、しかしライオスの相手は関係を恥じて自殺し、彼の父が怒ってライオスに「自分の息子に殺されてしまえ」と呪いをかけた、ということだそうなので、やはり同意なき性行為、未成年への性加害は今も昔も立派な犯罪であり、呪いをかけられ罰せられるに相当するものなのでした。ところでそもそもライオスの祖でテーバイを建国したカドモスは、ゼウスに連れ去られたエウロペを探すために故郷を出て旅をした、彼女の兄なのでした。なんかこう、因果が巡っている感じがします。テーバイはその後、カドモスの末裔が統治する王国となり、その男系男子が代々王についてきました。このあたりも思えばむずむずしますよね…
 第二幕の舞台はコロノスの森で、すでに成人しているらしいアンティゴネ(加藤理恵)が父オイディプスの放浪に付き添っています。なので第一幕からは20年くらいが経っているのかもしれませんが、しかし彼女は大きなリュックを背負ってパンツにコート姿で、ニット帽みたいなものも被っていて、ずいぶんと現代に近いカジュアルな服装をしているのでした。彼女たちを追って現れた妹のイスメネ(小山あずさ)も、ショールを巻いたりコートを着たりしていますが、その下はパンツスーツに見えて足下はパンプスです。さらに現れるコロノスの男たちやテーバイの兵士たちの格好や、彼らが持つ武器はもう完全に現代の物のようなライフルだったりなんたりに見えます。色はすべて赤かカーキ、ベージュです。
 この森はオイディプスに予言された終焉の地で、アテナイ王テセウス(久保酎吉。役者さんって、すごい…!)の庇護というかなんというか…のもと、彼はある種平穏な死を迎えます。しかし彼とイオカステの間の四人の子供たちは、取り残されたままなのでした。
『コロノスの~』ではオイディプスが自分を冷遇したふたりの息子に呪いをかけて、互いに殺し合うようにさせたようですが、今回の物語ではそうはなっておらず、ポリュネイケス(藤波瞬平)とエテオクレスは交互に王を務めるはずの約束を果たさずに争いにもつれこみ、単なるその結果として、最後はともに死体になって舞台に投げ出されます。『ガード下の~』のイオカステの縊死の人形もだいぶアレだったけど、これもかなり心臓に悪かった…だがそういう物語だから仕方がない。
 休憩を挟んで、第三幕。舞台は再び一幕の執務室で、しかしデスクにつくのは甥たちに替わってテーバイの王となったクレオンです。そして彼らはみんな紺かグレーに見える、ほぼ現代のスタイルのスーツ姿になっています。デスクや椅子などの調度品は替わらず、電話機やパソコンが置かれているわけではないのですが、物語の中の風俗、というか時間は実際の時間より早く流れているのかもしれません。
 クレオンは、ポリュネイケスがアルゴスに亡命してそこからテーバイに戦争を仕掛けてきたことを罪として、その亡骸が弔われることを禁じますが、アンティゴネは姉妹として家族としてただ彼を悼みたい、彼を弔いたい、として反抗します。クレオンの息子でアンティゴネとは恋仲のハイモン(木戸邑弥)も、クレオンの妻エウリュディケ(池田有希子。役者さんって…!)も彼女の肩を持つ。イスメネはとりなそうとし、アルゴス王アドラストスにとりなしを頼まれたアテナイ王テセウスの使者(藤波瞬平。役者って…!)もやってくるが、クレオンは耳を貸さない…
 クレオンは自説にこだわり続け、アンティゴネもハイモンもエウリュディケもある種の抗議の自殺をする。彼らの亡霊を背負って、クレオンは草稿どおりの演説を空しく読み上げ続け、暗転…
 もう、めっちゃ怖かったです。クレオンは妻も息子も甥も姪も失って、影の薄いイスメネはフェイドアウトしているけれど、とにかくもうこの王国を継がせる者は誰もいなくなって、それでも国民たちに向けて空しく自説を披露し続けます。そこには人間的な憐憫の情も、あるいは理性的な論理もなく、ただ戦争の異種返しのようなものしかない。こんなかたくなな王に率いられてもこの国に未来なんかないのは歴然としているし、事実これでテーバイはアテナイに攻め込まれ、敗れて、滅亡するのでしょう。それはまさしく、どこかの大国の大統領の演説にも似ていました。イヤ彼には一見こんな知的な物言いはおそらく無理でしょうけれど…プライドやメンツにこだわり、人間としての自然な情愛に背を向け、権力や武力を求めて突き進む者はいつか必ず滅びる…そういう、神の摂理を描いている物語だと感じました。
 登場人物たちは何度も神、と口にしますが、実際には神々は彼らの前には現れないし、予言だの神託だのといっても結局はそれを受けた人間がどう行動するかという問題であって、神秘的なものは何もありません。あくまですべてが人間の言動故に起きるのでした。それもまた、現代に通じる状態です。
 かつてのクレオンは、そんな人ではなかったのに…立場が人を変えてしまう、ということは残念ながらあるのでしょう。もちろんいい変化の場合もある、しかしそうでない場合ももちろんある…
 ライオスに始まったカドモス王家の呪いは男系男子に引き継がれ、跡継ぎなくクレオンが死ぬことで完成し、完結する…のでしょう。イスネメが死んでしまう神話もあるそうですが、多くはその影の薄さが幸いして、彼女はフェイドアウトで済ませられているようです。仮に彼女が生き延びて、誰かのところに嫁ぎ子供を、しかも男児をもうけても、それはカドモスの末裔とは言われないことでしょう。それは幸いなことです。彼女にはそうした人生をまっとうしてもらいたい…真に、そう願います。希望、汝の名は女…

 しかし改めて、演劇の同時代性、というようなことを考えさせられました。これは「こつこつプロジェクト」なる長期間の企画で、なので上演時に世界がこんなになっているなんてそこまで想定されていなかったのではないかと思うのですが、結果的に今まさに観られる価値がある、ドンピシャなものになりました。翻って、例えばたまたま同時期に私が観ていたので例としてあげますが、宝塚歌劇星組『記憶にございません!』なんかはその点に完全に失敗しているんですよね…発表時にも、「何故、今、宝塚歌劇で、これを…」と案じられたものですが、大劇場公演初日から千秋楽、そして東京公演初日から今と、世界は転げ落ちるようにより悪くなっていて、もともと嘘寒かったものが、もはやまったく笑えない事態になってしまっているのです。それは作品の罪ではない、のかもしれない…けれど、劇団のこの「持ってなさ」加減は看過できないな…と私は思いました。本当に残念です…なのでこの作品に関しては、怖いけどおもしろかったし観られてよかったし、ここから現実に戻って、我々がテーバイのように滅びないためには何をすべきか、何ができるかを考えられる…と思いました。それこそが大事なことだと思うんですよね。もちろんただおもしろおかしいだけの、スカッとして見終えたら全部忘れるような、でもスッキリしてよかったねというのだけは残るエンタメ、みたいなものにも存在意義はありますが、そこに徹しきれていないしょうもないものも多いわけで、なら踏ん張ってこっちを目指せよ、と思ったりもするのでした…
 十人の役者が三幕で何役もやり、ギリシア古典劇のようにコロスがいたりしゃべる役者が三人だけだったりはしませんでしたが、立派にギリシア悲劇であり、かつ現代劇でした。舞台の魔法が詰まった作品でした。すこくーくすごーく、よかったです!!!

















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