駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

大空祐飛Special DVD-BOX

2012年03月31日 | 大空日記
 企画としては「MORNING」がもちろん一番いいと思います。素顔(に思えるようなもの)をファンは見たいのだと思うから。
 ただし煙草は私には余計に感じられました。この煙草は「男」の記号としての演出だったように感じられたから、なのだけれど、それは私が古い人間だから?
 私には周りに煙草を吸う人があまりいません。かつて父が吸っていましたが、私が小学生くらいのころにはやめてしまったし。弟も彼氏も吸わない。
 男職場にいたころは同僚や仕事相手に吸う人が多かったけれど、女職場に移ってもう10年、今は後輩のひとり(女性)が吸いますが、職場では喫煙ルームが吸うようになっているし、だから煙草が身近な存在としては感じられません。
 喫茶店やレストランでは分煙していてくれていたほうが嬉しいし、当然禁煙席に入ります。煙草の煙は煙いと思うし、受動喫煙したくないから、歩き煙草とか本当に憎いです。
 かっこよさのイメージとしての煙草の役割もそろそろ古くなってきているのではないか、とすら思います。
 だから、ここでこの人が煙草を吸う(正確には火をつけて銜える)絵があっても、当然萌えなかった。
 かっこいいイメージは得られず、「男」のイメージは受信しました。でも私はこの映像は、大空さんが演じているになんらかの男性キャラクターとの朝のひととき、として楽しみたかったのではなく、大空祐飛その人との朝のひとときとして見たかったのですよ。
 大空祐飛は男役であって男ではない。だから男の記号としての煙草を持つ必要性は私には感じられず、違和感を持ったわけですね。
 そして煙草がかっこいいというイメージも私にはもはやあまりないので、本人が単に「吸う人、吸う女」としているのだとしても、やはりあまり素敵には思えないのでした…
 続く「DANDISM」での煙草はいいんですよ、これはベタベタなイメージの中での小道具だから。暗黒街、スーツ、コート、ソフト帽ときたら煙草なんです。それはいいんです。
 でも、朝起きたらそこにいる人は別に煙草を吸う男の人でなくてよくて、煙草を吸うかっこいい女でもなくてよくて、ただの大空さんでよかったの。ただの大空さんがよかったの。だから煙草はいらないの。
 もちろん本人が煙草を吸う人だという事実があってそれを知ったのなら、それはそれで平気で好きになるしかっこいいとすら思うバカなファンですよ私はね。でも現状は知らない、だからいらなかったと思うのです。
 あとは演出的に、目覚めてすぐぱっと起き上がるより、写真集でもそうでしたが眠そうだったり不機嫌そうだったりして最後の最後に笑う…みたいな方が萌えたかもしれない、というのはありますが、まあそれは好みの問題だからいいや。
 
 「HERO」はスタッフの自己満足にすぎると思いました。少なくとも動かなさすぎ。殺陣とかやらせるといろいろアレなので(オイ)それはパスするにしても、なんらかの芝居をつけてほしかった。
 傷ついて倒れているらしいところから立ち上がっているらしい、くらいの動きでもいいよ。ただ突っ立ってるだけじゃ絵と同じだと私は思いました…
 物語がない、ドラマがない。ああもったいない。

 インタビューとドキュメンタリーはこんなものでしょう。
 柴田先生のインタビューは不満。せっかく時間を取ってもらって語ってもらったのだから、もっと具体的な話が聞きたかった。
 たとえば『大江山花伝』と『誰がために鐘は鳴る』について、初演の役者との違いや演出の変更点について。
 たとえば『あかねさす』や『コルドバ』について、歴代キャストとの違いについて。
 ああもったいない。

