駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『風と木の詩』再読

2021年04月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)を発売日に買って読み、2016年刊行時に買って読んでいた竹宮惠子『少年の名はジルベール』を再読し、今年3月に出ていたことを知らなった竹宮惠子『扉は開くいくたびも-時代の証言者-』(中央公論新社)も買って読みました。
 この時代の少女漫画読者として(私は両先生の20歳ほど歳下なので、彼女たちが25歳のころ描いたものをその10年後に15歳で読んだ勘定です)、いわゆる「大泉サロン」のことはもちろん知っていて、でも個人的には、あくまでたまたまのエピソードにすぎないのではないか、とずっと思っていました。世間で言われているほどには当人たちがあまり言及しない気がするのは、それこそたまたま上京や引っ越しの都合で同居していた時期があり、そしてまたたまたま別れた、というだけのことであって、もちろんみんなの溜まり場になったりして切磋琢磨かつ和気藹々とした青春の1ページだったんだろうけれど、それだけのことでことさらなことではなかったのではないか、と思っていたのです。竹宮先生はともかく、萩尾先生の方はその後そもそも一切言及していない、ということに私は気づかなかったくらいでした。当時の作品の端の近況欄やエッセイ漫画にちょいちょい描かれていて、それが収録されたコミックスを私が未だに何度も再読しているからかもしれません。
 今回の刊行情報などから、何か「事件」があったということなのだな、とは察せられました。で、これまた個人的には、盗作騒ぎか、色恋のもつれか、パワハラ騒ぎだろうな、と思っていました。最後のものは、その後もこのあたりの漫画家さんはみんな同じ版元の似た界隈の漫画誌編集部で仕事をしていることを考えると、いかに当時口の悪い傲慢な男性編集が多かった業界でなんらかの問題はあったにせよ、今さら告発するようなことはないのかもしれないな、と思うようになりました。同様に、アシスタントさんだったり漫画家仲間だったりで男性の出入りも多少はあったように聞いていますが、恋愛だの惚れた腫れたのというのはちょっとイメージできなかったので(失礼…なのか?)、これもないなと思いました。
 で、事実は…お読みいただいたとおりのものだったようです。
『一度きりの~』はとてもモーさまっぽい文章で、『少年の名は~』はとてもケーコたんっぽい文章ですよね。おそらくゴーストライターを入れずに、当人たちがきちんと執筆したものなのではないでしょうか。とても性格というか、人となりが出ています。そして要するに、両者とも同じことを書いているな、と思いました。それぞれからすると、そうなるよね、という感じがした、ということです。
 ただ、竹宮先生の本の方には、『扉は~』もそうですが、萩尾先生に「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」と尋ねたことはまったく書かれていません。ただつらくて距離を置くようにした、というだけになっています。忘れてしまったのか、なかったことにしたいから触れないことにしているのか、今は疑問が解消されているからもう言及しないことにしたのか、は、わかりません。
 私は『ポーの一族』も『トーマの心臓』も『風と木の詩』もリアルタイム読者ではなく、少し遅れてコミックスでまとめて読んだ世代ですが、当時も今も、モチーフは同じっちゃ同じだけれど全然違う作品だし、それぞれに傑作だとずっと思ってきました。それで言えばたとえば『地球へ…』と『スター・レッド』あたりも迫害されるESPみたいなモチーフは同じなんだけれど、それこそ彼女たちがインスパイアされたのだろう50年代アメリカ黄金期SFを私も読んで育ったので、当時の作品はそんなんばっかだったことを知っていますし、そこから触発されたののだろうからネタが似るというか同じなのは当然で、でもそれぞれ全然違う作品に仕上がっていて、だからこそその個性や才能が素晴らしいんじゃん、とずっと考えてきていたので、気になったことがありませんでした。
 寄宿舎という設定自体はむしろノンたんが提示したものなのでしょう。アイディアには著作権はないのだけれど、カブリが心情的に承服しかねる、というのは人の心の動きとしてはもちろん理解できます。ただ、そこからできあがったものが全然別物でそれぞれに傑作なんだから、いいじゃんねえ…とか、一読者一ファンとしては気楽に考えていたわけです。でももちろん作家側はそんな気楽なものではないのだろうし、当時は先生方も若くて、いろいろ悩みもがき苦しみながら執筆していただろうので(それは今もかもしれませんが)、気になる、気にする、気に障る、ということはあったのだろうな、とも思います。田舎から出てきて、やっと出会えた同好の士と仲良くやれていたつもりだっただけに、それはショックだったことでしょう、とも思います。
 ともあれ、なのでもうこれはこれで、ということで、以後外野が口を出したり触ったりすべきものではない、ということだなとは思います。
 ただ私が気になったのは、『一度きりの~』の書評というか感想などを読んでいくとたいてい、『少年の名は~』の方も読みたいが、竹宮作品をそもそも読んだことがないので…みたいなことが言われていることでした。確かに竹宮先生は直近20年は大学で漫画を教える仕事に就いていて、いわゆる第一線の漫画家さんとは言えないでしょう。一方で萩尾先生はずっと作品を発表し続けていて、近年は『ポーの一族』の新章スタートや舞台化なんかもあったりして話題にもなったので、若い、新しい読者が増える余地があったのでしょう。でも当時は竹宮先生の方が人気…とか評価が高い…というのもちょっと違うかもしれませんが、やはり『風と木の詩』のセンセーショナルさとか衝撃って大きくて、こういう話題のときに先に名前を挙げられがちだったと思うのです。なので、今はあまり読まれていないのか…と思うと、とても残念に感じました。まあ今や紙コミックスは文庫しか動いていないでしょうしね…電子化はされていると思うのですが、近作に合わせてキャンペーンが組まれたりするから、現役でないと露出されづらい、というのもあるのでしょう。私も未だ愛蔵しているのは『ファラオの墓』と『風と木の詩』『変奏曲』だけなのですが、一時は選集も持っていましたし、『地球へ…』も『私を月まで連れって!』も持っていました。『イズァローン伝説』も『天馬の血族』も読みました。
 そんなわけで久々に『風木』を読んでみました。多分小学校高学年のときに途中まで古本屋でまとめて買って、最後の数巻はリアルタイムで新刊で買っているんだと思います。手持ちのコミックスは8巻以前のカバーがPP貼りされていなくて、背とかが分解しそうに傷んでいるので、怖くて大事にしていてあまり触りたくないくらいなのでした。まあ暗記しているくらい読み込んでいて、すでに私の血肉になっていますしね。
 でも、今回久々に読んでみて、安心しました。やっぱり名作だと思えたので。
 モーさまが『ヴィレンツ物語』と言っている『変奏曲』は(なので本当に読んでいなくて、このタイトルでシリーズ化されコミックス化されていることも知らないのだと思います)、今読むとページ数の問題なのか漫画としてはかなり稚拙というか、構成が良くなくて読みづらく、またお話が中断されている形になっているのでもったいない出来の作品なのですが、『風木』は週刊連載ということもあってある程度ゆっくりたっぷり描けているのか、そういう窮屈さはまったくありません。
 そして、読めばわかります。寄宿舎が舞台というのは同じでも、『小鳥の巣』や『トーマの心臓』とは全然違う作品だ、ということが。描線の方向性も、イメージの描かれ方も、ポエムめいたネームの置かれ方も全然違う。愛や、神や、社会の描かれ方も違う、女性キャラクターの描かれ方も。あたりまえなんです、作家としての個性が全然違う。そしてふたりとも天才なんですから。
 愛蔵コミックスとして以前書いたものはこちら
 ちなみに『扉は~』は聞き書きなので文体は当人のものではないですが、幼少期から現在に至るまでの包括的な半生記としてとてもおもしろく読めました。そして両先生は、性格の違いもあるけれど、家庭環境も似て非なる…という感じだったんだろうな、とも改めて思いました。ともに戦後の昭和の、田舎の、堅めの家庭の育ちで、女の子が大学なんて、とか東京で働くなんて、漫画なんて、と言われて育ったようですが、抑圧具合がだいぶ違う印象を受けました。それが『紅にほふ』を描くか『残酷な神が支配する』を描くか、にも表れていたと思います。
 竹宮先生は2020年4月に大学を退職したとのことですが、まだまだお元気そうだしデジタルにもチャレンジしていて好奇心旺盛、血気盛んといった感じですし、こういう人が政府のクールジャパンの仕事とかをするといいのではないかしらん、とも思ったりしました。お話を描きたい感じはなさそうかな、とも思ったので…でもわかりませんね、まだまだお若いですものね。
 とりあえず選集を復刊させたりは、できないものかなあ…ホント、読まれなくなってしまうのはもったいないです。人の死のひとつに忘れられることがあるのだとすれば、作品が読まれなくなることは作家の死のひとつなのでしょうから。

