駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『八犬伝』

2013年03月20日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターコクーン、2013年3月13日ソワレ。

 室町将軍と鎌倉公方を奉じる結城家が争ってから三十余年、犬塚番作(佐藤誓)は息子の信乃(阿部サダヲ)とともに武蔵国大塚で暮らしていた。落ち延びるときに番作は足利家の名刀・村雨を預かっていたが…
 原作/滝沢馬琴、台本/青木豪、演出/河原雅彦。全2幕。

 私は笑いに厳しいので、阿部サダヲが出てきただけで笑う観客にのっけからちょっとうんざりしました。まだおもしろいことをなんにも言っていないしやっていないのに、ただそのキャラだけで笑う気満々な安さがイヤなんですよ…
 そのせいもあって信乃のキャラクターを私がつかみ損ねた部分もあるかもしれませんが、でも立て方も弱かったと思います。そしてこれがけっこう尾を引きました。
 主人公であるらしいこのキャラクターが、なんだかへっぽこなへたれ男にしか見えないのに、やたら荘助(瀬戸康史)にかしずかれているし、やたら美人の許嫁・浜路(二階堂ふみ)に一方的に惚れられてるし、厳格そうな父親が息子にいろいろ任せてさっさと自害しちゃうし、「え? なんで? この人のどこがそんなにすごいことになってんの? 誰かちゃんと説明して?」って感じになってしまい、ストーリーについていきづらく感じてしまったのです。
 その後の唐突な剣豪設定にもびっくりしたし…それこそ阿部サダヲのキャラじゃないじゃん、だったらちゃんとエピソード立ててキャラを説明してほしかったわー。なのにただキャラだけでギャグ重ねていくのやめてほしいわー。
 なので笑いにもややスベリ感を感じたまま、一幕は八犬士のうち六人揃ったところまでで幕。
 ううむ…と思っていたのですが、二幕は怒濤の展開でもあり、ぐぐっとおもしろかったです!

 私も『南総里見八犬伝』については、犬の子を産むお姫様とそれが珠になって散って八人になってどーのこーの、ということくらいしか知らなくて、要するにその「どーのこーの」という部分はあまり重要でないというか荒唐無稽すぎるというか、なんでしょうね。むしろそれ以前の設定の方が大事で有名。だからこの舞台も、八犬士が揃って以降はオリジナル展開なんだと思われます。そしてとても現代的でした。
 プログラムによれば、震災以降だからこそ荒唐無稽な話がやりたかったし、震災以降だからこそ単純なハッピーエンドの話にはしたくなかった、ようです。さもありなん。
 八犬士が揃って、お城に向かおうとなるやいなや、なんと毛野(中村倫也)が裏切り始めてさっさと三人を斬り殺してしまいます。早ッ!
 このキャラクターは女装の男性で、普通にしていても女と見紛う美青年で、でもめっぽう腕は立つという、とてもわかりやすい設定のキャラクターです。昔といえど萌えのパターンって変わらないんだな、ということが実によくわかります。
 今回はさらにその性癖というか性指向については、要するにゲイだということにしたようです。そして虐げられている。ゲイだからこそ、狸の化け物がとりついた女と結託し、人を滅ぼしこの世を獣のものとしようとしたわけですね。
 獣の方がずっと心が優しいから。食べていく以上に何かを殺すことも、壊すこともしないから。愚かな人間のように、大義とかいうワケのわからないもののために争い合ったりしないから。
 争い合い戦い合い殺し合う人間たちは滅んだ方がよくて、獣たちの世になった方が世界は平和になるからです。
 ゲイと女こそ平和至上主義者、剣を振るうばかりの男たちに反旗を翻す、これはそんな物語になっていたのでした。

 親兵衛(太賀)が実は幼い頃に殺されかけ捨てられた御曹司だとか、未来が見える特殊能力がある純朴な天才少年で、でも自分の未来だけは見えないとかも、いかにもな設定で萌えでしたが、そういう大義の旗印になる大将すらあっけなく殺されます。
 でも…まあお話としてはやはり主人公側の勝利に終わるもので、常にいいところを持っていく荘助が信乃のピンチを救って獣たちを倒します。
 珠飾りは打ち捨てられ、大義も守るべき家も失って残った三人の男たちは、それでもなんとなくご機嫌に消えていきますが、そこには何があるというのでしょう…
 そんな、決して大団円よかったねハッピーエンドではないラストが、とても心にしみました。
 逆説的に言えば人は生きているだけで悪なのであり、人こそがもっとも地球に優しくない存在なのであり、人には獣と違って知恵も心もあるけれど、それがたとえば大義とかあるいはもっと違う名前のついた何か抽象的なもののために人を殺し合わせたりもする。それは理想的ですばらしいとも言えるし、愚かで空しいとも言えるのだ…ということなのだと思います。
 そういうことをつきつけ、そしてあえて回答は出さない作品なんだなと思いました。

 それにしてもケレン味たっぷりの脚本と演出、てんこもりの殺陣に大芝居、歌舞伎ばりの名乗りと、もっと大きな明治座とか新橋演舞場でやってもいい演目なんじゃないかなと思わなくはなかったです。シアターコクーンって、もっと緻密なものが似合う空間だと思うからさ。
 太鼓(はせみきた、小泉謙一、柳川立行)も素晴らしかったです。
 津田寛治はやや役不足だったかも。田辺誠一は胡散臭さがよかったかもしれません(^^;)。
 女性キャラクターを何人も演じ分けた内田慈がまた素晴らしかったです。



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宝塚歌劇月組『ベルサイユのばら』

2013年03月20日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2013年1月19日マチネ。
 東京宝塚劇場、2月19日ソワレ、24日ソワレ、26日ソワレ、3月5日ソワレ、12日ソワレ。