 Disk2は…まあ私が古いファンだからということもありますが、新しいファンだって昔のものは観ていないのだから余計に、もっと昔のものも見せてほしかった。
 スカステの『はじまりの時』に「こんな場面に出てました」みたいなコーナーがあったかと思いますが、ああいうのね。役がつき始めたくらいのときから、それこそたくさんやってきたんだから、ちょっとずつでもさらって欲しかった。
 トップ就任以降も、どうせなら主題歌のPVみたいな編集にするとよかったのに…『カサブランカ』の前半がちょっとそんな感じでしたが。舞台をダイジェスト編集するなんてまず無理だし、いい場面をさらうだけでも尺は取るんだから、歌を一曲流しっぱなしにしている間にイメージビデオふうに映像をつなぐと良かったと思うんですよね。
 主題歌集DVDでもそういう映像編集はしていないから、そういうのが観てみたかったな…
 ショーの場面の抜き方はあのセレクトでいいのかとかだからなんなんだとかいう気がしたので、これも不満。主題歌+イメージ映像のPVにしてほしかった。それか、販売DVDとも別アングルの大空ヴィジョンにするか。でなきゃ目新しさがないじゃん…
 パレードコレクションはおもしろかった。つなぎ方も気が効いていました。

 ファンだからおとなしく買うんですが、言いたいことは言いますすみません。
 もちろんこれで大満足という方も多くいらっしゃるでしょうからただのわがままというか個人の好みの押し付けとかかもしれませんが、でもアイディアとして言っておきたかったのです。



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角田光代『八日目の蝉』(中公文庫)

2012年03月31日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 逃げて逃げて逃げのびたら、私はあなたの本当の母になれるだろうか…東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母娘の先の見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか…第二回中央公論文芸賞受賞作。

 映画版が今年の日本アカデミー賞を総なめにしていましたが、やっと読みました。
 前半の描写がわりに凡庸なのは、ヒロインが普通の人だからなんですよね。そして後半のヒロインの普通の若い女の子。誰にでもありえる、どこででも起きえる、凡庸な事件。人間らしいとも言える。
 映画のラストはまた違うとのことですが、ふたりが最後に簡単に再会したりしなかったところが良かったと思います。再会したって別に何も生まれないし何かが取り戻せるものでもないと思うから。
 そういうことではなく、それでも人は生きていかなければならないものだと思うから。
 それを考えると、産み育てる性としての女は本当に強く、尊い。何もしていない、何も決められないただ種を与えるだけの男たちとは大違いです。育児の快楽を得るべき男なんてそうそういないのです。
 子の、男に対する怨嗟でも絶望でもない、ただ淡々と事実を書いているだけのような冷徹な視線がいいなと思いましたし、どうしようもないなとも思いました。

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シス・カンパニー『ガラスの動物園』

2012年03月24日 | 観劇記/タイトルか行
 シアターコクーン、2012年3月22日マチネ。

 大恐慌の嵐が吹き荒れた1930年代のアメリカ、セントルイス。うらさびれたアパートでウィングフィールド一家がつましく暮らしている。母親のアマンダ(立石涼子)は南部出身で、華やかなりし過去の思い出に生きている。極度に内気な姉娘のローラ(深津絵里)は高校を出ても社会に適応できず、ガラス細工の動物たちと父が残したすりきれたレコードを心のよりどころにしている。倉庫で働き一家の生活を支える弟のトム(瑛太)は暇を見つけては詩を書く文学青年で、いつか外の世界に飛び出すことを夢見ている…
 作/テネシー・ウィリアムズ、演出/長塚圭史、翻訳/徐賀世子、美術/二村周作。1944年シカゴ試演、45年ブロードウェイ初演、50年日本初演。自身の短編小説『ガラスの少女像』を脚本化した『紳士の訪問者』が下敷きとなっており、『ロング・グッドバイ』とも共通項の多い、自伝的要素の多い作品。全二幕。

 二幕に入って、どうも私はこの物語が初見じゃない気がする、話の流れを知っている気がする…と思ったのですが、調べてみると少なくとも2001年以降の観劇記にないので、やはり初見だったのでしょうか。
 それとも有名な演目だからあらすじくらいどこかで聞いていたのかな…「紳士の訪問者」ジム役は鈴木浩介。
 他に「ダンサー」として、コロスというかなんというか、中性的なフォルムで心象風景を表現したり小道具を運んだりする8人がいます。なかなか効果的でした。
 役者は四人とも素晴らしかったです。特にアマンダは芝居とはいえあのいかにもおばちゃんなドラ声怒鳴りがすごかった。南部の貴婦人の仮面をかなぐり捨てて、どの世界の母親もやるあの声…!
 ふかっちゃんは繊細で今にも折れそうなローラになりきっていましたし、ジムの気のいい無頓着さ、優しさ、残酷さも素晴らしかった。
 そしてテレビで見て思うよりずっと背が高くてスタイルがいい瑛太は家族にイラつく青年そのものでした。