 というわけで、『風木』ですが、改めて、BL漫画では全然ないな、と思いましたね。
 当時まだそういう言葉ががなかったから、というのももちろんあります。でもなんか、精神性というか、在り方、スタンスがそもそも全然違う気がしました。
 この作品のあとに出てきたBL作品って、今はまたちょっと違うものもあるかもしれませんが、でも基本的には女子の女子による女子のためのもので、その女子ってのは要するにシスヘテロ女性のことであって、だけど描き手にも読者にも自分の女性性にある種の忌避感があったりして、それで男女のセックスの代替として男性キャラクター同士の性愛描写がされる…のがほとんどなのではないか、と私は思っています。それは体位とか体勢とか身体の描かれ方に表れている。だから読むと濡れる。そういうふうに愛されたい、という思いが反映されていて、それに感じるからです。
 でもこの作品は違う。そしてあえて言おう、やはり少年愛漫画である、と。BLのようにほとんど様式化される以前のものだから、というのもあるかもしれませんが、絡み方とか、身体の描き方とかが、そういう狙いで描かれたものではないと感じるのです。何より、みんなほとんど子供みたいな身体なんですよね…だから痛々しさの方が勝つ気がする。その意味でも萌えない。
 でも、そういう時期の人間、つまりそういう「少年」を描く作品なのです。そしてこういうふうに育てられてしまったジルベールに、こういう人間であるセルジュが出会って、惹かれてしまったときに、性愛は開かれざるをえない扉だったのでした。だから当然、意味のある描写です。
 人間には心も、頭脳も、魂もあるけれど、同時に身体もあって、それから逃れることはできなくて、恋をすれば胸が高鳴るけれどお腹は空くし喧嘩すれば血も流すし、そして社会に出れば働いて稼がないと食べていけない。そういう人間の真実を描いている作品です。漫画を評価するときに「文学的」みたいな言葉を使うのってどうなのよ、とは思いますが、『トーマ』の文学性とはまた違ったそれを、この作品にも感じます。だってひどい話だもん。全然女子供の甘くロマンチックなラブストーリーなんかじゃない。とてもシビアなお話です。青春の蹉跌、なんて言葉ではすまされない展開、結末を辿るお話です。でもだからこそ真実です。そして確かにそこに愛はあり、ジルベールは生きていたのです。
 ものすごくよくできたお話だと思います。一晩でできたようなことを竹宮先生は言っていましたが、それはどこまでのことだったのでしょうね。最後はけっこう巻いて描いたみたいなことも言っていましたが、そんなこともないかなあ。とても綺麗に完結していると思います。その後の構想もあるようなことも言っていましたが、セルジュのその後なんてそれはもう別のお話だから、これはこのままでいいのでは…と私は思います。『変奏曲』とは違うのですから。強いて言えば、私はロスマリネとジュールは好きだったので、掘るなら彼らのその後あたりとか? オーギュのその後とかもどーでもいいよね(笑)。
 やはり時代を画す名作、金字塔だと思います。今はあまり読まれていない、というのはいかにも惜しい。未だ決して古びていない作品だと思いますし、『ポー』が読みにくかったという層にもこの作品は漫画としてはいたって読みやすいものだと思います。児童虐待描写がしんどい、というのはあるかもしれませんが…古典として、教養として、そして今なお解決されてない問題を描いた作品として、読み継がれていってほしいなと思います。なので私もことあるごとに言及していこうかな、と改めて思ったのでした。