 1755年、フランス。ベルサイユ宮殿に程近い貴族の館に、ひとりの女児が誕生した。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ(龍真咲、明日海りおの役替わり)。代々フランス王家を守る役目に着いてきたジャルジェ伯爵家の六女として生を受けたオスカルは、跡継ぎたる男児誕生を待ち望んでいた父(汝鳥伶)の意向により、男として育てられることになる…
 原作/池田理代子、脚本・演出/植田紳爾、演出/鈴木圭。1974年初演の、宝塚歌劇の代名詞とも言える不朽の名作、7年ぶりの上演。

 2006年版を完スルーしているので、『ベルサイユのばら2001』以来実に12年ぶりの『ベルばら』生観劇になりました。え、干支一周…!
 ピンクのロココ模様の壁のセットを見ただけでテンション上がりましたが、カーテンのロゴは少しも早く直してもらえないものなのでしょうか…ダサすぎる、読みづらすぎる。誰がレタリングした文字なんだ…と毎回涙。
 定番の小公子と小公女の「♪ごらんなさい」、小公女の咲妃みゆはさすがに可愛い。
 続いてちゃぴが赤いドレスで登場、可愛いじゃーん! その後ロザリーとしてはたいしたドレスを着ないので、ここでのエトワール役を堪能することにしました。みやちゃん、たまきち、みくちゃん、ゆめちゃんも綺麗。
 そしてオスカルとアンドレのイラスト…今回はちゃんと等倍拡大したものに見えました。たまに、適当に描いただろ! 池田先生の絵と違うだろ!! ってときがありますからね…
 そのイラストがはねるとキラキラと現れる主役ふたり。そのキラキラしさは素晴らしいけど、セットはけっこうしょぼい…あのウェディングケーキ感が今回少ないですねえ、グルグルせず、さっさと降りてきてしまうし…残念。
 ついで現れる青年士官たちでは越リュウ・ロックオンでしたすみません。たまにゆりやん。
 そして…「ばらベルサイユ」で手拍子、ってのがこっぱずかしくてつらかったです。フィナーレならともかく! これから悲劇を観るのに!! まあこのお祭り感も込み込みなのが『ベルばら』なのかもしれない、ともはやあきらめますが…

 本編に入って、オスカルの姉たちの薔薇摘みの場面。ゆめちゃん、ちゅーちゃんに目がいきました。おっとり美しいジャルジェ夫人のあーさま、原作と違って小太りですがどっしりおおらかそうなジャルジェ将軍のゆうちゃんさんが素晴らしい。
 でもここちょっと長いよね、主役ふたりのお着替えタイムでもあるだろうから仕方ないんだろうけど…あとアンドレは一家の子供たちの乳母のマロン・グラッセが引き取っただけで、ジャルジェ家の養子になるわけではないので、間違われかねない台詞にはもう少し気を遣ってほしかったです。家族同様に仲良くする気がある優しい子供たち、でも身分差はれっきとしてある、というのがポイントなのだと思うので。
 あと、この時代の貴婦人は育児なんかしなかったから当然のことなのだけれど、それでも娘たちが母親の前で「私たちはみんなばあやに育てられたんです」とか言っちゃうのは、育児放棄の糾弾ですか嫌味ですか、とちょっとドキドキしてしまって心臓に悪かったです。私はいろいろ気にしすぎなのでしょうか…
 ものすごいファンファーレとともに現れる子オスカル(咲妃みゆ)はプレッシャーだろうけど、子供体型が愛らしい。
 すぐアンドレとフェンシングの手合わせになりますが、田舎育ちの一般庶民にフェンシングのたしなみなんてあるだろうかとここでもやはり気にならなくはなかったです。しかしここも定番の流れなのでいたしかたない。
 そして木の陰にふたりが入ると大人のふたりが出てきて…というこれまた定番の演出、客席から必ず静かなどよめきが起きますね。『ベルばら』だから観に来た、というビギナーさんが多いのだろうし、舞台マジックとしてとてもおもしろいのだと思います。
 しかし私はここにも難癖を付けたい。入れ替わるのは、子役が何度か木の前や後ろを行ったり来たりしてからでなきゃ意味がないんだよ。普通に行ったり来たりしていたのが、あるとき時間が飛んで大人になったふたりがそのまま現れるのがおもしろいんだから!

 というわけでオスカルとアンドレ登場、しかしてすぐアンドレはつまづいて見当違いの方向に剣を出したりします。もう目が悪いのね! 20年がた時が飛んだのね!! とちょっとびっくり。説明台詞で黒い騎士のときのアンドレの目の負傷の話、オスカルが近衛隊から衛兵隊に転属したことが語られます。原作ファンや宝塚版リピーターにはこれで十分かな。まったく知識がない人にとっては…でもまあわかるかな。さらに駄目押しでみくちゃんル・ルー(花陽みら)が登場し、王妃様とフェルゼンの道ならぬ恋、オスカルのフェルゼンへの片思い、アンドレのオスカルへの片思いなどが語られますからね。
 ハケ際の「ごめんあさぁせ」で毎回笑いをちゃんと取れるみくちゃんのおしゃまっぷりは素晴らしい。
 というわけで最初のソロはアンドレになります。銀橋を渡りながら「♪ブロンドの髪、翻し…」美しく流れるような展開です。