 どんな家族でも完璧ではないし、傷があって愛もあって、その歯車のわずかな噛み違いからいろんなドラマが生まれるのではないでしょうか。だからこれはみんなの物語だな、と思いました。そしてその究極の形。
 実際のテネシー・ウィリアムズの行き方と違って、トムは家を出て戻らなかったようですが、では残された母と娘はどうしたのでしょうね。ゆっくりと朽ちていったのでしょうか。
 ジムにガラスのペガサスを壊されたときに、ローラは逆上したりしませんでした。あんなに大事にしていたのに、でもそれが全世界なんかではなく、ただのガラスの置物であることもちゃんとわかっている。つまり彼女には世界に順応する準備がまったくないわけではないんですよね。だからジムはたまたまその相手が務められなかったけれど、また違った相手であればまた違った展開もありえるのかもしれない、という可能性は残されているわけです。
 ただ、弟なきあと、そんな「相手」を連れてくる手段もまた失われたのだということが問題なわけですが…
 そのデッドエンド感、絶望とも違う硬質な何か…そんな余韻を感じさせてくれた舞台でした。

 これは家を捨てたトムの追憶の物語なので、最終場は現在のトムがひとり、空の舞台を見つめて終わります。
 そのまま、ふっと役者が役でいることをやめて、照明が温かい色合いになり、共演者が呼ばれてカーテンコールになりました。魔法が解ける瞬間を見るような思いがしました。
 舞台を引きずったままのカーテンコールが嫌いで、芝居のラストにはきちんと幕を下ろして再度開けるとか、暗転するにしても役者には一度ソデにはけてもらいたい派なのですが、今回はあざやかすぎてむしろ感動しました。