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登田好美『学ランの中までさわって欲しい』(小学館&FLOWERフラワーコミックスα全2巻)

2020年11月06日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 ゲイの男子高校生・新見は、生徒会で一緒の澤根を誘ってセフレ関係を続けている。蓮根のことが好きだけど、ノンケの蓮根は普通に女の子が好きだから、この関係は男子校の中だけ。蓮根を好きだなんて伝えちゃいけない、いつか別れるときが来てもちゃんと受け入れるから、せめてそれまで体だけでも気持ち良くなって…

 小学館の少女漫画のコミックスレーベル名は「フラワーコミックス」ですが、ところでこれってどこから来ているんでしょうね…今も「flowers」という月刊誌はありかつては「プチフラワー」がありましたが、『ポーの一族』第1巻がフラワーコミックス第1号として出たときにはまだ「少女コミック」「別冊少女コミック」しかなかったのでは…? 今はちょっと前からアダルトめというか旧レディスコミック的な電子漫画サイト「モバフラ」(モバイルフラワーの略、かな?)もやっていて、最近少女漫画ラインの「&FLOWER」が始まりましたよね。これはその配信をまとめた紙コミックスで、漫画家さんはもともとは「Betsucomi」で描いていたようです。そこでは今ひとつ芽が出なくて、電子でBLにチャレンジ…となったのかもしれませんが、読んでみると(初めて読む漫画家さんでした、すみません)別に普通に少女主人公の男女恋愛漫画が描けそうに見えるけどな?と、やや不思議な感じがしました。たまに、あ、こっちの方が明らかに合うね!と感じられる、一般的な少女漫画を描くにはちょっとミソジニーがありすぎるような漫画家さんはいて、そういう人は無理して描いていてもやはり読者にはバレて人気が出ないものなので、こんなふうにジャンルを変えるなりいっそ版元を変えるなりしないとどうにもならず、そのままだともったいなかったりするものなのです。でも、この漫画家さんにはそんな感じはしなかった。とはいえこの作品には女性がほぼ出てこないのですが、でもそういうことで判別するものではなく、要するにそこは性別とかより人間性というか、人間や人間同士の関係性、その人が持つ感情なんかをどう捉えどう描くかということが大事で、この作品ではそこにちゃんと情が見えたのです。この作品はたまたま当たって続巻が出たような形だったようですが、このあとはどんな作品を描くのかな? 楽しみです。
 そういう意味では、1巻の表紙に描かれたオマケ漫画で語られる、そもそもこの作品が配信される経緯みたいなものもおもしろかったです。おそらくあまり経験のない、いい言い方をすれば偏見やこだわりのない男性編集者と組むことになって、なんとなく、しかしある種の勢いに乗って企画してしまったもののようで、雑なネーム(ネームなんてたいがい雑なものなのでしょうが)を解読できない編集にいちいち言葉で解説せざるをえない漫画家さん…みたいなくだりがめっちゃ想像できておもしろすぎました。よくがんばったよなあこの漫画家さん…!(笑)
 それで言うと(とどんどん話がズレていってしまってすみませんが)2巻のこの部分のオマケ漫画によれば、配信からは紙コミックス版はぶっちゃけ性器周り(笑)に多少の修正が施されているようですが、これはちょっと意外でした。最初から、美学として、見せないように、直接描かないように、あえて服や手や見る角度で隠して描いているのかと思ったからです。私はBL専門レーベルのコミックスなんかでよく見る、ペニスも睾丸も描いてあるけど白のアミトーンとかで伏せてセーフ(?)としているものにはどうも萎えるタイプで、こんなにまでして描きたいのかなとかでも見せられないんじゃ意味ないんじゃないのかなとかみんなそんなにソコ見たいのかなとかつい思っちゃうタイプなのです。なので描いてなくても全然いいし、むしろ安心だし(だって変にデカく描かれるのも逆に貧相では?と思われるようなものを描かれるのも、それこそ萎えません…?)、エッチかどうかってのはそういうところには宿らないんだと私は考えているのです。
 そしてこの作品は十分にエッチです。ときめきます、そそられます、濡れます。それはキャラクターとその感情と彼らの関係性がしっかり描かれているからです。デッサンもちゃんとしている方だし(身体が描くのが下手な漫画家が描く裸の濡れ場のまた濡れないことといったら…)、絵やネームが破格に上手いとかは特にないんだけれど、素直で、誠実で、奇をてらったりテレて日和ったり斜にかまえたりしていないのが、いい。まずはショートで、みたいなところから始まったようだし、漫画家さんが大事に、慈しんで、楽しんで、真面目に描いている感触を受けました。
 全2巻で対になるような、色味を抑えた(黒髪男子ふたりが学ラン着て絡んでるんだから肌色しか色味がないのも当然なんですが)カバーイラストも素敵だし、タイトルロゴデザインとカバーレイアウトもお洒落で素敵。タイトルは私の好みからするとやや直截にすぎる気もするのですが、まあキャッチーであろうとしたのかもしれないし、わかりやすくはあるのでいいっちゃいいのでしょう。
 ちゃんと作中で時間が経つところも好きでした。長々前振りめいたことを書き連ねてきましたが、要するに、好みの一作なのでした。