 続いて衛兵隊のあらくれソング。としちゃんの聞きしにまさる開襟っぷりったら…! あとやさぐれていても品のあるまんちゃんに目がいきました(^^;)。ゆうきくんやちなっちゃんもとても楽しそう。
 そのダラけっぷりを叱るオスカルですが、ここの水色の軍服はリリカルで素敵です。
 しかし衛兵隊士がオスカルを呼ぶなら「士官さん」とかではないかなあ? 「兵隊さん」というのは軍人同士が言う場合は兵卒を指す気がするし…あるいは「お貴族さま」とかでもいいかもしれません。名乗らずともオスカルの身分や位が高いのは彼らにも見てわかると思うんですよね。
 そして自らは名乗らずダグー大佐(光月るう。あたたかな芝居が素晴らしい)に紹介させるあたり、現代的な視点で見ればオスカルも失礼で礼儀知らずだなと思わなくもないけれど、それこそ貴族さまだし当然ではあるのでしょう。目覚めたとはいえなんだかんだいって「貴族のお嬢様」でもある、それこそオスカルではあるのでした。
 しかし「馬の骨」にこだわる意味がわからない…何故こう何度も繰り返す必要があるというのだ…
 さてここのアラン(星条海斗)の登場もファンファーレつきでご大層ですが、このマギーがまたワイルドで素晴らしい。
 しかし台詞は支離滅裂でかわいそうすぎました。アランは貴族ではあるのですが、裕福な平民よりよほど貧しい暮らしをしている青年で、称号だけの貴族なんてものに意味なんてないと思っているし、貴族の愚かしさも痛感している、精神的には平民側に立っている青年です。
 それがオスカルを揶揄するときと、オスカルに付き従うアンドレを揶揄するときとで立ち位置が変わってしまっている台詞を言わされていて、論理的に破綻しているのです。正そうよこういう脚本は…(ToT)
 さらにおっかけで登場するブイエ将軍(越リュウ色っぽすぎる…!)の台詞のひどさたるやさらに涙ものです。この人がオスカルを女性だからと嫌うのはいいし、手柄を上げさせたくないと思っているのもいいけれど、自分の部隊を任せてもいる部下なわけでさ、どうなっちゃってもいいってわけでもないんだろうからもうちょっと考えましょうよ台詞…(ToT)
 
 アランをやりこめた後(ちなみに手合わせシーンに「キン!」とか剣がふれあう金属の効果音入れてくださいませんかねえ…いかにも竹ミツって音させるの、ホント興冷めします。オスカルがされる平手打ちには音入れるくせに…)、オスカルを追って入隊してきたアンドレと再会するくだりのオスカル、ほっとした様子の可愛いこと! 原作ではジャルジェ将軍はハナからアンドレをついていかせるのでこんな場面はないのですが、今回のオスカルはひとりで転属してアンドレが後から追いかける形になるのでした。

 さて一方、パリの下町。ベルナール(美弥えりか)、ロザリー(愛希れいか)、ロベスピエール(華央あみり。ご卒業、残念です…)などが市民たちに呼びかけています。
 みやちゃんの綺麗な顔に似合わぬ低い声での凛々しい歌がいいですね。しかしロザリーは常に体を前に倒して背を低めに見せる娘役スキルを発揮、涙を誘いました…
 ロザリーは今回はすでにベルナールと結婚しているところから始まっていて、ジャルジェ家にいたあたりのことは台詞で語られるのみです。しかしこのくだりの会話も無意味に長く、かつ気に障りました。
 ロザリーは確かにオスカルに対しある種の愛情を捧げているし、ベルナールがそれに嫉妬する様子も原作にギャグっぽくありはするわけですが、しかしベルナールがロザリーのオスカルへの傾倒を冷やかすこのくだりはベルナールという素敵な男性キャラクターの男を下げさせています。
 しかも「オスカルは女なんだよ」ってなんなんだよ、そんなこたみんな知ってるよ。女が女を愛することはもちろんあるんだよ、宝塚歌劇の観客の大半は女で、女であるタカラジェンヌを愛して観ているんだよ、あんたたちはそれで商売しているんでしょ? それをクサして当てこするって一体どういうつもりなの? まさに「冗談でも言わないでください」だよ、てかそこんなこと生徒にたとえ台詞でも言わせるな!!!

 そして現れる衛兵隊士の家族たち。隊士から横流しさせた銃や剣をベルナールに買い取ってもらい、家計の足しにしているのでした。
 しかしベルナール、その買い取る金はどこから捻出しているんだ…そして蜂起のために武器を買い集めているならこの剣や銃は町中で売られることもないはずで、のちにアンドレが見つけてきたりはしないはずなのですが…???
 ちゃぴが歌うソロはどんどんまろやかになっていって、よかったです。

 さて、舞台は私が「勧進帳場面」と呼んでいる、面会室場面へ。ぶっちゃけここもやや長すぎる。
 ジョアンナ(玲実くれあ)の「隊長さんはお見通しなんだよ」は「わかってくださるよ」みたいなものの方がいいのでは…そしてジョアンナがまだ何も言っていないうちからカトリーヌ(萌花ゆりあ)が「何を言っているのかわかってるんだろうね」と言うのはおかしいだろう。「何を言おうとしているのか」とすべきです。
 そのあとの家族と隊士の罪の被り合いは泣かせどころ。それを全部引き受けるオスカルの台詞がしかし「罰せられるべきは我々です」ではダメですよ、だってこの「我々」って誰? 意味としては「こういう事態を引き起こし見過ごしてきた我々貴族」であり、「隊長として管理監督できなかった自分」なのだと思うけれど、オスカルはきちんとそれを明言していません。ホントなんとかしてよ脚本(><)。
 さらにここに原作からいい台詞が引っ張ってこられているのだけれど、飢えて大変だっていう話のときに自由とか振りかざしている場合じゃないって気がしちゃうんですよ私はね。そのあと自由から平等に言葉すり替えてちょっと話を合わせているんだけれど、これもちょっと論旨としてズレている気がします。みんなが平等に食べられるべきなのに云々という話より、貴族ばかりが贅沢して平民たちの地獄の暮らしを見もしないで…という論法にするべきだと私は思います。