 
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地球ゴージャス『海盗セブン』

2012年03月24日 | 観劇記/タイトルか行
 赤坂ACTシアター、2012年3月21日マチネ。

 フィクサージョー(小野武彦)が、海をも盗む怪盗と呼ばれる七人を秘密の島に呼び寄せて、ある依頼をするが…
 作・演出/岸谷五朗、演出補/寺脇康文。

 『HUMANITY』以来二度目の地球ゴージャスなのですが…いろんなタイプの公演をやっているようなのでもっといろいろ観てみないと言えないかもしれませんが、どうも私合わない気がする…特に笑いのセンスが。
 でもアンサンブルも含めて見事なパフォーマンスだし、今回も大地真央さまのヒロイン力は素晴らしかったし、三浦春馬くんは初舞台も地球ゴージャス公演とのことですが、テレビで見て思うよりずっと上背があって歌えて踊れて、すごいショースターっぷりでした。
 震災後にあえて「バカバカしい」エンタメを作りたい、という意図はすごくわかるし、おもしろいことやろうとしているとは思うんですよ、でもね。
 まず、シリアスパートはいらないのではないかな、と私はまず思った。入れるなら軽重あっても七人全員に過去のエピソードを作るべきだったのでは? それがみんな今の生き方と、音楽やダンスの素養にたまたま結びついていて、結果的に脱出劇がエンターテインメント・ショーになって、見る人々に悲しみを忘れさせた、「悲しみを盗めた」のだ、としたら美しかったのに…
 田中さん(寺脇康文)に別れた妻子がいたと語られてもノーフォローだし、一方でマリア(藤林美沙)は何故インド設定なのか(そんな衣装でも名前でもないのに???)まったく語られないというのは、キャラクターとしてどうなの…?
 そして何より引っかかったのがソギル(イ・ジョンテ)の在日韓国人エピソードですよ。私は韓流ファンですが、それだけにドン引きしました。
 それまでにもルーブルの名画がどうとか話には出てきますが、でもこれってフィクサージョーとかワイルドアッパーとかラットジェントルとかそんな名前の人たちが出てくる、無国籍な、現実とは別の世界のお話なんだと思えていたわけですよそれまでは。
 でもなんなの? 日本生まれで日本語ペラペラで韓国語なんかむしろしゃべれないのに、差別されるからわざと片言日本語でしゃべる在日韓国人、なんてネタを持ち出されたら、これは日本とか韓国とかの国がある世界の話なの? てことは現代の話? って現実に引き戻されちゃうじゃないですか。
 現実の現代の世界にこんな秘密の島があるわけないし、こんな黒幕いるわけないし、こんな手下たちもいるわけないし、海なんか盗めるわけないしこんな泥棒たちいませんよ、ってなっちゃうじゃん。作品の世界観が崩壊してしまう。
 しかも在日韓国人差別って現実に厳然とある解決されていない問題で、でも観客の大半は日本人でその大半の感想はワイルドアッパーが思わず言う
「なんかわかんねーけど」
 ですよ。でもそれを
「日本人はすぐそう言って逃げる!」
 とかソギルに言わせて、でもそのあと結局ノーフォロー、観客はどう反応したらいいのか困りますよこれでは。いたたまれない気持ちになるもん。
 暮らす地域にもよるかもしれませんが、たとえば私は40数年生きてきてリアル知人は隣の職場の在日三世の後輩が初めてです。しかもつっこんだ話はしたことない。それが普通くらいなんじゃないのかなあ、つまり問題としてあることは知識としては知っているけれど現実にはその問題にぶち当たったことがほとんどないのでどう解決すべきなのか考えることすらあまりしていない、そういうタイプの困った問題なのです日本人にとってはこれは。そして在日韓国人は当然ですが全員常に当事者なわけで、日本人とのその温度差にイラついている。それが現状で改善される気配もない困った重い問題なんですよ。どうしてほしいの作り手は?
 しかも脱出劇の最中にはソギルの大ナンバーとして韓流スターばりの場面を作る、その矛盾。
 韓ドラ観てるとわかりますが、韓国では「韓流」「韓流スター」という言葉にはある種の嘲笑や侮蔑が含まれているんですよ。それくらいこの問題はまだまだ根深いし未解決だし単純に解消されるものではないと私は思います。そんなものを不用意に持ち込むべきではないと私は思う。
 しかもこのキャラクターを韓国人役者にやらせている。ひどい扱いだよね、役者の国籍以外の個性をまったく見ていないってことですよこれは。それが差別でなくてなんなの?

 全体に、ナンバーの終わりなどの間の取り方や照明の変え方が上手くなくて、観客が自然に拍手したくなる空気を誘導するのに失敗している感じなのももったいなく感じました。
 テレビで観ている役者さんを生で観られる、というのが舞台の醍醐味だと思うし、そういうのを目当てにした若い舞台に不慣れな観客が多い印象でしたが、テレビと違って舞台は生で今そこで行われていて、こちらが盛り上がって拍手するとそれが舞台に伝わってまた盛り上がったりする、同時代性と相互作用があるんですよ。その醍醐味を彼らにも味わわせてあげたかった。そしたらラストの手拍子だってもっとみんな自然にやって劇場がひとつになれたのに。
 オリジナルで、歌もダンスも高いレベルのパフォーマンスで、プロットはシンプルででも深いエンターテインメントで、というのをおそらく目指しているのだと思うし、その志は本当に買いたい。ギャグのセンスが好みじゃないとかは本当に個人的な嗜好の問題なので無視するとして、とにかくその志は買っているので、がんばっていってほしいとは思っているのです。
 ですが、まあ、しばらくパスするかな…


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『恋と愛の測り方』を観て思ったこと、というかガールズモノローグなどなど。

2012年03月17日 | 日記
 2010年のアメリカ・フランス映画で言語は英語。原題は『LAST NIGHT』。イラン出身の女性監督マッシー・タジェディンのデビュー作。
 試写を観ました。5月12日公開。
 ネタバレで語りますので、映画を観ようと思っている方は以下ご遠慮ください。