 BLとしては、男子校で、生徒会で、ゲイの主人公とヘテロの彼氏のセフレ関係から始まる恋愛、という実に、ものすごく、よくあるパターンの物語です。残念ながら目新しいところは何ひとつないと言ってもいい(あ、なんかやたらと「準備」を語るところは「真面目か!」とつっこみたくなりつつなんかあまり他で見ない気がしたので、新鮮に感じました。要するに肛門性交をする前には浣腸して大便を出しておきましょう、ということなのだと思うのですが〈あえてこう表現しますが〉、ちゃんとしてるなーと感心もしました。いくらドリームでファンタジーだといってもあまり省略しすぎたり美化しすぎたりしてはいけないということはあると思うので。ちゃんとコンドームするとかも、ね)。だから私がこんなにも長々語っているのは、要するにただただ好みだというだけのことなのです。
 主人公の新見は中学生くらいからゲイの自覚があって、ゲイ動画を見て自慰するような青春で、最初はちょっと苦手かもと思った蓮根にやがて惹かれて、好きになって、でも告白なんてできないから誘ってセフレになって、「初めて好きな人と最後までやった」。
 新見は真面目で優しいというより気が弱くて、空気を読んで周りに合わせて我慢しちゃうタイプ。一方の蓮根は強面のイケメンで女子にモテてきたし非童貞で、周囲に一目置かれているけど孤高の存在、みたいなタイプ。身体を交わすようになっても、好きだからこそ負担をかけたくないと引こうとする新見と、好きになったからちゃんとつきあってみようと言う蓮根とですれ違うような、両片想いみたいな展開になるのもとてもベタで、でも繊細に丁寧に描かれていて、ああ恋愛ってこうだよなと思えるし、だから読んでいてときめくのでした。若さ故というのもあるけれど性欲ともセットになっていて、主人公が同性相手じゃなきゃダメなんだからそりゃBLにならざるをえないわけで、でも要するに単なる恋愛の物語なんです、と思えるのもいい。これは同性愛を貶めたりないものとして言っているのではなくて、でも要するにBLってヘテロ少女読者のためのラブ・ファンタジーなんだから、とにかく「恋愛」としてきちんと描かれる必要があるのだ、しかも身体を伴う性愛として、ということが言いたいのです。それができているからこの作品は気持ちがいいのです。新見と一緒だネ!(笑)
 そうそう、そのファンタジー性ですが、要するに同性同士なら完全に対等だろうという、異性相手では夢見られないドリームがBLには持てるわけです。だから最終的にはリバがいいんじゃない?と思わなくもない。攻め受けってやっぱり、男女や上下や支配と隷属みたいなものを想起させるので。でも実際には、というかいい作品はキャラクターでもちゃんとした人間として描こうとするのでそして人間なら当然なんですが、たとえものすごく明確じゃなくても性自認とか性指向とかはわりとちゃんとあるわけで、そりゃなんでも好きで楽しめるって人もいるんでしょうけれどそれは少数派なのかなと思うし、だから新見が「こっちでいい…/こっちがいい」と言ったのはBLではすごく新鮮に思えて、そしてすごくいいなと思いました。その前段として蓮根が「新見とできるなら/どっちでもいいから」と言うのもいい。それが愛だよね!と思うのです。で、「……1回だけなら…」って新見が言っちゃうのもホントいい。いじらしい。愛しい。
 これまたキャラとしていがちなんだけど、めがね先輩がまたいい味出してるんですよね。そこも好き。伏河くんは、キャラとしてもうちょっと大きく描き分けたいところだったけれど、ちょっと画力が足りなかったかな、みたいな印象はありました。
「機会的」と言われれば、そもそも近くにいて知り合わないと恋愛なんて始まらないので教室とか職場とかで生まれがちなものだろうし、環境が変われば解消されることが多いものでしょう。異性同士であろうと、学生時代の恋人と結婚してそのまま離婚もしない人ははっきり言ってかなり少ないはずです。だから「卒業後は目が覚めて終わり」なんて予言は意味がない。でも、それを乗り越えてカミングアウトのドラマや、「学校を出ても新見といたいよ」「ずっと澤根といたい」となる展開は美しい。伏河はアテ馬としてもやや描き切れていなくて、本当は蓮根が自分がゲイでないこと、女子とのセックス経験があることに引け目みたいなものを抱き、新見には伏河の方がふさわしいのだろうかと悩むような流れがあるべきだったんでしょうね。相手を好きすぎて相手のために身を引こうとしてでも好きすぎてできない、みたいな、私の大好物展開…(ヨダレ)大丈夫、妄想で補完できます。
 あとは、卒業が近づくにつれて、進路とかでもっとドラマが描けたはずなんですよね。そこがほとんどなくて、ラストの描き下ろし番外編でほとんどトートツに語られるのがちょっともったいない気もしましたが、まあこのあっさり具合もオツなのかもしれません。
 卒業式で新見が友達に「付き合ってるやつとかって……」って聞かれるくだりが、とても好きです。新見って本人は無自覚でも、クラスメイトたちにとても愛されていたんだと思う。蓮根の方が敬して遠ざけられ気味だったと思うんですよね(そして蓮根はそれを自覚できている)。でもみんな新見のことは友達として普通に好きで、だからカミングアウト後も変に突っついたりからかったりしないで見守っていて、でもやっぱり気になるから、それは冷やかし半分やっかみ半分かもしれないけどとにかく最後に出ちゃった発言で…って感じが、すごくいい。そしてそれに対して新見がさらっと「蓮根と付き合ってる」って言っちゃうところも、ホントいい。蓮根が全然頓着せず「…新見 帰ろ」ってなるのも。
 そうだ、何故かありがちな「下の名前で僕を呼んで」案件がなかったのも個人的にはすごく好きでした。蓮根にいたっては出てすらこなかったんじゃないかな? ずっとお互い名字呼び捨て。それもまた良き。
 そういえば、そんなわけで卒業後も「専門出たら/新見の所に行っていい?」「一緒に暮らそ」とはなるのですが、『同級生』とか『窮鼠』のラストにあった指輪、結婚みたいなモチーフは出ないままに終わるんだな、と思ったので、もしかしたらこの部分がやはり令和刊行の作品としての現代性なのかもしれません。選択的夫婦別姓も同性婚も認められていないような今の日本の婚姻制度に、もはや誰もドリームなんて持てませんもんね。こうやって捨てられることって、本当に終わりの始まりなんです。最近青年漫画や少年漫画にすら結婚モチーフの作品が増えてきて、男の方がしたがるんだから世も末だなとか感じていたのですが、そういうことだと思います。もう少女は結婚に夢を見ない、だから女になっても結婚しない、子供は産まれず、人類はゆっくり滅んでいくんだな、とホント思うのでした。愛はあるよ? 全世界を滅ぼしてでも愛を取るのが少女です。世界を革命する力を手にして、そうして革命された世界に人類はいなかった、ただそれだけ…
 そして「きれいだな」と微笑むしかないのだろう、と思うのでした。