 平民たちを守ってやりたい、と決意も新たにするオスカルのところへフェルゼンが登場して近衛隊に戻るよう言うのは、いい計算の展開ですね。しかしここのフェルゼンは軍服より宮廷服の方がよかったのではないでしょうか。
 さらに、王妃様を守ってくれと言うのはいいけれど、オスカルがつらくも断ると逆ギレして去っていくような芝居にさせるのは本当に納得がいきません。たとえ恋に迷い視界が狭くなっていようとフェルゼンはそんな小さい男ではないし、ふたりが喧嘩別れするような展開は原作にはありません。
 フェルゼンを卑小な男として描くことは彼に片思いしているオスカルの女を下げることにつながります。こんな愚かな演出を何故スタッフは見過ごすのか、原作者は怒らないのか、本当に本当に不思議です。

 銀橋に出て「♪叶わぬ恋とは知りながら」と歌うオスカルから歌い次いで、アンドレが本舞台で同じ歌詞を歌うのは素敵。そしてそれをぶった切って登場するアラン…ひどいわ素敵だわ。
 でもここでもアランの言っていることがよくわからなくて本当につらい。イケメンとかオタクとかの謎のはやり言葉投入も本当にやめてほしい。
 でもアンドレの目が悪いことに気づき、喧嘩をやめる男気があるアランは本当に素敵なのでした。

 そして男ふたりのがっつり芝居にけっこうしんみりじんわりさせたあとに、突然またしても小公子たちが現れてアイキャッチ的に歌い踊るのですが…初見時マジ口開けて驚きました…え? なんなのアレ?
 舞台セット転換のためならカーテン締めて貴族たちを銀橋渡らせるとかして時間稼ぎつつ説明台詞しゃべらせたらいいじゃないですか。「パリでは平民どもが何やら騒いでいるとか」「ベルサイユは変わらず平和で美しいことですねえ」とかなんとかさ。
 それで本舞台は容姿典雅な近衛兵たちが守っていて(しかしここでトシちゃんたち衛兵隊士をバイトで使うのはいかがかと思う)綺麗に踊ったりしていて、そこへ宮殿セットが現れて…でいいじゃないですか。
 植田先生はソロ歌で渡らせる以外は銀橋をほとんど使わないくらいに銀橋を嫌いなようですが、だったら本舞台でもいいよ、芝居でつなごうよ、とにかくあの小公子はないよ!!!

 アントワネットが出ないことで革命する市民側ばかりがフィーチャーされて見える今回のバージョンですが、革命される側、すなわち貴族の様子がほぼ唯一この場面だけで語られます。でもやはり双方の事情が見えてこそ見えるものもあるわけで、確かにここは必要な場面です。
 しかしここでもブイエ将軍の台詞がひどすぎるためにスーパー苦行タイムになっています。新公はここがカットされたそうですね、ストレスなくてよかったろうなあ…
 オスカルが国王との謁見のために宮廷に伺候するのに茶々を入れる権利は、ブイエ将軍にはない。彼が何を言っているのか皆目わかりません。衛兵隊士は平民ばかりだろうと士官は貴族出身者なのだろうし、オスカルが自ら志願して言ったからといってそれが貴族の身分捨てることとイコールになるわけがない。そもそも貴族の身分は自分で捨てられるものでは本当はない(のちにオスカルはパリで爵位を捨てますが、本当は国王にしかできないことのはず)。ブイエ将軍自身だって、志願してではないでしょうが任命されて隊長をやっているわけで、でも爵位は保持しているわけでしょう、だから宮廷にもこうして出てきていられるんでしょう。それなのにオスカルの何をどう糾弾できるというのか?
 一連の台詞に何度「貴族」という言葉を出せば気が済むのか、さっぱり意味がわからない。軍隊の階級を聞かれてオスカルに「貴族です」と答えさせる意味がわからない。アンドレがブイエ将軍を呼び捨てにするのは100万歩くらい譲ってもいいけど本来のキャラではないし、本来は問題外。
「♪押し寄せる急流は」の歌は大好きなのでそれは盛り上がっていいんだけれどねえ。従僕が来場を告げる国王が結局は姿を現さないまま幕が下りるのもいかにもで私は大好きなんですけれどねえ。
 はあ…疲れる、というわけでやや短めの一幕が終了。

 第二幕、「のんべんだらり」の訓練ですが私は好きです。つまずくアンドレをオスカルが心配そうに見るくだりもいい。
 しかし「釈迦に説法」の台詞がこの作品からなくなる日は来ないのか? ほとんど不必要だけれどどうしようもなくときめく「オスカルを私の部屋によこしてください」の台詞もセットでいいから、少しも早く削ってください。ここはフランスです。
 ブイエ将軍の命令に反抗するオスカルを叱るジャルジェ将軍、オスカルを庇ってブイエに反旗を翻すアランたち、ジャルジェ将軍にその場を任せて撤収する隊士たち、オスカルにジェローデル(珠城りょう。うーむどうもニンじゃなかったなー…)との結婚を命じる将軍、動揺するアンドレ…流れるような展開ではあります。

 名場面のひとつである毒殺未遂場面を経て、ジェローデルの「身を引きましょう、ただひとつの愛の証です」。続く衛兵隊士とアンドレとの男の友情場面(匍匐前進場面とも言う)は感動的でもあるけれど、やはりちょっと長く、またこそばゆく感じはします。