 ライターのジョアンナ(キーラ・ナイトレイ)がヒロイン。その夫で不動産関係の仕事をするマイケルがサム・ワーシントン。
 ジョアンナの元カレ・アレックスがギョーム・カネ。サムの同僚ローラがエヴァ・メンデス。
 この四人を中心とした36時間の物語です。ふたつの夜と翌朝までの物語。
 92分の映画で、サスペンスふうにぐいぐいカメラが進み、タイトで無駄がなく、ラストシーンも素晴らしい、完全に私好みの映画でした。
 邦題は良くないと思います。もっと若向きのラブコメなのかと思ってしまった…原題は「最後の夜」ではなく「昨夜」という意味なので、『あなたがいない夜』とか『終わらない夜に』とか、そんなようなものの方がいいんじゃないかなあ…
 シネスイッチ銀座とかでやるんだし、アラサー向けに宣伝するべきでは…ヤングなカップルのデート映画ではないと思いました。女友達と観て、観たあとガールズトークで盛り上がるタイプの映画です。
 ちなみに音楽は『ブラック・スワン』のクリント・マンセルだそうで、不安げに揺れるピアノのテーマが絶品でした。

 ストーリーのほかに、ニューヨーカーの暮らし、アメリカ人の生活がよく見えるのもおもしろかったです。
 しかしヒロイン夫婦の暮らしぶりは…本当にこんな素敵なマンションでこんなふうに優雅に暮らしているDINKSって実在するものなの? それともイメージ、ファンタジーなのでしょうか?
 ものすごく広くて綺麗なアイランドキッチン、水を飲むためだけのグラスもいちいちお洒落ならその食器の置かれ方もお洒落で。
 夫婦はダブルベッドで同衾するのが基本で、逆に喧嘩ともなれば絶対にその後馴れ合いで同衾したりしない。抗議や意思主張の意味も含めてひとりがかならずソファで寝る。そもそもベッドがひとつでないことが多い日本の夫婦とは違う。
 オフィスパーティーやホームパーティーのあり方、自宅の開放の仕方も日本では考えられないものでしょう。留守の間の犬の世話を頼むのに鍵を渡す関係とかも。
 そして完全にカップル文化と公私分離が根付いているので、外食しているときに相手が配偶者でないと周りに奇異な顔をされる空気! 日本だったら、既婚者が同性の友達と外食することも仕事相手の異性と同席していることもまったく珍しくないわけですが、欧米では違うわけですね(逆にマイケルやローラが取引相手とディナーをしつつ商談している場面は私はびっくりしましたが…欧米相手はディナーのときに仕事の話をしないものかと思っていので)。
 さらに、日本よりもオープンでリベラルで開放的だと思われがちな欧米の性愛観ですが、ことアメリカにおいてはぐっとピューリタン的で、結婚したら本当に求められるのは誠実さと貞操であって、婚外交渉なんてとんでもない、玄人相手ならいいということもない、そもそもそういうタイプの玄人が存在していない、という部分。
 日本の方がもっとずっとゆるいし、ダブルスタンダードがある。そういうのがとてもよくわかる、おもしろい映画でした。

 お話としては…
 結婚三年目の安定したカップルであるジョアンナとマイケルでしたが、マイケルのオフィスパーティーでマイケルが同僚のローラと親しげなのを見てジョアンナが危機感を感じるところから始まります。
 私はこの場面も、この程度ならよくあるし浮気のサインとはいえないんじゃないかなあと思ったものでしたが、アメリカではやはり既婚者にも既婚者に対してももっと節度ある態度が求められるのでしょうね。マイケルやローラはそれに逸脱しているようにジョアンナには見えた、しかもマイケルはローラの存在自体をジョアンナに説明していなかった、それが疑惑を生むのです。
 逆に、特に描写はありませんが、普段からなんとなくジョアンナは「最近私たちちょっと上手くいってない?」とか「空気みたいになっちゃってる? ときめかない?」程度の、なんとはなしの違和感を感じていたのかもしれません。本当にラブラブハッピーで自信に満ち溢れていれば、こんなふうに目くじら立てないはずですからね。
 で、ジョアンナとマイケルは喧嘩になって、でも一応仲直りして、そしてマイケルは予定どおりローラと一泊の出張に出かける。マイケルを見送ったあと朝食の買い物に出かけたジョアンナは、アレックスと再会する…
 ベタベタですねー!