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高森朝雄・ちばてつや『あしたのジョー』

2020年10月16日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 講談社漫画文庫全12巻。

 ある日ふらりと下町のドヤ街に現れた、天涯孤独な少年・矢吹丈。腕っ節の強さが元ボクシングジム会長の飲んだくれオヤジ・丹下段平の目にとまる。ボクサーを育てることに生涯をかける段平は、夢の実現を託そうとするが、丈は詐欺窃盗事件を引き起こして少年院へ送致されてしまう。だがそこには、生涯のライバルとなる力石がいた…

 『漫勉neo』の第一回ゲストがちばてつやだったので、そういえばこれまた長く愛蔵しているのに感想をまとめていなかった気がする…と再読してみました。
 私はリアルタイム読者ではなくて、でも学童保育の図書室で少年マガジンコミックスで読んでいるはずです。この文庫は大人になってから買い揃えました。
 梶原一騎の原作まんまなんだろうなと思われるやたら詩的だったり哲学的だったりするネームがあったり、かと思えばちばてつやが自由に展開させたんだろうなと思われるターンや描写があったりする、それが渾然一体となって不朽の名作となっている一作だと思います。
 あまりにも有名なラストシーンについては、あれは死の描写ではなくて、やり遂げて満足したという心象風景の描写なのだ…というようなことを『漫勉』で浦沢直樹は言っていましたが、正直どっちでもいいな、というかフツーに死でいいやろ、と思っています。あのあと廃人として残りの一生を終えようが、回復して再びチャンピオンに挑もうが、ボクシングはやめて一般人になろうが、死んだままであろうが、それはすべてのちの話であって、物語としてはあのラストシーンで終わり、あれしかなかった、というのが正解なんだと思います。
 私は葉子さんファンなので(陽子、や洋子、でないところも好き)、そのラブストーリーとしても愛しています。イヤそんな甘いものではなくて、確かにほとんどトートツにラストに告白がぶっ込まれただけであり、丈もずっと意識していたことは確かなんだけれど恋と呼べるほどの域にいたっていないもっとモヤモヤした感情のままで、でも紀ちゃんをスルーしたのともまた違うし、最後にグローブを渡したことも事実なわけで…その淡さ、複雑さ、重さも含めて傑作だと思っています。男だ女だ言われる台詞も、まあ時代でもあるし、実際拳で殴り合うスポーツなんてそら性差が最も強く出るもののひとつだろうので、そこに口出しなんかしません。今で言う悪役令嬢みたいなこういう女性キャラクターが、こういう少年漫画のこういうヒロイン位置に置かれたことは当時ほぼなかったと思うので、その斬新さとおもしろさにも打たれます。
 ちょっと話がズレますが、今読むとカーロスとロバートのイケメンふたりがやたらイチャイチャして見えてやたらセクシーで、イヤまったくそんな意図はなかったんだろうし薄い本が作られるには時代が早かった案件なんだろうけれど、この色気はなんなんだ…と震えました。ところでその後ロバートはどうしたのでしょうね…さびしいわ。
 連載開始当初からがっちり全体の構想が見えていたわけでもなさそうに思えるところ、それでも変に迷走しすぎることもなく綺麗に走り抜けまとまっているところ、も素晴らしいと思っています。最終回はもう4ページ、せめてあと2ページあるとよかったかもしれない、とは思いますけれどね…でも、大事に愛蔵していきたい一作です。


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田辺イエロウ『BIRDMEN』

2020年06月17日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 小学館少年サンデーコミックス全16巻。

 変わらない日常に不満を漏らす日々を送る、中学生の烏丸英司。だが学校中で広まる「鳥男」の噂が、彼の変わらなかったはずの日常を大きく変えていくことに…!?