 軍隊の進駐を危惧するロザリーとベルナールの場面は、本当を言うと何を心配しているのかよくわからなくてこれまたむず痒い。オスカルと戦いたくない、というのとオスカルの身の安全を案じるのはちょっと違う次元の心配だからです。
 アンドレの目の悪さにマロン・グラッセが気づくくだりは、なくてもいいけれどなんとなく毎回じんわりしていました。カリンチョさんのアンドレは「おばあちゃ~ん」と大泣きしていたよね…
 オスカルのパリ出動を止めるよう父親たちに詰め寄るオスカル姉たちのくだりですが、あーさま夫人がオスカルの命より家の断絶を恐れているように聞こえる台詞はゼヒ改善してほしい。
 ル・ルーの台詞はちょっと良かったんだけれど、中途半端で残念でした。戦場は危ないところで、だからオスカルを行かせたくない、ということの他に、強い方が勝つだなんて野蛮で愚かなところに聡明で美しい女性であるオスカルはふさわしくない、というのは実に素晴らしい視点ではあったのですけれどね…
 ロザリーがオスカルの部屋を訪ねてくるくだりは驚きの新場面ですが、はっきり言ってなくてもいいよね…残念。その前のオスカルとその髪をすくばあやのくだりは毎度泣かされました。
 そしていわゆる今宵一夜。
 下手前方で見たときには、閉じたカーテンの隙間からすぐ家族たちがぞろぞろ出てきて、カーテンの向こうのまだ煌々と明るい部屋の中が丸見えで、ちょっとがっくりでした…
 でも見送るばあやとル・ルー渾身の絶叫は素晴らしい。

 パリ市街、市民たちと対峙する軍隊。
 ロザリーに「名もなき英雄になってください」とか言わせるなよなー、あれは当人側が言うべき言い回しでしょうが。ここでも疲れる…
 ところでアンドレ絶命シーンはなぜ橋の上なんでしょうね。原作ファン、宝塚初観劇の知人から「オスカルを庇って死ぬところがいいのに」と言われ、そういえば初演からこうだけれどこの改変はなんでなんだろう、とふと思ったり。
「シトワイヤン、行こう!」に待ってましたの拍手が入ってバスティーユ。しかし白旗が2階席のほとんどから見えないのは問題ではなかろうか…
 そしてロザリーのハケ方はなんなんだカッコ悪い…ライトから後ずさるのは不自然でしょう、ベルナールが立たせるとかにしては?
 ガラスの馬車については、電飾の付き方にまず吹いた。しかし腕を広げて待つアンドレに向かって走り寄るオスカルがいじらしいから、もうすべてを許すよ。
 でもシンジの冬毛ボーボーっぷりと、どこの二歳馬なんだっていう胴の短さはなんとかしてくれ。というかやはり別にクレーンはいらないっちゃいらないんじゃないのかな…まあどうしてもやりたいというなら止めないけどさ…みなさん意外に大喜びしているようではあるしね…
 気恥ずかしさに身悶えしながら拍手するうちに幕。

 フィナーレはみやちゃんとちゃぴのデュエットソングから、ブルーのストライプのお衣装、可愛い!
 黒燕尾はみりおセンターで。たまきちとかゆりやんとか見ちゃうなあ。
 林家ペーパーみたいなまさおとちゃぴのデュエダンはキュートでチャーミングでいい感じ。裏打ち手拍子も楽しい。
 ロケットにボレロ。トリコロールにこだわるのはいいけど、まさおの襟元の赤は私には下品に見えたな…てかこのふたりのダンスって残念ながらけっこうつらかったね(^^;)。
 エトワールあーさまでパレードのスタート。ピンクのわっかのドレスがお似合いすぎて泣けました。
 まさおアンドレのときは、ラストがアンドレなのか!とやはり驚きました。トップスターと準トップスターの役替わりとはいえ、物語の主役はあくまでオスカルだったからなー。まあでもこの体制もこれガラスとだと思えば、感慨深いものです。

***

 というワケで特出は見られず、役替わりはちょうど3回ずつ観ました。
 『ロミジュリ』のときはみりおロミオに爆泣きして、今回もみりおはニンとしてはオスカルかなあとか思っていましたが、意外やただの凛々しい少年のようなオスカルで私には少し精彩を欠いて見えて、残念でした。アンドレの方が良かったな。
 まさおはこれまた『ロミジュリ』のときにも感じたけれど、どっちの役でも大丈夫というか、ちゃんと自分のものにしている感じが今回も強くありました。そしてトップスター・オーラというか真ん中力が格段に強くなっていて、歌や見せ方も含めてみりおに対して一日の長がある気がしました。
 ただしアンドレに回ったときに、リアルでナチュラルな芝居をするみりおオスカルに合わせる気がまったくなく見え、毒殺場面なんかは演技の質がぜんぜん違っちゃってて違和感がハンパなかったです。
 スターは周りの芝居になんか合わせなくていいんだとは銀ちゃんものたまっておいででしたが、しかし主役はオスカルなのであり、ひとつの作品を一緒に作るのだから、ここは主役の役者の演技プランを受けて合わせる必要があったのではあるまいか…というかそういうふうに芝居つけてくださいよ演出家!