 ちなみにこういう元カレのことを「ビッグ・ワン」というそうですね。『SATC』から来ているのかな?
 大好きで、熱烈につきあって、でもタイミングが悪くて別れただけで、タイミングさえなんとかなれば結婚していたのではないかと思うような、本当は今でも好きな相手…
 私はそもそも恋愛の場数がそんなにないので、こんな元カレはいません。だいたい、今生きているのか死んでいるのかすら知らない。つまり連絡先も知らないし今どうしているんだろうとか思い出すこともしない。
 でも女子的にはわりと、別れても今でも友達とか、連絡先はわかる元カレとかがいることが多いようですよね。私はそういうタイプではないのでピンとこないのだけれど…でもたとえば今の彼氏と「やっぱり別れよう」とかなったら、彼がその「ビッグ・ワン」になるのだろう、と想像はつきます。

 というワケでジョアンナは仕事でニューヨークに来ているというアレックスと、夕食を共にする約束をします。
 で、普段ノーブラにタンクトップのインナー、その上に適当なものを着て髪も結ったまま夫のオフィスパーティーに行くくせに、シャワーを浴びて上下そろいの下着を着けてワンピース着てハイヒール履いて香水つけて髪を下ろして出かけるわけですよ。
 こういうディテールは本当に女性監督らしいと思います。

 さて、どうなるか。
 私は途中で、ジョアンナもマイケルも、結局は浮気をしないで、元サヤ、という物語になるのかな、と想像しました。
 しかし…
 結局、映画のテーマとしては、「心の浮気か、体の浮気か」というものになるのでした。
 つまりジョアンナは、アレックスと一線は越えませんでした。しかし逆に言えば、挿入以外のあらゆることをやりました。思い出を語り今の仕事を語り、ダンスをし、ディープキスをし、体に触れ合い、服を着けたままですが添い寝して眠りました。
 そしてジョアンナはこういう元カレがいることをそもそもマイケルに話していませんし、マイケルからの電話にも出なかったり、友達と外にいる程度のことしか答えません。ジョアンナは「心の浮気」をしたのでした。
 ジョアンナとを抱こうとしたマイケルをジョアンナは止めました。マイケルとの結婚を選んだということもあるし、マイケルを信頼することに決めたというのもあるし、アレックスとまたつきあっても生き方が違いすぎて結婚はできないとわかったということもあるし、アレックスには今パリにヘレンという恋人がいるのを知ったから、というのもあるでしょう。
 そう、これは主人公たち四人だけの36時間の物語ではないのです。アレックスのパートナー・ヘレンもどこかで同じ36時間をすごしているし、それが誰かと一緒ならその相手のパートナーもまたどこかにいるのです。
 一方、マイケルは躊躇しながらも、いろいろありながらも、結局ローラと寝ます。そして翌朝別れます。つまりマイケルもまたジョアンナとの結婚生活を続けることにしたのです。しかしやることはやったのです。
 ローラには、マイケルとは別のパートナー、というものがいませんでした。というか、亡き「ビッグ・ワン」がいた。夫で、愛していて、浮気されて、でもやっぱり愛していて、元に戻って、だけど死んだ(911かな?と思いました)相手が。
 ローラはマイケルを好きになって、マイケルが妻帯者であることもわかっていて、マイケルが離婚するつもりがないこともわかっていて、それでも彼と寝た。そしてそのままつきあいたいと思っていたのでしょう。彼を愛していたから。他に誰もいなかったから。そしてできればやはり妻から奪いたいと思っていたのでしょう。
 それを、一度きりで、なかったことにとすぐ言われる。仕事も切り上げて帰宅されてしまう。
 でも、だからこそ逆に、彼女にだけは今度こそ、また完全に愛し合えるパートナーに巡りあえるのではなかろうか、と私には思えました。
 アレックスは、ダメだよね。パソコンにジョアンナの写真データを今でも持っているように、見て涙しちゃうくらいにジョアンナを愛しているのだとは思うのだけれど、でも彼女のためにパリ暮らしをやめるつもりはない。つまり相手のために自分を帰ることはしない男なのです。だから今のパートナーであるヘレンとも結婚していないわけです。こういう人はこういう生き方しかできない。
 私は、「この先はこの人とずっと恋愛し続けます、そしてセックスもこの人としかしません」と約束するという意味での結婚には意味があると思っています。ジョアンナが求めているものもそういうものだと思うし、だからそもそも彼女はマイケルと結婚したのだと思います。
 だからジョアンナは一線を守った。だけど帰宅したマイケルは、脱ぎ捨てられたハイヒールや、ジョアンナがブラジャーをつけていることに気づきます。
 一方、ジョアンナの方にはそこまでの確信はないと思います。マイケルを信じると決めたのだし、結婚生活を続けると決心したのだから、現場を見たのでもない限り、見ない振りを続け、怪しまず疑わず生きていこうと決めたわけです。それは夫に対し心を閉ざすことでもあるのだけれど、そもそもアレックスのことを隠していたくらいなのだし、それでも夫婦というものはうまくいったりするものです。
 しかしマイケルは違うでしょう。自分が浮気したから、ジョアンナも浮気したように見える。状況証拠しかなくても、マイケルはきっとジョアンナを問い詰める。
 ジョアンナがマイケルに何か言おうと口を開きかけて…映画はそこで終わります。なんて絶妙なことでしょう!