 『結界師』がツボらず、というか酷評に近い感想を書いたワタクシですが、これはハマった! とても良い作品だと思いました。
 今年の冬に完結したばかりの作品ですが、寡聞にして評判をあまり聞かなかった気が…? 週刊少年誌に月一回掲載、という連載だったようなので、雑誌での人気はあまりなかったのかもしれません。ただコミックスの部数自体はまあまあ出ているようなので、好きな人にはちゃんと読まれていたのかなー。もっと話題になり、評価されてもいい、良質のSFジュヴナイルというか青春群像劇というか、な作品だと思います。
 ちょうど真ん中くらいでお話のギアが一段上がってから、スケールアップした分、ストーリー展開もやや早巻きになってしまった印象があり、最終回ももうちょっと大団円感とかまとめ感とか余韻が欲しかったかなーというのもあって、世紀の大傑作!とまでは言いづらいのですが、意欲作だし、とても良くできているし、少年漫画ファンなら、またSFファンなら抑えておいていい一作なのではないでしょうか。
 そして私には、『結界師』からしたら化けたなあ、というのが何より大きな感動でした。試しに読み始めたときには、「ああ、こっちに進んじゃったか」って思ったんですよね。デジタルに移行したのか、端正な絵柄がむしろ無機質な方向に進化していて、ルサンチマンあふれる主人公像で、ああ病んだ方に転んじゃったか…と思っちゃったのですよ。それがどうしてどうして、読み進めていったらヒーローもので戦隊もので上位互換人類もので学園青春もので壮大なSFだったんですよ! そしてネームもストーリーテリングもとても上手い!! ワクワクしました、熱くなりました、たぎりましたよ!!!

 空を飛びたい、翼が欲しい、自由になりたい、ここではないどこかへ行きたい…というのは、思春期の少年少女に特に顕著かもしれませんが、むしろ全人類の普遍的な夢、欲望、逃避のひとつでしょう。それが、困った人を助けたい、誰かの役に立ちたい、褒められたい、ともに戦う仲間が欲しい…みたいなものと結びつくと、ガッチャマンみたいなヒーローもの、戦隊ものみたいなものに結晶していく。さらに運命を変えたい、力が欲しい、世界を救いたい…となっていくと、スーパーヒーローものというか、SFになっていく。
 私がまずおもしろいなと思ったのが、まあ私が戦隊ものといえばゴレンジャーという世代だからかもしれませんが、主人公の英ちゃんがブラックなことです。主人公なのにレッドじゃない。黒なんてそもそも基本五色にない色なんです。でもキャラというか立ち位置というかが、英ちゃんはブラックにぴったりなキャラなんですよね。で、レッドは鷹山くんが持っていってしまう。でも彼もまた別の意味で全然主人公っぽくない、レッドっぽくないキャラなんです。レッドはグループの中心で太陽タイプ、でも鷹山くんの在り方はそれとは全然違うものだからです。でもこのメンバーだとレッドと言いたくなる、それもすごくわかる。そして唯一の女子メンバーのつばめは、ピンクでなくブルーを取ります。英ちゃんがちょっとときめいたりするので、少年漫画的には主人公の恋の相手役としてのヒロインであるはずのつばめは、でも鷹山くんのことがちょっと気になるようになっていってしまう。その捻れ、かつブルー。まあピンクはレッドとカップルになるよりはメンバー内女子として独立していることが多いイメージですが(ガッチャマンではジュンはケンのガールフレンドだけれど)、それにしてもピンクでなくブルー。そこがまたいい。ブルーはレッドと人気を二分することもあり、クールな二枚目が担当することが多いイメージですけれどね。でも「海野」だからね(笑)。鴨ちゃんはイエローでもいい気もするけれどグリーンで、これはのちにアーサーが登場したときにカバーイラストが黄色になったのを見て膝を打ちました(そしてフィオナのピンクも。それ以降はわりと複雑な中間色になっていってしまうことも)。そして鷺沢くんがホワイト、これもなんかわかります。そして『結界師』のときに私が引っかかっていたこの手のキャラクターが、こういう形で描かれるようになったことに私はとても感動しました。あの人好きのしなささは本当につらかった…人間に対する見方、捉え方こそクリエイターとしての個性であり、そうそう変わらないものかと私は考えていたのだけれど、作家ってここまで確変できるものなんですねえ…!(「お前はメルつかねえだろが」名言! きゅん!!(笑))
 五人の翼あるヒーローが定型に収まらない、この新しい感じにまずワクワクしましたし、世界に対してグレていた英ちゃんがとまどいながらも徐々に強くなり優しくなり前向きになっていく姿に、読んでいてとても心打たれました。
 あと、ハカセがいるのがいい。この人間の大人、の重要性はのちにけっこう効いてきます。
 英ちゃんたちは、鳥男になった拒否反応として定期的に出現するブラックアウトと戦い、そのブラックアウトは彼らのストレスとかトラウマとかコンプレックスを反映した形を取るので、彼らはそれにだんだん容易に打ち勝てるようになることで成長し、心が強くなり広くなっていくのですが、それは人間から離れていくことでもある…とこの物語ではされているからです。
 この思想が、とにかくいい。私にはすごく響きました。この、種が違うから精神の在り方が違う、という点を描けていないダメSFって、けっこうあるからです。
 だからやはり鷹山くんの描かれ方がすごい。ドライな瞳といい、地に足ついていない感じといい、最初からもうこの世界に半分しか属していない空気感がすごい。漫画のキャラクターとして必要な愛嬌を犠牲にすらしているところがあるのがすごい。彼は英ちゃんたちに出会ったときに、もはや人間だった時間より鳥男になってからの時間の方が長くなっていたのですから、当然でもあるのでしょう。でも彼はずっとひとりだった。だから覚醒しなかったのでしょうし、だからさらに次の次元に行けたのだと思う。英ちゃんはたまたま、友達たちと一緒に鳥男になった。その中だからこそ、英ちゃんはリーダーになったようなところがあります。でもそれは従来の、典型的なりーダーとかボスとかではなく、あくまで「先導者(ベルウェザー)」なんですよね。そこがいい。思考に対しても感情に対しても意志に対しても言語化能力が高く、みんなの気持ちを言葉でまとめ、言葉で高め、強く賢く優しく誘い導く、存在。すごく今っぽいし、サンデーっぽい主人公像だと思います。ジャンプやマガジン作品の主人公セレクトと少し違うんですよね、そこが好きです。そしてたまたまだろうとなんだろうと、それが英ちゃんの運命だったのです。彼はなるべくしてなったのです。