 それはそれとしてしかし、自分でも驚いたくらいにまさおのオスカルが私には素敵に見えたのでした。
 確かにとても女子っぽい。けれどそれが嫌な感じではなくて、とても現代的でいいなと思えたんですね。
 最近ではオスカルの生き方は重いと思う人もいるそうで、ヘンに悲壮感を漂わせて作るよりは、これくらいいいとこ取りのモテ人生みたいに見えた方がいいのかな、とも思えたし。
 オスカルというのは改めて考えるに、男装はしていても性別を詐称しているわけではない、というところがものすごく特異なキャラクターなのですね。あの時代に女性であることを明示したまま男性の仕事をしているキャラクターなのです。
 仕事がメインの生き様で、仕事には男も女もないから、ただまっすぐ、職務と世の中に流れに対している。プライベートでは普通の女だし普通に男を好きになるんだけれど、初恋は不器用だし片想いだしで不調に終わる。そんなごく普通の人間なのです。
 「貴族のお嬢さま」として何不自由なく愛されてまっすぐ育てられ、そのまま大人になった賢く優しい女の子。どうしてもヒロイックに語られがちなオスカルの健全さ、健康さ、普通さを、歴代オスカルに比べてまさおは初めて打ち出してみせてくれたのかもしれません。
 そう、今は自分で自分があまり好きではない感じ、しんどく辛気臭い感じを出すのはウケなかったと思う。まさおオスカルは愛され慣れているし自分で自分のことをちゃんと好きでいる感じがする、そこがよかったのかもしれません。2013年版になっていた、というか…
 自分の生き様をしんどくせつなく思いそれでもがんばるオスカル像、というのももちろんアリだとは思うんですけれどね。

 というワケで脚本は本当にひどいが生徒さんたちはキラキラ輝いてがんばっていたわけだし、型芝居を勉強することはいいことだと思うし、ファンとしてはより良い完全版に近い脚本がいつか生まれることを祈って見守り続けることしかできません。
 私は「ベルサイユのばら」とはアントワネットのことだと思っているし、オスカルの人気はフロックで出たものであくまで物語のヒロインはアントワネットだと思っているし、だからアントワネットが出てこない『ベルばら』なんて認めたくないし、台詞にしたってもっと原作準拠で作ってくれよといつもいつも思っていますが、仕方がないので見守ります。雪組版も楽しみにしています。
 大入り満員は生徒にも嬉しいことだろうしね。
 しかし歌劇団よ、入場人員が記録更新ということで浮かれるのはいいけれど、「『ベルばら』なら観たい」と劇場に来た客がその後ちゃんと居残らないから入場者数がまた減るのだということをもっときちんと考えた方がいいですよ、本当に。
 海外とかに目を向けるより、普段の公演でガラガラの二階席をまず見てもっと考えた方がいいですよ、本当にね。





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柿食う客『発情ジュリアス・シーザー』

2013年03月03日 | 観劇記/タイトルは行
 青山円形劇場、2013年2月27日ソワレ。

 古代まで実際に起きたジュリアス・シーザーの暗殺事件を扱ったシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を、19世紀日本の明治維新、文明開化の時代に江戸言葉で話す女優の政治劇に変換。
 原作/W・シェイクスピア、脚色・演出/中屋敷法仁。『悩殺ハムレット』『絶頂マクベス』に続く女体シェイクスピア・シリーズ第3弾。全1幕。

 『遠い夏のゴッホ』での初・西田シャトナーに続く、初・中屋敷法仁でした。まあ『100万回生きたねこ』の脚本に参加していたそうで、それは観ていますし、話題は聞いていた人でしたが。これから来るのでしょうね、という期待を込めて、また結局存続されることになったんだっけ?という円形劇場にもまた行っておきたかったので。
 なかなかおもしろかったです。
 円形劇場らしいシンプルな舞台装置は花道を二本作っていて、歌舞伎の花道のように使われるのも作品に合っていました。全体に逆コロッセオみたいだったのもローマっぽくてよかったかもしれません。
 最初は女優さんには声量がないんだなあ、と思ってしまいましたが、キャシアスの渡邊安理はしっかりしていたので、さすがキャラメル・ボックスとも思い、個々の女優さんの力量の問題か、と思いました。
 とはいえか細くて聞きづらいというほどではなく、みんながんばっていましたし、薄っぺらくて細っこい宝塚歌劇の娘役を見慣れた目にはきちんとしたボリュームのある女体が楽しく眼福でした。映像ではなく舞台を観る目的のは、結局はこのボリューム感、そこに実体があることでどかされた空気の風圧を客席が受ける感じにこそあるのかな、と思いました。
 また、12人の女優が20人以上のキャラクターに扮するわけですが、男性キャラクターを演じるときに男装はしていても、髪は長いままだし胸もつぶしたりしていません。だから女優がそのまま演じた女性キャラクターとなんというか階層が近い。でもふたりの女性キャラクターはそれぞれ男性キャラクターの妻役で、でもそこに微妙な萌が生まれるというよりは、不思議な違和感が生まれていておもしろかったです。
 というのはカエサルの妻カルパーニアを演じた荻野友里はノーブルな貴婦人としてしゃなりしゃなりと鹿鳴館もかくやというドレス姿で現われるのですが、私には妙に男顔に見えてむしろ男優さんが女装しているかのように思えたのですね。
 そしてブルータスの妻ポーシャを演じた清水由紀はお面はとってもキュートで矢絣の着物に女袴もどこのハイカラ女学生といった風情で、言葉遣いも態度ももっとも男前のべらんめえ調。絶対ブルータスは尻にしかれている、てかやらせてもらえてない感じでした。
 その荻野友里が後半はオクタヴィアヌス役で男性キャラクターとして男装して出てくるとぞくっとするほど美しくて凄みのある色気があり、女顔の美形の青年にしか見えなくなるのがすごかったし、清水由紀はルーシリアスになって頬に刀傷つくって出てくるのですがこれがまたゾクゾクするイケメン剣士っぷりで怖いくらい。
 こんな転換が本当におもしろかったです。