 マイケルがローラと過ごす一夜も、すごくよくわかりました。ジョアンナへの罪悪感、ローラへの責任逃れ、据え膳食わないという恥の意識、誘惑に屈したい気持ち…いったりきたりするのがよくわかります。男の人ってホントこうだと思う。
 ニコニコしてばかりだったアレックスの顔がだんだん険しくなっていくのもすごくよくわかります。もちろんジョアンナが結婚したことは知っていて、それを承知できたのだけれど、もっとなんとかなると思っていたんだと思うんですよね。男ってホントこうです。
 そして、女は守り、男は屈した。この監督はそういう物語にした。
 それはやはり、この結婚がいずれは破綻することを暗示しているのだと私は思いました。ヒラリーみたいな選択は本当に本当に稀なのだと思います。貞節というものは婚姻関係の最重要ポイントだという考え方は私は正しいと思う。それを壊しがちなのは男だ、と考えるのがまた女っぽい。
 だから逆に「心の浮気」は問題ではない、ともまた私は思いました。だって心はそれこそ自分で求められないし。
 そもそも私なんて二次元とかファンタジーとかタカラジェンヌにも立派に恋しているので、それを結婚生活と同次元では考えられない、という…甘いのかなあ?(^^;)
 そんなことを考えさせられた映画でした。

 …ちなみに、以下はほとんど本質的なこととは関係ないことなんですけれど…
 一夜明けて、の描写って、たいてい裸のまま寝入ってしまったふたりが目覚めて、正気に返って…みたいなところから始めますよね。でもこれって嘘ですよね。
 本当は、性交直後、って時間があるはずじゃないですか。
 そのもも眠ってしまうなんて絶対ありえない。下賎な表現ですみませんが、抜いて、拭いたりなんたりする時間があるでしょう? 欧米では避妊はピルが基本でコンドームはそんなに使わないかもしれないけれど、感染防止のために使えばそれを処理する時間というものがある。
 そのとき、絶対に忘我のままなんてありえないじゃないですか。だんだんアタマが冷めてくるでしょう。
 間抜けで恥ずかしい時間だけど、目をつぶってないことにするには無理があると思うのですよ。だってリアルってそういうものでしょ?
 その時間を描く、小説でも漫画でもドラマでも映画でも、そろそろ現れないものかなあ、といつも思います。


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