 人類の生き物としての進化は停滞している、ないし行き詰まっていて、遺伝子操作なりなんなりで新人類を生み出そうとする科学実験が施される、とか、あるいは現行人類の中からたとえばエスパーみたいな、異能力、特殊能力を持った新人類が自然と生まれてくるようになる…というアイディアは、SFではごくメジャーなものです。最近自分が再読した中では『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のニュータイプなんかも、同じものです。あれは宇宙空間、無重力空間で暮らすようになった人類が変異する、覚醒する、というものでした。そしてこれもまた、「よりわかり合える存在」になる、というものでした。
 現行人類の脆弱さ、駄目さを、筋力・体力みたいな生物学的な弱さとか少子化みたいな種の保存性の弱さに見るのではなく、「理解し合わないこと、常に争い合うこと」に見る視点もまた、メジャーなものです。
 この作品の鳥男も、飛べることより何より、つながれる、わかり合える、共有できる、という能力があるとされているのが、大きいのです。彼らは言語を越えて、想いや考えが伝え合え、理解し合える。反目することも、奪い争うこともないのです。そういう新人類、上位互換人類なのでした。
 そういう意味では、よくある、目新しくはない作品だとも言えます。でも、この作品には斬新とまでは言えないまでも、きらりと輝くものがあるのでした。それは新人類になった主人公の感性です。
 前半の、「鳥部」に象徴されるいかにも学園青春ものめいたパートも私はとても好きなのですが、後半にいたるこのテーマはわりと早くから提示されていて、そして英ちゃんの主張は最初から最後までわりと変わりません。
「戦うべきは今の世界だ。/でも、今の世界を壊す必要はない。」「みんなまとめて連れてってやるよ、/新しい世界に。」
 鳥男とはまた違った生まれ方、生み出され方をさせられたクローンや強化人間たちは、またそれぞれ思うところがあるわけですが、結局はここに収斂されていく。最初は人間に戻ることも選択肢に入れていた、というかそれを第一の目的にほとんどしていた英ちゃんも、やがて人間でなくなってしまったことを受け入れ、改めて鳥男として生きることを選び取り、しかし人間を他者、異物として捨てることはしません。まして復讐のために滅ぼそうなどとはしない。
 それは結局、英ちゃんが最初から最後まで、あたりまえですが英ちゃんだったからなのではないでしょうか。彼はこんな事態になる前からずっと、クラスでいつもひとりでいる、窓の外ばかり眺めている無口な転校生だった鷹山くんのことを気にしていました。そしてその鷹山くんがついに宇宙レベルの、次の世界の、別の次元の、鳥男たちとは違う白い翼を持つ存在になってしまったあとも、「お前が友だちじゃなくなるのは…/嫌だ!!」と叫ぶのです。
 彼は決して、孤高の、孤独のヒーローではない。他者とつながりたがる、そうでないと生きていくのがしんどい、社会的生物で、だから人間のことも見捨てないし、鷹山くんともつながり続けようとする。そして鷹山くんもまた、だいぶ希薄で、わかりづらくなっているかもしれないけれど、応えようとしてくれ続け、ちゃんとネオ鳥部の記念撮影に現れて、物語は終わります。
 これは少年漫画誌に連載された少年漫画で、でも現在の少年漫画誌の購買層のほとんどはすでに少年ではなく、この物語で言えばセラフに進化できない、おいていかれる人類側にいます。それが寂しくないのは、英ちゃんが人間を敵対視したり見捨てたり滅ぼそうとしないからでもあるし、彼もまた鷹山くんから見捨てられはしないであろうことが窺えるからです。我々人類は同種ですら完全にはつながり合えない駄目な種族なのだから、種を越えてわかり合えるなんて口が裂けても言えない。でも英ちゃんとなら、彼がいるセラフとなら、友達にならなれる気がする。英ちゃんは友達だと思ってくれる。そして鷹山くんがさらに上位の何かになってしまったのだとしても、英ちゃんたちセラフを介して我々もまた彼と友達でいられると夢見られる、信じられる。これはそんな友情の物語だったのではないでしょうか。英ちゃんはそれを体現してくれる、見事な主人公だったのでした。
 英ちゃんの「俺は、/あいつほど自由に空を飛ぶことはないだろう。」という、ややせつない、ある種のあきらめや悲しさすら漂うモノローグは、我々人間読者のものとしても還ってくる。そしてそれに続く「それでもーー」も、また。とてもとても美しいラストシーンだと思いました。