 カエサルの川上ジュリアは「エラそうであること」が使命かなと思えたので、健闘していたと思います。
 ブルータス役の深谷由梨香が劇団の看板女優だそうですが、プログラムの写真は綺麗なのに舞台では寝癖まがいのぼさぼさアタマで顔がほとんど拝めず残念でした。顔も女体の立派な一部だと思いますよ。
 鉢嶺杏奈、岡野真那美、我妻三輪子も印象的でした。

 演劇としては、最初のうちはやはり台詞が難しいというか、誰と誰が何を争っているかが捕らえづらく感じました。航行の世界史の授業での知識と『暁のローマ』の知識でだけで行きましたからね私。
 ただ、要するに理屈ではなく人情に訴えるような形での政変だったのだ、だからこの時代のこんな言葉に置き換えるとわかりやすいのだ、とする観点には納得しました。発情、とはそういうことだったのです。
 そして結局そういう、理屈とか理念とかではないもののために争い殺し合いまでする政治とか男たちの愚かさを表すのに、女優を使うというのは正しいんだろうな、と思えました。男優がやったらあたりまえすぎてただしらけるのかもしれません。
 他の、もっと愛情・痴情のもつれみたいなドラマはまたどう観えるかわかりませんが。
 次回は『リア王』だそうです。演劇としてぴんとこないけれど(『ハムレット』は観たかったな、なんかわりと好きなんですよね)、機会があれば観てみようかとは思いました。

 ちなみにプログラムがA3と大きいのはデカすぎて邪魔ですが綺麗な写真が大きく見えるので百歩譲って認めるにしても、袋が小さすぎて指の穴があっていなくて持ちづらいのは仕事としてなっていなさすぎます。アフタートークで言えばよかった…
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宝塚歌劇雪組『ブラック・ジャック』

2013年03月03日 | 観劇記/タイトルは行
 日本青年館、2013年2月25日マチネ。

 謎の外科医ブラック・ジャック(未涼亜希)のメスさばきは神業と称えられているが、無免許である上に法外な治療費を要求して医師連盟を悩ます厄介な存在でもあった。しかし今日も彼が起こす奇跡を信じて治療室の扉を叩く者がいる…
 原作/手塚治虫、作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、玉麻尚一。
 94年に花組で上演した『ブラック・ジャック 危険な賭け』から主題歌のみ踏襲した新作。全2幕。今回のサブタイトルは『許されざるものへの挽歌』。

 前作の東京公演はヤンさんがロンドン公演に行っていてミキちゃんが主演し、最後の三日間だけヤンさんが帰ってきて主演したんですよね。そのチケット取りは必死になったなあ。一応両方観ていますし、実況CD(大劇場、ヤンさん主演版)も持っています。懐かしい…
 評判が良く楽しみに行きました。同じく評判が良く楽しみに観に行って自分でも満足した中日公演と比べて、今回は私は「アレレ…」でした。簡単に言うと退屈しましたすみません。
 簡素だけれど十分なセット、モノトーンのお衣装、コロス、その駄洒落、みんな正塚ワールドですしよかったです。そして何度も書いていますが私は正塚作品のファンです。まっつの「かわらぬ思い」は鳥肌ものでした。でもダメでした。

 まっつは暖かい美声と優しい身振り、ざっかけない態度などが本当に原作漫画どおりのブラック・ジャック先生でした。このキャラクターは一般にイメージされるクールで冷酷な部分は実はそんなになくて、ただやや無口で無愛想なだけで、本当は人間臭いキャラクターなんですよね。その「普通さ」をとてもよく表現していると思いました。見た目はシャープでほっそりしているんだけれど、あのまるまっちい絵が浮かびましたもん。そのまんまシャープに作っていたヤンさんとは違うなあ、とおもしろかったです。とてもよかった。
 ピノコ(桃花ひな)に対する父性的とも言いきれない微妙なスタンスについてもとてもよかったと思いました。
 また、原作漫画はほとんどが16~20ページほどの小さなエピソードの連作であり、そういうものを拾ってきて掌編のようにして、結果的に主人公のキャラクターを一貫して見せよう、という構成意図はとてもよくわかりますし、作り方として正しいと思いました。
 不良少年カイト(彩風咲奈)とそのガールフレンドのエリ(沙月愛奈)なんてのは、いかにも原作にありそうなエピソードだなと思いました。ただサキちゃんに『はじめて愛した』でもやらせたような役を振っていないか?というのがやや残念だったかな。彼がきちんと稼いだお金でピノコの誕生日ケーキを買ってきたのには泣かされました。
 また今ひとつつかえないエリートSP(なのか?笑)のトラヴィス(帆風成海)なんてのも原作に出てきそうなキャラクターだし、山野先生(真那春人)も原作とは微妙に違うんだけどいかにもでよかったし、大澄れいの「お迎えでゴンス」も素晴らしかった。
 でも…要するに、バイロン侯爵(夢乃聖夏)とカテリーナ(大湖せしる)のパートが私にはワケわからなかったのです…

 原作にも幽霊とか宇宙人とかは出てきて、BJはその手術だってしたことがあります。だからそれはいい。
 ただ、とにかく説明不足に感じられて、私には何がなんだかわからなかったし、だから萌えられなかったのです。
 バイロンは不老不死ではなくただ寿命が長いだけ、それはいい。で、カテリーナはそもそもどんな症状なの? 交通事故で内臓損傷とかがひどいってことなの? 普通の臓器移植ではドナーの方が死んじゃうレベルで、だから誰も手術できなくて、でもバイロンは臓器なんかすぐ体内で複製できちゃうからどれだけとっても平気ってことなの? というか多分そういうことだと思いますけどそういう説明なかったよね?
 もちろんBJは患者の秘密を口外したり悪用したりする人じゃない。バイロンがたまたまピノコの存在を知ってピノコにも臓器をくれてピノコはそれでベッドから出られるようになってそれはよかったしもしかしたら原作を補完するものなのかもしれないけれど、でもその分ピノコの「普通でない度」が上がるのはメインの筋にもかかわる問題でまずくないか?と私には思えました。
 さらにバイロンが長寿でカテリーナはその臓器をもらっても普通のままで(なの?)短命で、いずれ別れなくてはいけないとか、かつて愛した人に似ていたとか生まれ変わりかもとか自分が長生きするために利用されるかもとかなんかいろいろ語られているのですが、私にはバイロンが何を心配しカテリーナが何を心配しているのかがよくわかりませんでした。
 しかもバイロンがどんな人でカテリーナがどんな人かほとんど説明されていないし、ふたりがどんな恋愛をしていたのかも語られないし、そんなんじゃ私はこのキャラクターたちに感情移入できません。その心配事も理解できないし共感できなくて、だからなんか解決したらしくてくるくる踊られてもポカーンだったのでした。
 私がともみんやせしるを好きでもきらいでもないせいもあるかもしれないけれど、でもキャラクターに対して不親切すぎませんかね? すべてを見せなくても要点は見せてるから前後や細かいところは類推してよ、という形にしたってあまりに見えなさすぎじゃないですかね? 少なくとも私には見て取れませんでした。だからこのパート、苦痛だったし退屈だったのです。

 しかも、ほとんど唐突にメインの筋らしく現われるBJ自身のドラマ、指が動かなくなるエピソードにこれは絡みます。
 原作にもこのエピソードはあって、執刀医の本間先生が手術中になんの気なしに言ったことを聞こえているはずのない間黒男少年は聞いていて覚えていて、覚えていたことすら忘れていたんだけれど暗示として発動して、結果的には暗示が解かれて症状もなくなる話です。
 これがピノコに重ねられるのは、BJが本間先生に作られたようにピノコもBJに作られたものだから、そしてBJもピノコもそういったことでもなければ生きられなかった、生きることを許されなかった者たちだから、とサブタイトルにも絡む、素晴らしいアイディアたと思うのですが…
 BJが手術や施療中になんの気なしに言った「この子は普通じゃない」という言葉をピノコは聞いていて覚えていて、それが自分が言われたことに重なって、ピノコが言うことで自分も似たことを言われたのを思い出して自分への暗示も解けて…ということなのですが、作中ではこれはかなりわかりにくくなってしまっていました。原作を知らない人には解決されたことがほとんどわからなかったのではないでしょうか。
 さらに空港職員(煌羽レオ。綺麗でコロスでも目立つし声が特徴的で好きだわー)たちがピノコを「普通じゃない」と言うことに対しBJが怒るくだりは、脚本の意図が舞台でうまく演出されていないように感じました。とってもまだるっこしくて、観ていて居心地が悪く苦痛なことこの上なかったです。
 あのくだりはもっとクリアに、かつコンパクトに描く必要がありました。空港職員が何を「普通じゃない」と言っているのか、それに対しピノコが「ピノコ普通じゃないの?」と聞く意味、BJが「普通じゃないとはなんだ」と怒る意味、のちに「そうだ、おまえは普通じゃないんだ」と言う意味、その二重の意味…それをすべて効かせて最大の泣かせどころにするに至っていなかったよもったいない。勝手に泣きましたけれどね。そこにバースデーケーキとお祝いの言葉、ピノコがなんとも素直に言う「ありがと」とBJが生まれ直す瞬間、がすべてかかってきているのに…!!!

 『ダンサ・セレナータ』もひどかったけれど、私は正塚先生はまだまだ低迷期を脱しきれていないと思います。次が原作ものであるのはかなり救いかも。設定とかだけ借りるんじゃなくて、ちゃんとストーリーを捕まえて、換骨奪胎して舞台化することに専念した方がいいと思います。今この人イチから作るの無理だマジで。大劇場公演はホントに失敗してほしくないし、ちゃんとした上でならまっつにまたBJ書いてあげてくださいよ、とは思います。
 ファンなだけに、つらいわ…

***

 ちなみに、ごく個人的に、私は原作の大ファンでもあるのですが、ピノコに対するスタンスが上手く持てないでいる自分に今回気づけました。みんなが言うように「ピノコになりたい」なんて口が裂けても言えないな、と思ったのです。
 私がそもそも子供が苦手だからかもしれない、とも思ったのですが…これはなんなんだろう。
 ピノコって、自分ではオトナのレレーだと思っていて、確かに普通の幼児より知識はあるんだけれど、でも姿は子供だしちゃんとした大人ではありえない。これってかなりつらい境遇だと思うんですよね。
 私はこの苦しさを背負える自信がないから、ピノコになってBJのそばにいたい、なんて思えないんだろうな、と思いました。
 そしてBJのピノコに対するスタンスも、完全に父性的ではないけれどもちろん性的でもないわけで、有能で信頼できる助手としては重用しているし同胞愛みたいなものも持っていてくれているかもしれないけれど、私はそれは物足りないし、小さきものとして保護されたり愛玩されたりすることには抵抗を感じるタイプなもので、どうもいつも「ピノコいいなー」とは思えなかったんですよね。可愛いなとはもちろん思うのだけれど…
 大きな人類愛を扱う作品だから恋愛色が弱いのは当然なのかもしれないけれど、私はそこを寂しく思うタイプなのでした。でもとにかくホント傑作。刊行中の大全集、買ってます。


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