 本当は終盤、人類の半分を死に至らしめるウィルスはその後どうなったのか、とか、描かれていない部分も多いです。大人の半分が死ぬなんて、現行の社会機構の運営に多大な支障が出るだろうし、何より親兄弟がボロボロ死んでは残された若者からセラフになる元気だって奪われそうです。「帰れる人は1回おうち帰りなさいって言われ」て帰宅したセラフたちの親兄弟が死んでいた描写はなかったので、ワクチンがなんとかなったということなのかもしれません。それでもセラフと各国政府と、というか人間たちとの交渉は面倒なものになるでしょうし、むしろ人間同士の争いが激化することもありえるでしょう。そのあたりは描く紙幅が足りなかった印象があり、本当ならもっときちんといろいろと描きたかっただろうようにも見える部分です。でも最重要ではない、としてカットされたのならそれはそれで正しい判断でしょう。社会的すぎる部分とかは、あまり突き詰めると青年誌めいてきちゃう部分かもしれませんでしたしね。作家には描く力量が十分ありそうでしたけれどね。
 もうひとつ、この作品が友情とは別に家族とか家庭とかを大事に描いている点も、私はとても好感を持ちました。少年漫画が、ぶっちゃけ男性が愚かにも疎かにしがちなものだと思うから。でも絶対に必要不可欠なものなのであり、それをもっと物語の中でも周知徹底させていかなければならないものだと私は考えています。
 ラストの里帰りのくだりにあるように、英ちゃんたちの望みはもしかしたら、運命を変える力が欲しいとかそういったことよりもむしろ、萩尾望都『訪問者』でいうところの「家の中に住む許される子供でありた」い、というものの方が強かったのかもしれません。それはもちろん彼らが子供だからかもしれないけれど、子供で若くて幼くてセラフに進化できる可能性があるということと、親に愛され慈しまれ安心安全に育ててもらう必要がある、それを望んでしまう求めてしまうということは、矛盾しないというか表裏一体のことなのです。
 それが報われて、よかった。もちろん親側にとっても大事なことだったと思います。そのあたりがきちんと描かれていて、とてもいいなと私は思いました。
 あとは、逆にもしかしたら、全体を通してもう少しだけ、英ちゃんと鷹山くんの関係と、なんならそこにつばめの恋を絡めて三角関係を描くようなテイストにすることもありえたのかもしれません。鷹山くんに惹かれていたつばめがやがて英ちゃんに恋するようになる展開の、そして見ようによっては鷹山くんを追い続ける英ちゃんの構図がBLめいて見えるような。よりウェットで深く、より好みになったかもしれません。
 でも、それこそ女性作家が匂わせであれやりがちに思えることをやらないのが、またこの作家らしいところなのかもしれません。描きたい眼目はそこにはなかったんでしょうしね。怖いことを言えばセラフはもうそんなふうには恋愛し生殖しない生物なのだ…ということもあるのかもしれませんが、これはあくまで友情と、成長と、未来を描いた少年漫画、なのでした。でも七翼が男女半々に両性具有者ひとりだったのには配慮を感じたし、こういう配慮は残念ながら女性作家ならではなのではのことなのではないかな、とも思いました。あとあやめちゃんが早々にセラフ化を決断するところとか、とてもヨイ!

 ああ、新しい、おもしろい作品に出会えて幸せでした。カバーイラストやレイアウトのコンセプト始め、目次や奥付、空きページの埋め方のアイディアもセンスも素敵で、持っているのが嬉しくなるコミックスなのも幸せです。愛蔵し、読み返し、人に勧めまくり貸しまくっていきたいと思います。私の背中に翼が生えることはもう決してないのだとしても、翼ある者を愛することが私はできるつもりでいるのですから。







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高野雀『13月のゆうれい』(祥伝社フィールヤングコミックスswing全2巻)

2018年11月12日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 ネリが3年ぶりに再会した双子の弟・キリは、ネリそっくりな顔でネリがおよそ着ないような「可愛い」服に身を包んでいた。弟の女装に動揺したまま、ネリはキリの同居人・周防と知り合うが、男子校時代の友人だという周防がキリに抱く「ともだち以上」の感情に気づいてしまい…

 コミックス『あたらしいひふ』を偶然読んで、いいなと思って既刊を遡ってみました。デビューコミックスの『さよならガールフレンド』は、いわゆる珠玉の短編集という感じ。『あたらしい~』の表題作は、同じ会社で働く四人の女性の、服にまつわる価値観や人生観の物語で、同人誌時代の作品をリライトしたもののようですが、なかなかに完成度が高いです。女子の装い、生き方という点でもより普遍性のある物語だとも言えると思いますし、同時収録の他の作品もなかなか良いです。
 でも私はラブストーリーが好きなんですよね。だから二卵性の双子なんてなかなか普遍的でないモチーフだろうとなんだろうと、こちらの作品の方が好みなのでした。
 何を着て、どう見られたいか、という問題はなかなかに深い。そして「可愛い」と言われることへの抵抗感は女性と男性では違う場合があるし、もちろんハナから全然抵抗がない人も男性にも女性にもいる。人は見た目が何割とか言わないけれど、確かに見なきゃ始まらないし見てわかるところから始めるものだし、どストライクな外見の好みってものも確かにあるんだからそこから何かが始まっちゃったとしても仕方ない。でもそれだけだと不安になるとか不満に思う、とかもわかる。
 キャラクターがみんな素直でまっすぐで、懸命にもがいていて、いろいろがんばってやらかして事態を混乱させたりやがて好転させたりして、そうして美しくまとまっていく。物語としてすごく素敵で、好みでした。今どきちょっと流行らないようなスタイリッシュな絵柄も好きです。
 ラストの描き下ろしでれなちゃんへのフォローがあるのも好き。この彼と上手くいくとかではなくて、件の彼ともう一悶着に帰っていくのだろうけれど、それもいい。
 双子ではなくても、兄弟なら、家族なら、友達なら、助け合えたりする。そうして悩み傷つきながら大人になり、強くなり、幸せになっていく。そういう健やかさがある作品だなと思いました。今後も注目したいです。


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